あかつきあした、つとめての

 くがねてりはゆ、みあかしを

 をがみとなへば、たひらかに


 笠をかむった黒衣の僧が、市の片すみでゆっくりと唄っている。胡坐をかき、低くとなえながら手にしたかねで拍子を取る。

 しろのひとびとは、厭そうにそのかたわらを過ぎてゆく。僧の前に置かれた鉢へつばきする者もいた。それでも僧は、ありがたげに頭を下げる。そして変わらず唄い続けた。

 むめはそのさまを見、早足で僧の前に立つ。


「お勤めでございます」


 ころりと熟れた栗の実を鉢に転がす。垂れ布の下から見下ろすと、僧も笠を持ち上げて目元をゆるめた。


「お恵み、ありがたく頂戴いたします」


 むめは目礼し、その場を離れる。僧はふたたび唄い始めた。それを知らぬ顔で聞き流しつつ、むめはひと足先に越山こしやまへ向かった。

 もみじの色づき始めた山中に、粗末な仮庵がある。むめはすすきや萩が野放図に茂る庭を踏み、扇を出した。ぱん、と開いて空にかざす。


 さにつらふ

 わごおほかみの

 かむみそに

 もみぢささげむ

 くれなゐの

 したでるみちに

 こぞめして


 袖をひるがえして稽古していると、つかの間、時が消え失せる。

 むめは一片の塵と化し、日を浴びてきらきらと昇りゆく銀の粉のようになる。そこには腐臭も、泥も、淫水ほずの苦みも何もない。ただ澄んだ水のごとき甘さがあり、むめは息を吸ってその甘みをむさぼった。

 やがて袖を収めたところで、声がかかる。


「今日もうまいものだなあ」


 笠をかぶったままのが、ほのぼのとした顔で笑っていた。きよはれかけたかけで手をすすぎ、笠を解いて腐れた縁側に腰を下ろす。

 むめは汗を拭い、その隣に端座した。きよが、ふところからあけびの実をふたつ取り出す。ひとつをむめに渡した。


「帰路に拾った。うまいぞ」

「いただきます」


 さっそく頬ばるきよの横で、むめは実をひとつまみ口に含んだ。ほのかな野の甘さがする。

 きよが食いながら話しかけるので、むめも相づちを打つ。きよはほがらかに喋り、ときおり声を立てて笑った。どこまでも素直な、春の白雲のような男だと思う。

 これが、ふたりの語らいであった。

 夏にきよと出会ってから、むめはなにとなく、この男と話をするようになった。きよはこの越山に庵を結んでいる。しばらく留まるつもりだというので、おのずとむめも、ここを訪れるようになった。

 きよは、たいてい町に下りて托鉢とかいうぎょうをしている。人間じんかんに混じり、ひとびとの恵みを乞う修行である。

 むめはそれを、ふたりの合図に用いることにした。話のできるとき、今日のように木の実や草の実を持ってきよの鉢に入れる。そしてきよの庵に向かう。きよは後ほど、行が終わってから戻ってくるという寸法である。


「なにゆえに、光明では托鉢なる行をするのです」


 むめは問うた。ふたりの会話は、しぜんと光明の教えのことや、やしろの習いにまつわることが多くなる。今日もそうなった。きよはあけびの実を飲み込み、むめに答えた。


「光だからだ」

「光」

「うん。光明の教えにおいて、他者からいただくものはみな光なのだ。米でも、藁でも、あるいは怨みや怒りの心ですらも。それらの光を、いかなるときもありがたく頂戴する。そうすることで、私たちは光明なる神の御身に近づける」


 きよはもっともらしく説いたあと、建前のうえではな、とつけ足して笑んだ。むめは眉を上げる。


「まことは異なりますか」

「それはなあ。私とて人だ、なにくそ、と思うこともあるよ。澄んだ光の境地にはなかなか至れぬ」


 きよはおかしげに、ころころと笑う。

 そのように何の苦みもなく笑えることが、むめには不思議でならなかった。この男は、よほどうつけなのではないかとも疑う。しかし一方で、心地が悪いわけではないのもまことなのだった。


「こなたに初めて出会ったときも、私はほうけてしまっていたしな。ああいう罵りには慣れたつもりでいたのだが、修行が足りぬよ」


 きよはそう言い、ははは、と頭を掻く。

 おそらく、旅の中でさんざん似たような場に出くわしてきたのだろう。辺境ほとりではそれほど虐げも激しくないと聞くが、やはり光明教は真奈において外道である。忌まれ、厭われ、さげすまれることのほうが多い。


――であるのに、この男のなんと真っすぐであることか。


 抱かれ、穢され、なぶられるままに腐れてきたむめとは違う。このつよさは、いったいどこから来ているのか。

 目を伏せ、あたえられた紫の実を見つめる。きよが案じげに首をかしげた。むめはそれにかぶりを振り、またひとつまみ、野の甘さを口に含んだ。



 *



 秋が深まり、月の照る晩が多くなった。澄んだ紺色の夜空に、煌々と満月がかかっている。

 むめは襟を正し、客殿まろうどどのを出た。今日も寄進を積んだ客人がやしろに来ており、その相手を勤めたところだった。

 幾重もの透廊を渡りながら、風の中に髪をほぐす。勤めのあとは、いつも腐臭がまつわりついている気がした。いとわしくてならぬ臭いである。せめても湖風を浴びたいと、本殿へ向かった。

 本殿から見ると、比売神の大樹も月の光に染まっている。藍色の水面みなもにその御姿が映り込み、ほのかな風とともにはかなく散った。黄金の花弁がはだれ落ちるかのようである。

 むめのまなうらに、また幼きころの白い花ぶさがよみがえった。


――はわ様。


 むめを産んだまことの母は、いずこにいるのであろうか。すでに死しているやもしれない。生きておるのやもしれない。判然としないが、その母がどんな顔だちをしているのかは見てみたかった。

 むめは、比売神の乳を飲んだからこの顔になったのだろう、と言われている。神官が拾ったばかりのころは、まだここまで比売神に似ていなかったらしい。長じるにつれて瓜ふたつとなり、これは乳のもたらした恩恵ぞと断じられた。


――ならば、まことのおれの顔はどこにある。


 まことのむめは、いずこに置き去りにされてきたのか。生母にまみえることができれば、この問いの一端なりともわかる気がしていた。


――……戻ろう。


 そこまで考えてまなざしを外した。いくら考えたところで、詮のないことである。寝間に戻って眠ったほうがいい。

 そう身をひるがえしたところで、北の奥手にある文庫ふみくらへ目がいった。やしろの縁起や、国の史書などを集めているくらである。

 湖のほとりに建つゆえに、つねならば水気を嫌って閉めている。その文庫の扉が、ほっそりと開いていた。


――誰かいるのか。


 確か、いまの文庫には文司ふみのつかさがひとり属しているだけのはずである。庫に集められた文を守り、虫食いがあれば繕い、古くなった書を書き写して新たにする。そうした諸事をこなすのが文司である。

 今代の文司は、むめが生まれるよりも前にやしろへ流れついてきた女人であった。しかし狷介なたちらしく、やしろのほとんどの者が姿を見たこともない。

 むめも、一度くらいは見たことがあったかというほど薄い覚えである。その文庫のぬしが扉を開けているのか、他の者が入っているのか。

 ちらりと比売神の大樹を見る。それから水引で髪をくくり、文庫のほうへ歩み出した。



 *



 月がちらちらと廊を照らしている。

 むめは影すらもひそめるように足を忍ばせ、文庫ふみくらへ近づいた。膝をつき、扉に背をつけて首だけで覗き込む。

 そのとき風が動いて、月の光を増したように思われた。室の中が明らかになる。

 壁じゅうに文棚がめぐらされ、ぎっしりと書物や巻物がつまっている。それらの棚に埋もれるようにして、女人が文机の前に座していた。

 長い黒髪は、苛々と掻き上げられたかのように乱れている。が、そのしどけなさが逆になまめかしい。

 灯火に照らされた横顔は青白く、涼しげな瞳が鋭く文机のうえへ向けられている。握った筆をときおりこつこつと鳴らすので、なにか文を書きあぐねているらしい。

 衣はお仕着せの白いひとえに、紫に光る黒い羽織りものを引っかけている。冷ややかなかんばせによく似合う装いだった。


「誰?」


 ふいと女人の目がこちらを向く。むめは一瞬息をつめたが、その厳しいまなざしに屈して姿をみせた。


「申し訳ございませぬ。ご無礼をいたしました」


 端座して手を床につく。女人は探るようにむめを眺め下ろし、ふと気づいたようすで口を開いた。


「貴方は、比売神の……」

「むめ、と申します。ただの拾われたみなし児です」


 むめは女人のことばを遮って名乗った。

 なぜか、この女人にまで比売神の太郎子たろごとは呼ばれたくないと思った。つい先ほどまで男どもの相手をしていた、その臭いを打ち消したかったのもあるやもしれない。

 女人はむめの抗いを悟ったらしく、ふっと気配をやわらげた。


「顔をお上げなさい」

「はい」


 おもてを上げると、女人は思うよりも歳のいった人であった。むめに生きた母がいれば、このくらいかという年ごろである。

 目や口元にはかすかな皺があり、しかしそのことが、少しも女人のうつくしさを損なわせていない。気高い美貌の中に、いまはほのかなあたたかみがあった。


「むめ殿。廊にいては冷えましょう、よければお入りなさいな」

「よろしいのですか」


 女人の室である。しかもおそらく、この女人こそが今代の文司ふみのつかさであるのだろう。

 とっさにそう思ってのためらいであったが、女人はわずかに笑んで答えた。


「なんの菓子もないけれど」


 そのいいで、どうやら童として扱われていると知る。棘めいたものが胸に刺さるのを感じたが、むめは頷いて膝でにじり入った。

 扉は細く開けたままにしておく。入り口の近くで端座していると、手招かれた。


「そこでは、大して外と変わらぬでしょう」

「……はい、」


 文机の近くに寄る。灯火と人肌のやわらかな熱が揺らめき、肩の力が抜けた。女人らしい、化粧おしろいや髪油の甘い匂いもする。

 むめは落ち着かず文机にまなざしを移した。女人の目もそちらへ向く。綴じ本は半ばまで筆で埋まっていたが、残りは白い紙のままだった。


「物語を書いているのよ。つたないものだけれど」

「物語ですか」


 都の貴族や高貴な女人がたしなむという、作り物語なるものであろうか。女人は指を折って数えるように続けた。


「私がかつていた故郷ふるさとのこと、お仕えした姫様のこと、姫様との日々のこと……」

「故郷」


 それは、むめには解せぬものである。生きてきたのはこのしろの町だが、故郷かと訊ねられれば違う気がする。みなし児の身に、しかと地へ張るべき根はない。むめは問うた。


「故郷とは、物語りたいほどによきものでございますか」

「このよわいになれば、たいていのことは懐かしくなるものよ」


 女人は寂しげに、されどもいとしげに目元をたわめた。灯心がちりりと燃え、綴じ本に添えられた女人の指をひとしお白くする。女人は紙を撫でた。


「姫様は、遠いところへ行ってしまわれた。あまたのものと戦って、夫君や御子を守り尽くして。私はそうした姫様の御姿を、少しでも書きとどめておきたい」


 姫君は、いまは亡き御方であるらしい。

 女人の横顔には、その姫君を恋うような、あるいは子をいつくしむような狂おしさが浮かんでいた。静かな瀬の底に、実は深くとどろく淵がひそんでいたかのようである。

 そのさまを眺めたとき、むめの身に痛みが走った。息を潰されてしまうような、いかずちの閃くような痛みである。女人がいぶかしげにむめを見た。


「むめ殿?」

「いえ、」


 羨ましい、と思ったのだった。

 むめには、女人のように心に懸けるものがない。ただ日々を暮らし、ぬるい泥の中に胸まで浸かってたゆとうている。しようのない男とみずからを嘲りながら、そういうおのれに安堵してもいる。この在りようを初めて恥じ、痛みと嫉みを覚えたのだった。

 むめは口を閉ざしていたが、女人はなにかしら感じるものがあったらしい。微笑を浮かべ、むめの肩へ手を添えるように言った。


「貴方は、どこか若いころの私と似ているわね。もし知りたいことがあれば、いつでもおいでなさいな」


 女人は、つねにこの文庫にいるからという。むめは頷き、不躾ながら名を問うた。女人はやはりふっくらと笑み、みずからの名を明かした。


よ。貴方も私も、名も無き者、ともいえるわね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る