第29話 ここじゃないどこか 前編

 この世界に来てから大分経つ。元の世界にいた頃の記憶は薄れてきた。ただ覚えているのは、俺達を汚い物でも見るかのような目、目、目……。


 俺達は親に捨てられた。引き取ってくれる親戚はいない。正確には、いるのかもしれないが存在を知らない。押し込まれた孤児院における生活も劣悪なものだった。そう、劣悪……。口にも出したくない。あの、仏のような顔をした悪魔。弟の次郎は体が弱かった。俺は次郎の分まであの男に虐待されていた。

 俺を見かねた学校の先生が武道を勧めてくれて、無償で教えてくれた。それがなければ、俺の心は早々に壊れていたことだろう。俺には才能があった。周りの大人も舌を巻くほどだった。孤児院での生活は辛かったが、それも子供のうちだけの我慢だ。いつか大人になったら、この才能を生かして生活する。弟の分まで俺が稼げば良い。大丈夫。俺は我慢強い。

 俺の武道の才能は院長の耳にも届く。俺が強くなるにつれて、虐待もされなくなってきた。きっと報復が怖いからだろう。俺は単純にそう考えていた。


 ある日、俺は武道の大会で優勝した。全国から選手が集まる大きな大会だった。いつもはベッドに入ってすぐに寝付くのだが、この日ばかりは興奮で寝られなかった。俺は、この道で食べていける。もう少しの我慢だ。明るい未来が見えた気がした。生まれて初めて、胸が踊った。

 あれやこれや夢想をしていると、不意に弟が起きた。トイレだろうと思っていたが、中々帰ってこない。……嫌な予感がする。いや、そんなはずは……。


 俺は音を立てず、院長の部屋の前まで来た。中からは、弟のすすり泣く声。加えて、この世のものとは思えない、醜悪な鳴き声。


「お前の兄が悪いんだぞ!生意気に武道なんぞ始めおって、あんな硬い体に興味はないわ!」 


 もう少しの、我慢……。あと少し、耐えれば、ここから出て、幸せに……。


 気付いたら、目の前には血だらけの体。原型が分からない位にぐちゃぐちゃになった院長の顔。終わった。やってしまった。俺達の未来は、もう……。


「兄ちゃん……、ごめん……、俺……」


「ここから、逃げよう……。ここじゃない、どこかへ……」


 俺達は風呂に入り、体を洗った。院長の部屋に戻り、金銭を盗む。適当に着替えを用意して、孤児院を出る。


 ここじゃない、どこか。そんな場所がどこにあるというのか。先生に迷惑をかけることはできない。警察から逃げながら、俺達はあてもなく彷徨う。子供だけで泊まれるホテルはない。ホームレス同然の暮らし。盗んだ金もすぐに底をつく。衛生的とは言えない環境の中、弟の病弱な体は蝕まれていく。

 院長を殺したのは俺だ。俺は弟に、孤児院に戻るよう提案した。あの男はもういないのだ。前よりも酷いことにはならないだろう。俺はどうか。まだ子供だから、刑務所に入ることはないが、弟とは離れ離れになるだろう。

 弟に猛反対された。反抗されたのは初めてのことだった。ならばしょうがない。俺は嬉しかった。俺達は二人だけの家族だ。離れて暮らすなんてことはできない。弟は俺が守る。この状況の中で、最善を見つけるしかない。


 ……ここじゃない、どこか。そんな場所はなかった。弟はある日風邪にかかり、そのままあっさり死んだ。


 ……俺の、せいだ。弟の反対に耳を貸さず、孤児院に戻れば良かった……。あの時我慢して、院長を殺さなければ……。武道なんて始めなければ……。でも。


 俺は、どうすれば良かった。俺が馬鹿なだけで、俺達が幸せになれる選択肢があったのだろうか。……本当に?そんな道があったようには、とても思えない。だとすれば、俺達は最初から……。


 俺は、弟の死から間を置かず、ビルから飛び降りて命を絶った。





 ……目が覚めるとそこは、忌々しいあの部屋。目が覚める?俺は、死ねなかったのか?それにしても、体が何ともないのはおかしい。


「起きたようね?」


 声のする方を振り向くと、そこには子供が立っていた。中性的な顔立ち。性別が分からない。俺が何も言わずにいると、続けて話し掛けてくる。


「何も聞かないのね。ここは、いわゆる三途川のような所よ。あなたはビルから飛び降りたけど、残念ながらまだ死んではいないわ。意識不明の重体ではあるけど」


 ……そうか。俺は上手く死ぬことすらできないのか。


「それで、突然だけどあなたにお願いがあるの。救ってほしい世界がある。そこには亜獣種という種族がいて、生まれながらに光のない地下深くで生活せざるを得ない。彼らの地上進出を阻む龍の王を倒してほしい」


 ……まるで、俺達みたいだな。でも、別に興味がない。どうでもいい。


「……困ったな。まぁ、そういう人はたまにいる。でも、そんな君をその気にさせる手も用意してある。龍の王を倒せたら、何でも願いを叶えよう」


 叶えて、どうする。金持ちにでもなるのか?それに、何の意味がある。


「まだ、駄目?何でもだよ?弟君を生き返らせるとかでも良いよ。君がすぐに後追いしたのもあって、今ならまだ残ってるから」


 は?何を言っている?生き返らせる?そんなことが、可能なのか?


「お。ようやく反応してくれた。うん。神は嘘を付かないから」


 いや、だが。弟が生き返ったところで、あの世界に俺達の居場所はない。俺の、せいで。同じことを繰り返すだけ。


「まだ乗れない?じゃあ、大サービスだ。君の願いは、前倒しで叶えてあげる。弟と二人、地上を目指して龍を倒す。そうしたら、亜獣種の英雄として日の下で幸せに暮らすことができる。悪くないでしょう?」


 ……そんな、ことが。何で、今さら……!!!


 俺の胸は、この理不尽な神に対する怒りで満ちた。だが同時に、神の提案はどうしようもなく魅力的だった。俺は龍を倒す。今度こそ、弟と二人で幸せになってみせる。


「……分かった。やる」


「決まりだね。それじゃあ、はい。後ろを向いてみて」


 ……振り向かなくても、分かる。そこに、いる。……嘘だ。


「……兄ちゃん。……ここは。あれ?俺は……」


「……」


 ……嘘だ。こんな、簡単に。こいつは、偽者だ。弟は死んだのだ。俺に、こんな幸せが訪れるはずがない。


「兄ちゃん……?」


 だが思考とは裏腹に、体は勝手に動く。気付けば、俺は弟を抱き締めながら泣いていた。


「いいね。嫌いじゃないよ、そういうの。お礼といってはなんだけど、もうひとつ大サービス。いつもだとこの後、異世界に行く前に力を与えるのだけど、特別に弟君にもプレゼントしましょう。力と言っても何を選んで良いか分からないだろうから、それも私が選んであげる」


 その力とやらの名称だろうか。頭の中に、ずらっと文字が並んでいく。勝手にカーソルが移動していき、あるところで止まる。


【未来予知】


「君、元々強いみたいだから。そんなに先までは見れないし、本来なら死にスキルなんだけどね。向こうで更に鍛練を積めば、良い線行くと思う。弟君には戦力を増やすためのスキルを与えておいたから」


 まぁ、ここまでサービスしても、難しいと思う。龍は強いから。イレギュラーも含めて、魔王が三人いるようなものね。


 神はポツリとこぼし、そこで一息入れると、立ち尽くす俺達に向かって言う。


「さて、私からは以上よ。何か質問はあるかしら」


「……僕たちのいた世界は、何なんですか?」


 次郎……?何を……?


「そっちを聞くの?普通は、これから行く世界について聞くものだけど。でも、良いわ。特別に、どちらの世界についても教えましょう。弟君の意図に沿って答えるなら、あなた達が元いた世界はまだ未熟な神の世界。フラクタルの下層。まぁ、無限の入れ子に上も下もないけれど……。そしてこれから行く世界は、映画館かしら」


 ……意味が分からない。だがそれは、決して知ってはいけない何か、のような気がした。


「これ以上知りたかったら、龍を倒した後でもう一度おいで。弟君の願いを叶えてあげよう。それじゃあ、頑張ってね」


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