八
さほど太くはない男の背に、おぶわれている。
むめは夢うつつにそう感じた。男の背は
そして、どうやら泣いているらしい。汗も乾きそうなほどに涙を潮垂れ、声を殺して泣いている。むめはその声に誘われて瞼をひらいた。
「……泣いておられますのか、」
「むめ殿?」
男が、はっとふり返る。ぼやけた眼前に、涙と
むめはその目元に手を伸ばす。とたんにてのひらへ痛みが走り、傷を縛るように布が巻かれていると知る。むめの呻きを聴き、きよはあわててむめを下ろした。
あたりはいまだ暗いが、深い下草や小枝を敷いた肌触りがする。濃い土とみどりのにおいもして、どうやら山道を登っていたらしかった。
「傷がひらいたか、むめ殿。すまない、大した手当てもできず……」
きよが、むめの手をさする。からだは冷えて気だるかったが、むめはゆるく首をふった。
「あのあばら家から、きよ様が連れ出してくださったのでしょう? それだけで充分です」
「だが、私はこなたを傷つけた。……私をかばったせいで」
きよの指先が、むめの右目に触れる。そこで、右目にも布が巻かれていると気づいた。
木立の中で、うっすらときよの衣が白く浮かぶ。その袖が千切れているので、これをむめの傷に巻いたのだろうと思われる。だが、いつも羽織っていた黒衣がなかった。
「黒衣は、どうなされました? あれは僧のあかしなのだと、仰っていたでしょう」
光明の教えでは、僧はみな黒い衣を身につけるのだときよから聞いた。闇の色をまとうことで、光そのものである神の弟子たることを明かすためである。
その印をいずこへ遣ったかと訊ねれば、きよは洟をすすって答えた。
「あこう殿――だったか、あの御仁の
「それはまあ」
やはり、人の好い男である。おのれを組み敷いた相手すらも弔うのだから、よほど筋が入っている。むめは思わず口元をほころばせた。
「きよ様は、ほんに好い御方でございますね」
「……、」
きよの顔に、苦い翳りのようなものが浮かんだ。
むめの腕を引き、少し立てようか、と訊く。応じて身を預けると、きよはむめを背負ってふたたび山を登り始めた。
「ひとまず、東へゆこうと思う。
「こがねの
奥真野は、東国をさらに北へさかのぼった先にある領地である。
ゆたかな川に囲まれた丘陵で、むかしから水運の郷として栄えた。領地をめぐる争いの絶えぬ地でもあったが、八十年ほど前、しらいという武人がここを制した。
しらいはこの地で金山を掘りあて、富を築いた。
奥真野はそのような地である。きよはうつむいて歩みながら、むめの問いに頷いた。
「うん。私が小僧であったころの、幼なじみだ」
「
「うん。……」
きよは嘆息するようにいらえる。その後しばしむめを背負っていたが、やがて荒い息の合間に呟いた。
「私は、――断じて好い人間などではない。
「きよ様?」
「いつも、いつも私はこうだ。好かれと思って為したことが、つねに誰かを傷つける。両親を救えもせず、いまはむめ殿の身も損ねて――」
すんなりとした喉が震えている。きよは歯ぎしりして涙を呑み、おのれの罪を責めるように語り始めた。
きよの家は、
元は
きよの父母は、
きよも幼いころから、比売神を拝むように躾けられていたという。比売神を重んじれば父母が褒めてくれるので、拝むことは嫌ではなかった。
が、いつしか父母の信心は狂い始めた。
蔵が空になるまで領地のやしろへ寄進し、足の皮が破れても参詣を重ねる。周りが止めれば止めるほど、父母は比売神にのめり込んでいった。
そば仕えたちは邸を離れ、家はしだいに傾いてゆく。それでも父母はやめなかった。きよは独り、そうした父母の意に沿おうとした。
「私が身を捧げるほどに信心すれば、父上たちも満ち足りてくださるかと思ったのだ。満ち足りて、止まってくださるだろうかと……」
されども、ふたりは止まれなかった。
父母はとうとう、邸に火を放ったのである。おのが命をこそ捧げめと叫び、きよの眼前で火炎の中に飛び込んだ。彼らは炎に包まれながら、晴ればれとした顔できよを呼んだという。
「そのとき、私はその手をふりほどいた。父上と母上の
それが、
「ともに信心するのではなく、身を挺して父上たちをお止めしていれば。あこう殿に立ち向かえば。父上たちは狂い死にせず、むめ殿も傷を負うことはなかったやもしれぬのに――」
きよは声をつまらせて涙をこぼした。むめよりも大きな背が、童のように打ちひしげて縮んでいる。
むめは眉を寄せ、それからおのれを下ろすように頼んだ。
答えたきよの背からすべり下り、見上げた顔を平手で
「む、――」
きよが手を伸ばすよりも先、髪ぶさを根本から切り落とす。ぶつりと頭が軽くなり、むめは切った髪を風に放った。
「思い上がりなさいますな」
鋭くきよを
「これはわたくしの選んだ道、わたくしの為したこと。きよ様の責でも咎でもございませぬ。わたくしは殺めたいと思ってあこう殿を刺し、切りたいと思って髪を切ったのです。それは誰に止められるものでもない」
「むめ殿――」
「きよ様のお父上とお母上もそうでしょう。人は死にたければ勝手に死にます。みずから死に向かおうとする者は、たとえ親や子なりとも止めることなどできぬのです。とうてい、きよ様が抱え込めるものではございませぬ」
そう言い切ったとき、足元から光が湧き上がってきたように感じた。
黎明の光である。あたりは潮が満ちるように澄んだ青へ変じてゆき、涙にまみれたきよの顔がはきと見えた。
きよは目をみはり、やがてうつむいてこぶしを握った。
「だが、……それでも。何ぞできることはなかったのかと、私はいつも悔いてしまうよ。どうして悔いずにいられようか……」
ほとほとと、音もなく涙が落ちる。迷い子めいたその姿に、むめは厳しい顔を続けることができなかった。
「きよ様のそのおやさしさが、きよ様の弱さであり、強さでもあるのでしょうね――」
息をつき、苦く笑う。きよはこぶしで両の目をこすり、かぶりを振った。
「私は、ただ腰抜けなだけだ。こなたのように割り切ることも立ち向かうこともできぬ、ずるい男だよ」
「よいのです」
黎明の青が褪め、淡いこがねの靄を引く。むめは朝の陽に照らされたきよを仰ぎ、傷のあるてのひらを差し出した。
「きよ様が悔いるのならば、わたくしがその悔いを断ち切りましょう。逆にきよ様がいてくだされば、わたくしは人の情けを思い出せるのです」
「……むめ殿、」
「ですから、東へ。わたくしを、ともに東へお連れください」
「――」
きよは苦しげに唇を噛んでいた。
おのれの影に囚われるように迷い、煩い、それから静かに、むめの手を握り返した。
「
「――清湲殿」
「うん、むめ殿。私は清湲。俗名をきよと言う、光明の教えに帰依する僧侶だ」
こがねの光に満ちる中で、泣きぬれたきよの瞳も鈍い金にきらめいている。むめはそのまばゆさに目を細め、頷いた。
「わたくしは、むめ。何者でもなく何者でも在れる、無名のおのこです」
――これが、まことのおれの顔だ。
むめは布で覆われた右目を押さえ、胸のうちで呟いた。生みの母が誰であっても、いまのむめの顔は、いまここに在る。
それがまことであるのだと、まなうらで揺れる白い花ぶさに別れを告げた。
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