三
数日のち、むめは市にいた。神官からの頼まれものを
今日もじわじわと蝉が鳴き、日差しは燦としている。居ならぶ天幕の暗がりが、かえって黒々と深くみえた。戯れ合う童たちが人ごみを駆け抜け、土ぼこりを巻き上げてゆく。
むめは垂れ布をかぶり、購ったものの包みを抱えて黙々と歩いた。顔を見られたくないので、町ではつねに布をまとっている。
その陰でひそかに汗を拭っていると、かんから、かんから、と高い
おほみたからのみなひとよ
みなみな、やすらけくいね
やすらけくいね
黒い衣をまとった剃髪の男ふたりが、鉦と
「うるわしの
うれへなく、うれへなし
みあかしのをしへにのらば
唄い役の男を背に、語り役の男はこぶしをふるって語り始める。
「厭なことだねェ、この
「くれの皇后さまがお亡くなりになってから、あやつら勢いづきおって――」
ぺっ、と誰かが唾を吐く。むめは聞くともなしに彼らの不平を聞いていた。
黒衣の男たちは、
とりわけ、昨年の秋に崩御された白百合の后――くれの皇后は、ことのほか好文比売命を重んじられた。
皇后存命のうちは僧らもおとなしかったのだが、ご崩御ののちは力を伸ばしつつあるらしい。こうして近ごろ、比売神の膝元である八代にまで布教の足を進めていた。
「
ふいに、ひとりの若者が僧へ石を投げつけた。たちまち他からもつぶてが入り、野次や
むめも離れようとしたところで、人だかりの中に這う影を見つけた。乱闘する僧どもと同じ、黒衣に剃髪の男である。しかし彼らよりは若く、すんなりとしたうなじや肩に公家めいたやわさがあった。
優男は逃げ遅れた母子をかばい、乱闘のとばっちりを受けて背や頭をどつかれている。それでもほほ笑んで母親に声をかけたが、おんなは怖気をふるって後じさった。
「けがれ者!」
優男の笑みが固まる。母親は子を抱えて逃げ出した。優男はぼんやりとそのさまを眺めており、いまにも争いの渦中へ引きずり込まれそうである。むめはとっさに駆けつけた。
「
おどろく優男に垂れ布をかぶせ、手を引いて走り出す。ごった返す人波をよけ、清の海のほとりへ向かった。
湖へ着いたころには、ふたりとも息が上がっている。優男が尻をついてくずおれた。
「……すまない、助かった、」
垂れ布を剥ぎ、袖で汗まみれの額を拭う。それから隣に立つむめを見上げ、清げな目元をゆるめた。
「ほんとうに。こなたのお陰で、停まっていた頭も動いた」
「であれば、甲斐はございました」
むめも息をつき、顎に流れる汗を手の甲で払った。優男がふところから手布を取り出す。
「申し訳ない。旅の僧ゆえ、礼に供せるものもないのだが」
「かまいませぬ。礼が欲しくて為したことでもなし」
むめは汗とりの手布も辞した。なにゆえにこの男を助けたのか、おのれでも判然としない。ただ、ここまで連れてくればもうよかろうと目算を立てる。むめは垂れ布を拾い、目礼して去ろうとした。
そのとき、優男の腹が盛大に鳴る。むめが思わずふり返ると、男は乙女のように頬を赤らめて腹を押さえた。
「……いや、ほんに失礼を、」
首をすくめて苦笑するさまは、主人に悪さがばれた仔犬のようである。むめは眉間を寄せ、それから深々と嘆息した。これはどうにも、たちの悪い犬ころを拾ってしまったようであった。
*
むめは市に戻り、干し魚を
「かたじけない。お恵み、ありがたく頂戴いたします」
優男は胡坐をかき、藁で束ねられた魚から一尾ほどいて千切った。うまそうに噛みながら、むめにもどうかと勧めてくる。むめはその隣に座しつつ手をふった。
「いえ。わたくしは腹が減っておりませぬので」
「さようか。手をかけてばかりで、まことに申し訳ないな」
「それも縁でございましょう」
「まだ若げなのに、こなたは大人びているなあ」
そう語る優男のほうが、歳に似合わず
「私はきよと申す。見ての通り、光明の教えに帰依する僧侶だ」
「むめ、と申します。今年で十七の若輩にございます」
「若いな」
きよが目をまるくした。なんとも、素直に顔に出る男である。きよはむめの姿を眺め、小首をかしげた。
「そのなりを見るに、こなたはやしろの者であろうか」
「はい。あちらのやしろに仕えている稚児でございます」
かなたに、湖へせり出したやしろの本殿が見えている。それを指さすと、きよはなるほどと頷いた。
「若くして比売神の膝元にいるのだから、こなたは優れた稚児なのであろうな」
比売神を祀るやしろは、この真奈の国に星の数ほどもある。それら
だが、神官たちの本性を知るむめからすれば、笑えるような流言である。むめは目を伏せ、唇に皮肉を混ぜて笑んだ。
「とても、優れてなど。わたくしがみなし児であったゆえに、拾われただけでございます」
するときよは目をしばたたかせ、肩を落とした。
「そうか、……すまない。思慮のないことを言った」
「お気になさらず。きよ様こそ、いずこよりここへ参られました」
話を転じると、きよはその気づかいを謝するように笑む。
「私は、西国
「それはずいぶんと、遠いところからおいでになったのですね」
九頭島は、真奈の本島と海峡をへだてて浮かぶ別島である。かつて九つの国に分かれていたゆえに九頭といい、
が、八代の者からすれば万里のかなた、得体の知れぬ謎多き地でもある。むめも、むろん見たことはなかった。
きよはむめの
「うん。十三のころに父母が亡くなってな、僧門に入った。数年前にその師も没し、弔いかたがた国を巡っている」
「それは、わたくしこそご無礼を申しました」
「いや、私もこなたの生まれを言わせてしまったゆえ。相子にしてもらえると嬉しい」
そうほほ笑むきよは、人が好いのだろう。これまでむめの周りにはいなかった類の人間である。むめは、なにか奇妙な獣に対する気持ちできよを見つめた。
「むめ殿?」
きよが不思議そうにする。むめはかぶりを振り、湖の真中に立つ大樹へ目をやった。
「いえ。なんでもございません」
まなざしの先で、比売神は変わらず安らかに眠っている。そのかんばせとむめの顔が似ていることに、きよが気づかねばよいと少し思った。
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