第2話

 先生かれに出会ったのは、まだ風が冷たいころだった。

 新しい後輩のために、ちょっぴり早めの一学期を迎えた朝、教壇の上で盛大なあくびを垂れるその人は、みんなの視線が集まる中で悪びれもせずに言った。


「すまん、寝坊した」


 あとは帰るだけのHRにひょこと現れたその教師ひとははじめ、養護教諭の先生かと思うくらい丈長の白衣を羽織っていた。おまけにあとで聞いた話によれば、遅刻の原因は学校に来たものの、保健室でサボったことによる寝過ごしだという。

 控えめにいってもその印象は最悪のものだった。年も近いせいか、妙に人事とは思えず、余計に腹が立つ。

 当然、その日は学年主任にこっぴどく叱られてたのだが…思いのほか当人は飄々としていた。

 まるで、冬眠から寝覚めたばかりのリスのように、愛らしそうな反面、手がかかりそうな人だった。

 他の子たちといえば、新しい先生というだけできゃっきゃしている。確かに顔は綺麗だけど、絶対に担任にはなって欲しくはない部類のひとだ。

 ……まぁ、そんな思いはただの始まりに過ぎなかったことを後々知ることになるのだけど。

 新しいクラスで初めて彼が教壇に立った時、軽い戦慄を覚えたものだ。まったく、胸内を一体誰が覗いたというのか。

 一年の時から学級委員を務めている私は、二年生に上がっても当然、同じように続けるつもりでいた。けれど不真面目な先生が担任だと、必然的にその仕事は余計な物まで請け負うことになるわけであって…

 気づけば私は先生の保護者同然の扱いにまで昇り上がっていた。まったく不名誉なものである。毎回うだる気に保健室で漫画を読みふける担任を生徒である私が教室までひっぱらなくてはならなかった。


「もういい加減にしてください!! なんども何度も——怒りますよっ!?」


「もう怒ってんじゃん…」


 ぐへぇと引きづられながら先生がうめく。例のごとく保健室から連行している最中である。


「当たり前です! 教師のくせに保健室に入り浸って——不真面目ですか!」


「不真面目の極みですが?」


「そこで胸を張らないでくださいっ! あと自分で歩いてください」


 出したくもない粗声が廊下に響く。マズい、授業中であった。咄嗟に声を押しとどめ、それ以上の言葉を呑み下す。が、それもこれもこの教師の所為なのだ。ふつふつと怒りが湧き上がり、眼前の教師を睨み付ける。

 はっきり言って、先生は学校の誰よりも問題児だ。授業はサボるし、遅刻はするし、あと国語教師のくせに白衣だし…。

 ヤバい、あげたらキリがなくなってきた。頭が重くなるのを感じながら、ため息を吐く。


「先生は先生なんですからもっとシャンとしてください」


「いや別にシャンとしたって、生徒がほいほい指示聞くわけじゃないだろ」


「またそうやって言い訳ばかり。先生は授業中だけは真面目なんですから、一日くらいそのままでもバチはあたりませんよ。真面目な先生をみたら、多分みんな腰抜かして勉強に集中しますよ?」 


「暴論すぎるだろ、それ。だいたいうちのクラスは成績も偏差値も上等じゃん」


「それは——、そうですけど…」


「これも俺のおかげだな」


 飄々とした態度で先生は胸を叩く。

 なんでそう断言できるのか全くわからないのは別として。確かに先生の授業はわかりやすい。現代文や古典はもちろん、飽きないよう、歴史的背景や雑学的な知識なんかも含めてるから、悔しいけれどおもしろい。他にはない授業だと思う。

 学生時代は某有名大学の主席で、教師になってからも進学校で教鞭を取り、多くの生徒の受験を助けてきたらしい。

 あの奔放さが許されるのも、それだけの実績を上げている故だろう。

 実は物理なんかも詳しく、偏屈な教師の作る期末テストで多くの生徒を救うことになるのだが、それはまた別の話。

 切れ長の瞳に透けるような容姿と相まって、陰ながら女子の人気は高い。加えてウチのクラスではこの性格なため、男子と意気投合するまでに至っている。

 ほんとっ、自堕落なところさえ直せば良い教師なのに…

 じっとりと睨んだところで先生は気にもしない。

 ズキン、と目元が鈍る。いつも頭痛だ。でも最近多い。

 少し時間を置けば痛みは和らぐから、あまり気にする程度のものでもないが、明日病院にでもいくことにしよう。

 呼吸を据えるように息を吐く。鈍痛はまだ残っていたが支障のないところまでは消えた。


「あんま無理するなよ?」


 いつの間にそこにいたのか、先生の顔が額にくっつきそうなほどまで近くにあった。

 急な接近と思ってもみない言葉によろめくように戸惑った。


「珍しいですね……。先生がひとの心配するなんて」


「そうか? まぁそこはいいとして…、最近ため息多くなってるぞ」


「だとしたら先生の所為ですね。責任とって真面目に仕事してください」


「いやいや、オレはお前に迷惑かけるようなことはしてないぞ?」


「それは幾らなんでも嘘です! 私がどれほど他の先生から山積みの書類を貰ってきたことか……!」


「言っておくが本来、あれはオレの仕事じゃない」


「……え?」


「他の教師が当て付けで持ってくる、ただの雑用(いやがらせ)だ」

 へ? と脚が止まる。


「——え、じゃぁ……」


 私は先生にわざわざ嫌がらせの書類を毎日届けて、余計な手間を取らせていた……?

 ぞわぁと背中から言いようのない熱が吹きでる。怒りにも恥ずかしさにも似た、頭を沸騰させる熱だ。

 言葉がでない……、当然だ。

 ——わたしは先生を見下みくだしていた。ロクな仕事もしない、ダメ人間を絵に描いたようなこのひとを、心のどこかでひどく嫌っていた。

 こんな大人にはなりたくない、軽蔑にも似た感情を毎日のように抱き、人一倍委員長として仕事をこなした。

 先生の代わりにクラスをまとめ、先生の代わりに書類を整え、先生の代わりに他の先生たちと連携をとる。

 考えてみれば、それらはすべて自己満だ。そんなこと、先生は一言も頼んでいない。

 必要がなかったのだ。先生の仕事はすでに終わっているのだから、私に頼る必要がない。

(なら、私の行動は……?)

 頼まれてもない仕事を、さも『してやった』と言わんばかりに振る舞い、あまつさえいらぬ迷惑までかけて、私はいったい何をしていたのだろう……?

 傲慢(ごうまん)だ、私…。そうだ、私は先生の代わりに先生の仕事をすることで、「この人よりも上だ」という優越感にひたっていたのだ。

 それこそ、ほんとうに保護者のように。

 ……急に、自分のことがみじめに思えた。バカみたい。自分だって大した人間でもないくせに。

 咄嗟に顔を手で覆う。先生に合わせる顔がない。

 いま、わたしはどんな表情をして先生に向かえばいいのか、急にわからなくなった。

 最低だ。先生をけなしておいて、いまさら後悔するなんて。

 けれどその煩悶全てが浅はかだというように。肩にポンと熱が帯びた。


「……?」と震えた瞳を向ける。先生だった。


 何も告げず、何も厭わず、何もないまっさらな瞳。


「気にすんな」


 てのひらをヒラヒラと振って、にひっと鼻を慣らしたよう声が頭上でなる。

 まるで全て見透かした上で、それでも取るに足らないことだと伏すように。その笑顔はさわやかで、余裕たっぷりで、ちょっと憎らしいけど、それ以上に優しかった。


「雑用なんてほとんどが事務作業だから、マクロ使えば一瞬で終わる」


「……そ、そうなんですか」


 マクロってなんだ…。微妙な認識のズレに表情を濁しながら、近づいてきた教室に目を落とす。


「——まぁ、お前も気をつけろよ? 学校の教師なんて、世渡りも教えられない欠陥品の集まりなんだから」


「ひどい言い草ですね…」


「事実だ。高校の教師なんてのは大概ロクな奴らじゃない。大半がただ教職免許をもってるだけ。それでいて偉そうに嘘ばかりを教えるんだからタチが悪い」


 腕を後ろに組んで、悪戯がバレた少年のように清々しい声が応える。


「真面目な奴ほど損をするのは、どこの世界も一緒ってことさ」


 実直さとバカを履き違えるなよ? 

 一瞬いっしゅん、その表情がとてもまぶしいものにみえた。


「だから先生は不真面目なんですか……?」


「そうともいえる。ただし給料分のことはやってるがな」


 真面目は辛いぞぉ? 下手くそな怪談話でもするかのようにデタラメな顔の歪みに、くすっとしてしまう。悔しかったのでデコピンを喰らわしてやった。それをひらりと交わして「なんにせよ」と先生がため息を溢す。


「ま、しなやかであることが大事だ」


 でないと、なにか壁にぶち当たったとき、壁の厚み耐えきれなくて折れてしまう。特に…、子供の頃から憧れているようなやつほど、現実とのギャップに耐えられなくなる。


「だから教師になりたいなら、よく考えておくんだな」


「へ?」


「だってお前の志望、教育学部だろ?」


「何で知って…」


「いや、オレ担任だし。それくらいは把握してるよ」


「……」


 意外だった。予想外の方向からの不意打ちに軽く体がよろめく。というよりも、進路先の書類にも書いていない内容ことを、普段保健室で漫画しか読んでない先生ひとはどこで知ったのか。


 そこはかとない恐怖半分、感心半分といった少女の反応に、教師は満足そうな表情で足を進めた。

 大嫌いな先生だったけど、でもそれでも想いを寄せるようになったのは、たぶん——こういうところに惹かれたんだろう。

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