第1話 最初に躓くと、後は大抵どうでもよくなる。

ああ、やっぱ、これ駄目だと思う瞬間

 十八歳という年齢に反して、その少年の容貌は大人びて、悪く言い換えれば、老けているようにすら見えた。


 同世代の少年少女が短い青春を謳歌しようとその若さを燃やしている一方で、ただ一人、厄介な呪いを解くために文字通り東奔西走していたのだから、多少は年齢にふさわしくない落ち着きがあっても、無理はないというものだ。冷静さを失えば、死に直結するような生活を続けていれば、なおさらだろう。


 少年こと、シヅマ・シヅキは手にした紙片に書かれた文字と、眼前にある酒場とおぼしき建物を交互に見比べる。


「ここで……いいんだよな?」


 西邦世界を訪ってから、約一年を経過したが、未だに共通語である「ラティーナ語」が苦手だった。読み書きや日常会話程度ならば、どうにかなったが、それでも文字を崩されると読めないし、発音は未だ不安定である。そのせいで、笑われることもあってか、ますます無口になっていく。愛想だの、愛嬌だのと縁のない顔をしているから、相手に与える印象はますますひどいものになっていることだろう。


 今更どうしようもないと思う一方で、もう少し処世術に長けていれば、神聖エトナマイダ教国の入国審査時に騒動を起こしたりもしなかったはずだ。そう考えると、笑顔の一つでも適当に浮かべていれば、大半の騒動からは無縁でいられたのではないだろうか。


 ならば、実践あるのみである。シヅマは意を決して、酒場の扉をくぐった。昼間だというのに、テーブルの半数が埋まり、できあがったものも少なくない。いいご身分だなと、シヅマの眉間に縦皺が刻み込まれるも、横から声をかけられたおかげで、どうにか険悪な表情にならずにすんだ。


「お客さん、一人?」


 振り向くと、給仕とおぼしき娘が営業的愛想を振りまいて、シヅマに近づいてきた。シヅマの美的感覚からすれば、その娘は決して美人ではなかったものの、波打つ赤毛が色鮮やかで、人間的魅力はシヅマの及ぶところではない。


 しばし見とれてしまったことに気づいて、シヅマは一つ咳払いをしてごまかすと、なるべく表情を明るくするよう努力しつつ、彼女に対した。


「あ、いや、もう一人来る予定。えっと……そこの大学のエス……何とかっていう先生が来るはずなんだけど」


「ああ、エルクちゃんか。だったら、あの一番奥の席で待つといいよ。あそこがエルクちゃんの指定席みたいなものだからね」


 大学の偉い先生のはずなのに、酒場の給仕娘から感じられるのは尊敬の念ではなく、親愛の情であることに、シヅマは違和感を覚えた。一体どんな人物なのか、尋ねようとしたが、すでに彼女は別の注文をとるためにさほど広くもない酒場の中を軽やかに駆け抜けていったため、やむなく席に着くことにした。


 十歩に満たない距離であるにもかかわらず、酒場中から視線を感じ、シヅマは居心地の悪さを感じざるを得ない。


 西のセビーリャや南のバレンシーなら、東西世界を繋ぐ貿易港でもあるので、東邦人の存在は珍しいものではないが、内陸のエステアリオでは珍しいものらしい。


 一応、大学には百人前後の東邦人が留学生として住んではいるのだが、生活の大部分が大学構内ですませることができてしまうので、めったに街まで出てこないから、余計にシヅマは際だって見えるのだろう。


 席に座っても、盗み見されて、あるいは無遠慮に凝視してくるのが分かるので、シヅマは視線を落とし、気配を消すことに専念することにした。


 ただ、シヅマのことは東邦人だから珍しがっているだけではない。こんな真っ昼間から酒をかっくらうことができるのは不特定労働者、つまりは冒険者くらいだが、組合が一時騒いでいた大砂原を東から西へと単独踏破したという東邦人の特徴と一致していたため注目したのだ。


 それだけならまだしも、その東邦人の腕に深緋色の帯が巻かれていることも冒険者の視線を一点に集めていた。この帯は冒険者としての身分を組合から保証されたものであり、同時に冒険者としての序列を示すものだ。序列は色によってわけられ、上から紫・青・赤・黄・白・黒の順となっている。


 さらに帯にはそれぞれの色に対比した糸で三本線まで刺繍される。一段階目が縦線、二段階目が右上から左下へ、一段階目の縦線に交わるように引かれ、三段階目は左上から右下へと、やはり同じように一段階目と二段階目の交差点に重なるように入れられる。三段階目ともなると星の形に似ていることから、帯の色と合わせて赤星や白星などと呼ばれたりもする。


 軍隊並みに序列が細分化されているのは多人数を要する依頼があった場合、関係が明白であれば、誰がリーダーになるかもめずにすむという。よほどのことがなければ、上位の冒険者の序列が重なることはない。


 シヅマからすれば、他人と組んで仕事をしたことがないから、そのありがたみは実感できないが、新人の頃には受けられなかった実入りのいい依頼を優先的に回してもらえるのは素直にありがたいというものだ。


 アジラット大砂原を越えた功績で階級が「白の縦一」から「赤星」まで一気に躍進した一事だけを傍目から見れば、シヅマの人生は順風満帆に映ったことだろう。おまけに「砂渡り」なんていう異名までつけられた。多少照れくさいが、功績を認められたことには単純に嬉しい。今まで邪険に扱われてきたことを考えれば、雲泥の差だ。


 だが、もう一つの渾名であり「呪棍」というのはいただけない。事実であっても、受け入れるのは困難である。この呪いの棍棒のせいで、今までしなくてもいい苦労を強いられてきたのだ。今まで受けてきた地味な艱難辛苦を知らない連中に揶揄同然の渾名で呼ばれるのは、温厚たること羊のごとしと自称するシヅマでも理性を保つのは難しいと自認している。


 同時に不安にもなってくる。東の彼方から西の此方まで万里を越えてやってきたのに、何の解法も見いだせなかったらと思うと、爪先から頭頂に至るまで電流のような怖気が走るのだ。


「うわ……今になって怖くなってきた」


 覚悟はとうに決めたはずだったのだが、さすがに最終的な結論が出るとなれば、恐怖を覚えて、逃げ出したくもなる。ここから逃げ出したとしても、何ら現実の役には立たないのは分かっていてなお、腰を浮かしかける自分がいるのも事実だ。


「おっと、まずい。纏神解けてるじゃねえか。こういうときほど平常心」


 東邦世界の大国であるハイタンでは、人間は神と鬼をその内側に宿しているという信仰がある。神は心に、鬼は身体に棲み着き、両者の均衡が崩れれば、病を得て、両者が身体から出ていけば死ぬ。普通の人はそれを知らずに、一生を終えてしまうが、もし、神と鬼の力を自在に引き出すことができれば、尋常ならざる力を得ることができよう。


 神を纏えば、あらゆる事態にも不動の姿勢で対応できる。さらにその力を外側に広げることができれば、視覚に頼らずして、敵意あるものからの攻撃を事前に察知することも可能だ。これを思い込みと捉えるのは少々早計だろう。実際にシヅマは纏神の力を用いて、種々の困難を乗り切ってきたのだから。これを常時行うことができればいいのだが、あいにくそこまでの境地には至ってないから、ふとした気の緩みですぐに纏神が解けてしまう。


 シヅマは目を閉じ、纏神に入るための呼吸を複数回行うと、雑念が身体の中に入らず、その表面を滑って落ちていくのを感じた。その感覚を保ったまま、シヅマは再び目を開けた。世界は見えない薄膜で隔てられたかのようで、不必要な情報を阻害する一方で、五感のすべてが鋭敏になった感じもする。


「ふう……師匠には感謝だな。これがないと、すぐに心が乱れるからな」


 と独語してみたものの、すぐに師であるスウンにやられた仕打ちを思い出して、怒りで纏神が崩れかける。慌てて、状態を維持するも、まだまだ修行不足であることを実感し、シヅマとしても赤面せざるを得ない。


 シヅマが落ち着くのを見計らったように、酒場の扉が荒々しく開き、そして、その扉が壁に当たった勢いで跳ね返り、また閉まったので、入店しようとした客はどこかを強打したらしい。その客はどこか別世界の言語で苦痛を訴えていたが、その声がやたらと可愛らしいことに、シヅマは不審な目を声のした方へと向けた。同時に給仕娘も慌てた様子で駆け寄った。


「ちょっ! だ、大丈夫、エルクちゃん?」


「ル、ルィト、ボクの顔、まだついてる?」


「大丈夫! 親の顔より見慣れたいつものがついてるよ。ちょっと顔赤くなってるけど」


 シヅマは愕然とした。このどうでもいいやりとりではなく、エルクと呼ばれた少女がルィトという給仕娘よりも頭一つ小さく、第二次性徴すら始まっていないような少女だったからだ。大学の偉い先生と聞いていたので、自分より遙かに年上が来ると思い込んでいたシヅマは纏神が弾き飛びかねないほどの衝撃を受けたのである。


 纏神が解けなかったのは、「人を外見で判断してはいけない」という単純で、初歩的な戒めがあったからだ。ハイタンに入国して間もない頃、沿岸部では子供の振りをして、油断した旅人に襲いかかる黒凶孩子なる盗賊集団がいた。シヅマも迷子かと思って近づいたら、襲いかかられ、あわやというところで、偶然通りかかったスウンに助けられたということがあった。そんな出来事があって以来、見かけだけでその人を断じれば、痛い目を見るということを学んだのである。


「それより、聞いてよ、ルィト! あのハゲったら、ほんとひどいんだよ! 研究ってのは何年もかかる、それこそ一生をかけることだってあるってこと知ってるくせに、成果がないからって、来年度からボクの予算を減らすっていうんだよ! しかも、呪術研究を馬鹿にしたかのような態度してさ! あーっ、腹立つ! あの未練がましげに残った毛を全部むしってやりたいよ!」


 どうやらエルクは相当お冠のようだ。当初、シヅマは直接大学へと訪問したのだが、追いやられるようにここで待たされることになった理由も判明した。間が悪いというべきだろう、シヅマが訪れたとき、ちょうど予算編成の修羅場を迎えたというわけだ。貨幣経済というものができて以降、どこの世界においても金は必要なのだから、エルクが予算獲得のために必死になるのは是非もなしというところだろう。


 むしろ、シヅマはエルクがあの小さな身体で、老獪な教授たちとやり合っていると想像しただけで、敬意すら抱こうというものだ。同時に同情心すら覚えてもいた。


 ただ、それも三十分も経つと、完全に霧散した。愚痴の出ること泉のごとしといいたいところだが、言い回しが違うだけで、何回も同じところを回っているだけだ。うんざりしたのはシヅマだけではなく、他の客もそうだったようで、一人席を立つと、続くようにほぼ全員が店を出て行った。


 最後の一人が出て行ってから、一緒に逃げるべきだったと、シヅマは後悔した。正直、エルクはあまり関わりにならないほうがいい人種のようだ。質はともかく、濃密な時間を過ごしてきたシヅマは人間観察に長けるようになっていたのである。特にこれはまずいと思った人物はほぼ完璧に近い割合で見抜くことができた。


「あ、これ、あかんやつや」


 今回はシヅマが思わず西方言葉を使ってしまったほど、エルクに下された評価は過去ないほどに低かった。ぱっと見、外見に問題があるわけではない。緩やかに波打つ淡い栗色の髪に大きな榛色の瞳、鼻はやや低めながらも筋が通って、人形のような愛らしさを覚えるが、いかんせん人形たり得ないよく動く薄桃色の唇が品位を大幅に下げている。


 外見は予想値を遙かに超えるものの、どうやら内面はそれに釣り合わないようだ。一分一秒を争うわけではないが、こう見えて、シヅマは急いでいたのだ。こんな嫌がらせのためだけに作られた呪いの棍棒から早く解放されたい一心でここまで来たというのに、縋りつこうとした藁はシヅマの手の届かないところを嘲弄するかのように波間を漂っている。要するに放置されるのは、噴飯物というわけだ。


 しかも、雰囲気を悪くすることで、客は逃げてしまい、店側からすれば、迷惑以外の何物でもない。いなくなった客以上に客単価が高いのか、あるいは大学の教授というのは一般市民にとって、畏怖の対象であり、ルィトとしては押し黙るしかないのか。いや、違う。ただ単にエルクの迫力に押されているだけだ。


 あの隙を差し挟める余地がない話術はいっそ見事などと、のんきに感心していたシヅマだが、彼はこの間にさっさと逃げるべきだった。判断の遅れがその後の行動に支障を来すなど経験から分かっているくせに、想像を超える何かに出会うと、つい足を止めてしまうのはいい意味でも、悪い意味でもシヅマの癖となっていた。


 とはいえ、さすがに逃げようと腰を浮かしかけたが、すでに時宜を失していた。一方的に押されていたルィトがエルクの愚痴を肯定しつつも、巧みに話を誘導して、ついに待ち合わせた人がいるのではないかという一言を口から出してしまったのだ。


 その瞬間に口を閉ざしたエルクは、そう言われてみればと言いたげに首をかしげた後、すぐにここへと来た目的を思い出したようで、長年続いた便秘が解消されたかのような表情を浮かべた。その表情を貼り付けたまま、エルクの首は四分の一回転し、猛禽類が獲物を見つけたかのごとき視線を送ってきたので、纏神が外れかかったシヅマはつい悲鳴を上げそうになる。そのままエルクは椅子やテーブルにぶつかるのも構わず、一直線にシヅマに近づいてきた。目の前まで来ると、今までの怒気はどこへやら、快活とした笑みを浮かべた。


「やあやあ、遅れてごめんね。ボクがエスルク・ノイトシデラムだ。みんな、エルクって呼んでるから、キミもそう呼んでくれたまえ」


 何がおかしいのやら、呵々大笑するエルクの姿に圧されたのか、シヅマはただ立ち尽くして、背骨がどこまで反対側に曲がるかを試しているように、ない胸を反らす少女の姿を見つめていた。


 後に、シヅマは逃げるべきだったといたく悔やんだ。この情緒的でもなければ、韻文的でもない出会いから、よもや長いつきあいになるとは思わなかったからである。

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