数日のち、むめは市にいた。神官からの頼まれものをいに出たのである。

 今日もじわじわと蝉が鳴き、日差しは燦としている。居ならぶ天幕の暗がりが、かえって黒々と深くみえた。戯れ合う童たちが人ごみを駆け抜け、土ぼこりを巻き上げてゆく。

 むめは垂れ布をかぶり、購ったものの包みを抱えて黙々と歩いた。顔を見られたくないので、町ではつねに布をまとっている。

 その陰でひそかに汗を拭っていると、かんから、かんから、と高いかねの音が聞こえてきた。ひとびとがそちらをふり返る。


 おほみたからのみなひとよ

 みなみな、やすらけくいね

 やすらけくいね


 黒い衣をまとった剃髪の男ふたりが、鉦とばちを手に唄っている。かんから、かんからと拍子を取り、ひとりがそのまま唄い続け、ひとりが口をひらいた。


「うるわしの真奈まなびとよ、我らが近きともがらよ、あかしの教えをとくと召せ、とくと聴け」


 うれへなく、うれへなし

 みあかしのをしへにのらば


 唄い役の男を背に、語り役の男はこぶしをふるって語り始める。こうみょうなる神を信じ、祈ればみな救われん、という意である。そこまで聞いたひとびとは、ふいと興を失せて各々のなりわいに戻った。


「厭なことだねェ、このしろにまで光明の僧どもが」

の皇后さまがお亡くなりになってから、あやつら勢いづきおって――」


 ぺっ、と誰かが唾を吐く。むめは聞くともなしに彼らの不平を聞いていた。

 黒衣の男たちは、光明教こうみょうきょうなる異国の教えを信ずる僧侶である。が、この真奈の国では好文比売命あやこのむひめのみことを奉る風がつよく、光明の教えに帰依する者は外道として忌まれた。

 とりわけ、昨年の秋に崩御された白百合の后――くれの皇后は、ことのほか好文比売命を重んじられた。

 皇后存命のうちは僧らもおとなしかったのだが、ご崩御ののちは力を伸ばしつつあるらしい。こうして近ごろ、比売神の膝元である八代にまで布教の足を進めていた。


ねッ、奸賊ども!」


 ふいに、ひとりの若者が僧へ石を投げつけた。たちまち他からもつぶてが入り、野次やくずやぼろ切れが飛び交って騒然となる。僧らが若者に掴みかかり、周囲も応じて乱闘となった。関わりのない者たちがあわてて逃げ出す。

 むめも離れようとしたところで、人だかりの中に這う影を見つけた。乱闘する僧どもと同じ、黒衣に剃髪の男である。しかし彼らよりは若く、すんなりとしたうなじや肩に公家めいたやわさがあった。

 優男は逃げ遅れた母子をかばい、乱闘のとばっちりを受けて背や頭をどつかれている。それでもほほ笑んで母親に声をかけたが、おんなは怖気をふるって後じさった。


「けがれ者!」


 優男の笑みが固まる。母親は子を抱えて逃げ出した。優男はぼんやりとそのさまを眺めており、いまにも争いの渦中へ引きずり込まれそうである。むめはとっさに駆けつけた。


られますよ」


 おどろく優男に垂れ布をかぶせ、手を引いて走り出す。ごった返す人波をよけ、清の海のほとりへ向かった。

 湖へ着いたころには、ふたりとも息が上がっている。優男が尻をついてくずおれた。


「……すまない、助かった、」


 垂れ布を剥ぎ、袖で汗まみれの額を拭う。それから隣に立つむめを見上げ、清げな目元をゆるめた。


「ほんとうに。こなたのお陰で、停まっていた頭も動いた」

「であれば、甲斐はございました」


 むめも息をつき、顎に流れる汗を手の甲で払った。優男がふところから手布を取り出す。


「申し訳ない。旅の僧ゆえ、礼に供せるものもないのだが」

「かまいませぬ。礼が欲しくて為したことでもなし」


 むめは汗とりの手布も辞した。なにゆえにこの男を助けたのか、おのれでも判然としない。ただ、ここまで連れてくればもうよかろうと目算を立てる。むめは垂れ布を拾い、目礼して去ろうとした。

 そのとき、優男の腹が盛大に鳴る。むめが思わずふり返ると、男は乙女のように頬を赤らめて腹を押さえた。


「……いや、ほんに失礼を、」


 首をすくめて苦笑するさまは、主人に悪さがばれた仔犬のようである。むめは眉間を寄せ、それから深々と嘆息した。これはどうにも、たちの悪い犬ころを拾ってしまったようであった。



 *



 むめは市に戻り、干し魚をってきた。それを優男に与えてやると、袖で押しいただくように受ける。


「かたじけない。お恵み、ありがたく頂戴いたします」


 優男は胡坐をかき、藁で束ねられた魚から一尾ほどいて千切った。うまそうに噛みながら、むめにもどうかと勧めてくる。むめはその隣に座しつつ手をふった。


「いえ。わたくしは腹が減っておりませぬので」

「さようか。手をかけてばかりで、まことに申し訳ないな」

「それも縁でございましょう」

「まだ若げなのに、こなたは大人びているなあ」


 そう語る優男のほうが、歳に似合わず暢気のさ者なのではあるまいか。そう思いつつよわいを訊ねると、二十七といらえが返った。ついでに名も明かされる。


「私はと申す。見ての通り、光明の教えに帰依する僧侶だ」

「むめ、と申します。今年で十七の若輩にございます」

「若いな」


 きよが目をまるくした。なんとも、素直に顔に出る男である。きよはむめの姿を眺め、小首をかしげた。


「そのなりを見るに、こなたはやしろの者であろうか」

「はい。あちらのやしろに仕えている稚児でございます」


 かなたに、湖へせり出したやしろの本殿が見えている。それを指さすと、きよはなるほどと頷いた。


「若くして比売神の膝元にいるのだから、こなたは優れた稚児なのであろうな」


 比売神を祀るやしろは、この真奈の国に星の数ほどもある。それらすえのやしろを取りまとめるのが、ここ清の海に座すやしろである。清の海のやしろに仕えられるのは、神官の中でも秀でた者たちだとされていた。

 だが、神官たちの本性を知るむめからすれば、笑えるような流言である。むめは目を伏せ、唇に皮肉を混ぜて笑んだ。


「とても、優れてなど。わたくしがみなし児であったゆえに、拾われただけでございます」


 するときよは目をしばたたかせ、肩を落とした。


「そうか、……すまない。思慮のないことを言った」

「お気になさらず。きよ様こそ、いずこよりここへ参られました」


 話を転じると、きよはその気づかいを謝するように笑む。


「私は、西国九頭くずしまの生まれでな。そこから諸国を回り、ここまで着いた」

「それはずいぶんと、遠いところからおいでになったのですね」


 九頭島は、真奈の本島と海峡をへだてて浮かぶ別島である。かつて九つの国に分かれていたゆえに九頭といい、つ国へつながる大海に面するため、国の守りの砦となる土地であった。

 が、八代の者からすれば万里のかなた、得体の知れぬ謎多き地でもある。むめも、むろん見たことはなかった。

 きよはむめのいいに相づちを打ち、ほろ苦い笑みを浮かべた。


「うん。十三のころに父母が亡くなってな、僧門に入った。数年前にその師も没し、弔いかたがた国を巡っている」

「それは、わたくしこそご無礼を申しました」

「いや、私もこなたの生まれを言わせてしまったゆえ。相子にしてもらえると嬉しい」


 そうほほ笑むきよは、人が好いのだろう。これまでむめの周りにはいなかった類の人間である。むめは、なにか奇妙な獣に対する気持ちできよを見つめた。


「むめ殿?」


 きよが不思議そうにする。むめはかぶりを振り、湖の真中に立つ大樹へ目をやった。


「いえ。なんでもございません」


 まなざしの先で、比売神は変わらず安らかに眠っている。そのかんばせとむめの顔が似ていることに、きよが気づかねばよいと少し思った。

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