美童は、それから五日のちに目を覚ました。

 立って歩けるようになるには、さらに五日を要した。ようやくとこを上げた朝、美童は頬のそげた顔で錫響に頭を下げた。


「大変お世話になりまして、まこと、かたじけのう存じます」


 布に覆われていない左目が、まっすぐに錫響を見上げる。そのまなざしにとした含みを感じ、錫響は目だけで頷き返した。


「いい、かまわん。――それよりも清湲、おまえひとっ走りしてこい。つぎの昼餉にする菜が何もない」


 脇でほっとした顔をしている清湲を呼ぶ。清湲は素直に応じて首をかしげた。


「うん? わかった、いずこへ行けばよいのだ」

「知り合いの野菜売りがいる、そこから何か仕入れてこい。そいつの住まいはこの庵を出て右に十歩、すると門が左にひしゃげた家があるから……」


 行き先までの道のりを説き、菜をうのに取り換える品を持たせる。油紙でくるんだ文を渡すと、清湲は楽しげに笑んでふところへ入れた。


「相変わらず、筆一本で食うておるのだな。かつてもこなたは、恋文や経書の代筆でよく稼いでいたが」

「ふん、まあな。その野菜売りというのが筆狂いの親爺で、他人のを見るのが何よりも好きという変わり者だ。それで米代わりによう文を遣っている」

「それは、それだけこなたの筆がうるわしいということだなあ」

「おまえの方は、少しは蚯蚓みみずの落書きからましになったのか」

「私は、とてもこなたのような水茎みずぐきは書けぬよ」


 清湲は笑って蓑笠をかぶり、庵から出ていった。一瞬、雪のちらつく風が入り込み、すぐさま消える。

 美童は、いくらか案じげに清湲のてた戸を眺めた。


つつがのうございましょうか、僧形のままお出になられて」

「障りはなかろう。今代の領主の子息が奇矯なたちで、光明の教えにかぶれている。ゆえに近年の奥真野は、我らに対する当たりがやわらかい」

「――領主のご子息が、」


 かすかに、美童の瞳の奥が光る。しかし美童はすぐさまその気配を打ち消し、改めて膝をそろえた。


「それとしても、清湲殿をお遠ざけいただき、痛み入ります」

「いや。俺もあれ抜きでおまえさんと話したかった。……これのことだろう?」


 錫響は、ふところから巻物を取り出した。初めに美童と清湲がこの庵をおとずれたとき、美童のふところにあった巻物である。

 返してやると、美童は安堵した様子で衣に収めた。錫響はそれを眺めながら説く。


「倒れたおまえさんを着替えさせるのに見つけた。中は読んでいない。信じるか否かはおまえさん次第だが」

「それは、錫響様のお心をお信じ申し上げるしかございますまい」


 美童はほのかに笑んだ。そうすると、梅のつぼみのほころぶような色香がただよう。錫響は顔をしかめた。


、だ。おまえさんに俺の僧名は許していない」

「それはご無礼を。清湲殿が僧名で呼んでおられますゆえ、つい」


 美童はねんごろに頭を下げる。慇懃だが、錫響の棘のある物言いにも怖じるふうがない。したたかそうな奴だといっそう眉間を寄せた。


「悪いが、おまえさんの生い立ちは清湲から聴いた。そのうえで言うておきたいことがある」

「かまいませぬ。わたくしの来し方など、どうせ隠し立てのできぬこと。入り用であればお話してくださいと、清湲殿に申し上げておりました」

「ならば遠慮はいらぬな。――おまえ、清湲を傷つけることだけはするなよ。俺が許さん」


 胸ぐらを掴むようにめつける。美童はそれにも屈さず、わずかに目を細めただけだった。

 錫響は、ちらりと清湲の出ていった戸へ首を向ける。


「清湲はああいう奴だ。童のようにまっすぐで、甘ったれで、傷つきやすい。真正面から傷つくくせに、その傷を押し隠して笑うているところがある」

「ええ」


 美童が頷く。この美童も、短い付き合いなりに清湲のひととなりを感じたのだろう。それはそれで業腹だと思いつつ、錫響はことばを続けた。


「俺は、あれのそういうところが煩わしい。だが、守ってやりたいとも思う。手のかかる弟のようなものだ」

九頭くずにいらしたころの、幼なじみでいらっしゃるとか」

「そうだ、俺たちはふたりきりの弟子だった。長い付き合いだ。……そこにひょっと、おまえさんという異物ことものが飛び込んできた。清湲は、おまえさんをまるきり信じているようだが」


 下からすくい上げるように美童を睨む。美童は唇をつぐんでいた。

 まったく、腹立たしいまでに冴えた美貌をしている。魔性であるな、と鼻づらに皺を寄せたくなり、錫響は唾でも吐くように顎を突き出した。


「しかし、俺はおまえさんを何も知らん。怪しげな巻物は携えておるし、清湲はそれを知らぬふうだし。ゆえに、俺はおまえさんを脅しておかざるをえん。あれを害すれば容赦はせぬぞ、と」

「――、」


 美童は、わずかに目を伏せて考える素振りをした。それから、ため息まじりにふところを押さえる。


「この巻物については、ここで詳らかにはできませぬ。恩ある方と交わした誓いのためにあるものでございます。また、すず様がわたくしをお疑いになるのも道理」

「ふん」


 錫響は腕を組んだ。美童は目を上げ、ですが、と刃を突きつけるように告げる。


「わたくしは、決して、清湲殿を害することは致しませぬ。それだけは、と申し上げておきます」

「……、」


 びょう、と外で雪がしまく。庵もかたかたと音を立て、そのうちに風が去った。

 やがて、錫響は思い切るように立ち上がった。


「近いうちに、おまえさんをいつき谷へ連れてゆく」


 庵の隅に束ねてある焚きつけの枝から、いくらかを持ってきて炉にくべる。火が爆ぜ、美童はそれを見やりながら問うた。


「いつき谷?」

高舘たかだてから南西へ下ったところにある溪谷だ、光明教の寺がある。そこで僧門に入れ」

「……よろしいのですか?」


 美童は上目を使うように身を縮めた。おのれが、僧門にいかなわざわいをもたらすやもしれぬと知っている口ぶりである。

 錫響とて、おのれ独りであれば断じてかようなことを言わなかった。清湲がこの美童を拾ってきてしまったがために、しようがなく言うことである。あれが拾ってきてしまったものを、いまさら無きことにはできない。

 錫響は鼻を鳴らし、美童を突き刺すように見すえた。


「生き延びるには、それしかなかろう」


 美童は小さく目をみはり、それから顔を引きしめて頷いた。


「――はい」


 炉の中で、火があかあかと燃えている。ふたりは清湲が戻ってくるまで、黙って火を見つめていた。

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