五
「清湲殿は、この酒を見たことがおありかな」
うのは盃を揺らして示した。中の血色がとろりとした艶を帯びる。清湲はそれを眺め、ぎこちなく頷いた。
「……昊国よりも、さらに西の異国より伝わってくる酒であったかと」
「ふむ。九頭の出身だけあって、さすがによくご存知だ」
うのはやわらかに目を細め、またとろとろと盃を揺らした。そうしながら言う。
「奥真野は水運の地でね。代々、北の異民や東国との交易を盛んにしてきた。が、そこで止まってしまっては、この先の繁栄は望めない」
わたしはこの地を守らねばならぬのだよ、とうのはほほ笑んだ。清湲はいまだ戸惑いながらも、了見したようすで顎を引く。うのが続けた。
「ゆえにこそ、わたしは昊国、ひいてはそれよりも先の国々との繋がりをつくりたいのだ。九頭を介する道とは違う、新たな北回りの航路を開くことで」
いま昊国へ渡ろうとすれば、かならず九頭の
しかし真奈の国土が縦に長く横たわっていることをかんがみれば、北から昊へ渡ることもできなくはなかった。古くより真奈の最北に棲まう、土着の民を御せればである。
「これまで、わたしは三十の年をかけて北の民との
「ゆえに、私をご子息へと?」
「そう。次の世を担うわが子のために、清湲殿のお力を貸してほしい」
うのが、こうべを垂れるように目を伏せた。清湲はあわててそれを押しとどめる。
「私のような者が、まことお役に立てるかはわかりませぬが……、それでもよければ」
「そうか」
うのが安堵した風に口元をほころばせる。その顔は確かに子をもつ父のもので、清湲もつられたように目を和ませた。うのがその肩を軽く叩く。
「では、明朝にでも貴殿と息子を引き合わせよう。今夜はもう遅い、ここへ泊まってゆきなさい」
「……は、」
礼をしながらも、清湲の目がこちらを向く。錫響が頷き返すと、改めて頭を下げた。
「お心遣い、ありがたく頂戴いたします」
「俺はまだ、うの様と話がある。おまえは先に寝所へ行っていろ」
「わかった」
清湲は、いささか不安げなおももちで頷いた。侍女がそうした清湲を連れて出てゆく。あたりがしんと静まったところで、うのが立ち上がって袴の裾をさばいた。
「これでよかったかね、錫響?」
うのは楽しげに錫響の脇を通りすぎ、縁側から盃の中身を捨てた。錫響はそのさまを眺めていらえる。
「充分です」
「しかし、清湲殿はまことに
うのは盃も雪に
現領主家には、ふたつの派がある。
ひとつは、領主うのとそれに仕える者たちの一派である。先ほど、うのが清湲に告げたわが息子というのもこちらに属する。うのの次男にあたり、いまは父の命に従っている。
もうひとつは、うのの長男がなす一派である。
名をねりといい、山野をめぐっては賊どもをねじ伏せている荒くれだった。光明教に入れ込んでいるのもこの男で、ほうぼうの寺を踏み荒らしては、説法を聴きたいとごねている。
この二派は、おのおのの首に手をかけるようにして争っていた。もともと、領主家はそのようにして成ってきた家だからである。
初代領主、しらいは後継を決めるにあたり、おのれの息子たちを谷に捨てた。息子らを争わせ、生き残った者を継嗣にすると宣したのである。
その苛烈さゆえに、息子らが捨てられた谷は
この初代の風を受け継ぎ、代々の領主はしかるべき折に子捨てを行う。
生き残った継嗣はさらに、父である領主を屠る。父殺しを果たすことで、子は初めて次代の領主として立つのである。今代の継嗣であるねりも、同じく父うのの首を狙っていた。
おそらく、うのがもてあそんでいた酒も、ねりから贈られたものなのだろう。それが
「清湲殿の
「はい」
血しぶきがさらに散る。うのはさして気にも留めず座へ戻った。脇息にもたれ、ふっくらと笑む。
「けれども、彼は守られてくれるだろうかね? それとも知らず、わたしのように血塗られた系譜の者に囲われて」
だまし討ちのようなものだよ、とうのが笑みを深める。確かにそうであった。
うのが清湲に述べた北航路のくわだては、偽りではない。が、清湲が厭いそうな、領主家のしがらみについてあえて伏せたのもまことである。
伏せたうえで、子を思う父という情けに訴える姿を見せた。いずれ清湲が真実を知れば、また錫響の元から逃げるやもしれない。
――であるとしても。
「俺はあれを囲い込みます。真実を知ろうとも、もはや逃げようもないところまで絡め取っておけばよい」
「恐ろしい男だ」
「それは、うの様こそでしょう」
錫響が皮肉混じりにことばを返すと、うのはうっそりと笑った。
*
翌朝、清湲と錫響はうのの次男に目通りをした。
名をもとといい、齢は十五。明るい瞳から、溌溂とした若さがあふれ出るようなおのこである。
もとは清湲によく懐き、清湲もそうした若者に心がほぐれたようだった。清湲は高舘近くに庵をあたえられ、そちらに移ることとなった。
もとは、ねりが継嗣と決まったのちに生まれた男児である。そのため子捨ての儀を経ておらず、父であるうのに対するわだかまりも少ない。父の右腕として、父を守らんという気概がつよかった。
物覚えもよく、めきめきと
されども楽しげに語ったのち、ふと目を落として美童の消息を案じる。もとが美童と近しい歳ごろであるゆえに、いっそう気にかかるようであった。
「无梅殿は、いかにしておるだろうなあ」
清湲がそうこぼすかたわらで、錫響は黙って焚きつけの枝を火にくべた。
そのうちに、春の遅い奥真野も雪どけのころとなった。
しきりと雪の落ちる音が響く夜半、ひそかに錫響の庵へ忍んでくる者があった。
戸につっかえをしていなかったため、その影は枕辺にまでやってくる。重みのある包みが供えられる音がし、錫響は目を閉じたまま話しかけた。
「……黙って置いてゆくつもりか」
つと影の動きが止まる。しかしすぐさま、承知したようすでかたわらに座した。
「起きておられましたか」
「おまえさんの気配で起きた」
錫響は身を起こし、手近にあった燭をともした。
すると案の定、そこには丹唇の美童――无梅が膝をそろえている。右目はふさがった傷で醜く引きつれていたが、それでもなお変わらぬ美貌であった。
美童は目を伏せ、錫響に目礼する。
「ご無沙汰をいたしまして」
「ふん。羽根は休めたか」
「お陰様で」
「それで、
錫響は
「すず様には、まことお世話になりましたので」
「かようなもの、いずこで得た」
ずっしりとした袋を解くと、中には砂金が詰まっている。美童はほほ笑んで答えた。
「盗んだものなどではございませぬゆえ、ご安心くださいませ。わたくしが身ひとつにて稼いだものです」
「身ひとつで」
「はい」
美童の唇が、燭の火を受けて磨いたような艶を帯びる。錫響はそこに閨の匂いを嗅いだが、それと告げることはしなかった。代わりに腕を組んで問う。
「それにしても、なにゆえこのような刻限に来た。昼間でもよかっただろう」
「今晩しかなかったのでございます。旅へ出ることになりましたゆえ」
「……旅?」
「はい。わたくしの志を遂げるに足る御方とともに」
美童が、そっと僧衣の胸元を押さえた。あの巻物に関わる旅である、ということである。錫響は目を細めた。
「清湲には言うたのか」
「それゆえに、すず様にその袋をお渡ししたのですよ」
美童がかすかに苦く笑う。袋の礼は、錫響と清湲のふたりぶんということらしい。すなわち、清湲にはなにも告げていないのだ。
「よいのか」
「……対すれば、きっと足が鈍りましょうから」
美童はうつむいた。確かに、美童がゆけば清湲は引き留めるだろう。
そのありさまが苦もなく浮かび、錫響は嘆息した。
「確かにな。まあ、おまえさんが決めたのならば俺は止めん」
「ええ」
美童は頷いて立ち上がった。最後に錫響へ頭を下げる。
「まこと、ありがとう存じました。どうぞお達者で」
「おまえさんもな」
美童は微笑し、ひそやかに出ていった。凍てた北の風が忍び込む。錫響はその足音が遠ざかってゆくのを確かめ、燭を持って文机に向かった。
――若君動けり。
文にそうしたためたのち、引き続き若君を見張っておくこと、また若君に難があれば助けることを指図する。
その文を折りたたみ、
錫響は、奥真野の二派に仕えている。
現領主うの、そして継嗣ねりである。二心を抱いてのことではない。
ただおのれが生きるために、双方と綱を引き、力を測り、いずれが倒れても生き残れるようくわだてているだけである。うのもねりも、そうした錫響を興がって用いている風があった。
双方のために使われ走り、ときに
美童をいつき谷へ連れていったのも、錫響がねりに仕えるゆえであった。
中は読んでいないと告げたが、まことの錫響は美童の巻物を
やしろの汚濁をつづった巻物。それをうまく使いこなせば、やしろは潰れ落ちるやもしれない。
錫響は眠る美童のかんばせを見、そのときにはすでに先ゆきを決めていた。
継嗣ねりは光明の教えに入れ込み、かねがね奥真野を出んとの野心を抱いていた。都へ上り、
たいていの者からはとんだ
日和をみて美童をいつき谷に連れ、同時にねりへも文を出した。
ねりが美童を気に入るだろうことは判じていた。ねりは、ああした気位の高い美貌を組み伏せるのが好きなのである。今晩、こうして美童が出立を告げにきたということは、見立て通りふたりは寺で通い合ったのだろう。
――あとは、生くるも死ぬもあやつら次第だ。
そして、ねりが早う奥真野を離れてくれればよいとも思う。
いつき谷でねりとすれ違ったときは苛立った。清湲が隣にいたためである。清湲のような男も、またねりの好みであった。緑風のごとき笑い声を背に受けながら、錫響はつよく清湲の腕を引きずった。
一方、うのは清湲に入れ込むたちではない。
光明教を厭いはせぬが、溺れもせぬのがうのである。うのはつねに対岸からものを眺め、使えるものは使うてやろうという男だった。
ゆえにこそ、清湲をうのに引き合わせた。いまこのときだけでも、安んじて清湲の身を囲ってやりたかったからである。
――うのの力が傾けば、また別な道を探ればよい。俺は狐なのだから。
悪路をすり抜け、味方を嗅ぎ分け、
おのれはさような生の中でしか生きられぬと、錫響は誰よりもよくわかっていた。かつて師の首を刎ねたのとて、この錫響であったのだから。
――清湲を生かすためには、それしかなかった。
眼前まで迫っていた戦をふり切り、清湲の未練を断ち切るにはそれしかなかった。
が、いまでも師の首を抱く清湲の姿はよみがえる。涙すらも乾いたまま、地を睨みつけるように蹲っていたおとうと弟子の細い肩が。
錫響は文をふところに収め、目を閉じた。まなうらで、燭の火がゆらりと翳る。
その明け方、継嗣ねりが高舘の領主うのを急襲した。うのは膝をかち割られ、しかしねりも利き手の指を三本削がれたという。ねりはそのまま手勢を連れ、奥真野より行方をくらました。
ねりが都へあらわれるのは、これより十年ののちである。その脇には、美貌の僧が冷ややかな顔で侍っていた。
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