思うがままに我がままに

野良ねこ

序章

序章──黒い悪魔と白い天使

 耳を突く轟音で飛び起きれば地響きが身体を揺する。


 窓から差し込む赤々とした炎の光。何が起きたのか理解出来ずに慌てて飛び出せば、小さくはない町の至る所が炎に包まれ漆黒の夜空を赤く染め上げていた。


「いったい何が…………っ!!」


 背中を突き刺す鋭い悪寒に振り向けば黒い影が佇んでいるのが目に映る。


 中心より上に内包する真っ白な肌、夜闇に同化するかのような黒光りする鎧に身を包むソイツは赤い揺らめきに照らされ、鼻までを覆うバイザーが目元を隠す一方、白い肌に映える真っ赤な唇がルイスの視線を奪い去る。


 赤を割り、僅かだけ顔を覗かせた桃色の舌先。左の端から右の端までをゆっくりと移動し終われば、赤色に再び飲み込まれて姿を消した。


 代わりに視線を奪ったのは、力なく垂れ下がる両腕の先にある逆手に持たれた二本の剣。

 暗闇でも認識出来る黒い光に包まれると同時、背中にも溢れ出した黒光が三対六枚の翼を形造った。ソレは本物のように柔らかな動きを見せ、天上に住むとされる神の使徒、熾天使セラフを思わせる美しき姿に息を飲む。


 蛇に睨まれたカエルのように足の先から頭のてっぺんまでを恐怖という感情の波が駆け抜け、今までに感じたことのない強い緊張が全身に満ちる。膝が笑い、立っているのがやっとの状態。怖くて目を離すことすらできず、ガチガチと音を立てる奥歯に力を込めながら自分自身を力の限り抱きしめ恐怖と戦っていた。


 そんなルイスを嘲笑うかのように女の赤い唇が僅かに吊り上がる。


 黒き刃が動きを見せた次の瞬間、ルイスの背筋を悪寒が突き抜ける。

 音もなく加速した漆黒の天使、その姿はまるで巨大な弾丸のようだ。見開かれた両の眼に写るソレは命を刈り取る死神のようにしか思えず、濃厚なる死の気配にあてられ恐怖で身体が動かない。


 早鐘など比ではないほどの速さで耳を打つルイスの鼓動。目を見張る速さに彼我の距離などあっという間になくなっていく中、極限の緊張からか、刻一刻と距離を詰めてくる女がスローモーションのように感じられる。


 じっくりと痛ぶるかの如くゆっくり、ゆっくりと迫り来る終わりの刻。

 早く、そして短く繰り返される呼吸は未だ生きている証ではあるものの、それを許されるのもあと僅か……。


 振り上げられた黒剣が再び動き出せば、鋭い痛みと共に二十年にも満たない短き人生は終わりを告げることだろう。限界まで開かれた目は最後の抵抗とばかりに死神の姿を捉えて離さない。


 そんな折、突如発せられた眩い光が視界を埋め尽くし堪らず目を瞑ってしまった。



(母さん!!)



 瞼の裏に写るのは今は亡き母との思い出。そして子供の頃からずっと一緒に育ってきた、家族とも言える幼馴染とのありふれた日常風景だった。



△▽



 目を瞑っているにも関わらず、夜だというのに太陽に顔を向けたかのような明るさを感じる。それは紛れもなく黒鎧の女が起こしたモノであり、向けられていた殺気から自分は死ぬのだと確信していた。


──が、しかし……待てど暮らせど一向に来ない、来るはずの衝撃


 恐る恐る目を開けてみれば、見渡す限りの真っ白な世界。

 燃え盛る建物も無ければ恐怖そのものであった黒い死神の姿も無く、自身が立つ地面ですらそこには存在しなかった。


「へ?」


 全身に吹き出した汗だけを残して目前に迫った死からは解放された。

 だがこれは、あまりにも不可思議な現実らしからぬ光景。自分は痛みを感じることもなく死んでしまったのか、との心を表すように間抜けな声が漏れ出てしまったとて無理もない。



 不意に感じた気配、振り向いた瞬間に見開かれた両のまなこ


 そこにいたのは一人の女性であった。


 一つに束ねられた後ろ髪を胸元へと流し、ほんのりと光を放つ白いワンピースをゆったりと着こなす幻想的な美女。

 見るからに柔らかそうなぷっくりほっぺに聖母のような暖かな微笑み。見たこともないほど可愛らしい顔もだが、何より目が釘付けにされたのは彼女の背中で揺れるモノ。


 三対六枚の白い翼は、全ての邪念が消えてしまうかのような神々しさに心が洗われるほどの神秘的で美しい光を放っている。


「え……ぁ、ぅ……」


 死の恐怖を叩きつけてきた黒い死神とは打って変わり、同じ形の翼を持ちながらも安らぎを与えてくれる白い天使。

 聞きたいことは沢山あれど、めくるめく状況について行けず、言葉が出てこない。


「大丈夫、貴方は死んでいませんよ」


 一分にも満たない相対ではあった。だが、たったそれだけの時間で、鉄製のタワシで擦られたかのようにズタボロになっていたルイスの心に柔らかく、耳心地の良い声がそっと染み込む。


 その言葉がルイスの心の中で幾度もこだませば、意図せずとも涙が頬を伝った。

 緊張の糸が切れ、次から次へと溢れ始めた滴は止まることを知らず、顎に溜まっては大きな粒となり足元へと落ちて行く。


「死への恐怖は誰しもが抱くもの、もう少し早く貴方を見つけてあげられたらよかった……ごめんなさい」


 宙に浮いた足を動かすことなくスッと近寄った女は、涙でクチャクチャになったルイスの顔をそっと引き寄せた。

 そして、膨よかな胸に埋もれたルイスの頭を優しい手付きで撫で始める。


 辛いときに傍に居て慰めてくれる。その行為に母親を感じたルイスは、早くに母を亡くして男手一つで育ってきた。

 だが今はもう十七歳。幼少期はとうの昔に通り過ぎ、親に甘えるような歳ではなくなっている。


 しかしそれでも、今は誰かに寄り掛かりたいと感じ、されるがままに身を預けてしまった。




「貴方の町を襲ったのは【ディザストロ】。世の中に在っては厄災を生み出すだけの悪しき存在なのです」


 彼女の胸に抱かれて暫くが経った。十分心が癒えたであろうタイミングを見計らい、天使のような女性が言葉を紡ぐ。


「私は貴方にお願いがあって来ました。あの黒き厄災を破壊するために協力してもらいたいのです」


「……きょう、りょく?」


 ずっとこのままでいたい思いから彼女の腰へと回されていたルイスの手。心地良い感触をもたらす胸から顔を離すことなく見上げてみれば、柔らかに自分を見つめる黄金の瞳。


 大きな目のお陰で余計に小さく見える小鼻。魅惑的な桃色の唇は優しさを表すように少しばかり横に伸び、小さくも可愛らしい耳と膨よかなほっぺが、おっとりとした口調の彼女によく似合っている。

 この世のものとは思えないほど可愛い女性、背中にハネが生えている時点で人間ではないのかもしれないが、見れば見るほど “天使” という言葉がしっくりくる女性ひとだ。


「この世界が平和を取り戻すためには在ってはならない存在。魔攻機装ミカニマギアという力を得てなお国同士の争いが絶えないのは、人の陰に隠れてディザストロが暗躍しているからなのです」


 世界の平和などと大きな事を言われてもピンと来ない。しかし、そのディザストロによりルイスの町が被害を被ったのは理解していた。


 この先の未来でヤツが同じ事を繰り返すだろうとは十分に予測出来ること。

 一度は死んだと思った命、助けてくれたこの女性ひとが自分を求めるのならば……協力するのもやぶさかではない。


 だが、いくつも問題がある。


「協力って、俺は何をすればいいの?」

「私を、貴方のモノにしてください」

「っ!?」


 にこやかな微笑みを崩さずサラリと言って除ける名前すら知らぬ女性。求婚とも取れる発言に顔を赤らめながら耳を疑うルイスだったが、口調すら崩さないまま更に言葉は続く。


「私は貴方の盾となり、降りかかる火の粉を払い除けるでしょう。

 私は貴方の矛となり、行く手を塞ぐ者達を押し退けるでしょう。

 その強さは貴方次第。今はまだ眠る貴方の真の力と同調シンクロすれば私が顕現出来る力も多くなり、やがて、何者にも負けない古今無双の力を発現することでしょう。

 ですから約束してください。たとえ長き月日がかかろうとも必ずや黒き厄災ディザストロを破壊する、と」


 穏やかな視線の底にある確固たる強い意志。黄金の瞳の中に小さくも熱く燃える炎を見れば、彼女がどんな存在なのかが不思議と理解できてしまう。



“黒き堕天使を追って来た、白き天の御使い”



「心を鎮め、私という存在と貴方の魂の共振レゾナンスを感じてください」


 後頭部に回された細腕に支えられ、彼女の顔がゆっくりと近付く。

 夢うつつな気分で他人事のようにぼんやりと見ていれば、この世のものとは思えない魅惑的な唇が自分のと重なる。


 途端、ルイスの身体を駆け抜ける突風。


 何もかもが吹き飛び、真っ白になる頭。入れ替わりに充足感だけを残して過ぎ去って行く。



──気持ちが良い……



 永遠にこのままでいたい、そう思ってしまうほどに心地の良い、産まれて初めての接吻。

 空っぽになったルイスの頭に「名前を呼んで」と柔らかな声が響く。



『アンジェラス』



 心に浮かんできた名前を乞われるがままに頭の中で呼んでみる──と、それに応えるように彼女の身体が光を放ち始めた。


 伝播した光がルイスの全身を覆えば、光そのものと化したアンジェラスの中にゆっくり、ゆっくりと飲み込まれていく。


 文字通り、光の塊として一体化した二人。


 やがて光が綻び、細かな粒子として霧散していけば、真っ白いだけの空間には誰もいなくなった。



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