さほど太くはない男の背に、おぶわれている。

 むめは夢うつつにそう感じた。男の背はたぎつ湯のように燃え、したたる汗でぬめっている。

 そして、どうやら泣いているらしい。汗も乾きそうなほどに涙を潮垂れ、声を殺して泣いている。むめはその声に誘われて瞼をひらいた。


「……泣いておられますのか、」

「むめ殿?」


 男が、はっとふり返る。ぼやけた眼前に、涙とはなで乱れきったきよの顔があった。

 むめはその目元に手を伸ばす。とたんにてのひらへ痛みが走り、傷を縛るように布が巻かれていると知る。むめの呻きを聴き、きよはあわててむめを下ろした。

 あたりはいまだ暗いが、深い下草や小枝を敷いた肌触りがする。濃い土とみどりのにおいもして、どうやら山道を登っていたらしかった。


「傷がひらいたか、むめ殿。すまない、大した手当てもできず……」


 きよが、むめの手をさする。からだは冷えて気だるかったが、むめはゆるく首をふった。


「あのあばら家から、きよ様が連れ出してくださったのでしょう? それだけで充分です」

「だが、私はこなたを傷つけた。……私をかばったせいで」


 きよの指先が、むめの右目に触れる。そこで、右目にも布が巻かれていると気づいた。

 木立の中で、うっすらときよの衣が白く浮かぶ。その袖が千切れているので、これをむめの傷に巻いたのだろうと思われる。だが、いつも羽織っていた黒衣がなかった。


「黒衣は、どうなされました? あれは僧のあかしなのだと、仰っていたでしょう」


 光明の教えでは、僧はみな黒い衣を身につけるのだときよから聞いた。闇の色をまとうことで、光そのものである神の弟子たることを明かすためである。

 その印をいずこへ遣ったかと訊ねれば、きよは洟をすすって答えた。


「あこう殿――だったか、あの御仁のかばねにかぶせてきた。それくらいしか、為せることがなかったゆえ」

「それはまあ」


 やはり、人の好い男である。おのれを組み敷いた相手すらも弔うのだから、よほど筋が入っている。むめは思わず口元をほころばせた。


「きよ様は、ほんに好い御方でございますね」

「……、」


 きよの顔に、苦い翳りのようなものが浮かんだ。

 むめの腕を引き、少し立てようか、と訊く。応じて身を預けると、きよはむめを背負ってふたたび山を登り始めた。


「ひとまず、東へゆこうと思う。おく真野まのの地に、私の知己がいる」

「こがねの高舘たかだてとも呼ばれる、あの?」


 奥真野は、東国をさらに北へさかのぼった先にある領地である。

 ゆたかな川に囲まれた丘陵で、むかしから水運の郷として栄えた。領地をめぐる争いの絶えぬ地でもあったが、八十年ほど前、という武人がここを制した。

 しらいはこの地で金山を掘りあて、富を築いた。やしきはこがねの高舘と称され、そのまま小都の名にもなった。いまや、しらいの一族は都の貴族にもおとらぬ栄耀を誇ると聞く。

 奥真野はそのような地である。きよはうつむいて歩みながら、むめの問いに頷いた。


「うん。私が小僧であったころの、幼なじみだ」

九頭くずしまにいらしたころの、御友でございますか」

「うん。……」


 きよは嘆息するようにいらえる。その後しばしむめを背負っていたが、やがて荒い息の合間に呟いた。


「私は、――断じて好い人間などではない。両親ふたおやを殺めたのだから」

「きよ様?」

「いつも、いつも私はこうだ。好かれと思って為したことが、つねに誰かを傷つける。両親を救えもせず、いまはむめ殿の身も損ねて――」


 すんなりとした喉が震えている。きよは歯ぎしりして涙を呑み、おのれの罪を責めるように語り始めた。

 きよの家は、九頭くずの古い豪族であったという。

 元はつ国より渡ってきた博士のすえで、きよの父も、その学をもって領主に仕える人であった。きよは衣食にこうじることもなく、父母や邸の者らに囲まれて育った。

 きよの父母は、好文比売命あやこのむひめのみことを篤く崇めたてまつっていた。

 きよも幼いころから、比売神を拝むように躾けられていたという。比売神を重んじれば父母が褒めてくれるので、拝むことは嫌ではなかった。

 が、いつしか父母の信心は狂い始めた。

 蔵が空になるまで領地のやしろへ寄進し、足の皮が破れても参詣を重ねる。周りが止めれば止めるほど、父母は比売神にのめり込んでいった。

 そば仕えたちは邸を離れ、家はしだいに傾いてゆく。それでも父母はやめなかった。きよは独り、そうした父母の意に沿おうとした。


「私が身を捧げるほどに信心すれば、父上たちも満ち足りてくださるかと思ったのだ。満ち足りて、止まってくださるだろうかと……」


 されども、ふたりは止まれなかった。

 父母はとうとう、邸に火を放ったのである。おのが命をこそ捧げめと叫び、きよの眼前で火炎の中に飛び込んだ。彼らは炎に包まれながら、晴ればれとした顔できよを呼んだという。


「そのとき、私はその手をふりほどいた。父上と母上のいいに背いて、逃げてしまった」


 それが、よわい十三のときである。

 肉親ゆかりを失ったきよは師に救われ、僧門へ入った。それから光明の教えに帰依し、いまここにいるのであった。


「ともに信心するのではなく、身を挺して父上たちをお止めしていれば。あこう殿に立ち向かえば。父上たちは狂い死にせず、むめ殿も傷を負うことはなかったやもしれぬのに――」


 きよは声をつまらせて涙をこぼした。むめよりも大きな背が、童のように打ちひしげて縮んでいる。

 むめは眉を寄せ、それからおのれを下ろすように頼んだ。

 答えたきよの背からすべり下り、見上げた顔を平手でつ。茫然とするきよをよそに、その腰に挟まれていた小刀を奪い取った。


「む、――」


 きよが手を伸ばすよりも先、髪ぶさを根本から切り落とす。ぶつりと頭が軽くなり、むめは切った髪を風に放った。


「思い上がりなさいますな」


 鋭くきよをめつける。そのまま畳みかけるように述べた。


「これはわたくしの選んだ道、わたくしの為したこと。きよ様の責でも咎でもございませぬ。わたくしは殺めたいと思ってあこう殿を刺し、切りたいと思って髪を切ったのです。それは誰に止められるものでもない」

「むめ殿――」

「きよ様のお父上とお母上もそうでしょう。人は死にたければ勝手に死にます。みずから死に向かおうとする者は、たとえ親や子なりとも止めることなどできぬのです。とうてい、きよ様が抱え込めるものではございませぬ」


 そう言い切ったとき、足元から光が湧き上がってきたように感じた。

 黎明の光である。あたりは潮が満ちるように澄んだ青へ変じてゆき、涙にまみれたきよの顔がと見えた。

 きよは目をみはり、やがてうつむいてこぶしを握った。


「だが、……それでも。何ぞできることはなかったのかと、私はいつも悔いてしまうよ。どうして悔いずにいられようか……」


 ほとほとと、音もなく涙が落ちる。迷い子めいたその姿に、むめは厳しい顔を続けることができなかった。


「きよ様のそのおやさしさが、きよ様の弱さであり、強さでもあるのでしょうね――」


 息をつき、苦く笑う。きよはこぶしで両の目をこすり、かぶりを振った。


「私は、ただ腰抜けなだけだ。こなたのように割り切ることも立ち向かうこともできぬ、ずるい男だよ」

「よいのです」


 黎明の青が褪め、淡いこがねの靄を引く。むめは朝の陽に照らされたきよを仰ぎ、傷のあるてのひらを差し出した。


「きよ様が悔いるのならば、わたくしがその悔いを断ち切りましょう。逆にきよ様がいてくだされば、わたくしは人の情けを思い出せるのです」

「……むめ殿、」

「ですから、東へ。わたくしを、ともに東へお連れください」

「――」


 きよは苦しげに唇を噛んでいた。

 おのれの影に囚われるように迷い、煩い、それから静かに、むめの手を握り返した。


清湲せいえんだ。……私の、僧としての名だよ。私たち光明のともがらは、同じこころざしを持つ者にしか僧名を明かさない」

「――清湲殿」

「うん、むめ殿。私は清湲。俗名をきよと言う、光明の教えに帰依する僧侶だ」


 こがねの光に満ちる中で、泣きぬれたきよの瞳も鈍い金にきらめいている。むめはそのまばゆさに目を細め、頷いた。


「わたくしは、むめ。何者でもなく何者でも在れる、無名のおのこです」

――これが、まことのおれの顔だ。


 むめは布で覆われた右目を押さえ、胸のうちで呟いた。生みの母が誰であっても、いまのむめの顔は、いまここに在る。

 それがまことであるのだと、まなうらで揺れる白い花ぶさに別れを告げた。

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