第103話『水面が映す丸い月』

「ローラン。水を入れた木桶を、ここへ」






 傭兵国の新兵。彼の名はローラン。

 まだ20を少し越えたばかりの若者。

 ローランはうやうやしく無言で木桶を捧げる。



 ベオオルフは木桶を受け取る。

 仲間の死を悼んでいるのはベオオルフだけではない。

 この場の100人がベオオルフと同じ気持ち。




 だが、誰も声を発さず、怒りも笑いもしない。

 ただ無機質な瞳でシンを見つめるだけ。

 彼らは知っている。これからなにが起こるかを。



 ベオオルフは傭兵国の王。

 王でありながら新兵の訓練は彼が行う。



 人は誰しもが時、場所、状況で印象が大きく変わる。

 今から見せるベオオルフは、教官としての一面。

 

 

 

 



「拷問、尋問、いままですべて俺がやってた。それには理由がある。特定の人間に拷問、尋問の仕事をまかせると例外なく、その行為自体に快楽を感じるようになった。そんなモンは遊びだ。プロの仕事じゃねぇ。だからをうちの国では置かず、すべて俺がやってきた」





「拷問も尋問も必要な時がある。だから、俺はこれからおまえ達に俺の知る知識と技術を伝える。これから俺が行う行為は、明確な悪行。神への冒涜ぼうとくだ。けして、たのしむな。――殺しも、拷問も、俺たちがするのは仕事として請け負った時だけだ。厳しく自身を律しろ。易きに流されるな。――俺は、おまえ達を常に見ている。悪魔がおまえ達の耳に甘い言葉をささやいたら――この顔を思い出せ」







 雨あしは強くなってきていた。雷雨。

 稲光がベオオルフの顔を照らした。

 全身が血まみれの真っ赤な鬼の形相。



 赤の幾何学模様のタトゥーを描いたような漆黒の顔。

 その顔も悪魔的で禍々しく恐ろしい。

 悪党は十分な恐怖を感じることだろう。



 ベオオルフの真っ赤な顔は何か違う。

 恐怖という感情を越え『死』を想起させる。

 そんな顔なのだ。



 彼も別の方向性で道を極めたプロなのだ。

 その顔を傭兵国の民が忘れることはないだろう。

 自分の弱い心に負けそうになったら思い出せ。

 この鮮血に染まった鬼の顔を。







「この使い魔は、盟友ジーク・フリート。俺の友が託した遺産だ。人の姿をしているが、モノだ。そしてこの遺産の権利は俺が有する。ペラペラ喋るから人間に見えるだろうが、違う。拷問、尋問の研修を教えるために造られた使い魔。これから、この使い魔を用い、お前たちに俺の持つ知識、技術、その一部をこれより伝える」




「————めんごめんごッ!!! いやぁ――マジッめんごめんごッ!!! めんごめんごッッッッ!!!! ベオっち、すべて――この僕が―――ッッッ悪かったッ!! 許してッ!!! 僕ぁまったく殺すつもりはなかったッ!! 事故だッ! そんなマジにキレないでよッ!! たった3人――僕ぁね。ベオっちのためなら何億人も殺すから。ね? たった3人死んだ程度。――ベオっちはその悲しみを克服できる強い男のはずだッ! 僕ぁ知っているッ! うん。ベオっち必ずこの事故の悲しみを乗り越えられるッ! 僕と一緒に悲しみを乗り越え未来に進もうッ! ね?」














「——————ひざまずけ」


「了解ッ! ほら、僕ちゃんと跪いたよ。ね? 許してくれたッ?」














 ベオウルフも片膝を地面につける。

 雨のせいで地面はぬかるんでいた。

 ベオウルフは右のてのひらをそっとシンの頭上に。

 


 ベオウルフは右の手首に力を加える。

 月明かりが作り出す二人の影絵。

 頭をたれる罪人と神父のように見えた。


 







「恐れるなかれ。あなたが水の中を過ぎるとき。私はあなたとともに在る。いかなる川の氾濫もあなたの上に溢れることはない。故にこの木桶の水は尽きることはない」


「……え……?」


「木桶の水面みなもに浮かぶ月を飲み干せ」









 月夜に激しく降り注ぐ局地的豪雨。

 ベオウルフの顔から表情が消えた。



 ただ数字を数えるのみ。

 なぜ数字を数えるのか分からない。







「…………やめろよ。キミと僕は友達ッ!!!……ごぽぁっ……ごぽぁッッ……」


「彼の者はあなたの右の手を覆う陰。陽の光はあなたを覆う陰を焦がし、月の光はあなたを覆う陰を祓います」







 ベオウルフは何度もシンの顔を木桶の水に沈める。

 儀式めいた荘厳な所作は洗礼の儀式にも見えた。







「悪しき者のはかりごとにくみせず、咎人の道に立たぬ者は、則ち幸いである。陽光と月光。その光は悪しき道に進んだ者の影を映し暴く。私はそれを問う者である」


「——————無理に決まってるだろッ!! 違うッ! 月はそらにあるッ————上だよッ!——————桶の中の水の中に月ッ——————本当はないんだよッ! ベオっち! 聞いてくれッ!! 僕がどんなに——————この木桶の水を飲んでも——————月はなくならないッ!!——————月はこの水の中にはない——————こんな…………苦しい……ごぽぁ……ぁあああ………………がぁあああ……………苦しいッ…………がぁあああああ……死んじゃうッッッッッ!!」








 再びシンの顔を木桶の水に沈める。

 ベオウルフはただ機械のように数を唱える。








「彼の者は咎人。そして報いを与える私もまた。故に、常に自覚し忘れる事なかれ。己が背負った業を。悪徳に染まることなかれ。罰を与える快楽に溺れることなかれ。己が行いは火輪と月輪が見ている。因果の報いは流転し、やがて回帰するだろう」

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