第6話
1
一輝は、眠れなかった。
怒りと興奮が一輝の眠りを妨げている。
布団にもぐり、うとうとと、睡魔を感じて眼を閉じても、半時で目が覚めしまう。勿論のこと疲れは取れず、また眼をつぶると一時間ほどで、目が開いてしまう。
部屋は一輝一人だった。
また、あの男を思い出す。ボクサーの男だ。
あの男との出会いは、一輝にとって屈辱的な出会いであった。
今まで、喧嘩をして負けたことは数知れずあったが、こんなに悔しい思いをすることは無かったのではなかろうか、と、一輝は思った。
なにより自らが対面を望み、舞い上がり、興味津々で話しかけてみた。それを、邪魔者扱いされてしまったのだから、腹の底から怒りがこみ上がるほかない。
しかも、その怒りをぶつけることが出来なかった。
本来の一輝ならば、相手が自分より強かろうと弱かろうと、関係なしに向かっていった。
その一輝が、この男にだけは立ち向かうどころか、情けないことに足がすくんでしまったのだ。確かに不良を相手に倒した、あの男の強さを目の当たりにした。だからと言って、簡単に敗北を認めることなどありえなかった。
一輝自身、どうしてなのか、解らなかった。
恐怖感より先に己の身体が、細胞が、闘う事を拒否したかのように、身動き出来なかったのだ。
そしてもう一つ、考えられることがあった。一輝の頭を恐れ以外の原因、それは尊敬ではなかろうか。もしくは理想的な強さ、とでもいうべきか、考えたくは無かったが、その思いが一輝を動けなくさせたのだ。
頭の中の
そして。一輝は父親の言葉を思い出していた。
『ボクシングをやれ』
実のところ一輝自身、この言葉に一つの希望を感じていた。
学校の授業にも着いていけず、多くのクラスメイトとも馴染めず、そして家庭というものにも縁の無い少年に、自分が心躍る思いが出来るのではないか、という希望が見え始めているのだった。
無論、父の言葉通りにボクシングを始めたとしても、一朝一夕で、金や物や名声が手に入るとは更々思ってもいない。
薄れた記憶ではあるが、我が父の過去を知っているだけに、なかなか踏み出せるものではなかったのだ。
しかしどうだろうか。
実際、一輝の頭の中はボクシングでいっぱいであった。
父の姿、そして、不良を瞬時に倒してのけた、ボクサーの男。
沸き上がる衝動が拳に力を与えている様に感じる。
今すぐにでも、その技術を身に着けたいと、感じている。
一輝は布団の上で仰向けになり、暗闇に慣れた眼で、天井の木目を眺めている。
そして時計に眼をやると、午前四時になっていた。
神経が逆立つ、全身の血がすごい速さで巡っているように感じ、一輝は掛布団を勢いよく剥ぎ、獣のような俊敏さで、飛び起きた。
充血した眼は、どこか狂気を孕んでいるようでもあった。
******************
まだ薄暗い朝。
一輝は安物のジャージに着替え、スニーカーを履き、家を飛び出し、走り出した。
心の躍動がやかましく感じ、いてもたってもいられず、暴れたくなっていた。
その衝動を抑えるためでもあった。
しばらく走ると、大川に掛かる橋があり、その下をくぐり、まっすぐ川沿いを走り続けた。
走ることには自信が有ったが、ペースを考えない走りは、それ程長く走る事は出来なかった。
下り坂、上り坂も同じ速度で走ろうとするのだから当然であった。
息が絶え、喉の奥が渇いた痛さを感じ、膝が震え始めて初めて、徐々に速度を落とし、走るのを止めた。
一キロと走れてはいない。
膝に手をおき前のめりになり、下を向いて深い呼吸をした。
ゼイゼイという呼吸音と、ひゅうひゅうという痛々しい喉の音が混ざっていた。
(もうアカン、やっぱり、苦しい・・・・)
暴れたくなるような衝動は、ものの数分で消え去った。
しかし、一輝は突然、はっと、眼を見開き、また走り出した。
心臓が激しく動き、肺と喉に鋭い痛みを感じながら、走った。
また、足がもつれ転びそうになったが、何とかとどまり、深い不気味な呼吸を繰り返した。
苦痛、そしてそのあとに来る、あの男の憎らしい顔が頭に浮かび、そして、再び衝動に駆られた様に、再び走る。
それが繰り返されいるうちに、川沿いの広場にたどり着いた。
一輝はベンチを見つけそこに駆け寄った。
頼りのない走り方である。
一輝はベンチに腰を掛けるのではなく、そこに両足をおき、うつ伏せにの体勢になり地面に両手を置いた。
腕立て伏せである。
歯を食いしばり、何度も腕を曲げ、伸ばし、顔が地面に落ちそうになるのを耐え、腕立てを繰り返した。
六十回を数えた頃だった。
一輝は力尽き、地面に上半身を落とし、仰向けに転がった。
酷い息使いだ。
全身の力が地面に吸い取られるような感触であった。
誰もいない薄暗い早朝の公園で、一輝は自分に言い聞かした。
(もっと強くなるぞ・・・・)
なぜだか、一輝の頭に浮かんだのは父の顔だった。
*****
一輝は今日も学校の校舎の屋上で仰向けになり、空を眺めていた。
慣れない早朝の強制的なランニングを行い、身体が悲鳴をあげて
ここで授業をさぼっていても、誰も咎めることも無いと踏んでいる一輝は、悪びれる様子ものなく、この屋上で休んでいた。
「お・・・・おった、おった」
石川だ。
「何やねんイッキ・・・・授業さぼるなら教えてくれや、理科の授業なんて退屈でかなわんで・・・・」
石川が例のごとく、勉強から逃れて、一輝をさがして屋上にいると予想して、ここに来たようだ。
「・・・・・」
石川は、仰向けに横たわる一輝の傍に歩み、腰を下ろした。
一輝は一度、石川に眼をやり、また空を眺めた。
「なんやねん、また、だんまりかい・・・・」
「おい、石川・・・・」
一輝は暫く黙り、そう言った。
「なんや?」
「お前、将来のこととか、考えてるか?」
「どないしてん、急に」
「いや、もう俺ら今年で学校卒業するやろ・・・・その後、お前どないするねん?」
石川は少し考えを巡らせ、言葉を濁した。
「どないもこないも、どうにも出来へんで、だって俺は生まれつき頭悪いからな
今更悩んでも間に合わんで」
「ほな、どないしたいとか、無いのか」
「さぁ・・・・早く働いて金稼ぎたいかな・・・・」
「なんや、お前、まともやん」
この石川の答えには、一輝も驚いた。もっと怠けた夢や、もしくは大金持ちになってなどの、大ボラを吐くと思っていたが、石川の答えが、あまりにも現実的だったからだ。
「ほな、イッキは何か将来のこと考えてるんか?」
「いや、まぁ・・・・考えてるけどなぁ・・・・」
「へぇ、どんな将来夢見てるんや?」
「夢とか、そんなんちゃうよ・・・・」
照れ臭そうな顔で一輝は言葉を詰まらせた。
そんな一輝を石川は興味あり気に、顔を知近づけた。
「いや、やっぱりええわ」
一輝は、紛れもなくボクサーになることで、自身の生きる希望が見えてきそうな気がしてきたが、まだ、言葉にするには早いと判断した。
石川は、一輝にとって何でも話が出来る友人である。ボクサーになりたいと言えば、きっと彼は、よろこんで応援してくれるだろう。
だが一輝は、それを伝える事は
もっとトレーニングをして、強くなり本物のプロボクサーになることが叶えられるようになってからでも遅くはないであろう思ったからだ。
「俺もお石川といっしょかな・・・・早く働きたいかな」
正直な思いは胸にしまって、一輝は石川にそう言うだけにした。
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