五
それから、むめはしばしば
たまにむめが求めると、むみょうはみずからの来し方について話した。
「私は、もともと違う名を与えられていたの」
それは若きむみょうにとって、忌まわしい名であったという。
むみょうの父は領主である。母のほうは、父がたわむれに手を出した下女であった。母はむみょうが三つのときに死に、遺ったむみょうは屋敷に留め置かれた。領主の姫君、すなわちむみょうの異母妹の侍女になったのである。
が、まことの役目は侍女などではなかった。
「私は姫様の
ために、むみょうは
「……姫君を、お怨みはしなかったのですか」
むめは途中で口を挟んだ。その姫さえいなければと思ったことはなかったのか、と。
するとむみょうは苦く笑い、文机に肘をもたせた。
「怨んだわよ。姫様は私が
語るむみょうは、小さく息を吸って嘆息した。かつての痛みをなぞるように、白いかんばせがちらりと青く焔を宿す。
しかしすぐさま焔はかき消え、むみょうはその火ごと抱きしめるように目を伏せた。
「けれども、私は姫様がおかわいらしくてならなかった。憎らしくてもかわいいのだと、気づいてしまった」
その後、姫君は他郷に輿入れをした。むみょうも形代であることをやめ、名を捨ててやしろにまで流れてきた。そして巫女となり、書物を食むうちに
「私は名を捨てて、何者でもない
「はい」
むめは眉を寄せ、頷いた。むめは梅の意である。梅樹に宿る比売神の子であることを知らしめる、呪われた名であった。
されども、むみょうは呪いだけではないと説く。
「むめは、
そう締めくくり、むみょうはゆるく笑った。
「このような話、出過ぎた老婆心かもしれないけれど」
「むみょう様は老いてなどおられませぬ」
気高く、うつくしい人である。みずからの来し方を噛みしめてきた者だけが持つ、清冽なつよさを秘めた女人である。むめのまなざしが伝わったのか、むみょうは子をなだめるような顔になった。
「そう。ありがとう」
「……、」
むめは歯を噛み、ふいと顔を背けた。
むみょうにとっては、むめなど幼子のようなものなのだろう。そう思うとくちおしく、そのことに腐れるおのれがまた煩わしい。むみょうのかたわらに在ると、はらわたを炙られるような焦りと不平を覚えるときがある。
――おれは、この方に甘えたいのだ。
母はかような人ではなかったかと、むみょうの中に面影を見てしまう。童のように、癇癪を起こしてみたくもなるのだった。
むめは立ち上がり、棚の書物を整え始めた。動いておらねば、要らぬことを口走りそうである。荒らかに綴じ本の山を並べていると、ふと、むみょうがはっとした様子でむめを止めた。
「むめ殿、その棚は捨て置いていて――」
後ろから手が伸び、ふりむいたむめの鼻先にむみょうの顔があった。むみょうはすらりと上背があり、むめと身丈が変わらないのだと初めて気づく。
「あ、――」
思わぬことに喉が震えた。倒れたむみょうは腰をさすり、むめを見上げようとする。そのまなざしを受ける前に走り出した。
「むめ殿」
むみょうの声が追ってくる。しかしむめは答えず、ひたすらに駆け続けた。透廊を幾重にも曲がり、おのれの寝間まで駆け戻る。
ところが、その寝間の前で足が止まった。神官と幾人かの下男らが、戸を開けようとしている。そこでむめに気がついた。
「むめ!」
神官が袴をさばいて叫ぶ。逃れる間もなく腕を取られ、そのつよさに呻きが漏れた。神官は目の端が切れそうなほどに顔を近づけ、生臭い老人の息を吹きかける。
「どこへ行っていた?」
「……本殿に。舞の稽古をしておりました」
息を止めながらいらえた瞬間、頬を張られた。尻をついたところに、偽りを申せ、と怒鳴られる。
「近ごろ、おまえはしばしば
「――、」
ならば訊かずともよかろうに、と頬を押さえた。神官の姿を仰げば、すかさず胸を足蹴にされる。骨のあるところに入って息が止まった。
「浮かれ
神官は
「知っておるぞ、おまえはむみょうを誑かしたな。町の汚らしい小坊主もだ。とんだ淫売になりおって――」
誰の御陰で食えておる、と神官が吼えた。おまえは贄であるのに、とも続く。おまえは比売神と儂たちのため、やしろで飼われねばならぬ贄であるのに、と。
むめが歯向かうよりも先に、さっと神官が手を上げた。それが合図だったらしく、下男たちがむめを捕らえる。手足をもがれそうなほどに押さえられ、首を絞められて目の前が赤黒く染まった。
「は――」
声は骨の軋む音にかき消される。圧されるように息を吐いたとたん、むめはふっつりと気を失った。
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