第3話
一輝に母親はいない。
父一人子一人の父子家庭だ。
一輝が、まだ六歳だった頃、母親は家を出て行った。
細身で、色白で大きな瞳と長い髪が印象的な母親だった記憶がある。
母が出て行った夜、一輝は父親に出て行っ
六歳の一輝は一日中、訳も分からず、大いに泣いた。
しかし、どんなに泣いても、母は帰ってはこないと悟った。
翌朝には、父親が、馴れない手つきで目玉焼きと、トーストを作っていたことを覚えている。
一輝はそんな過去を、思いだしながら、家の近所の喫茶店で、朝食のトーストにかじりついた。
石川との朝食。
二人とも、バターが塗られた焼いたトーストに、ゆで卵、半分に切ったバナナに、小さな皿に盛ったサラダというモーニングセットを注文し。
そして、アイスコーヒーを頼んだ。
石川は、にこやかな表情で、ゆで卵の殻をむきかぶりついた。
喧嘩での惨敗のことを忘れさせようとしてくれているのか、その時の詳細を聞こうとはせず、昨夜放送されたテレビでのお笑い番組の話や、一輝が休んでいる時に起こった学校での出来事や、教師へのうっ憤話に終始した。
石川なりの心遣いであろうと一輝は思った。
一輝と石川は、たわいもない話をひとしきりして、店を出た。
「ほなまたな」
「おう、ほなまた。奢ってくれてありがとうな」
石川はそう言って、学校ではなく自分の家の方角へと、歩を進めた。
******
午前十一時。
一輝は家に着くと家の扉に鍵がかかってないことに気付いた。
(確かに出かける前に鍵は閉めたはずだが、
今は平時の午前十一時。本来なら学校で授業中の時間だ。自分が私服で帰って来たとなると、授業をさぼっていることが丸わかりである。
父親が夜勤で疲れ果てて、眠っていてくれれば幸いだったが、家の中からは、
(親父め、まだ起きてやがるか・・・・)
このまま扉を開けば、烈火のごとく怒るだろうか、その時の機嫌にもよるだろうが。
酒でも入っていたら、
一輝が幼き頃、悪さをしては、親父は容赦なく一輝を殴った。中学になってからは親父に殴られることはなかったものの、怒りが爆発した時の父親の姿と度重なる拳の痛さは、一輝の身体に幾重にも刻まれ、親父のその憤怒の表情と怒鳴り声は、もはや拳など必要が無いほどの恐怖であった。
ドアノブに手をかけ、扉を今開けるべきか否か迷い悩んでいる時だった。
玄関のとなりの流し台の前にあるガラス窓が、ガラガラと音を立てて開いた。
「なに、突っ立っとんねん・・・・さっさと中に入らんかい」
父親の日に焼けた顔が、窓隙間からのぞいた。
「バレた!」
心臓を口から吐き出しそうなほど驚き、眼を丸くした一輝だが、
「お・・・・おう」と、
かろうじて動揺を隠し、余裕な表情を装い返事をした。
扉を開けると、玄関を上がったすぐ先にある六畳ほどの部屋にある、ちゃぶ台の上には、飲み干されたビールの缶が二つあった。
どれもフタが開き、握りつぶされて、ころがっている。
一輝の親父は冷蔵庫を開けて、缶ビールを二本取り出し、冷蔵庫の扉を閉めた。
「ふう・・・・」
と、息を吐きながら親父は、ちゃぶ台の前に、どんと座り込み胡坐をかいて缶ビールのフタを開けた。
まだ、さほど酔ってはいないが、目元が赤く染まっている。そして眼も少し座っている。
「おう、一輝、学校はどないしたんや、それにその顔・・・・」
父親は自らの顔の目尻に人差し指を向けて、一輝の顔の痣について問うた。
「あぁ、これな・・・・これは・・・・」
「勝ったんやろな!」
「えっ!?」
「え・・・・や、ないわ!まさか『この傷、階段で転びました!!』なんて、使い古された嘘つくなや」
「あ・・・・いや」
「その傷や、喧嘩やろ。相手に勝ったんやろなっ!」
アルコールが回り始めたか親父の言葉に鋭さが増してきた。
「いや、まぁ、相手は二人で身体もデカかったからな・・・・」
「何や負けたんかい・・・・」
「・・・・」
うまくは答えられなかった。しかし、「負けた」とはいえなかった。
酒に酔った親父の機嫌を損ねるのを配慮したからではなく、あの時の喧嘩は一輝にとって決着とは認められていないからだ。
明日にでもあの二人組に出会うことが出来れば、再び喧嘩をするつもりだからだ。
一輝にとって負けとは、自分が負けを認めて、もう二度と抵抗できない状態になった時であるからだ。
それに、喧嘩に勝ったと答えたところで、この父親が喜ぶほど単純な男ではない事は一輝も重々知っている。
一輝は、親父に、どう答えようか考えたが、ただ立ち尽くし手いるだけで何も言えなかった。
「ふん・・・・」
親父は、いちいち聞くまでもなく、その面を見ればわかると言わんばかりの表情をしたように一輝は感じた。
「ところで・・・・」
そういって、父親は煙草に火をつけていた。
一輝は、親父の次の言葉を待った。
「お前、高校受験はどないすんねん?」
「・・・・・え!?」
戸惑った。
それは、突然の父親からの受験という意外な言葉だったからだ。
「そろそろ進路について考えなあかん時期やろ」
「あぁ・・・・まあ、そうやけど、そんなこと考えたこともないわ」
「学校の先生はなんて言うてんねん」
「いや、先生とか、まともに話もしてないかな」
父親は、軽くため息をついてビールをごくごくと喉に流し込んみ、膝を叩いて立ち上がるなり、タンスの上に少し背伸びをして大きく古びたスポーツ用バッグを引きずり下ろし、中をほじくり返すように漁り始めた。
それは、革製の黒く丸いものにひもが付いているものだった。
一輝はこれに見覚えがる。
子供の頃、これはまるで遊び道具の様なものだった。
一輝が幼い時分に、おもちゃを買ってもらえず、駄々をこねた時、親父は、このボクシンググローブを一輝に嵌めさせて、ボクシングを教えた。
一輝はボクシングの真似事をして、たっぷり遊んでもらった気分になり、満足していた。
あれから何年経ったことか。もう、そんなことは忘れていた。
「お前、これからボクシングやれ!」
一輝の親父はボクシンググローブを手に持ち、そういった。
「はぁ?」
あまりの唐突な言葉に言葉を失った。
「お前に今後の進路の話をしても、チンプンカンプンやろ、俺も、お前にロクな教育も出来へんかったしな。お前は身体も小さいし、ケンカも弱いけど、根性だけは有るほうやと思っとる・・・・」
「何やねん、帰って来て早々・・・・俺の人生や、勝手に決めんな!」
一輝はたまらず、声を張り上げた。
「なんや、お前、他になんかやりたいことでもあるんかい?」
「い、いや、今は別になんも決まってないけどやな・・・・」
「学校もろくにいかず、たまに学校行ったかと思うと、ケンカして顔にタンコブこさえて、もうすぐ中三の夏になるっちゅうのに、未だに何するか決まってないんやろ」
「・・・・」
「そもそも、しょうもない喧嘩ばかりして・・・・このままやったら、お前はただのゴロツキにしかなれんぞ、いずれは豚箱に入って、世の中から弾かれて、惨めな思いした
親父の言葉に一瞬、腹は立ったが、その予想が
「その言葉、自分に言うとんかい!」
一輝も負けじと、をう言い返した。
「じゃかぁしい!・・・・今はお前の話しとんじゃ!」
「はいはい・・・・ほんで何?」
「とにかくやな、お前も、ケンカばかりしてるなら、その拳と根性をボクシングにぶつけたらええねん!」
そう言って、親父は、古く擦り切れて色あせた黒いボクシンググローブを、一輝に投げつけた。
そのグローブを一輝は反射的にキャッチし、しばらくそのグローブを眺めた。
しばらく、沈黙したのち、一輝は、「あんまり飲みすぎたらアカンで・・・・」
そう言って、グローブを親父に投げ返した。
親父は、そのグローブを両手で受け止めて、無造作に背後に置いて、またビールを口に運んだ。
一輝は家に戻ってきて早々だが、親父に背を向けて、靴を履いた。
「どこいくねん?」
低い声で親父が尋ねると、「この部屋、酒臭いから、しばらく出とくわ・・・・未成年には耐えられへんわ」と言って、一輝は家を出た。ドアを閉める瞬間、
「ぬかせ・・・・」
と、背後で親父の声が聞えた。
*******
家を出た一輝はあてもなく、歩いた。
ただ歩き、運動をしている訳でもないのに、暑さで背中には汗が流れシャツにへばりついている。
それでも尚、一輝は歩いていた、深く物事を考える事が苦手な一輝は、頭の中のにたまったの濁りの様なものを、消し去るためにも歩いていたかった。
そうしているうちに、午後三時を過ぎていた。
淀川から枝分かれをするように流れる大川沿い子の公園のベンチに、一輝はいた。
ポケットには三百円二十円が入っていたので、缶コーヒーを買い、ベンチでくつろぐことにした。
この散歩道は淀川から始まり、四キロほど南向きに流れ、大阪城方面へと続き、そして更に西側に向かい淀屋橋、中之島の方向へ向かう。
この公園は四月になれば毎年、見事なほどに桜が盛大に咲き春の訪れを感じさせる。
今日は平日で夏の暑い日でもあるせいか、人気が少ないが、今いる川沿いは、犬を連れて散歩する婦人や、学校の部活中であろう学生が数人が並んでジョギングをしていたりする。
少しばかり退屈を感じたが、もう少し一人で物思いにふけるのも悪くない無いと一輝は考え、もうしばらくそこに座り続けることにした。
(しかし、なんて格好だ・・・・)
ジャージに、洗いざらしの皺だらけのTシャツ姿でスニーカーを履いていた。
親父との会話から逃れるように、家を出たが、、外出するにはあまりにもセンスの悪い姿ではなかろうか、また、青痣だらけの顔であることも付け加えると、尚更、恥ずかしくもあり、背中をすくめさせた。
一輝は親父のことを考えていた。
先ほど、親父が見せたボクシンググローブのせいだ。
とても古く、途切れ途切れな記憶ではあるが、父は幼い一輝にボクシンググローを
かつて親父はプロボクサーだった時期があったようだ。
一輝にはその記憶が無い。
自身が生まれる前の話だった。
それを知るのは、押し入れの奥に無造作に押し込まれている、アルバムにある写真に写された父の雄姿である。
どれも古い写真で、モノクロの写真に若き日の父の試合の風景が写されている。
白黒の画像には、父が拳を、対戦相手にぶつけているものが六枚ほどあって、その次のページを
二人のトレーナーと思わしき男、一人は白髪交じりで細身の初老の男、そしてもう一人は小太りで小柄で短髪の男で、その中心で、見事に引き締まった上半身を露出させ、‘‘健一,,と自らの名を刺繍入したトランクスを履き、少し微笑んだ表情で拳を握りファイティングポーズをとっている若い男が、一輝の父親だった。
試合に勝ち、何かの賞を取ったのだろう。
誰が撮った写真なのかも聞いたこともない。
次のページを捲っても、そのアルバムには、何も貼られてはなかった。
これが一輝が知限りの父の過去である。
それに親父自身、当時のことは多くを語らないのだ。
一輝の家には、子供が楽しめるようなおもちゃも少ない。そんな一輝にとってボクシンググローブは退屈しのぎにはなったあろう。初めは自由に、とても適当に力任せに腕を振っていたが、そのうち父はガードを上げて、拳をまっすぐに打ち込むよう、に指示した。拳の握り方や、力の入れ具合、徐々に本格的な練習方法になってきていた。
幼い一輝自身、その父親の言葉に従い、夢中でパンチを繰り出しているこ時間が楽しかった。
父親も満足気な表情をしていることも覚えている。
しかし、それから一年もしないうちに、親父はトラックドライバーとしての仕事が忙しっくなり、また、一輝も、成長の過程であろう、父親と過ごすより、学校の友人が出来たりで、いつしか、このようなボクシングごっこをしなくなっていのだ。
あまりの懐かしい記憶がよみがえり、ベンチに座り込んでいる一輝は、左手の拳をを握り、軽くジャブを空に放った。
(こんな感じやったかな?)
一輝は、わずかに微笑んでいた。
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