それから、むめはしばしば文庫ふみくらを訪れるようになった。

 くらの書を読み、むみょうを手伝って書物や巻物を片づける。あるいは写本に加わる。むめもむみょうもあまり喋るたちではないが、黙っていても心地は悪くなかった。確かに、ふたりとも心根が似ているのやもしれない。

 たまにむめが求めると、むみょうはみずからの来し方について話した。


「私は、もともと違う名を与えられていたの」


 それは若きむみょうにとって、忌まわしい名であったという。

 むみょうの父は領主である。母のほうは、父がたわむれに手を出した下女であった。母はむみょうが三つのときに死に、遺ったむみょうは屋敷に留め置かれた。領主の姫君、すなわちむみょうの異母妹の侍女になったのである。

 が、まことの役目は侍女などではなかった。


「私は姫様の形代かたしろだった。姫様に災厄があればそれを被り、あるいは影武者として死ぬための」


 ために、むみょうはしろという名を与えられていた。実の父からも継母ははからも、姫君のために死ねと言われ続けた。


「……姫君を、お怨みはしなかったのですか」


 むめは途中で口を挟んだ。その姫さえいなければと思ったことはなかったのか、と。

 するとむみょうは苦く笑い、文机に肘をもたせた。


「怨んだわよ。姫様は私が異母姉あねとはご存知なかった。なにも知らない姫様が憎らしくて――」


 語るむみょうは、小さく息を吸って嘆息した。かつての痛みをなぞるように、白いかんばせがちらりと青く焔を宿す。

 しかしすぐさま焔はかき消え、むみょうはその火ごと抱きしめるように目を伏せた。


「けれども、私は姫様がおかわいらしくてならなかった。憎らしくてもかわいいのだと、気づいてしまった」


 その後、姫君は他郷に輿入れをした。むみょうも形代であることをやめ、名を捨ててやしろにまで流れてきた。そして巫女となり、書物を食むうちに文司ふみのつかさを任されたという。


「私は名を捨てて、何者でもないみょうになった。貴方の名は、きっと比売ひめ神のゆかりの花から取られたのでしょうけれど」

「はい」


 むめは眉を寄せ、頷いた。むめは梅の意である。梅樹に宿る比売神の子であることを知らしめる、呪われた名であった。

 されども、むみょうは呪いだけではないと説く。


「むめは、無名むめよ。貴方は何者でもなく、何者にでもなれる。貴方がそのように求めるならば」


 そう締めくくり、むみょうはゆるく笑った。


「このような話、出過ぎた老婆心かもしれないけれど」

「むみょう様は老いてなどおられませぬ」


 気高く、うつくしい人である。みずからの来し方を噛みしめてきた者だけが持つ、清冽なつよさを秘めた女人である。むめのまなざしが伝わったのか、むみょうは子をなだめるような顔になった。


「そう。ありがとう」

「……、」


 むめは歯を噛み、ふいと顔を背けた。

 むみょうにとっては、むめなど幼子のようなものなのだろう。そう思うとくちおしく、そのことに腐れるおのれがまた煩わしい。むみょうのかたわらに在ると、はらわたを炙られるような焦りと不平を覚えるときがある。


――おれは、この方に甘えたいのだ。


 母はかような人ではなかったかと、むみょうの中に面影を見てしまう。童のように、癇癪を起こしてみたくもなるのだった。

 むめは立ち上がり、棚の書物を整え始めた。動いておらねば、要らぬことを口走りそうである。荒らかに綴じ本の山を並べていると、ふと、むみょうがはっとした様子でむめを止めた。


「むめ殿、その棚は捨て置いていて――」


 後ろから手が伸び、ふりむいたむめの鼻先にむみょうの顔があった。むみょうはすらりと上背があり、むめと身丈が変わらないのだと初めて気づく。

 化粧おしろいの匂いが鼻をかすめ、むめは息をのんでむみょうを突き飛ばした。たおやかな身が床に伏す。


「あ、――」


 思わぬことに喉が震えた。倒れたむみょうは腰をさすり、むめを見上げようとする。そのまなざしを受ける前に走り出した。


「むめ殿」


 むみょうの声が追ってくる。しかしむめは答えず、ひたすらに駆け続けた。透廊を幾重にも曲がり、おのれの寝間まで駆け戻る。

 ところが、その寝間の前で足が止まった。神官と幾人かの下男らが、戸を開けようとしている。そこでむめに気がついた。


「むめ!」


 神官が袴をさばいて叫ぶ。逃れる間もなく腕を取られ、そのつよさに呻きが漏れた。神官は目の端が切れそうなほどに顔を近づけ、生臭い老人の息を吹きかける。


「どこへ行っていた?」

「……本殿に。舞の稽古をしておりました」


 息を止めながらいらえた瞬間、頬を張られた。尻をついたところに、偽りを申せ、と怒鳴られる。


「近ごろ、おまえはしばしば文庫ふみくらに出入りしているな。町にも下りておる。儂が知らぬと思うてか」

「――、」


 ならば訊かずともよかろうに、と頬を押さえた。神官の姿を仰げば、すかさず胸を足蹴にされる。骨のあるところに入って息が止まった。


「浮かれめ」


 神官はつばきするように浴びせかけ、さらに罵る。


「知っておるぞ、おまえはむみょうを誑かしたな。町の汚らしい小坊主もだ。とんだ淫売になりおって――」


 誰の御陰で食えておる、と神官が吼えた。おまえは贄であるのに、とも続く。おまえは比売神と儂たちのため、やしろで飼われねばならぬ贄であるのに、と。

 むめが歯向かうよりも先に、さっと神官が手を上げた。それが合図だったらしく、下男たちがむめを捕らえる。手足をもがれそうなほどに押さえられ、首を絞められて目の前が赤黒く染まった。


「は――」


 声は骨の軋む音にかき消される。圧されるように息を吐いたとたん、むめはふっつりと気を失った。

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