第2話 Elephant in the room
AM3:00
買い物の時間になり、男はグレーのスウェット上下の部屋着の上にペラペラになった黒のダウンジャケットを羽織って部屋を出る。二十年近くは同じ格好をしているだろうか。だがそれを咎める者は誰もいない。
家の中は何の物音もしない、静かな夜。底冷えのする二月の真夜中であるが裸足にサンダルで外に出る。ひとりでコンビニに向かうと、百メートル程先の通りには一台、二台、車が通るのが見えるだけで、他に動く物の姿は見られなかった。
かつて畑だった場所は今では住宅が建ち並び、おかげで街灯も増えた。暗闇は幾分解消されたが、人口が増え始めたばかりの田舎町の夜はまだまだ静かなもので、午前三時に人の気配は感じられない。
通りに出て信号を渡ったすぐの所にコンビニが建ったのは五年前。それから一日おきにそのコンビニに通うのが男の習慣となった。二日分の水分と食料を確保し家に帰る。この唯一の外出で顔を合わせるのはコンビニ店員くらいのもので、そのため店員と家族以外、この男が生存していると知る者はいなかった。
男の母親は三年前に死んだ。五年近く父親が介護をしていたが、肺炎をこじらせ入院したその日に、あっけなく死んでしまった。それまで母親の介護を手伝う者達が毎日のように誰かしら来ていたが、それからは、この家に立ち入る者はいなくなった。
葬儀やその後の手続きも全て父親が済ませ、その見送りにも顔を出すことはしなかった。同じ家に住みながら、一切の干渉を断ったままの生活を三十年以上続け、父親との二人暮らしとなってからもそれは何ら変わらないままだった。
父親はとうに諦めていた。家族であるということ、親と子であるということ。どうにかしようと父親なりに考え働きかけたが、全ては徒労に終わり、全てを諦めた。財布から勝手に金を持ち出し自分のための食料を買いに出かける事を黙認するくらいしか、父親にできる事はなかった。
男が帰宅すると、回覧板が玄関前に立て掛けられていた。それは二日前からそのままだった。新聞も、まだ郵便受けに刺さったままになっている。しかしそんなことに構うことなく家に入る。ふと思い立ち、男は一度台所へと戻る。財布の中身が二日前に抜き出したまま補充されていなかった事に気付いていたが、それでも二日分の食料を買うには困らないだけの金額が入っていたため気にも止めなかった。だがいつもなら、抜いた分の金が補充されていたはずだった。台所に置きっぱなしになったその財布、使ったままのコップや茶碗、食べかけのパン。何もかも二日前と同じだった。
自室とトイレの往復、風呂は週一回、一日おきの外出。父親の姿を見ることなど、もともと殆んど無い生活。金さえあれば何ら困ることはない。金さえあれば……。父親の年金だけが頼みの綱だ。そんな事に今更ながらに気付いたものの、結局は同じように生活していくだけしか、この男には出来ない。いつも以上の寒さを感じながら、何事も無かったかのように、いや実際何事も起きてはいないのだから、またいつものように自室へと戻る。温かな部屋、温かな炬燵に入り買ってきた物を仕分けする。今から食べる物、起きたら食べる物、明日食べる物……。
パソコンの画面を覗き込みながら食べたら寝る。
AM4:00
朝日を見ることをやめてから三十五年。変わらない生活。昼夜逆転の規則正しい生活。これからも変わらず過ごしていけると盲信している。誰とも関わらず、誰からも干渉されず、食べて出して寝る。関わりもない世間の下らない戯れ言を何となく眺めるだけの毎日。平穏な日々。
物音のしなくなった家。日の光が入り込むのを拒み、温もりを失った部屋には、温もりを失った者が横たわっている。数枚の紙幣を手にしたまま、財布に補充することは叶わなかった……
そうそう、知ってる?この家……
『何日も雨戸が閉めっぱなしで。』
『回覧板もそのままなのよ。』
『おじいさんの姿、見かけないわ。』
『新聞も溜まってる。』
『息子が居たと思うんだけど。』
『…………』
『……』
『…』
『』
※Elephant in the room=見て見ぬふり
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