愛人未満

名▓し

第1話

 これで最後にしよう。

 そういって別れたあの人の顔を最近、ようやく思い出さなくなった。

 それでも頭から離れないのは、大きな——

 骨張って、頼り甲斐のあるてのひらが頭をポンっとでる。そのジンとした温かさが沸騰するような熱をあおって、顔を直視できない。

 普段とは違う、口端をほんのちょっとだけ緩める笑顔。正直、かなりズルいと思う。

 そのちょっとでわたしは満たされてしまうから。

 だからそのがわたしを大人レディとして見ていなくても、気持ちが揺れることはない。


「もうっ、子供扱いしないでくださいっ」


 頬を膨らませながら不満げに抗議してみせる。露骨な甘え顔はほら、とっても子供らしい反応。


「だってまだ子供だろ」


 先生は置いた手をそのままにして顔を近づける。こつん、と額のくっつく不意打ちに途端、耳が赤く染まる。

 反応を予想していたのか、あの人はふふっと涼しそうに笑って離れた。むぅと悔しそうに顔を歪める私に目もくれず、先へ行ってしまう。こういう時ほど大人の余裕とやらを欲することはない。

 ……そして、その背中を見つめながら悔しさとほんのちょっと哀愁に指の力を入れる。

 せめて目線だけでも対等でいられたら良いのに…、上目遣いの抗議だけでは、得られるものはあまりにも少ない。ほんのちょっとの背伸びでも、わたしと先生との距離は遠い。

 まるで秒単位で伸びていく冬の日の影のように、わたしたちには目に見えない距離がある。先生はいつもそれを保っていて、どんなに私が近づこうとも距離が縮まることはない。

 だってこれは茶番、所詮恋人を演じる教師と生徒に過ぎない。そう解っているつもりなのに…

 それでもひとたび、あの人が振り返って手を取れば、耳は赤く染まって鼓動は踊る。

 我ながら単純だと思う。それを悟られないよう、言い訳のように横顔を伏せる。


「……ひとに見られます」


 未成年と高校教師——そんな二人が、夕暮れに染まる帰路に二人きりで歩いている。

 彼はほんの少し考えるように目を逸らすと、すぐに微笑んで自身の方へ少女の手を引いた。


「大丈夫、ここ人通り少ないし」


 説得力もないのに、自信だけは一丁前。


「……っ、ばか」


 悪戯をする前の少年のような顔にせまられて、それ以上何も言えなくなる。

 他の子たちバレないよう、通学路とは違う離れた駅はいまではすっかり脚繁く通う庭になった。

 普段はブレザーでも寒いくらいなのに、今は脱いでしまいくらいだ。擦れてできる静電気のちくちくした心地さえ気にならない。肌寒いはずの空気は指先から電気のように送られてくる暖かさで磨耗する。

 陽を浴びた枯れ木の影はダンスを踊るようにとどまりを覚えない。短くなってきた陽に急かされるように、藍色に近づく空を追いかける。


「ねえ、センセ」


「ん?」


 小走りの鼓動をその腕に押し付けて、甘ったるい笑顔でしみじみと思う。


「好きです」


 想いというのはあっという間で、終われば一瞬だって聞くけれど。

 あと五分の道のりがこんなにも遠いのは、なんでだろうね

 先生は一瞬きょとんとしたあと、鼻を鳴らすように顔を逸らした。


「————知ってる」


 嘘つき、心の言葉は背中に隠して、そっと腕の力を強めた。

 私の好きは、あなたソレ以上なのよ。

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