駆ける。

 地に映じた月光が飛ぶように過ぎてゆき、ときおりは魑魅魍魎の影にもみえる。

 むめはそのまぼろしを踏みしだいて駆けてゆく。寝静まった市のがらくたを蹴り飛ばし、道へ転がる男の足につまずいて怒号を喰らう。しかしむめはふり向かない。馬の仔のごとく駆けて駆けて風になる。遠くへ。少しでも遠く、いずこかへ。


――東国か。あるいは西、それとも海へ。


 まずはどこかに逃げねばならない。いまのむめが都のすめらみことに訴えたとて、童の戯れごとと握りつぶされて終わるだろう。ひとまずは逃げ、その後に都びととの伝手をつくる。それを足がかりにして朝廷みかどへ近づく。


――いずれにせよ、一度は越山こしやまを通らねばならない。


 越山からは、都、東国、西国のそれぞれへ至る道が発している。いずれへ逃げるにしても欠かせぬ、かなめの山であった。


――きよ殿を頼るか?


 きよは、いまだ越山に庵をかまえているはずである。むめが泣きつけば、あの人の好い男は力を貸してくれよう。

 そう思うかたわらで、むめは迷った。あのほのぼのとした男を、かような泥舟の道に引きずり込んでよいものか。ひと足間違えば大罪人にもなりかねない、光明なきこの道に。

 その迷いが隙を生んだらしい。むめは、脇のれ門から伸びてくる腕に気づかなかった。


「――!」


 首に太い腕が巻きつき、熱くねばった壮士おとこの肌に抱え込まれる。狼めいた息が耳にかかった。


「久しいな、あや比売の太郎子たろごどの。……俺の手下がきどもに可愛がられていたんじゃねえのか?」

「……少々、それにも飽きまして。市をぶらついていた、のですよ」


 跳ねる鼓動を殺して笑む。あこうはおやと眉を上げ、むめのおとがいを掴んだ。


「お前さん、違うな。何があった」

「なにも」


 すかさず返し、口をつぐむ。あこうはめるようにその微笑を眺めていたが、やがて目を逸らしてむめの身を引きずった。


「まァ、ここまではよく抜け出してきたもんだ。あの御坊よか、胆はできてらぁな」

「……御坊?」


 ぞわりと背に厭なものが走った。その間にも蓬やむぐらの茂る庭を引きずられ、茅屋と化したやしきへ入ってゆく。

 以前、むめとあこうがよく用いていた空き家である。戸が開け放たれ、埃まみれの几帳や折れた燭台が横たわる中に、芋虫のごとく転がされている人影があった。


――きよ殿。


 むめは叫びを呑み込んだ。きよは手足を縛られ、気を失している。あこうが愉快げにむめの顎を撫でた。


「お前さんがいっかな素直にならねえんで、神官どのに頼まれたのさ。この御坊を連れてこい、とな」


 ぐ、と喉が鳴る。噛みしめた頬の内から血の味がした。あこうはむめの唇をなぞり、じっとりと探るように言う。


「執心しているってのは、ほんとうなんだな。――なら、いい」


 とたんに腹へこぶしが入る。むめは酸いものをぶちまけて蹲った。さらに背骨が折れそうなほど踏みつけられる。身が痺れ、おのれが吐いたものの中に顔をひたした。


「目ん玉かっぴらいてようく見ていな」


 あこうは身をひるがえし、きよの顎をかるく蹴る。おら、と幾度か揺すぶられたところで、きよの呻き声がした。


「……こなたは?」

「生き比売神どのの朋友ともがらだよ。比売神どのがあんたを恋しがっておられるんでね、連れてきたのさ」


 きよの目がこちらを向き、大きく見開かれる。


「むめ殿!」


 きよは跳ね起きようとして縄に阻まれた。そこにあこうの足がかかる。胸を踏み抜こうとするしぐさに、むめは叫んだ。


「あこう様!」

「殺しはしねえよ。面白くないだろう」

「わたくしは面白うございませぬ! さような坊主ひとりにかまけて何となされます、弄ぶならばわたくしを愛おしんでくださいませ!」


 請うた直後、殴られた腹に響いてむせる。あこうはからりと笑ってむめを見下ろした。


「それあ、できねえな。お前さんのその顔が楽しすぎる」

「……くそ野郎、」


 吐き捨てて床を掻く。あこうは快げに鼻を鳴らし、きよの上にまたがった。


「さあ御坊どの、邪魔っけな衣は剥いでしまいましょう」

「あこう様ッ!」


 あこうはきよの縄を解き、むしるように衣の襟に手をかける。そのとき、きよが仔犬のごとく首をかしげた。


「あこう殿――と仰るか。ひとつお訊ねをしたいのだが」

「なんだ」

「私がこなたの情けを受ければ、むめ殿はすこやかにお帰しいただけようか」


 あこうが目をしばたたかせる。きよは変わらず、無心に主人を仰ぐ仔犬のようなまなざしをしていた。あこうが、ちらとこちらを見る。そして肩をすくめた。


「まァ、そうなるんじゃねえのか。あのざまなら、比売神どのも素直にならざるをえんだろう」


――いけない。


 と、むめは総毛立った。きよは、みずからを贄にしようとしている。そのようなことは断じてさせない。されども腹が痺れている。薬でごまかした四肢が軋む。腋を汗が伝い、その先できよは涼やかに笑んだ。


「むめ殿が帰れるならば、よい。こなたからいただく情けも、欲も、光であるから」


 ほう、とあこうが眉を上げる。掴んでいた襟を放し、確かめるようにきよの喉元をさすった。


「あんた、面白いことを言うな。それがの教えとかいう奴かい」

「その通りです。よければ、こなたも帰依されまするか」

「そりゃ真っ平だ」


 あこうはくつくつと笑い、きよを抱き直して胸へかかえ込むようにした。こちらからは、あこうの背を眺める格好になる。その背越しにきよがほほ笑んだ。


――ゆきなさい。


 その顔は、そう告げているようだった。きよは首筋を吸われながら、わずかに手の先をふる。唇が案ずるなとかたちを結ぶ。

 むめはその清げな目元を見た瞬間、我を忘れた。喉から雄叫びがほとばしり、痺れた四肢に力があふれる。その力は骨も肉も突き破るいきおいで爆ぜ、袴に差した刀を掴んだ。

 頭の中は澄み渡っていた。

 いずこを狙えば血が噴き出すのか、心の臓を抉れるのかすらも見えていた。

 むめはためらいなく、あこうの背に小刀を突き刺した。深く、はらわたの底から引き千切るように。

 あこうが呻き、きよの目がいっぱいにみはられる。その震えるまなこの中に、冷えたむめの顔が映っていた。むめはそれを見すえながら刀を引き、ふたたび深々と突き刺した。


「この、――」


 あこうが血走った目で身を転じる。顔を掴まれ、小刀を奪われた。あこうが刀をふり回し、やたらに斬りつけようとする。その刀筋がむめの右目をかすめた。きよが叫ぶ。眼前が赤くなる。しかしむめは、なおも冷ややかにあこうの持つ刀を掴んだ。


「もう、わたくしは生き比売神ではございませぬ」


 あこうが驚いたように動きを止めた。刀を掴んだてのひらから血がしたたる。むめはその血ごと握りしめるように、ぐいと刀を奪い返した。


「これまで、ようお可愛がりくだされました――」


 むめはささやき、ありったけの力であこうの腹を刺し抜いた。血の泡が湧き上がる。

 その飛沫しぶきを避けながら、むめは静かに刀を引いた。

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