七
駆ける。
地に映じた月光が飛ぶように過ぎてゆき、ときおりは魑魅魍魎の影にもみえる。
むめはそのまぼろしを踏みしだいて駆けてゆく。寝静まった市のがらくたを蹴り飛ばし、道へ転がる男の足につまずいて怒号を喰らう。しかしむめはふり向かない。馬の仔のごとく駆けて駆けて風になる。遠くへ。少しでも遠く、いずこかへ。
――東国か。あるいは西、それとも海へ。
まずはどこかに逃げねばならない。いまのむめが都のすめらみことに訴えたとて、童の戯れごとと握りつぶされて終わるだろう。ひとまずは逃げ、その後に都びととの伝手をつくる。それを足がかりにして
――いずれにせよ、一度は
越山からは、都、東国、西国のそれぞれへ至る道が発している。いずれへ逃げるにしても欠かせぬ、かなめの山であった。
――きよ殿を頼るか?
きよは、いまだ越山に庵をかまえているはずである。むめが泣きつけば、あの人の好い男は力を貸してくれよう。
そう思うかたわらで、むめは迷った。あのほのぼのとした男を、かような泥舟の道に引きずり込んでよいものか。ひと足間違えば大罪人にもなりかねない、光明なきこの道に。
その迷いが隙を生んだらしい。むめは、脇の
「――!」
首に太い腕が巻きつき、熱くねばった
「久しいな、あや比売の
「……少々、それにも飽きまして。市をぶらついていた、のですよ」
跳ねる鼓動を殺して笑む。あこうはおやと眉を上げ、むめの
「お前さん、違うな。何があった」
「なにも」
すかさず返し、口をつぐむ。あこうは
「まァ、ここまではよく抜け出してきたもんだ。あの御坊よか、胆はできてらぁな」
「……御坊?」
ぞわりと背に厭なものが走った。その間にも蓬やむぐらの茂る庭を引きずられ、茅屋と化した
以前、むめとあこうがよく用いていた空き家である。戸が開け放たれ、埃まみれの几帳や折れた燭台が横たわる中に、芋虫のごとく転がされている人影があった。
――きよ殿。
むめは叫びを呑み込んだ。きよは手足を縛られ、気を失している。あこうが愉快げにむめの顎を撫でた。
「お前さんがいっかな素直にならねえんで、神官どのに頼まれたのさ。この御坊を連れてこい、とな」
ぐ、と喉が鳴る。噛みしめた頬の内から血の味がした。あこうはむめの唇をなぞり、じっとりと探るように言う。
「執心しているってのは、ほんとうなんだな。――なら、いい」
とたんに腹へこぶしが入る。むめは酸いものをぶちまけて蹲った。さらに背骨が折れそうなほど踏みつけられる。身が痺れ、おのれが吐いたものの中に顔をひたした。
「目ん玉かっぴらいてようく見ていな」
あこうは身をひるがえし、きよの顎をかるく蹴る。おら、と幾度か揺すぶられたところで、きよの呻き声がした。
「……こなたは?」
「生き比売神どのの
きよの目がこちらを向き、大きく見開かれる。
「むめ殿!」
きよは跳ね起きようとして縄に阻まれた。そこにあこうの足がかかる。胸を踏み抜こうとするしぐさに、むめは叫んだ。
「あこう様!」
「殺しはしねえよ。面白くないだろう」
「わたくしは面白うございませぬ! さような坊主ひとりにかまけて何となされます、弄ぶならばわたくしを愛おしんでくださいませ!」
請うた直後、殴られた腹に響いてむせる。あこうはからりと笑ってむめを見下ろした。
「それあ、できねえな。お前さんのその顔が楽しすぎる」
「……くそ野郎、」
吐き捨てて床を掻く。あこうは快げに鼻を鳴らし、きよの上にまたがった。
「さあ御坊どの、邪魔っけな衣は剥いでしまいましょう」
「あこう様ッ!」
あこうはきよの縄を解き、むしるように衣の襟に手をかける。そのとき、きよが仔犬のごとく首をかしげた。
「あこう殿――と仰るか。ひとつお訊ねをしたいのだが」
「なんだ」
「私がこなたの情けを受ければ、むめ殿はすこやかにお帰しいただけようか」
あこうが目をしばたたかせる。きよは変わらず、無心に主人を仰ぐ仔犬のようなまなざしをしていた。あこうが、ちらとこちらを見る。そして肩をすくめた。
「まァ、そうなるんじゃねえのか。あのざまなら、比売神どのも素直にならざるをえんだろう」
――いけない。
と、むめは総毛立った。きよは、みずからを贄にしようとしている。そのようなことは断じてさせない。されども腹が痺れている。薬でごまかした四肢が軋む。腋を汗が伝い、その先できよは涼やかに笑んだ。
「むめ殿が帰れるならば、よい。こなたからいただく情けも、欲も、光であるから」
ほう、とあこうが眉を上げる。掴んでいた襟を放し、確かめるようにきよの喉元をさすった。
「あんた、面白いことを言うな。それがみあかしの教えとかいう奴かい」
「その通りです。よければ、こなたも帰依されまするか」
「そりゃ真っ平だ」
あこうはくつくつと笑い、きよを抱き直して胸へかかえ込むようにした。こちらからは、あこうの背を眺める格好になる。その背越しにきよがほほ笑んだ。
――ゆきなさい。
その顔は、そう告げているようだった。きよは首筋を吸われながら、わずかに手の先をふる。唇が案ずるなとかたちを結ぶ。
むめはその清げな目元を見た瞬間、我を忘れた。喉から雄叫びがほとばしり、痺れた四肢に力があふれる。その力は骨も肉も突き破るいきおいで爆ぜ、袴に差した刀を掴んだ。
頭の中は澄み渡っていた。
いずこを狙えば血が噴き出すのか、心の臓を抉れるのかすらも見えていた。
むめはためらいなく、あこうの背に小刀を突き刺した。深く、はらわたの底から引き千切るように。
あこうが呻き、きよの目がいっぱいに
「この、――」
あこうが血走った目で身を転じる。顔を掴まれ、小刀を奪われた。あこうが刀をふり回し、やたらに斬りつけようとする。その刀筋がむめの右目をかすめた。きよが叫ぶ。眼前が赤くなる。しかしむめは、なおも冷ややかにあこうの持つ刀を掴んだ。
「もう、わたくしは生き比売神ではございませぬ」
あこうが驚いたように動きを止めた。刀を掴んだてのひらから血がしたたる。むめはその血ごと握りしめるように、ぐいと刀を奪い返した。
「これまで、ようお可愛がりくだされました――」
むめはささやき、ありったけの力であこうの腹を刺し抜いた。血の泡が湧き上がる。
その
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