掌編たち

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第1話 雨に消えて

「あめだよ」

 

 いつの間にそこにいたのか、小さな男の子がすぐ側に立っていた。


『あぁ、雨だね』


 

 予報通り降り始めていた静かな弱い雨に、私は傘をさすこともなく公園のベンチに座り続けていた。高台にある、街を見下ろせる場所に作られた公園で、子どもの姿を見る事などほとんど無くなっていたが、こんな雨の日にどうして……、思いながらもさして気にも留めずに私はそのベンチから街を見下ろす事を止めなかった。まるで儀式のように、一点を見つめ続けている。聴こえるばずのない電車と遮断機の音が、聴こえる気がしていた。


「ぬれない?」


『大丈夫だよ。まだ……もう少し』

 左の腕にはめた時計が見えるように、袖をほんの少しだけ捲りあげ時間を確認する。

 “あと五分だけ”と、そう、思う。

 

『きみこそ、濡れちゃうじゃ……』

 

 言いかけて、その子の姿を改めて確認すると、大丈夫なのだと理解した。


「ぬれないよ。コレきてるから、だいじょうぶ。コレも!」


 その子は得意気にそのレインコートを広げて見せ、片方の足を上げて長靴も見せてくれた。“おろしたて”であることがよく分かるピカピカのそれらは、お揃いの濃いブルーで、そこだけ曇天から覗く青空のようだった。


 一瞬にして蘇る、あの頃の記憶。


 新しい黄色いレインコートを着てご機嫌に雨の中を走り回る娘の姿。水溜まりにわざと乱暴に足を踏み入れてバシャバシャと水を跳ね上げる。水を弾くレインコートと長靴が、不思議で面白いらしかった。憂鬱な雨がキャッキャとはしゃぐ子どもの声に押し負けて、恵みの雨に変わる。“雨が降って良かった。”そんな風に思えるようになった。


 ーーーあの時までは。



 あの日、踏み切りの中で消えた命。まだ16年しか生きていなかった。何を思い、自ら遮断機をくぐり走る電車の前に飛び出したのか。何も……何ひとつ理解も共感もしてやることが出来なかった。ありとあらゆる後悔に飲み込まれ、いつしか、いつの段階だったか思考は停止してしまった。

 考えても考えても考えても、答えなんて見つからない。どうすれば救う事が出来たのか、もし答えが見出だせたとしても戻って来ることのない命。考えるだけ無駄なんじゃないか。だけど……考えずにはいられない。そんな無限ループに、疲れてしまっていた。

 もっともっと、楽しかった頃を思い出し、生きた証を残してやるべきだっただろうか。思い返せば笑顔しか思い浮かばない。それだけで良かったはずなのに……。



 そんな思いを余所に男の子は唐突に、眼下に見える街の方に向かって大きく手を振った。


『誰か、いるのかい?』


「うん。ほら、みえるよ!」


 街の方からは、音のない雨をすり抜けて微かに電車の汽笛が聞こえた気がした。“時間”だ。あの日のこの時間。


 男の子の視線の先を確かめると、そこには確かに見えるものがあり、こちらに向かって少女が手を振っているようだった。見えるはずもない程離れた距離にありながら、なぜか、それは見えた。徐々に姿を鮮明にしていくと、そこに居たのは黄色いレインコートを着た少女。ひまわりのように周りを元気づけてくれる笑顔が、ハッキリと見えた。


「ね?みえたでしょ?」


 この子は一体何者なんだろうか?呆気にとられて返事も忘れていると、女性の声が後ろから聞こえてきた。どうやらこの男の子の母親のようだった。


「ゆうと~!また、もぅ、ひとりで先に行くんだからぁ。危ないから一緒に行くよって、言ったでしょー?雨なんだから、余計に危ないんだよ?心配するじゃん」


 母親は、早口にそう言うと、私には目もくれず我が子に傘を差し向けた。


「うん。ごめんねママ。でもぼく、かさはいらないよ。」


「あ、そっか。そうだけど。それより、何に手を振ってたの?」


「ん?ないしょだよ。」


 男の子は、私を見ながら母親へ返事をしていた。


「ないしょだけど、ぼくには“みえる”んだ」


「えー?何よぉ。何が見えるのー?ママにも教えてよぉ」


「えー?ママにはみえないとおもうよー」




 あぁ、そうか。この子には、死んだ娘の姿が見えるのか。私にも今まで見えた事は無かったが、この子が、私に“見せて”くれたのか。


『ありがとう』


 感謝の気持ちを伝えると、男の子は照れたように笑いながら私に手を振った。




「もぅ、また何に手を振ってるの?」




 “え?”



「だからいったでしょー。ママにはみえないとおもうって」




 “え?”




「やだもう、止めてよねー。もういいから、早く行くよ!」


「ねぇママ。ひとってね、みたいものがみえて、みたくないものはみえないんだよ。」


「何難しい事言っちゃってぇ。どこで覚えたのよ?」


「うーん。わかんない!」




 




 気付けば私は、娘の手を引いて歩いていた。

 

 


 雨雲の隙間から覗く青空に向かって──


 


 


 

 

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