二
美童は、それから五日のちに目を覚ました。
立って歩けるようになるには、さらに五日を要した。ようやく
「大変お世話になりまして、まこと、かたじけのう存じます」
布に覆われていない左目が、まっすぐに錫響を見上げる。そのまなざしにちらとした含みを感じ、錫響は目だけで頷き返した。
「いい、かまわん。――それよりも清湲、おまえひとっ走りしてこい。つぎの昼餉にする菜が何もない」
脇でほっとした顔をしている清湲を呼ぶ。清湲は素直に応じて首をかしげた。
「うん? わかった、いずこへ行けばよいのだ」
「知り合いの野菜売りがいる、そこから何か仕入れてこい。そいつの住まいはこの庵を出て右に十歩、すると門が左にひしゃげた家があるから……」
行き先までの道のりを説き、菜を
「相変わらず、筆一本で食うておるのだな。かつてもこなたは、恋文や経書の代筆でよく稼いでいたが」
「ふん、まあな。その野菜売りというのが筆狂いの親爺で、他人の
「それは、それだけこなたの筆がうるわしいということだなあ」
「おまえの方は、少しは
「私は、とてもこなたのような
清湲は笑って蓑笠をかぶり、庵から出ていった。一瞬、雪のちらつく風が入り込み、すぐさま消える。
美童は、いくらか案じげに清湲の
「
「障りはなかろう。今代の領主の子息が奇矯なたちで、光明の教えにかぶれている。ゆえに近年の奥真野は、我らに対する当たりがやわらかい」
「――領主のご子息が、」
かすかに、美童の瞳の奥が光る。しかし美童はすぐさまその気配を打ち消し、改めて膝をそろえた。
「それとしても、清湲殿をお遠ざけいただき、痛み入ります」
「いや。俺もあれ抜きでおまえさんと話したかった。……これのことだろう?」
錫響は、ふところから巻物を取り出した。初めに美童と清湲がこの庵をおとずれたとき、美童のふところにあった巻物である。
返してやると、美童は安堵した様子で衣に収めた。錫響はそれを眺めながら説く。
「倒れたおまえさんを着替えさせるのに見つけた。中は読んでいない。信じるか否かはおまえさん次第だが」
「それは、錫響様のお心をお信じ申し上げるしかございますまい」
美童はほのかに笑んだ。そうすると、梅のつぼみのほころぶような色香がただよう。錫響は顔をしかめた。
「すず、だ。おまえさんに俺の僧名は許していない」
「それはご無礼を。清湲殿が僧名で呼んでおられますゆえ、つい」
美童はねんごろに頭を下げる。慇懃だが、錫響の棘のある物言いにも怖じるふうがない。したたかそうな奴だといっそう眉間を寄せた。
「悪いが、おまえさんの生い立ちは清湲から聴いた。そのうえで言うておきたいことがある」
「かまいませぬ。わたくしの来し方など、どうせ隠し立てのできぬこと。入り用であればお話してくださいと、清湲殿に申し上げておりました」
「ならば遠慮はいらぬな。――おまえ、清湲を傷つけることだけはするなよ。俺が許さん」
胸ぐらを掴むように
錫響は、ちらりと清湲の出ていった戸へ首を向ける。
「清湲はああいう奴だ。童のようにまっすぐで、甘ったれで、傷つきやすい。真正面から傷つくくせに、その傷を押し隠して笑うているところがある」
「ええ」
美童が頷く。この美童も、短い付き合いなりに清湲のひととなりを感じたのだろう。それはそれで業腹だと思いつつ、錫響はことばを続けた。
「俺は、あれのそういうところが煩わしい。だが、守ってやりたいとも思う。手のかかる弟のようなものだ」
「
「そうだ、俺たちはふたりきりの弟子だった。長い付き合いだ。……そこにひょっと、おまえさんという
下からすくい上げるように美童を睨む。美童は唇をつぐんでいた。
まったく、腹立たしいまでに冴えた美貌をしている。魔性であるな、と鼻づらに皺を寄せたくなり、錫響は唾でも吐くように顎を突き出した。
「しかし、俺はおまえさんを何も知らん。怪しげな巻物は携えておるし、清湲はそれを知らぬふうだし。ゆえに、俺はおまえさんを脅しておかざるをえん。あれを害すれば容赦はせぬぞ、と」
「――、」
美童は、わずかに目を伏せて考える素振りをした。それから、ため息まじりにふところを押さえる。
「この巻物については、ここで詳らかにはできませぬ。恩ある方と交わした誓いのためにあるものでございます。また、すず様がわたくしをお疑いになるのも道理」
「ふん」
錫響は腕を組んだ。美童は目を上げ、ですが、と刃を突きつけるように告げる。
「わたくしは、決して、清湲殿を害することは致しませぬ。それだけは、はきと申し上げておきます」
「……、」
びょう、と外で雪がしまく。庵もかたかたと音を立て、そのうちに風が去った。
やがて、錫響は思い切るように立ち上がった。
「近いうちに、おまえさんをいつき谷へ連れてゆく」
庵の隅に束ねてある焚きつけの枝から、いくらかを持ってきて炉にくべる。火が爆ぜ、美童はそれを見やりながら問うた。
「いつき谷?」
「
「……よろしいのですか?」
美童は上目を使うように身を縮めた。おのれが、僧門にいかな
錫響とて、おのれ独りであれば断じてかようなことを言わなかった。清湲がこの美童を拾ってきてしまったがために、しようがなく言うことである。あれが拾ってきてしまったものを、いまさら無きことにはできない。
錫響は鼻を鳴らし、美童を突き刺すように見すえた。
「生き延びるには、それしかなかろう」
美童は小さく目をみはり、それから顔を引きしめて頷いた。
「――はい」
炉の中で、火があかあかと燃えている。ふたりは清湲が戻ってくるまで、黙って火を見つめていた。
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