「清湲殿は、この酒を見たことがおありかな」


 うのは盃を揺らして示した。中の血色がとろりとした艶を帯びる。清湲はそれを眺め、ぎこちなく頷いた。


「……昊国よりも、さらに西の異国より伝わってくる酒であったかと」

「ふむ。九頭の出身だけあって、さすがによくご存知だ」


 うのはやわらかに目を細め、またとろとろと盃を揺らした。そうしながら言う。


「奥真野は水運の地でね。代々、北の異民や東国との交易を盛んにしてきた。が、そこで止まってしまっては、この先の繁栄は望めない」


 わたしはこの地を守らねばならぬのだよ、とうのはほほ笑んだ。清湲はいまだ戸惑いながらも、了見したようすで顎を引く。うのが続けた。


「ゆえにこそ、わたしは昊国、ひいてはそれよりも先の国々との繋がりをつくりたいのだ。九頭を介する道とは違う、新たな北回りの航路を開くことで」


 いま昊国へ渡ろうとすれば、かならず九頭の大湊おおみなとを通って西海へ出ることになる。

 しかし真奈の国土が縦に長く横たわっていることをかんがみれば、北から昊へ渡ることもできなくはなかった。古くより真奈の最北に棲まう、土着の民を御せればである。


「これまで、わたしは三十の年をかけて北の民との友好ゆかりを築いてきた。北航路を開く土台とするためだ。甲斐あって、いま北との結びつきは、かつてなくつよい。昊への道を踏み出すならば、いまなのだよ」

「ゆえに、私をご子息へと?」

「そう。次の世を担うわが子のために、清湲殿のお力を貸してほしい」


 うのが、こうべを垂れるように目を伏せた。清湲はあわててそれを押しとどめる。こうじながらも、真心のこもったまなざしで領主に答えた。


「私のような者が、まことお役に立てるかはわかりませぬが……、それでもよければ」

「そうか」


 うのが安堵した風に口元をほころばせる。その顔は確かに子をもつ父のもので、清湲もつられたように目を和ませた。うのがその肩を軽く叩く。


「では、明朝にでも貴殿と息子を引き合わせよう。今夜はもう遅い、ここへ泊まってゆきなさい」

「……は、」


 礼をしながらも、清湲の目がこちらを向く。錫響が頷き返すと、改めて頭を下げた。


「お心遣い、ありがたく頂戴いたします」

「俺はまだ、うの様と話がある。おまえは先に寝所へ行っていろ」

「わかった」


 清湲は、いささか不安げなおももちで頷いた。侍女がそうした清湲を連れて出てゆく。あたりがしんと静まったところで、うのが立ち上がって袴の裾をさばいた。


「これでよかったかね、錫響?」


 うのは楽しげに錫響の脇を通りすぎ、縁側から盃の中身を捨てた。錫響はそのさまを眺めていらえる。


「充分です」

「しかし、清湲殿はまことにぐな御仁だな。ほほ笑ましいことだ」


 うのは盃も雪にほうった。血だまりのごとく酒の散る中に、ぎょくのひすい色がと冴える。その紅と碧のあざやかさは、いまの領主家のありようを表しているかのようだった。

 現領主家には、ふたつの派がある。

 ひとつは、領主うのとそれに仕える者たちの一派である。先ほど、うのが清湲に告げたわが息子というのもこちらに属する。うのの次男にあたり、いまは父の命に従っている。

 もうひとつは、うのの長男がなす一派である。

 名をといい、山野をめぐっては賊どもをねじ伏せている荒くれだった。光明教に入れ込んでいるのもこの男で、ほうぼうの寺を踏み荒らしては、説法を聴きたいとごねている。

 この二派は、おのおのの首に手をかけるようにして争っていた。もともと、領主家はそのようにして成ってきた家だからである。

 初代領主、しらいは後継を決めるにあたり、おのれの息子たちを谷に捨てた。息子らを争わせ、生き残った者を継嗣にすると宣したのである。

 その苛烈さゆえに、息子らが捨てられた谷はいつくしき谷、すなわちいつき谷と呼ばれるようになった。

 この初代の風を受け継ぎ、代々の領主はしかるべき折に子捨てを行う。

 生き残った継嗣はさらに、父である領主を屠る。父殺しを果たすことで、子は初めて次代の領主として立つのである。今代の継嗣であるねりも、同じく父うのの首を狙っていた。

 おそらく、うのがもてあそんでいた酒も、ねりから贈られたものなのだろう。それがあかしに、うのはみずからの傍に置いていた瓶子も持ち出して捨てた。


「清湲殿のすがしさは、わたしたちの家にないものだ。人はおのれの持たぬものをいとおしむ。ゆえにおまえも守りたいのだろう」

「はい」


 血しぶきがさらに散る。うのはさして気にも留めず座へ戻った。脇息にもたれ、ふっくらと笑む。


「けれども、彼は守られてくれるだろうかね? それとも知らず、わたしのように血塗られた系譜の者に囲われて」


 だまし討ちのようなものだよ、とうのが笑みを深める。確かにそうであった。

 うのが清湲に述べた北航路のくわだては、偽りではない。が、清湲が厭いそうな、領主家のしがらみについてあえて伏せたのもまことである。

 伏せたうえで、子を思う父という情けに訴える姿を見せた。いずれ清湲が真実を知れば、また錫響の元から逃げるやもしれない。


――であるとしても。


「俺はあれを囲い込みます。真実を知ろうとも、もはや逃げようもないところまで絡め取っておけばよい」

「恐ろしい男だ」

「それは、うの様こそでしょう」


 錫響が皮肉混じりにことばを返すと、うのはうっそりと笑った。



 *



 翌朝、清湲と錫響はうのの次男に目通りをした。

 名をといい、齢は十五。明るい瞳から、溌溂とした若さがあふれ出るようなおのこである。

 もとは清湲によく懐き、清湲もそうした若者に心がほぐれたようだった。清湲は高舘近くに庵をあたえられ、そちらに移ることとなった。

 もとは、ねりが継嗣と決まったのちに生まれた男児である。そのため子捨ての儀を経ておらず、父であるうのに対するわだかまりも少ない。父の右腕として、父を守らんという気概がつよかった。

 物覚えもよく、めきめきとこうの腕を上げているという。錫響の庵をおとずれた清湲は、しばしばもとの才を語るようになった。

 されども楽しげに語ったのち、ふと目を落として美童の消息を案じる。もとが美童と近しい歳ごろであるゆえに、いっそう気にかかるようであった。


「无梅殿は、いかにしておるだろうなあ」


 清湲がそうこぼすかたわらで、錫響は黙って焚きつけの枝を火にくべた。

 そのうちに、春の遅い奥真野も雪どけのころとなった。

 しきりと雪の落ちる音が響く夜半、ひそかに錫響の庵へ忍んでくる者があった。

 戸につっかえをしていなかったため、その影は枕辺にまでやってくる。重みのある包みが供えられる音がし、錫響は目を閉じたまま話しかけた。


「……黙って置いてゆくつもりか」


 つと影の動きが止まる。しかしすぐさま、承知したようすでかたわらに座した。


「起きておられましたか」

「おまえさんの気配で起きた」


 錫響は身を起こし、手近にあった燭をともした。

 すると案の定、そこには丹唇の美童――无梅が膝をそろえている。右目はふさがった傷で醜く引きつれていたが、それでもなお変わらぬ美貌であった。

 美童は目を伏せ、錫響に目礼する。


「ご無沙汰をいたしまして」

「ふん。羽根は休めたか」

「お陰様で」

「それで、殊勝まめにも礼をしにきたわけか」


 錫響はれるように、枕辺に置かれた錦の袋を見やった。美童が頷く。


「すず様には、まことお世話になりましたので」

「かようなもの、いずこで得た」


 ずっしりとした袋を解くと、中には砂金が詰まっている。美童はほほ笑んで答えた。


「盗んだものなどではございませぬゆえ、ご安心くださいませ。わたくしが身ひとつにて稼いだものです」

「身ひとつで」

「はい」


 美童の唇が、燭の火を受けて磨いたような艶を帯びる。錫響はそこに閨の匂いを嗅いだが、それと告げることはしなかった。代わりに腕を組んで問う。


「それにしても、なにゆえこのような刻限に来た。昼間でもよかっただろう」

「今晩しかなかったのでございます。旅へ出ることになりましたゆえ」

「……旅?」

「はい。わたくしの志を遂げるに足る御方とともに」


 美童が、そっと僧衣の胸元を押さえた。あの巻物に関わる旅である、ということである。錫響は目を細めた。


「清湲には言うたのか」

「それゆえに、すず様にその袋をお渡ししたのですよ」


 美童がかすかに苦く笑う。袋の礼は、錫響と清湲のふたりぶんということらしい。すなわち、清湲にはなにも告げていないのだ。


「よいのか」

「……対すれば、きっと足が鈍りましょうから」


 美童はうつむいた。確かに、美童がゆけば清湲は引き留めるだろう。所以ゆえんを問い、親から離される犬の仔のように瞳を揺らがせるのだろう。

 そのありさまが苦もなく浮かび、錫響は嘆息した。


「確かにな。まあ、おまえさんが決めたのならば俺は止めん」

「ええ」


 美童は頷いて立ち上がった。最後に錫響へ頭を下げる。


「まこと、ありがとう存じました。どうぞお達者で」

「おまえさんもな」


 美童は微笑し、ひそやかに出ていった。凍てた北の風が忍び込む。錫響はその足音が遠ざかってゆくのを確かめ、燭を持って文机に向かった。


――若君動けり。


 文にそうしたためたのち、引き続き若君を見張っておくこと、また若君に難があれば助けることを指図する。

 その文を折りたたみ、菜殿さいどの、と表に宛名を記した。菜殿は野菜売りの親爺である。他人のを見るのが何よりも好きな変わり者で、錫響の下についている間者であった。

 錫響は、奥真野の二派に仕えている。

 現領主うの、そして継嗣ねりである。二心を抱いてのことではない。

 ただおのれが生きるために、双方と綱を引き、力を測り、いずれが倒れても生き残れるようくわだてているだけである。うのもねりも、そうした錫響を興がって用いている風があった。

 双方のために使われ走り、ときにかたをかき乱し、あるいは助ける。ねりが小ずるい狐のようだなと戯れたことがあるが、確かにそうなのだろうと思う。錫響は肉を得るために駆け回る狐である。

 美童をいつき谷へ連れていったのも、錫響がねりに仕えるゆえであった。

 中は読んでいないと告げたが、まことの錫響は美童の巻物をあらためている。そしてどうやら、美童がこの国を揺るがす諸刃の剣となりかねぬことを知った。

 やしろの汚濁をつづった巻物。それをうまく使いこなせば、やしろは潰れ落ちるやもしれない。好文比売命あやこのむひめのみこと、ひいてはやしろを篤く奉る真奈においては、国の、民の、すめらみことの魂そのものが崩れかねない大事である。

 錫響は眠る美童のかんばせを見、そのときにはすでに先ゆきを決めていた。

 継嗣ねりは光明の教えに入れ込み、かねがね奥真野を出んとの野心を抱いていた。都へ上り、朝廷みかどを倒して武人の世をつくるのだと高言していたのである。

 たいていの者からはとんだうつけと嘲笑われたが、面白がって付き従う者もいた。そうしたねりに、美童をあてがおうと決したのである。

 日和をみて美童をいつき谷に連れ、同時にねりへも文を出した。

 ねりが美童を気に入るだろうことは判じていた。ねりは、ああした気位の高い美貌を組み伏せるのが好きなのである。今晩、こうして美童が出立を告げにきたということは、見立て通りふたりは寺で通い合ったのだろう。


――あとは、生くるも死ぬもあやつら次第だ。


 そして、ねりが早う奥真野を離れてくれればよいとも思う。

 いつき谷でねりとすれ違ったときは苛立った。清湲が隣にいたためである。清湲のような男も、またねりの好みであった。緑風のごとき笑い声を背に受けながら、錫響はつよく清湲の腕を引きずった。

 一方、うのは清湲に入れ込むたちではない。

 光明教を厭いはせぬが、溺れもせぬのがうのである。うのはつねに対岸からものを眺め、使えるものは使うてやろうという男だった。

 ゆえにこそ、清湲をうのに引き合わせた。いまこのときだけでも、安んじて清湲の身を囲ってやりたかったからである。


――うのの力が傾けば、また別な道を探ればよい。俺は狐なのだから。


 悪路をすり抜け、味方を嗅ぎ分け、をかすめ取って生き延びる。

 おのれはさような生の中でしか生きられぬと、錫響は誰よりもよくわかっていた。かつて師の首を刎ねたのとて、この錫響であったのだから。


――清湲を生かすためには、それしかなかった。


 眼前まで迫っていた戦をふり切り、清湲の未練を断ち切るにはそれしかなかった。

 が、いまでも師の首を抱く清湲の姿はよみがえる。涙すらも乾いたまま、地を睨みつけるように蹲っていたおとうと弟子の細い肩が。

 錫響は文をふところに収め、目を閉じた。まなうらで、燭の火がゆらりと翳る。

 その明け方、継嗣ねりが高舘の領主うのを急襲した。うのは膝をかち割られ、しかしねりも利き手の指を三本削がれたという。ねりはそのまま手勢を連れ、奥真野より行方をくらました。

 ねりが都へあらわれるのは、これより十年ののちである。その脇には、美貌の僧が冷ややかな顔で侍っていた。

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