第10話 0から始まる恋物語

一花いちか!私たちもう帰るよー」 

「あぁ、うん。またね」


 友達が先に帰ってしまってからしばらく経って気が付くと、もう教室には誰も残っていなかった。暗くなりかけていたが、窓の外からは、運動部がまだ練習している声が聞こえていた。友達に借りた本を読んでいたら、集中しすぎて帰らなければならない事も忘れていた。廊下側の、後ろから二番目の席。此処からでは、窓の外のグラウンドの様子は見えない。窓側まで行きグラウンドの様子を見ると、サッカー部や陸上部の子達は、声を出しながら走ったりしている。

 “此処からいつも、どんな景色を見てるのかな”

そう思って、窓側の一番後ろの席に座る。座るともう、やはりグラウンドの様子は見えなかった。


<三井みつい れい>

 名前のシールが、机に貼られていた。友達に付けられたのを気に入って、そのままにしているようだった。

 そのシールを指でなぞりながら呼んでみる。“みついれい”そして自分の名前を重ねてなぞる“にのみやいちか”

 それからいつも彼がしているように、自分の腕を枕代わりに机に突っ伏して、窓の外を見る。


 景色の半分以上は空だ。暗くなりかけてきた空に僅かに残る赤みがグラデーションを作り、何処か違う空間の入り口みたいに見えた。

 空以外の何を、彼が見ているのか。ただ空だけを見ているのか。考えてみても答えは分からない。


 彼はいつもこうして、一人で寝ている。授業中も、教科書を器用に立てて身を隠し、机に突っ伏して顔を窓の方に向けていた。休み時間、友達が集まってきてもそんな調子で、少し長めの髪をゴムで縛られたりしながら遊ばれていた。


 私は廊下側の席からその様子を眺めていた。いつの間にか、彼の事が気になっていた。

 今まで男の子は、少し怖くてうるさくて、苦手だった。男の子の事をこんなに気に掛けた事は無かったのに、彼の事は気になって仕方がなかった。きっかけがあったのかどうかも、自分でも分からない。

分からないけど、これが恋だ、という事だけは分かる。高校1年で、初めて人を好きになった。今時小学生でも付き合っていたりするのに、今頃恋を知った。


 彼がどんな事を考えているのか、どんな景色を見ているのか知りたい。ただそれだけ。窓側に向けていた顔を廊下側に向けて見る。


「うわっ!!」


 驚いて腰が浮き上がり、後ろにひっくり返りそうになった。椅子は倒れたが、机にしがみついて辛うじて尻餅をつかずにすんだ。


「ここ、オレの席」


 いつの間にか机の真横に居た怜くんは、倒れた椅子を元に戻しながら言った。


「ごめん。ちょっと、あの。この席いいなぁって、思って」


 自分でも何を言っているのか分からず、適当な事を口走り、混乱ついでに、戻された椅子にまた座ったりしていた事に気付き腰を上げる。そしてまた謝る。


「ごめん」

「何そんなに謝ってんだよ。別にいいけど。ちょっと、忘れもん取りに来ただけ。それより一花は何でこんな時間まで居んの?」


 !!初めて名前を呼ばれたと思う。初めてなのに、呼び捨てされた事に腹が立つどころか、嬉しすぎて、どう答えていいか分からない。私の名前を知ってくれていた事が嬉しかったし、好きな人に名前を呼び捨てにされる事がこんなにも嬉しいなんて、知らなかった。


「名前……」

「あ?」

「私の、名前、知ってたんだ?」

「当たりめーだろーが。もう9月だぞ。半年同じクラスで名前も覚えられねーほどアホじゃねーよ」

「ははっ、だよね。何言ってんだか。私」

「ほんで、何してたの?一人で」

「あっ!本、読んでたら、夢中になっちゃって、それで」

「あー、一花っぽいわ。いっつも本読んでるもんな」


 “また何で!?何で知ってるの!?”叫びだしそうだった。だけどここは冷静に。努めて冷静に振る舞わなければ、怪しい女に思われる。


「うん。良く知ってたね」

「あぁ、だってさ、オレ怜じゃん。お前一とニじゃん?んでまたオレ三で。何かオモシレーって思って、気になってたんだよね」

「え?え?」


 二ノ宮一花と、三井怜。数字が並ぶ名前。そんな風に考えた事は無かった。初めて自分の名前が誇らしく思えた。


「なぁ、いい?」

「え?」


 怜くんの手が、こちらに伸びて来る。

 “え?え?え?何?何?”心臓の鼓動が怜くんに聞こえてしまうんじゃないかと思えるほど高鳴っていた。しかし、その手は怜くんの机の中に伸びていった。


「なんだ……」


 心の声が思わず漏れた。


「あん?」

「あ、いや。何でもない。ごめんね。邪魔だったね」


 自分が邪魔だった事にようやく気付き、その場から少し離れる。怜くんは、ノートを取り出して、自分のバッグにしまいながら


「じゃ。オレ、帰るけど。一花は?」

「あ、私ももう帰るよ」


 私は何を期待したのか。自分が恥ずかしかった。外を見ると、さっきまでグラデーションを作っていた赤みは消えて、すっかり暗くなり違う空間への入り口は閉ざされてしまったように思えた。

 何だか特別な時間に思えた今の出来事は、あの空間のおかげだったのか。これで、終わってしまうのか。高鳴ったままの鼓動は一向に鳴り止まず、平常心などというものは、保てるはずがなかった。もう、頭の中はぐちゃぐちゃで、さっきまで読んでいた本の内容も忘れてしまった。その本を、バッグにしまいながら、口から勝手に言葉が出てきた。


「一緒に、帰ろう」

「んあ?ああ」


 たぶん怜くんは、単なるクラスメートとしか思っていない。だけど、私の恋も始まったばかり。此処から、今までとはちょっと違った関係が始まる、かもしれない。

 

 帰り道で聞いてみよう。この窓から何時も、何を見ているのか。



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