ようこそ! テーマパーク魔王城へ!

「よくぞ来た! 我が魔王城へ!」


 毒々しいピンク色で書かれたアーチ看板の文字が長旅に疲れた目に容赦なく突き刺さった。その向こうにはすっかり行楽地化した景色が広がっている。


 家族連れの喧噪がなんとも穏やかに耳をくすぐり、かつて人類の敵が徘徊跋扈していた魔の拠点とは到底思えない。


「何じゃ、こりゃあ?」


 しばし目を瞬かせ、唖然とした後、こっそりとその場から逃げようとしたエルクの頭にシヅマの手が伸びて、鷲掴みする。そのまま指に力を入れると、同害応報の呪いでシヅマの頭にも痛みが走るが、それ以上にエルクの反応は激烈で、彼女は自称美少女に似つかわしくない汚い悲鳴を上げた。


「あだだだだ! ちょ、待っ! 待って! これ、ボク、無罪だろ? だって、知らなかったんだから!」


「そうだな。おまえが『学者ってのは常に最先端の情報を仕入れておくものだ』なんて科白を吐かなかったらな」


「くっ! 本当によく覚えているな、どうでもいいことを! でも、それは専門分野に限っての話だぞ!」


「都合のいいこと言ってんじゃねえよ。また無駄足踏まされるのはゴメンだっての」


「学問に無駄なんてあるものか! これまでの旅で確実に前進はしているんだ!」


 出発時より爪先程度でも進んでいれば、前進したと強弁できるだろうが、シヅマはとてもそうは思えなかった。むしろ、エルクとレッティールに出会ってから、解決への目的地が大幅の遠のいた感すらある。


 なおも自己弁護を続けるエルクに、さて、どう言い返したものかとシヅマが悩んでいると、背後からチラシの束を抱えた半人半獣の娘がおずおずと近づいてきては、恐る恐る声をかけてきた。


「あのう、すみません……ここで騒ぎを起こされるのはちょっと」


「悪いが、放っておいてくれ。こっちの問題だ」


 そう文句を言おうと、振り返ったシヅマは半獣人の娘の姿を見たとき、そのまま硬直した。


 娘は猫型の半獣人だったが、半分獣と言うよりは九割方人と言ってもいい。人と異なるのは頭頂部から伸びる三角形の耳と気ぜわしく動く茶色の縞の尻尾だけだ。


 さらに猫娘の出で立ちたるや、胸と腰を最低限の布で隠したものでしかなく、極めて扇情的のみならず、その胸は実に豊かだった。


 つまり、シヅマの要望をすべて盛り込んだ存在が眼前に立っていたのだから、我を忘れても仕方がないだろう。


 その上、急に硬直し、押し黙ったシヅマに猫娘が下からのぞき込むようにしてきたものだから、童貞としてはたまったものではない。ますます身体も股間も甘硬くなるだけだ。


「お客様、どうかなされました?」


「あ、いや、何でもないんだ。ちょっと意見の相違で……」


「はあ、それはいいのですが、お連れ様のご様子が」


 猫娘の視線を追っていくと、白目を剥き、泡を吹いているエルクの姿があった。いまだエルクの頭を鷲掴みしていたことに気づいたシヅマは慌てて、後ろへと隠すと、ここでようやく手を離す。折りたたまれるように地面に崩れ落ちるエルクの様子を窺おうとする猫娘の視界をそれとなく身体を動かして、巧みに防ぎつつ、この機会を逃すまいと攻勢に出た。


 戦闘だったら、慎重を期すシヅマでも、童貞故の無知、無知故の蛮勇が遺憾なく発揮されるもののようだ。


「いやいや、こいつのことはお気になさらず。それより、このあと、お食事でもどうですか?」


 駆け引きもへったくれもない。相手の名前を聞き出す前に食事に誘うなんて芸当は相当な「上級者」でないと難しいだろう。初心者のくせに順序をすっ飛ばす愚を犯したシヅマではあるが、熱意と言う名の鬱陶しさだけは十分に伝わったらしく、猫娘は引きつった笑顔を浮かべながら、半歩引いた。


「あ、あはは、ご、ごめんなさい。そういうの、禁止されてるんです。でも……」


 猫娘は一瞬だけ視線をレッティールに向けると、口元をシヅマの耳元へと近づけた。熱い吐息が耳にかかり、シヅマの背骨を恍惚の身震いが駆け抜けていく。


「『そういうお店』もちゃんとありますから、探してみてくださいね。わたしもそこにいるかも、ですよ」


 シヅマにとっては毒薬でしかない甘いささやきを残し、猫娘はさっと身体を離すと、営業的微笑を浮かべつつ、軽やかに去って行った。シヅマはその背中を忘我として見送り、やがて見えなくなると、はっと我に返った。


「いいな……あれ」


 まだ夢の中だったらしい。性質たちが悪いことに、今のは振られたのではなく、仕事中だったから応じられなかったのだと、シヅマの頭の中では妄想じみた物語が作られてしまったことである。中途半端な失敗体験がシヅマをさらに危うい方へと歩ませようとしている。


 どこまでも暗く、甘ったるいるつぼの中へと落ち込もうとしたシヅマを掬い上げたのは、「仲間」からの冷たい蔑みの声だった。


「おまえ、最低だろ? いや、わたしが知っているすべての罵倒の言葉を並べても、今のおまえには及ばないな」


 レッティールが失神したエルクを抱え、鬼畜でも見るかのような視線をこちらに容赦なくぶつけてくる。


 せっかく縮まったと思った心理的距離も、再び地平の彼方へと遠のいたが、別段、シヅマは痛痒を感じなかった。何しろレッティールと懇意になるところが想像できず、無理に考えようとする都度、頭が痛くなるので、そんな未来はないのだと割り切っているからだ。


 だからといって、好き放題言われるのも不愉快だし、何よりも男子の生理現象を非難されるいわれはない。


 一方で、神が男をそう創り給いたのだと主張するのも聖騎士の前では憚れる。そうなると、纏神を使って、レッティールの罵詈雑言を受け流すほかない。


 そう思って、纏神を使い始めた瞬間、あらゆる感情が身体の外に追い出されると同時に奇妙な感覚がシヅマを襲った。


 纏神とは五感の強化でもあり、普段は気にとめないようなものが感覚の何かに引っかかることがある。今回もまさにそれだ。


 視線を感じる、いや、それほど指向性のあるものではなく、微弱ではあるが、確固たる負の情念みたいなものがシヅマの肌を刺していく。レッティールの説教を聞き流しつつ、シヅマはその発信源を特定しようとしたが、あまりにも小さく、それでいて広範囲に散らばっているせいか、どこの誰がまではわからない。


 ただ、この感じは初めてではなかった。かつてレッティールがシヅマに向けていたもの、憎悪だ。悪感情を抱いている当人は気づかないが、向けられた方は隠されたとしても、それとなく分かるもので、纏神を使うとなおさらはっきりする。


 同質の、それでいて、ひどく希薄な憎悪が空気中に漂っているかのような雰囲気が、どうにも嫌気が差すが、シヅマはあっさりと考えることを放棄した。


「ま、いいさ。わかんねえものをいつまでも考えたってしょうがないしな。それよりこの機会をどう活かすべきか」


 すでにシヅマの意識は妄想の世界へと羽ばたいているが、表面上そうは見えないのが纏神の利点だろう。韜晦の術としてはこれに勝るものはない。


 一方で、人の道を説法し続けたレッティールは話を聞いているのか、聞いていないのか、まるで反応しないシヅマに対して、徒労感を覚え始めていた。


 そこでエルクがどこの言語とも分からぬ叫び声とともにようやく目を覚ました。跳ね起きてから、周囲を素早く見渡すも、脅かすものが何もないと分かって、真っ平らな胸をなで下ろす。


「ゆ、夢か……いくら何でもシヅマのアレはさすがに入らないなあ……」


 今までちまちまと気づき上げてきた社会的信用を一気に崩壊せしめる発言にシヅマは苛立ちを覚えたものの、どんな夢を見たのかと尋ねるとさらに信用を落とす可能性が高いので、あえて聞き流した。沈黙は金なりだ。


 ただ、シヅマの未熟な纏神は殺気がだだ漏れらしく、大きく身体を震わせたエルクは動物的な勘、あるいは呪いの指輪による連結力により察知したようで、慌てて弁明を始めた。


「いや、違うんだ、シヅマ。夢の中でキミがボクに無理矢理ジャガイモを食べさせようとするから」


 紛らわしいにもほどがあると、普段のシヅマなら憤激しただろう。エルクもそれを恐れて、首を縮めたが、いつまで経っても報復行動が行われないので、恐る恐るシヅマを見てみると、彼は古拙の微笑を浮かべ、慈愛に満ちた眼差しを送ってくるではないか。それはそれで恐怖ではあるが、続くシヅマの言葉も耳を疑うものだった。


「いいんだ。むしろ、謝るべきはオレのほうだ。今まですまなかったな」


「へ?」


 ことごとく予想を裏切るシヅマの反応に困惑の色を隠せないエルクの姿は年齢相応、いや、容姿相応の幼さが浮き上がる。普段、学者然として、すましているのも、自分が年齢以上に若く見られることの劣等感があるからだ。本人の心情を表すかのように、泳ぎに泳ぎまくったエルクの視線は最終的にレッティールへとたどり着いた。


 エルクの説明を求める無垢な目にあらがいきれなくなったレッティールはやむなくこの短時間で起きた馬鹿馬鹿しくも、薄汚いシヅマの変遷ぶりを語って聞かせた。はじめは黙って聞いていたエルクも、聞き終える頃には嫌悪と忌避を隠そうともしなかった。


「ほほう、ボクというものがありながら、獣人の猫娘に懸想をしたと?」


「おまえというものがないんだが?」


 シヅマの言は意味が通らないが、意図は存分に伝わったらしく、見えざる巨人の掌で押されたかのようにエルクは身体をのけぞらした。沈毅で豪胆を自称するさしものエルクも自らの設定を忘れたように驚いているらしい。


 エルクが逡巡している今が好機とばかりに、シヅマは自分の要求を押し通すことにした。


「それよりも、入ってみようぜ、あそこ。もしかしたら、何か分かるかもしれないしな」


 ここまで白々しく、我欲に満ちた提案もないだろう。しかも、その下心が今まで旅をしてきた異性に向けられたものではないことが余計に度しがたい。普段の明敏さを放棄したエルクはともかく、レッティールですらその事実に気づき、まるで毒虫でも見るかのような視線をシヅマに浴びせ、詰る声は険があった。


「おまえ……少しはエルク様に配慮したらどうだ?」


「配慮? おまえらがオレに配慮なんかしてくれたことあったか? 道中、飯の支度やら、寝床の確保やら、寝ずに焚火の番やら、全部オレ任せで、おまえら、何もやらなかったよな?」


「それはおまえが自分でやるって言うから……」


「言ったな、確かに。だけど、そいつぁ、おまえらにやらせたら、何もできないどころか、足を引っ張るだけだったからじゃねえか。しかも、この期に及んで、自覚がねえとか、勘弁してくれよ、ほんとに」


「うぐう……」


 シヅマに言われるまでもなく、レッティールは己の無力を痛感してはいたのだ。教国を離れ、旅に出たはいいが、やることなすこと空転し、いかに自分が何もできないかを否応なく覚らされてきた。


 同時に視野の狭さ、頑なさも露呈し、聖騎士とは何かを考えるようにもなってきた。以前は聖騎士団という組織に安住して、ただ命令を聞くことだけで、行動の是非を自分の頭で考えたこともなかった。


 自覚はしているが、シヅマに指摘されるのは癪に障る。しかも、事実だけにシヅマのほうに分があるので、なおさら言い返せないのが、さらに鬱憤が溜まっていく。


「ぐぬぬ……」


「と言うわけで、オレもたまには羽目を外して遊びたい。これが不当な要求だろうか? いや、そうじゃない。これは正当な権利だ。だからこそ、断固として、オレは正当な権利を行使する!」


 急に演説を打ち始める東邦人に、顔を赤くして、うなり声を上げるしかない聖騎士、その傍らで呆然としている幼女という奇天烈な図式は実に見物だったかもしれないが、道行く人々はどうやら良識の徒が多勢を占めていたらしく、シヅマたちを敬遠しながら、アーチ看板の向こうへと消えていく。


 シヅマもこれ以上の説得は時間の無駄と断じ、二人を置いて、さっさと魔王城へと足を向けようとしたとき、ふと外套を捕まれた。その小さな手の延長線上には、我に返った、というわけでもなさそうなエルクが引きつった笑顔を浮かべていた。


「ふ、ふふふ、まあ、いいさ。ボクはその手のことには寛大だからね。今は好きにするといいさ。でもね、結局、キミはボクのところへ戻ってくるしかないってことにすぐ気づくだろう」


 何を気持ち悪いことを、と思ってから、それが事実であると気づいて、シヅマは愕然とした。呪いの指輪があるせいで、離れることができないことを失念していたのだ。いや、忘れたかったと言うべきだろう。指輪をつけたまま、離れることになれば、苦しむのはエルクであり、それを切り捨てていけるほど強くはないとシヅマのことを評し、そして、その評価は正鵠を射ていた。


 その上、指輪を解呪する条件が確固たる信頼である以上、今回の件で信頼関係は地の底に落ちたはずであり、ますます二人は別ちがたい間柄となったというわけだ。両者の間にあるのは愛でも、情でもなく、ただただ呪しかないというのがもはや救えない。


 絶望がシヅマの纏神を粉砕し、無防備になった心を荒らし回る。身体に力が入らず、膝から崩れ落ち、シヅマは突っ伏した。


「ちく……しょう!」


 せめてもの慰みすら思うようにままならないシヅマは目から血を噴き出さんばかりに涙が流れて、止まらなかった。こんなにも悔しい思いをしたのは故郷を所払いされたとき以来かもしれない。


 すっかり攻守が逆転したエルクの顔には余裕が戻ったが、だからといって、シヅマを完全に追い詰めて、潰れてしまっても困る。そのためにもガスは適度に抜いておくべきだろう。出来る女とは微に入り、細を穿つものなのだ。


「まあまあ、そう気を落とすものではないよ、シヅマ。さっきも言ったけども、ボクは寛大な女だからね、キミが一夜の恋をすることには反対しないよ。だけど、今は浮き世の憂さを忘れて、楽しもうじゃないか」


 ちょっとした悪意や揶揄の成分が香辛料のように振りかけられた激励が功を奏したというわけではないが、シヅマは泣くのを止め、すっくと立ち上がった。その顔に涙の色はもうない。地面に転がって、だだをこねても、事態が好転することはないことが経験上分かっていたからだ。欲しいものがあるとすれば、そこへ向かって歩かねばならないのである。


「よっし! んじゃあ、遊び倒すぞ!」


 半ば自棄で叫んだシヅマはエルクの積極的賛同とレッティールの消極的賛意を得て、いざ魔王城へと突撃した。


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