前線さんさら物語

岩重

第1話 とおかんや 前編

 その場所は、幽玄の霧が立ち込める湖畔である。

 この物語の舞台は更にその下。

 地上からではなく、湖の底の最奥。

 その眼は水底から水面を見上げている。

 光の差し込む天に向かって、

 その口から漏れた息から弾けた水泡が浮かび上がっていく。

 昏い水底から聞こえるはずのない赤子の鳴き声がする。

 水底には逆しまの墓が建立している。

 此処は死者の都。

 凪いだ湖の地の底にある彼岸そのもの。

 寂寞の水底には似つかわしくないこの場所に生まれたばかりの赤子がいる。


「あぁ、生まれてしまったのか。」

 その赤子の背後から、ため息を溢したように男の声がする。

「生まれたならば仕方ない。」

 男は水底から這い上がる。

「何がどうあれ生きねばならぬ。」

「この子の」

 地上に上がった男は老人で、今にも倒れそうなほど痩せている。

「この子の名を吾が刻む。」

 男は墓である。

 そしてこの赤子は生きている。


第一話「とおかんや」


 埋葬とは、死者の亡骸を埋め葬るコト。

 墓とは、死者を弔うために作られたモノ。

 死者の名を刻み生者の行く末を刻むモノ。

 人が最後に帰属する共同体それそのものである。


 蒸し暑い夏の盛り。

 山間部鬱蒼とした墓地、

 桶を抱えた40代の男が歩いている。

 セミの鳴き声が響く中、「やれやれ」と汗を拭った。


「暑くてやんなるなあもう、

さっさと墓掃除済ませて帰ろう」


 男が墓場を通っていくと、不意にリーン、リーンと錫杖の鈴のような音が鳴った。


「鈴?」


 どこから聞こえてくるのか、音を頼りに視線を巡らせるとそこには墓場に似つかわぬ──ある意味で相応しい装いの子供がいた。


「君、一人かい?お父さんとお母さんは?」


 子供は答えない。

 瞬間、茹だるような暑さがフッと失せ、次に甘い芳香が鼻腔をくすぐった。

 そのまま茂みに隠れ、逃げるように立ち去ってしまう。


「待って、君こんなところで──いない」


 既に視界から見えなくなった子どもを追いかけるのをやめて、首を傾げた。

 男の名は青沼チヒロという。

 墓掃除と墓参りを済ませた後、車を走らせて暫く過ぎた山の麓にある家に帰宅する。

 昔は商店を営んでいたが、父が死に母が身体を悪くして以来は店を畳み、

 息子であるチヒロが実家に帰ってきて生計を立てている。

 居間では母が新聞を読んでいる。


「母さん、墓の掃除行ってきたよ。

あの辺、今度の台風でまた土砂崩れするかもしれないな。何かしとかないと…」

「あら、そう?おつかれさま。やっぱり山の墓地の手入れはきついわね……」

「うちも例の墓導入してみる? いまは先祖のデータ移行って案外楽なんでしょ」

「今更うちに新しい墓を用意する余裕なんてないわよ」


 チヒロの言う"例の墓"とは、オンラインで墓参りが出来るクラウドサービス、

 "雲の上の墓"のことである。

 火葬より遥かに安価に遺体がバイオ分解処理を施される現在では、

 故人そのものをデータ化し、特殊な半導体メモリに内蔵された“墓−Graves−”というアプリケーションが浸透していた。

 遺族の望む故人の形をした墓から、故人が望んだ形のまま動かない極小の墓まで、

 人の死はデバイスの中に収められ、各々管理出来る。


 現在“墓−Graves−”は半導体の物理メモリーだが、

 クラウドサービス上の"雲-Clouds-"と持続することにより、オンライン上でいつでも故人の墓参り─再会が可能である。

 かくして墓地という土地の所有はなくなり、墓は家庭内に納められ、家族とその先祖のデータは雲と共有され、よりコンパクトに人の死は整理されるようになっていた。

 逆を言えば、今時先祖代々の墓地に墓参りする家庭は珍しく、墓地を所有していること自体が旧来的な贅沢になりつつあった。


 死者を埋葬しつづけるには国土が狭いことに加えて、墓地の管理が現実的でなくなってしまったことも"雲の上の墓"の普及に挙げられる。


「そういえば、墓場に子どもがいたよ。今時あんな山の墓場に墓参りする家がうち以外にもいるもんだなぁ」

「子ども? 幾つぐらい」

「んー、6、7歳くらいかなぁ」

「……そう」

「どうした?母さん」

「むかしね、それこそ7年くらい前かな。うちで店をやっていた頃、一時期だけ変なおじいさんが来たのよね。」


 店に訪れた記憶を回想する。

 母が言うには、毎日決まった夕刻に赤子を連れてきて、離乳食はどれですかと尋ねてくる。

 孫の世話なのかと思っていたが、この辺りで誰かの孫が生まれたとは聞かない。そもそも狭い町では見たことがない、知らない老人である。


「だからある時、お孫さんですかって聞いたの。そしたらね、冗談だろうけど」


 老人の笑み。その瞳は笑っていない。


「『この子は"湖"から産まれた子なんです』、って笑ったのよ。」


 チヒロはそれを聴いて背筋の凍る心地になる。

 この辺りで"湖"というのは、黄泉、あの世と同義だからである。


「……そんで、そのじいさん今は?」

「知らないわよ。それっきり来なくなって結局誰かもわかんないんだもん」

「怖〜……なんで今そんな話思い出した?」

「おおきくなってたらちょうどそのくらいだもの、たぶん」

「生きてたらね…いや、うん、さっき見たこ子は生きてる子だったと思う。うん。足あったし。いややだなもう!」


 居間のテレビのニュースから、子どもを狙った不審人物の情報と、失踪事件の関連性を調査している事実が報道された。



 暗転。

 夜、やや虚構じみた建築物に、裁判所の法廷が開かれている。


 室内の一番奥には数段高い座席が設けられており、そこに裁判官らしき人物が座る。書記官が側に座り、原告ほか複数人、黒子姿の傍聴席が埋まるなか、ひとり小さな被告が立たされた。


「──被告は、37年10月1日、午前2時。未成年でありながら夜縄国の治める夜に出歩いていたところを現行犯逮捕された。

 原則として成人していない子どもは一律、昼輪国の民であり、夜縄国の時間に外出する権利を持っていない。よって夜縄国自治法第58条及び63条に該当、科料に処すべきものとする。」


 その子どもは、言われた意味の半分も理解しなかっただろう。

 それでも何か、いけないことをした、ということは理解しているようで、表情は強張り、口をかたく結んでじっと動かなくなった。

 ただでさえ威圧的な大人たちの空間で、子どもだけが異質だった。


「異議あり。」

 手を挙げて弁護人が告げる。


「弁護人。」

 裁判官は視線を投げ、発言を許す。


「被告は見ての通りまだ幼い子どもであり、しかも、出生届すら出ておりません。つまり無戸籍及び無国籍です。被告は親、あるいは保護者に該当する存在がいません。被告には自立起動する墓があり、それが今日まで被告の保護を担っていました。

 つまり、昼輪国の民でもなければ、夜縄国の民でもなく、法に守られていません。科料に当たらないと考えます。」


 次に、

「異議あり。」と挙手したのは、弁護人の反対側に座っていた人物だ。


「原告。」


「無戸籍で無国籍であろうと、我が国の治める時間である夜に子どもが出歩く、という行為が問題だと考えます。

 何故この国がひとつの国土に二つの政権を持つかをお忘れではないでしょう。歴史上の分断がそもそもの始まりですが、これによって我々の文化は棲み分けと共存の両立を叶えたのです。

 昼は昼輪の地、夜は夜縄の地と。

 被告はこれより戸籍を届け出し、昼輪の民となる以上、夜縄の法を犯したと考えるべきです。科料は妥当かと」


「異議あり。」再び手があがる。


「弁護人。」


「夜縄の法に従い、昼輪の民として科料に処すとなれば、被告はあの"墓"以外の財産を持ちえません。

 被告からあの"墓"を財産として差し押さえることは、子どもから親を引き剥がすようなものだと考えられます。

 昼輪の民である子どもの教育に影響すると考えます。

 被告の意思を尊重するのならば、これを没収するのはいかがなものかと。」


「ふむ。──被告は見ての通り幼く、しかも未だ話すことができない。代わりに"墓"を証人として発言を許可する。証人、前へ。」


 証人として呼ばれた"墓"の老人は、静かに被告の子どものそばに近寄ると、子どもを抱き寄せて席に座らせ、それから証言台に立つ。


「──名前を。」

 裁判官が促す。


「──吾(あ)は、龍涎香(リュウゼン)と申します。この子が産まれた時からそばにおり、こうして育てて参りました。」


 それまで膠着状態にあった法廷だったが、リュウゼンと名乗った老人がただ言葉を発しただけで流れが変わったことを、その場にいた全ての人間が感じ取っていた。


 リュウゼンがわずかに動く度、人のものではない芳しい香りが漂う。

 その香りに、なんとも形容し難い音階の言葉が載せられていく。


「しかし所詮墓は墓、人の世の法なぞ知りませんで──、情けないことに昼と夜とで法が違うのも、ほんの今先刻知りました。

 墓としては長い──本当に長い間、眠っておりました。ですから、法を犯したと仰るならば無知なこの子ではなく無法の吾を処罰なさってくださいまし。」


 恭しくリュウゼンは首を垂れる。


「親がなくともこの子は人の子、吾はたかが墓。果たして責の所在はどちらにありましょうや」


 裁判官はリュウゼンを睨め付ける。


「つまり、非はその方にあると?」


「はい。瞬(マドカ)は、何も悪くない。」


 傍聴席にいる黒子達が息を呑んだ。


「良いだろう。判決を降す。」


 リュウゼンは瞬に向き直った。

 瞬は相変わらず口をかたく結んで、自らの服の裾をギュッと握りしめていた。

 その様子に、リュウゼンは何とも哀れなものを感じとる。まだ数えで五つにも満たない子どもにはあまりにもこの場は重圧である。


 それでも、この子どもがこの世に産まれてきたこれまでの苦痛に比べれば易しいことをお互いに身を持って知っている。

 無機物である墓とはいえ、身を飾り立てる財産もない老人の形をした者と、親も兄弟も持たぬ浮浪児に、優しく手を差し伸べる者などいないのだ。


 科料としてリュウゼンが納められてしまえば、この世の一体誰が瞬を守るのだろうか。



「──墓・リュウゼン。その方には近頃この国に蔓延る"鬼"の討伐を。

 ──被告・マドカはこのリュウゼンの使役と、討伐した鬼の慰霊を任ずる。」


 告げられた処罰は、ふたりのこれからを決定づけた。


「これは、未成年である被告・マドカの真名を決める成人の日まで勤めあげなければならない。

 昼輪の民でなく、夜縄の民でもないお前が破った禁忌を禊ぐため、その身を鬼と、死者の奉仕に捧げるのだ。」


 こうして、瞬とリュウゼンは"さんさらの遣い"となった。




つづく。

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前線さんさら物語 岩重 @ganju

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