四
あかつきあした、つとめての
くがねてりはゆ、みあかしを
をがみとなへば、たひらかに
笠をかむった黒衣の僧が、市の片すみでゆっくりと唄っている。胡坐をかき、低くとなえながら手にした
むめはそのさまを見、早足で僧の前に立つ。
「お勤めでございます」
ころりと熟れた栗の実を鉢に転がす。垂れ布の下から見下ろすと、僧も笠を持ち上げて目元をゆるめた。
「お恵み、ありがたく頂戴いたします」
むめは目礼し、その場を離れる。僧はふたたび唄い始めた。それを知らぬ顔で聞き流しつつ、むめはひと足先に
もみじの色づき始めた山中に、粗末な仮庵がある。むめは
さにつらふ
わごおほかみの
かむみそに
もみぢささげむ
くれなゐの
したでるみちに
こぞめして
袖をひるがえして稽古していると、つかの間、時が消え失せる。
むめは一片の塵と化し、日を浴びてきらきらと昇りゆく銀の粉のようになる。そこには腐臭も、泥も、
やがて袖を収めたところで、声がかかる。
「今日もうまいものだなあ」
笠をかぶったままのきよが、ほのぼのとした顔で笑っていた。きよは
むめは汗を拭い、その隣に端座した。きよが、ふところからあけびの実をふたつ取り出す。ひとつをむめに渡した。
「帰路に拾った。
「いただきます」
さっそく頬ばるきよの横で、むめは実をひとつまみ口に含んだ。ほのかな野の甘さがする。
きよが食いながら話しかけるので、むめも相づちを打つ。きよはほがらかに喋り、ときおり声を立てて笑った。どこまでも素直な、春の白雲のような男だと思う。
これが、ふたりの語らいであった。
夏にきよと出会ってから、むめはなにとなく、この男と話をするようになった。きよはこの越山に庵を結んでいる。しばらく留まるつもりだというので、おのずとむめも、ここを訪れるようになった。
きよは、たいてい町に下りて托鉢とかいう
むめはそれを、ふたりの合図に用いることにした。話のできるとき、今日のように木の実や草の実を持ってきよの鉢に入れる。そしてきよの庵に向かう。きよは後ほど、行が終わってから戻ってくるという寸法である。
「なにゆえに、光明では托鉢なる行をするのです」
むめは問うた。ふたりの会話は、しぜんと光明の教えのことや、やしろの習いにまつわることが多くなる。今日もそうなった。きよはあけびの実を飲み込み、むめに答えた。
「光だからだ」
「光」
「うん。光明の教えにおいて、他者からいただくものはみな光なのだ。米でも、藁でも、あるいは怨みや怒りの心ですらも。それらの光を、いかなるときもありがたく頂戴する。そうすることで、私たちは光明なる神の御身に近づける」
きよは
「まことは異なりますか」
「それはなあ。私とて人だ、なにくそ、と思うこともあるよ。澄んだ光の境地にはなかなか至れぬ」
きよはおかしげに、ころころと笑う。
そのように何の苦みもなく笑えることが、むめには不思議でならなかった。この男は、よほど
「こなたに初めて出会ったときも、私は
きよはそう言い、ははは、と頭を掻く。
おそらく、旅の中でさんざん似たような場に出くわしてきたのだろう。
――であるのに、この男のなんと真っすぐであることか。
抱かれ、穢され、なぶられるままに腐れてきたむめとは違う。このつよさは、いったいどこから来ているのか。
目を伏せ、あたえられた紫の実を見つめる。きよが案じげに首をかしげた。むめはそれにかぶりを振り、またひとつまみ、野の甘さを口に含んだ。
*
秋が深まり、月の照る晩が多くなった。澄んだ紺色の夜空に、煌々と満月がかかっている。
むめは襟を正し、
幾重もの透廊を渡りながら、風の中に髪をほぐす。勤めのあとは、いつも腐臭がまつわりついている気がした。いとわしくてならぬ臭いである。せめても湖風を浴びたいと、本殿へ向かった。
本殿から見ると、比売神の大樹も月の光に染まっている。藍色の
むめのまなうらに、また幼きころの白い花ぶさがよみがえった。
――
むめを産んだまことの母は、いずこにいるのであろうか。すでに死しているやもしれない。生きておるのやもしれない。判然としないが、その母がどんな顔だちをしているのかは見てみたかった。
むめは、比売神の乳を飲んだからこの顔になったのだろう、と言われている。神官が拾ったばかりのころは、まだここまで比売神に似ていなかったらしい。長じるにつれて瓜ふたつとなり、これは乳のもたらした恩恵ぞと断じられた。
――ならば、まことのおれの顔はどこにある。
まことのむめは、いずこに置き去りにされてきたのか。生母にまみえることができれば、この問いの一端なりともわかる気がしていた。
――……戻ろう。
そこまで考えてまなざしを外した。いくら考えたところで、詮のないことである。寝間に戻って眠ったほうがいい。
そう身をひるがえしたところで、北の奥手にある
湖のほとりに建つゆえに、つねならば水気を嫌って閉めている。その文庫の扉が、ほっそりと開いていた。
――誰かいるのか。
確か、いまの文庫には
今代の文司は、むめが生まれるよりも前にやしろへ流れついてきた女人であった。しかし狷介なたちらしく、やしろのほとんどの者が姿を見たこともない。
むめも、一度くらいは見たことがあったかというほど薄い覚えである。その文庫のぬしが扉を開けているのか、他の者が入っているのか。
ちらりと比売神の大樹を見る。それから水引で髪をくくり、文庫のほうへ歩み出した。
*
月がちらちらと廊を照らしている。
むめは影すらもひそめるように足を忍ばせ、
そのとき風が動いて、月の光を増したように思われた。室の中が明らかになる。
壁じゅうに文棚がめぐらされ、ぎっしりと書物や巻物がつまっている。それらの棚に埋もれるようにして、女人が文机の前に座していた。
長い黒髪は、苛々と掻き上げられたかのように乱れている。が、そのしどけなさが逆になまめかしい。
灯火に照らされた横顔は青白く、涼しげな瞳が鋭く文机のうえへ向けられている。握った筆をときおりこつこつと鳴らすので、なにか文を書きあぐねているらしい。
衣はお仕着せの白い
「誰?」
ふいと女人の目がこちらを向く。むめは一瞬息をつめたが、その厳しいまなざしに屈して姿をみせた。
「申し訳ございませぬ。ご無礼をいたしました」
端座して手を床につく。女人は探るようにむめを眺め下ろし、ふと気づいたようすで口を開いた。
「貴方は、比売神の……」
「むめ、と申します。ただの拾われたみなし児です」
むめは女人のことばを遮って名乗った。
なぜか、この女人にまで比売神の
女人はむめの抗いを悟ったらしく、ふっと気配をやわらげた。
「顔をお上げなさい」
「はい」
おもてを上げると、女人は思うよりも歳のいった人であった。むめに生きた母がいれば、このくらいかという年ごろである。
目や口元にはかすかな皺があり、しかしそのことが、少しも女人のうつくしさを損なわせていない。気高い美貌の中に、いまはほのかなあたたかみがあった。
「むめ殿。廊にいては冷えましょう、よければお入りなさいな」
「よろしいのですか」
女人の室である。しかもおそらく、この女人こそが今代の
とっさにそう思ってのためらいであったが、女人はわずかに笑んで答えた。
「なんの菓子もないけれど」
その
扉は細く開けたままにしておく。入り口の近くで端座していると、手招かれた。
「そこでは、大して外と変わらぬでしょう」
「……はい、」
文机の近くに寄る。灯火と人肌のやわらかな熱が揺らめき、肩の力が抜けた。女人らしい、
むめは落ち着かず文机にまなざしを移した。女人の目もそちらへ向く。綴じ本は半ばまで筆で埋まっていたが、残りは白い紙のままだった。
「物語を書いているのよ。つたないものだけれど」
「物語ですか」
都の貴族や高貴な女人がたしなむという、作り物語なるものであろうか。女人は指を折って数えるように続けた。
「私がかつていた
「故郷」
それは、むめには解せぬものである。生きてきたのはこの
「故郷とは、物語りたいほどによきものでございますか」
「この
女人は寂しげに、されどもいとしげに目元をたわめた。灯心がちりりと燃え、綴じ本に添えられた女人の指をひとしお白くする。女人は紙を撫でた。
「姫様は、遠いところへ行ってしまわれた。あまたのものと戦って、夫君や御子を守り尽くして。私はそうした姫様の御姿を、少しでも書きとどめておきたい」
姫君は、いまは亡き御方であるらしい。
女人の横顔には、その姫君を恋うような、あるいは子をいつくしむような狂おしさが浮かんでいた。静かな瀬の底に、実は深くとどろく淵がひそんでいたかのようである。
そのさまを眺めたとき、むめの身に痛みが走った。息を潰されてしまうような、いかずちの閃くような痛みである。女人がいぶかしげにむめを見た。
「むめ殿?」
「いえ、」
羨ましい、と思ったのだった。
むめには、女人のように心に懸けるものがない。ただ日々を暮らし、ぬるい泥の中に胸まで浸かってたゆとうている。しようのない男とみずからを嘲りながら、そういうおのれに安堵してもいる。この在りようを初めて恥じ、痛みと嫉みを覚えたのだった。
むめは口を閉ざしていたが、女人はなにかしら感じるものがあったらしい。微笑を浮かべ、むめの肩へ手を添えるように言った。
「貴方は、どこか若いころの私と似ているわね。もし知りたいことがあれば、いつでもおいでなさいな」
女人は、つねにこの文庫にいるからという。むめは頷き、不躾ながら名を問うた。女人はやはりふっくらと笑み、みずからの名を明かした。
「むみょうよ。貴方も私も、名も無き者、ともいえるわね」
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