信用って、何でしょうね?
西邦世界における交通の大動脈であるシャムス公路は、大陸の東西世界に多大な影響を与えた大帝国グラン・ローマンセリア滅亡後に乱立した国々により、しばしばその所有権を巡って、相争われた経緯がある。
文字通りの意味で血塗られてはいるのだが、吹き抜ける初夏の西風は爽然としていて、恨みを抱く亡者も浮かれて踊り出すような陽気だった。
そんな中、しょぼくれた人影が三つ、東へと歩を進めている。男一人に女二人という構図は旅をするものにとって、何ら不思議ではないものではあるが、先頭を歩く男は東邦人、その後ろを歩む女の内、背の高いほうは聖騎士の装いをしていて、「幼女」の世話をかいがいしくする姿を目の当たりにしたものは、誰もが三者の関係性に興味を持つようだ。何度盗み見られ、すれ違ったあとは遠慮なく凝視されたか、分かったものではない。
ただ、この数日というもの、先頭を歩く東邦人の男が凶悪な険相で周囲に眼をつけてくるものだから、面倒に巻き込まれては構わないと、善良な旅人などは目をそらすようにしていたし、善良ではないものは、やった行為の度合いにより相応の報復を受けた。
この三人組にちょっかいをかけてくるのはほぼすべてが臑に傷を持つものばかりだったので、街道の治安は一時的に向上したという。
本人のあずかり知らぬところで、冒険者としての功績と人としての徳を積んでいたのはシヅマ・シヅキその人である。
しかし、いくら名声が高まろうとも、シヅマのご機嫌は斜めどころか、横倒しになったまま、微動だにしない。纏神をしていてなお内面の憤懣が外に出るほどに、彼は不機嫌の極みにいた。
今現在「妻」と「その従僕」を自称する詐欺師から騙され続けており、なおかつ、それを知りながら、止める方法が見つからないという度しがたい状況にあるのだから、不愉快になろうというものだ。
まず結婚詐欺。ここまではいい。いや、よくはないが、ここに付随する事柄がひどすぎて、比較的ましというだけのことだ。
この結婚に法的根拠がないことも救いである。さすがのエルクも法的な縛りがあると、様々な面倒ごとで身動きがとれなくなるとの判断が働いたのだろう。
そこまではエルクも思慮があったらしい。お互いの薬指に嵌められた指輪の呪いが地味にえげつないものだったことを考えると、どうしてもう少し思慮深く行動しなかったのかと、シヅマとしては問い詰めたいところだが、問い詰めたところで不毛な答えしか返ってこないことがわかっているので、無駄なことはしないほうが心的負担は軽減されるであろう。
シヅマの嘆きの元凶が後背で息も絶え絶えになっているのは、見ないでも確認できる。エルクは息を切らせながらも、シヅマの背中に恩着せがましい要求をぶつけてきた。
「シ、シヅマ? そろそろ疲れたんじゃないか? キミが休みたいと思うのならば、ボクもその意向に添うのもやぶさかではないが」
またかと、シヅマのこめかみに青筋が浮かび上がる。つい先刻、休憩を入れたばかりではないか。それでも、休みたいと素直に言ってくれれば、いい顔はせずとも、休憩などいくらでもさせてやろうというのに、こうも不愉快な言い回しをしてくるものだから、シヅマとしても意地の悪い返しをしたくなるのである。
「オレのことはおかまいなく。それより、次の街まで急いだほうがいい。でないと、今日も野宿になっちまう。急ごうぜ。あとたったの十リーグほどだ」
新婚三ヶ月の夫婦と言えば、おそらく最も仲睦まじい時期を過ごしているはずだが、シヅマの声は倦怠期を通り越して、すでに夫婦生活は破局していると言いたげなほど、無機質だった。
エルクが絶望の表情を浮かべたのはシヅマの冷淡な態度にではなく、次の街までの距離を聞いたときだ。
十リーグという距離は普通の旅人ならだいたい朝出て、夕方くらいに着く程度だ。健脚なものならば、半日ほど、シヅマなら一時間もかからない。このくらいの脚力がなければ、シヅマは大砂原を渡れなかっただろう。
翻って、エルクは何リーグ歩けるのかというと、今のところ、二リーグと言ったところだ。同世代の平均体力はおろか、年齢一桁のそれよりも下回る。いくら街育ちで、年齢に比して体格が恵まれていないとはいえ、あまりにも体力がなさ過ぎる。出発前に語っていた「学者は体力勝負」などという大言は一体どこへ消えたというのだろうか。
しかも、今朝は「今日は調子がいいから、せめて行程の半分」と嘯いていたのだ。エルク自身が設定した目標の半分にすら届いていないわけだが、いいところをあえて挙げるとするのなら、今日踏破した距離が今までで最も長かったことだ。さすがに三ヶ月も旅をして、体力も少しはついてきたのだろうが、この調子では呪いの棍棒から解放される日がいつになるか、分かったものではない。
焦る気持ちはあれど、エルクの様子を見る限り、今日はこれ以上の前進は難しいと言わざるを得ない。
日はまだ高いが、やや傾いてもいる。中途半端な時間帯で、判断に迷うところだが、早めに野営の準備をしておけば、それだけ休む時間もとれよう。休み時間が長ければ、その分、明日取り戻せるかもしれない。期待薄ではあるが。
エルクの提案に従うのも癪に障るが、今ある札の中で最善手を常に切っていかないと、いずれ破綻するのは目に見えている。時には立ち止まる勇気も必要なはずだ。シヅマは自分にそう言い聞かせて、前言を翻した。
「仕方ねえな。今日はここいらで野宿にすっか」
現金なもので、もうこれ以上歩かなくてすむと思った途端、エルクの顔がぱあっと輝いた。シヅマが睨んでいることに気づいて、すぐに表情を改める。
シヅマとしても、追及するのは時間と体力の無駄なのでしない。星空を屋根にすると決めた瞬間から、やることが多々あるのだから。
一言に野営と言っても、よもや道の真ん中で天幕を立てるというわけにもいかない。いかに広かろうが、往来の邪魔になるのはもちろんのこと、野盗などがうろついている場合もあるからである。包囲でもされたら、戦うも退くも難儀なことになるのは必定だ。
本来なら、他の旅人や隊商などと組んで、多人数で野営して、防衛、または危険を分散するものだが、あいにく誰も彼もがこの三人組を避けて通るのだから、その手は使えない。剣呑な東邦人と同行する聖騎士と幼女の噂はすでに回っているため、ますます人が遠ざかる一方である。
避けられている原因にとんと気づかぬまま、シヅマは先人の知恵を借りることにした。幾千幾万もの人や物が行き来した公路周辺にはそれこそ星の数ほどの野営した痕跡が残っているものだ。
無論、旅人を襲う盗賊どもも知っているはずだが、荒らされた、あるいは争った形跡がなければ、そこは比較的安全な場所であるという証拠でもある。
シヅマはある焚火跡を見つけると、残った煤をつまんで、潰してみた。指についた煤は黒々としていて、風などで四散していないことから、ここで誰かがつい最近火をおこしたことがわかる。
周辺の地面にもかき乱された様子はない。大道からはやや離れてはいるが、古い遺構と灌木が生い茂る林がいい具合に姿を隠してくれる。焚火をしても、その明かりが外に漏れるのは最小限ですむはずだ。
仮に見つかったとしても、適度な遮蔽物が包囲されるのを防いでくれる。盗賊であれ、獣であれ、襲ってくる方向が限られているのならば、退けるのはそう難しいことではない。
ここで普通の人間ならば、いい場所が見つかったと喜ぶべきところだろうが、呪いのせいか、あるいは先天的なものか、すっかり不幸体質になったシヅマは非常に疑り深い性格へと変わっていたので、病的なまでに周囲を調べていく。
やがて納得とはいかないまでも、どうにか妥協点らしきものを見いだしたのか、やむを得ないと言わんばかりのため息をつきながら、慣れた手つきで天幕を張っていった。
不完全とはいえ、遺構が三方を取り囲んでいて、風もある程度防げる。一方で、屋根に相当する部分がとうの昔に崩落したため、雨が防げないのはこれはもう仕方がないと思うほかない。
「やあ、これはグラン・ローマンセリア帝国末期の建築だね。どうしてそれが分かるのかというと、ほら、ここの柱の文様が……」
疲れて、目をしょぼつかせながらも、気になったものがあるとすぐに調べ、他者に聞かせようとするのは学者としての職業病なのかもしれない。シヅマはエルクの話を最後まで聞かず、その襟首を掴み、強引に天幕に放り込む。
「いいから寝ろ。飯ができたら、起こしてやるから」
天幕の中からもう少し気遣いをだの、家庭内暴力だのの言葉が恨みがましく漏れてきたが、すぐに安らかな寝息の音が聞こえてきた。
主人のぞんざいな扱いに対し、レッティールがシヅマを睨みつけ、抗議した。
「おい、少しは丁寧に扱え。仮にもおまえの妻たるお方だぞ」
二人称が貴様からおまえに変わったことで、レッティールのシヅマへの印象は多少緩和された、もしくは敵意が目減りしたらしいが、シヅマからすればどうでもいいことで、彼は無言で棍棒をレッティールの眼前に突きつけ、天幕に入るよう促した。
棍棒を使った会話術を知らずとも、シヅマの表情や態度から何を言わんとしているのか、よほど鈍感でなければ、すぐに察したことだろう。
幸い、レッティールは多数派に属していたようだが、シヅマの対応には不満を覚えたらしく口をとがらせ、愚痴りながら、ご主人様を追って、天幕に入っていく。レッティールもまたすぐにおとなしくなったところを見ると、即座に寝てしまったのだろう。
静かになって、ようやくシヅマは人心地をついたのだった。
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