第8話

「おい、一輝!」

と、言う声が国道沿いを石川と共に歩く一輝の耳に入った。

一輝が声の方に振り向くとそこには、白い大型トラックが停車されていた。

見覚えのある大型トラックだった。

角刈りの短い髪、一筋の深い横に伸びた皺のある狭い額に日に焼けた顔。

父親である、矢島健一の声だった。

父の健一は車の窓を開け右肘をドアの外へ出すような格好で一輝と石川に、一度手を振った。

 一輝と石川は父の乗るトラックに近づくと「もう学校終わったんか?」

と健一は尋ねた。

 「おっちゃん久しぶり!」

 石川が調子のよい声で言うと、「おう、久しぶりやな!」

と、健一も同じように陽気な声で答えた。

 「親父も、もう仕事終わりなんか?」

 一輝がそう尋ねると。

 「そうや、今日は久々に早く終わらせたから社長も早く帰ってもええって言ってくれたから、お言葉に甘えさせてもらったんや、それでな、これからお前らに、えぇ所に連れて行こうかと考えとったところや」

 「ええ所ってどんなところ!?」

 親父の言葉に一輝より早い反応をしたのは石川だった。

 石川の眼が、輝いている。

 「ええ所って言うたら、ええ所やがな」

 「ひょっとして仕事終わりのフーゾクとか?」

  一輝はあまりの突拍子な石川に問いに膝の力が抜けそうになった。

  「あほ、何ぬかしとんねん!」

  石川の言葉に一輝の方が恥ずかしく感じた。

 「おう、石川君・・・・ええ汗かいてバッコンバッコンやで!」

 ニヤリと笑顔見せて健一は言った。

 「何!」

  一輝は驚いた、そして少しばかり父親を軽蔑した。

 「マジ・・・・おっちゃん、俺連れてってくれ」

 卑猥な想像を膨らました石川は躊躇することなく健一の方へ歩み寄った。

 「あんな・・・・石川。俺ら、まだ中学やぞ・・・・」

 呆れた様子の一輝の言葉など耳に入らぬ石川はすでに大型トラックの助手席のドアを開けようとしていた。

 「お、おい」

 一輝は改めて、石川をとんでもない友人を持ったものだと思った。

 「一輝ぃ・・・・早よせな置いていくでぇ」

 「おう、石川くん、言うたれ言うたれ!!」

 と、言って大声で笑った。

 「おい、ちょう待て!!!」

 一輝も慌ててトラックに駆け寄りトラックのドアを開けた。

      

           

         ***************


 結局、一輝と石川は一度、父親である健一の会社の近くのコンビニに置いていかれ、しばらくすると健一は自らの軽自動車に乗り換え、一輝たちのもとへ戻って来た。

 親父は二人を乗せて国道の方へ車を走らせた。

 健一の会社から車で十分もしないコインパーキングで車を止めた。

 この場所から歩いて五分とかからない場所には広くて長い商店街もあり、割と人が集まる場所であった。

 その商店街の隣を沿うように細い道があり、その中をしばらく三人は歩いた。賑やかな商店街のはずれの細い道にも花屋や本屋、たこ焼き屋などの個人商店が並んでいた。

 「おっちゃん、まだかな、えぇ所!」

 相変わらず卑猥な妄想に浸り石川は、鼻の下が伸び切り、一段と鼻息が荒くなっている。

 「もうちょっとの辛抱や」

 健一は小さい声でそう言った。


*****

 程なくして三人はある建物の前で立ち止まった。

 「おっちゃん・・・・ここ・・・・?」

 石川がその建物の前で立ち止まり、指を指して言った。

 「・・・・」

 一輝は言葉を失っていた。

 建物の入り口には『白城ボクシングジム』という看板が掲げられていた。

 健一は何も言わず、先に歩きガラス張りの開き戸を開くと、中から凄まじい程の熱気が感じられた。

 一輝はすぐにここが何なのかが解った。

「おう、ボクシングジムや」

「おっちゃん、来るところ間違えてるんちゃう?」

 先ほどまで、卑猥な妄想ばかりしていた石川の顔が、その雰囲気に圧倒され青ざめていた。

 「どないや、汗まみれでばっこんばっこんやろ」

 「はぁ?」

と、健一は、唖然とした表情を浮かべる石川に向かい、まるで、いたずらっ子がしてやったりと言った顔で笑っている。

 広いとは言えない古びたボクシングジムの中は、スピーカーからラジオか有線放送かなにかの、けたたましいロック調の曲がかかり、ジム内には七人ほどの男が練習で汗をながしている。

 鏡に向かいシャドーボクシングをするもの、バンバン、ドスッドスッというサンドバッグを叩く音、そしてパンチングボールを叩く音で溢れていた。

 さらにジム内に設置されたリングではスパーリングが行われていた。

 健一はジムの中を真剣なまなざしで見つめていた。

 しばらく三人が立っていると、すぐ横にあった扉が開き中から出てきた男が、健一に声をかけてきた。

 「おう、健一か・・・・」

 健一はすぐにその男に「ご無沙汰しています」

 と、お辞儀をして言った。

 男は小柄な背丈で白髪交じりの七三分けの髪型で年齢にして五十代は言ってそうであった。どうみても現役のボクサーとはいえない年齢である。一輝はおそらく、この男はこのジムのコーチか何かではないかと一察した。

 「今日はお願いがあって、こいつを、このジムに通わせようと思ってるんですわ」

と、健一は息子の腕を引っ張り、息子を前に押し出した。

 「こいつは、お前の息子か?」

 「はい、まぁ、うちの一人息子ですわ」

 「おい、挨拶くらいせい!」

 健一がそう言うと「こんちわ・・・」

 一輝は面倒くさそうに、会釈した。

 一輝は思い出した。この男は確か、我が家の押し入れに無造作に置かれている古いアルバムの中に残された数枚の親父のボクサー時代の写真の一枚の中にいた、小柄な男の姿と一致している。

 写真はもう二十年前のものなので、その時からすると、ずいぶんと年を取っている様にも感じた。

 健一は息子である一輝に、男を紹介した。

 「この人はな、俺がプロボクサーの時にコーチをしてくれていた、松波さんや」

 「よう、息子・・・・よろしくな」

 と、松波が陽気な声で言った。

 「おい、親父・・・・俺はまだ、ボクシングするなんて言うてへんぞ!!」

 「嘘つけ、お前毎日、七キロのロードワークして、公園でダッシュして、腕立て二百回、腹筋五百回、スクワット二百回・・・・あと、下手クソなシャドーボクシングしとるやないか。たまに仕事の帰りがけに、お前が公園でそんなことをしてるの、俺はちゃんと見てんねんぞ」

と言うと一輝の顔は赤くなり「いや・・・・それは・・・」

と、言葉を濁すだけであった。とりわけ下手くそなシャドーボクシングをしているところを見られていたことは、とてつもなく恥ずかしかった。

「何や、お前そんな頑張っとんのかい?」

コーチの松波は馴れ馴れしい口調で一輝に尋ねると

「ああ、まぁ・・・・」

「毎日やっとんのかい」

「はい、毎日」

「ほう・・・・」

と、松波はそう言っただけだった。

ジムの中でゴングの音がけたたましく鳴った。

ボクシングジムでは、自動的に鳴り響くゴングが設置されており、三分経つとゴングが鳴り、インターバルになり、三十秒経つと、またゴングが鳴り、またインターバルが始まるといった方法でトレーニングを行う。

 練習生たちは三十秒間休みゴングが鳴ったら、また三分間、シャドーボクシングを始めてり、サンドバッグを叩いたりするのだ。

 ジムの中央にあるリングではスパーリングが行われている。

 その様子を健一は食い入るように見つめている。

 そして、リングではちょうどインターバルが終わり三ラウンド目のスパーリングが行われようとしていた。

 一人は黒いヘッドギアに赤いグラブを嵌めた、引き締まった上半身を晒し、黒いハーフパンツを履いた男だった。

 もう一人はグレーのTシャツに青のジャージを履き、ヘッドギアもグラブも赤いものを嵌めている。

 赤いヘッドギアの男は汗だくで口を開けて、かなり苦しそうな顔を浮かべているのに対し、もう一人黒いヘッドギアの男は息もそれ程上がっておらず、インターバル中も軽いシャドーボクシングしてパンチの軌道を確認している程の余裕が感じられていた。

 「あいつが気になるか健一」

 「えぇ・・・・」

 「あいつは高校ボクシング部に入部していて、二年の時から、プロのボクサーの強さを知りたくて、うちのジムに武者修行と称して、ここに度々練習しにきてたんやが、すっかりプロになりたいとか言うて、ボクシング部を辞めてしまって、このジムでプロを目指し始めたんや」

 「なかなか、ええセンスしてますね彼は・・・・」

 一輝が見る限り、健一の眼差しと口調は、今まで見たことが無いほどの真剣なものだった。

 「そりゃ、高校ボクシング部でも全国狙えるほどの逸材やからな。健一お前も、やっぱりボクサーやっただけに、観る目がありそうやな・・・・」

 「そりゃ、引退して十数年経った今でも、このジムのことは夢に出てきますよ」

 一輝の親父は、このジムに所属していたのだということが分かった。

 

 

 リングでは黒いヘッドギアの男が、先のラウンド以上に、相手選手を圧倒していた。

 鋭いジャブ、鮮やかな右ストレート、優勢に立っている黒いヘッドギアの男は容赦なく相手にパンチを浴びせている。

 相手もパンチを振るうが、足取りも軽く、難なく躱し、またストレートパンチを浴びせた。

 「おい浅倉!!!ガードが下がっとるぞ!!!!」

 コーチの松波が、地鳴りのような大声でそう怒鳴った。

 その大声に一輝も、石川も反射的に一瞬ビクリと肩をすくめてしまった。

 相手に調子よく相手にパンチを当て、何の落ち度もないように感じられたが、ガードが下がっていることを指摘され、浅倉とよばれた黒いヘッドギアの男はガードを上げて構えなおした。

 浅倉はジャブを二回、三回とリズムよくあて、そのあと息つく間もなく右のストレートパンチを繰り出した。

 浅倉が放ったパンチは命中し、相手の拳は空を切るといった、展開になっており言うまでもなく浅倉のペースで三ラウンドが進んでいた。

 カーンと三ラウンド終了のゴングが鳴り響いた。

 「ありがとうございました」

 と、双方ともにリングにいる二人は礼を言い、お互いリングのコーナーへと戻っていった。

 どうやらスパーリングが終わったようだと、一輝は思った。

 一輝は、リングで戦った二人の男を見た。

 赤いヘッドギアの男は、汗まみれの顔に口を開いて息をしていた。苦しそうである。スタミナが完全に切れている様に感じる、コーナーに戻る足取りも重そうだ。

 一方、浅倉と呼ばれた男は、汗をかいているものの、呼吸もすぐに整い、もうそばにいる練習生と思われる男と一言二言話をして、余裕そのものであった。

 男はその練習生と思わしき男にヘッドギアを外してもらっていた。

 一輝はその光景をぼけっと眺めていたが、何かヘッドギアを外した男の顔をもう一度見直してみた。

 「あっ」

 一輝は思わず声を出した。

 リングでスパーリングをしていた、浅倉という男は、あの不良五人を殴り倒し、一輝に対して軽蔑したような口調であしらった、あの憎き男だったのだ。

 「おい、お前!!!」

 突然一輝は怒鳴り声をあげた。

 声はジム全体に響き渡った。

 さっきまで一心不乱にサンドバッグを立たしていた男も、シャドーをしていた男も手を止めて一輝の方に眼を向けた。

 「どないしてイッキ・・・・」

石川が、そう聞いても一輝の耳には入っていなさそうであった。

 ズカズカとリングの方に一輝は歩み寄ると。

 浅倉は「何やお前・・・・」

と、聞き覚えのある口調で言った。

 「さすがに忘れたとは言わさんぞ」

 「お前のことなんか、いちいち覚えてるわけないやろ」

と、浅倉はまたもや一輝を軽んじるような態度をとった。

 「ほんなら、今日は忘れられへんようにしたろか!」

 と、一輝は浅倉につかみかかろうとした。

 リングに飛び上がろうとした一輝を、父親の健司が後ろから腕をつかみ制止させた。

 「こらッ!、何やいきなり!!」

 と、健一は息子を諫めた。

 「何やお前ら知り合いかい?」

 松波は二人の間に駆け寄り、双方に眼を向けた。

 「さぁ、そんなガキ知りまへんけど、文句があるなら相手したりますわ」

 そう言って浅倉は一輝に向かってをグローブを嵌めたままの手の平を上に向けて手招きをして挑発した。

 「おどりゃーーーー」

 興奮する一輝を、松波が一輝の両肩をおさえた。

 「おい、坊主・・・・リングに上がりたかったらグローブを嵌めてもらおうか」

 「なんやと」

 「おい一輝、言葉使いに気をつけんかい!!」

 自らの恩師ともいえる松波に対し無礼な一輝を父が叱った。

 「おう、言うた通りや、浅倉を殴りたかったらグラブとヘッドギヤ付けてもらおうか・・・・」

 「ふざけんな!!!」

 からかわれていると思った一輝は松波の腕を振り払おうとした。

 すでに数人のボクサーだか練習生が一輝の周りにいて、そのうち二人も一輝の身体を抑えていた。

 「ふざけてんのはお前じゃ、浅倉はボクサーじゃ、リングの上でしか殴らせへん。リングに上がるなら大人しくグラブを嵌めろ!それが条件じゃ!!!!」

 松波の決意の固い、強い眼差しに一輝は動きを止めた。

 「わかった・・・・だから、あいつと一対一でやらせてくれ」

 一輝は松波の言葉に従うことにした。

 「おおぉおー」

と、周りのボクサー達からも、好奇心の混ざったようなどよめきが起きた。

 

 

 

 

 

 


 


 

  

 



 

 

 

 

 

 

 




 


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