なるだけ日和のよい日を見すまし、いつき谷へ向かった。

 雪がふぶけば、けわしい溪谷を歩くのはむつかしい。とりわけ、雪慣れぬ清湲と美童を連れるのならば、なおさらである。錫響はふたりの尻を叩くようにして道を急かした。

 野からしだいに山を登り、清流のうねる岩場伝いを歩んでゆく。美童はなよやかななりをしているが、黙々と雪を踏んでついてきた。

 清湲のほうが、美童を気にかけるあまりにもたついている。錫響は、遅れがちな清湲をふりむいて呼ばわった。


「清湲、よそ見をするな。川に落ちても助けんぞ」

「しかし、……むめ殿は病み上がりだ。いま少しゆるりとは行けぬのか?」


 清湲が、幾度めかに藁靴を雪から抜いて声を上げる。美童が間に割って入った。


「かまいませぬよ、清湲殿。もう恙なく歩けますゆえ」

「そうだ、おまえこそよほど危なっかしい。他人ひとよりもおのれのことを心にかけろ」

「……わかった」


 清湲は不満げな顔を向けたが、美童の手前、わずかに口を尖らせるだけで収めた。その顔に、小僧のころのおもかげが重なる。錫響はため息まじりの笑みを浮かべた。

 寺に至ると、座主ざすつきの堂へないされる。

 錫響が、あらかじめ文を寄せて頼んでおいたものだ。ここの座主とはねんごろにしている。美童の僧門入りも、座主が手ずから為すことになっていた。

 堂の床は、長年僧たちに踏まれつづけて黒光りしている。火の気はなく、奥の間の天井から、光明の神をあらわす櫨染はじぞめの紗が幾重にも垂れる。紗の前には香炉台と、睡蓮の花をかたどった燭台がふたつある。

 美童はそれらをめずらしげに眺め、円座に座した。老鶴に似た柔和な座主が、剃刀などを盆にそろえて手を合わせる。


「それでは、光明なる神のお導きをよみし奉りまして――」

「おう」

「お願い申し上げます」


 錫響と清湲も手を合わせ、頭を下げた。美童は浅く目礼をする。

 座主は笑みを返し、美童の右目に巻かれた布をほどいた。傷は引きつれ、色づいた肉の盛り上がりとなって瞼をふさいでいる。

 清湲が苦しげに顔をしかめた。座主と美童は関せず、座主が剃刀をとって低く詠じた。


 ゆたけしや

 ひかりのえにし

 まほなみの

 こがねにさやぐ

 すずしさよ


 美童の黒髪が、はかなく床に落ちる。美童は目を閉じ、白磁の置物のごとく静かに膝をそろえていた。髪はそりそりと削がれてゆく。最後のひと房が落とされると、美童のうなじがしらじらと堂に映えた。


「僧名は、めい、と名乗りなさるがよろしいでしょう」


 座主が紙に書いた名を示す。清湲は僧形となった美童を眺め、いくぶんか寂しげな笑みを浮かべた。


「少しばかり、惜しい気もするな。むめ殿の御髪はうるわしかったのに」

「ありがとう存じます。ですが、もはやではございませぬよ」


 美童が、たわぶれるように唇の端を上げる。それで清湲も気を取り直し、そうだなと眉を下げた。

 錫響はふたりを見、清湲をうながして立ち上がった。


「さて、美童殿の髪も剃り終わった。俺たちはそろそろいとまをするぞ、清湲」

「俺たちは、とは……无梅殿はいかにするのだ?」


 清湲は目をしばたたかせている。錫響はその腕を掴んで引っ張りあげた。


「これから、美童殿の住まいはここだ。向後はこの寺で匿うてもらう」

「何っ?」


 私は聴いておらぬ、と清湲が席を蹴った。錫響に掴みかかろうとしたところを、足元から美童が止める。


「落ち着かれませ、清湲殿。これはわたくしの望んだことでもあるのです」

「……无梅殿、」

「すず様の庵にたりでいては、さも人目に立ちましょう。とりわけわたくしは故のある身。町中に在るよりも、こうした山中に隠れるほうが安らげるのです」

「そういうことだ。美童殿の身を守るためにも、ここで預かっていただいたほうがよい」


 錫響は、ちらりと座主を見やった。座主はおだやかに笑んだまま頭を下げる。清湲はそれらを見比べ、唇を噛んでうつむいた。


「……わかった。座主様、お頼み申し上げます」

「承りましてございます」

「无梅殿、息災で。春になったら訪ねてこよう」

「はい」


 美童はほのかにこうじたような笑みをみせる。清湲はそれを見ることもなく、僧衣をさばいて堂から出ていった。錫響は嘆息し、美童を見下ろす。


「まあ、羽根を休めるつもりで籠れ。座主様もここの僧たちも、悪い御方ではないから」

「はい。すず様には、まことお世話になりまして」

「かまわん」


 手をふってなし、座主に頭を下げる。それから、おのれと清湲のぶんの蓑笠や藁靴をたずさえて外に出た。

 寺は、谷川へせり出した広い岩場に建っている。縁廊下から雪をかむった庭に下りれば、あなうらに低い水音が響いてきた。

 清湲は息を白ませ、ぽつりと黒い若木のようにたたずんでいる。錫響が声をかけると、さびさびとした冬風のような目をしてふりむいた。


「こなたの言うことはわかるのだ。无梅殿のためには、ここにおるほうがよい。こなたは頭が切れるし、世渡りもうまい。そのこなたが説くことならば、間違いはなかろうとも思う」

「そうか」

「だが、私にはこなたのやり方が合わぬところもある。独りで決めて、独りで片をつけてしまう。さようなところが」


 むかしからそうだったな、と清湲が目を伏せる。確かにそうではあった。

 錫響と清湲が別れたのは、六年前である。そのひととせ前、ふたりが師とともに暮らしていた九頭くずしまで乱が起こった。領主と光明教の僧侶たちが結託し、朝廷みかどを倒さんとしたのである。

 錫響と清湲は乱に加わらなかった。が、師は飛び込んでいったのだった。なにゆえにかは知らない。師には師の闇があったのだろう。

 錫響は師を見限り、清湲だけを連れて九頭から逃れようとした。ところが、企てを聴いた清湲は拒んだ。


――師には、何ぞ故あってのことなのだろうと思う。それを伺わずにまかりはできぬ。


 錫響がいかに宥めすかしても、清湲は動かなかった。

 その数日のち、師の首が庵の前に放られていた。清湲は首を抱き、弔いが済むまでは断じて動かぬ、と呟いた。

 錫響は、清湲が眠る間に師の首を捨てた。そして茫然とする清湲の腕を取り、九頭島から逃れ出た。弔いならばいずこでも為せると説いて。


「こなたは、襤褸ぼろきれのように嘆く私を世話してくれたな。こなたがいなければ、あのころの私は生きておれなかっただろう」

「ああ」


 師を失った清湲の嘆きは激しかった。清湲が十三のとき、師の手で連れられてきたばかりのころに似ていた。錫響は清湲を叱りながら、つねに脇にいた。ひととせが経ったころには清湲も落ち着いたので、そこで道を違えた。

 以来、まれに文を交わすだけで過ごしてきた。清湲が美童を連れてくるまでの話である。六年ぶりにまみえた幼なじみは、変わらぬ愚直さで錫響に対した。


「こなたには返しきれぬ恩がある。ありがたく思うている。――しかし、私はこなたといると寂しい。寂しいあまりに、逃げたくもなってしまう」


――……こういうところが。


 錫響はほろ苦く唇を曲げた。清湲のかようなところが苛立たしく、かたわら胸を疼かせもする。錫響は、その心ごと清湲へ覆いかぶせるように断じた。


「だが、おまえは俺の元に来た。おまえは結局、俺を捨てきれぬのだろう。俺がそうであるように」

「……、」


 清湲の顔がゆがむ。頷こうとして、そうしたおのれを吐き捨てたいような顔であった。

 錫響は清湲の横に立ち、その肩を叩いた。


「行くぞ。ここに立っていては凍え死ぬ」


 清湲はうなだれ、錫響に言われるまま笠を被った。靴を履いていたところで、堂のほうがにわかにざわつく。清湲が首を上げたが、錫響は清湲の腕を掴み、歩み出した。

 ちらりと見やった堂の廊下を、からからと笑いながら渡ってゆくおのこがいる。ざんばらの髪をうなじでくくり、皮衣に木皮の袴という猟師さつひとのようななりをしている。

 そのわりに立ち居は涼しく、颯とした緑風のような明るさとつよさがある。寺の若僧が、あわてておのこの後に従い案内していた。


「なにやら、力づよげな客人であるなあ」


 清湲がまばゆげにおのこをふり仰ぐ。錫響はその腕を引いてうながした。


「それよりも、足元を見ねばまた雪に嵌まるぞ。早うついてこい」

「ああ」


 清湲はふり返りながらもついてくる。錫響はうしろを見なかったが、背に響くおのこの笑い声は、しばしの間肌に残った。

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