武史君と大井川鉄道
増田朋美
武史君と大井川鉄道
その日は、梅雨空らしく雨が降っていた。一部の地域では、避難を呼びかけられた地域もあったようだが、静岡県は、深刻な被害は免れたようである。何もない日常が、普通に続いていたのであった。普通に会社員は会社へ行き、学生は学校へ行く。こんな日々が続いていてくれれば、それが一番いいという意見が、一番素晴らしいという時代が、すぐそこまで来ているということを示していた。
そんな中、それが一番幸せであるはずなのに、なぜか、その通りになることはないのだった。多くの人は、お金がある事とか、ものがある事を幸せだというものだから、いろんな人は、それに流されて自分は不幸だと感じている人が多い。
そんな中、ジャックさんは、学校から呼び出されて、校長室で校長先生と話していた。校長先生は、かなり年を取った男性であったが、武史君を心配そうな顔で見ている。
「はあ、そうですか。申し訳ありません。」
と、ジャックさんは、申し訳なさそうに、校長先生に頭を下げた。
「ええ、私がどうのこうのということではありません。ただ、武史君のことを思いますと、ちょっと、学校を休ませた方がいいと思って、お父様を呼び出させてもらいました。」
という校長先生。
「それはもしかしたら、あの、僕は日本語をちゃんと理解しているどうかわからないんですけど、武史を無期限停学処分ということでしょうか?」
と、ジャックさんは聞いた。
「いいえ、そういうことじゃありません。武史君のためを思って言っているのです。子供のころから、放置しないで手を打っておかないと、大人になってから大変なことになってしまうという例は、これまで何度も見てきましたからね。それをしないために本校があるのです。」
「では、武史の授業態度があまりにも悪くて、ほかの生徒さんを妨害するとかそういうところがあるとでもおっしゃるのですか?」
校長先生に、ジャックさんは口を挟んだ。
「いいえ、そんなことはありません。武史君は、勉強にも意欲的ですし、授業態度もまじめです。しかし、美術の授業で、描く絵に問題があると考えます。武史君の描く絵は、写生をさせても何をさせても、気持ちの悪い絵でしかないのです。強引にたとえて言えば、武史君の絵は、まるでピカソです。そのような絵を描かれるので、養護教諭の先生とも話し合った結果、武史君は、学校というところになじめないのではないかと思いましてね。なぜ、お父様が画家としてあんなきれいな絵を描かれますのに、息子の武史君だけが、あのような気持ちが悪い絵を描くのか、私たちも頭を悩ませておりましてね。休み時間にも、ほかの同級生に話しかけることもなく、一人で、ピカソのような絵を描いている。それも、おかしいと思うのです。お父様にお聞きしますが、日常生活でもあのような絵を描いているんですか?」
「ええ。」
ジャックさんはここで嘘をついてしまうわけにもいかず、そのように答えるしかなかった。
「年がら年中というわけではないのですが、絵を描いています。家の中でも、そのような絵ばかりです。本人は木を描いていると言っても、それは木の形をしているものではなく、それとはかけ離れたものです。知り合いには、まるで岡本太郎のような絵だと言われました。でも、どうしても、それをやめさせることはできません。頭の中でそれを浮かべてしまうのでしょうか。」
「そうですか。それでは、しばらく学校を休ませた方がいいと思います。うちでは、強制退学をさせるということはありませんが、武史君に対しては、どの授業でも、気持ちの悪い絵ばかり描いているので、、、。」
「そうですか。つまり武史には、停学処分ということですか。」
と、ジャックさんは、ふうと言って、がっくりした顔をした。
「そういう事ではないですけどね。戻ってくることができれば、すぐに戻ってきていいのですが、ちょっとわが校と、彼の描く絵は合いませんので。」
校長先生は、そういうことを言った。まあ、日本人は直接的にものをいうわけではないけれど、これはきっと校長先生から、無期限停学処分を下されたのと同じようなものだとジャックさんは確信する。
「あーあ、どうしたらいいんだろう、、、。」
ジャックさんは、校長先生の前にいることを忘れて、大きなため息をつく。校長先生は、それを批判するようなことは言わなかった。
「私たちは、武史君のことについて、いつでも相談に乗りますから、そのためにも武史君をしばらく静かなところにおいてやるのが、必要なんだと思います。」
と、校長先生は言った。
「武史君を少し静かな場所に連れていくなりして、休ませてやってください。そして、また、この学校へ戻ってこられるようになったら、いつでも私たちは受け入れます。」
校長先生は、にこやかに言ってくれるが、ジャックさんは、そういう事なんだとわかってしまって、がっかりと落ち込んだ。
「わかりました。武史が、何とかなったら、そうさせていただきます。」
でも、それは、きっともう来ないでくれということなんだろうなと思いながら、ジャックさんは言った。
とりあえず、校長先生にありがとうございましたと言って、校長室を出る。校長室の外では、養護の先生が、武史君と一緒に待っていてくれた。武史君はニコニコしているものの、養護の先生は心配そうな顔をしている。第一、武史君の絵があまりにも気持ち悪いと告発したのは、養護の先生なのだから。
「お父様、大変ですね。」
それは、養護の先生は、ジャックさんのことを気遣って言ってくれたセリフだと思うんだけど、ジャックさんは、涙をこぼして泣きそうになってしまった。
「武史君が悪いわけでも、お父様が悪いわけでもありません。武史君のお願いしていることに、もっと目をかけてやってください。」
と、養護の先生は優しいおばさんらしく、ジャックさんに言った。ジャックさんは、涙が出るのをこらえながら、武史君にうちへ帰ろうかといった。養護の先生は、いつでも待ってますよと、優しく言った。
結局のところ、学校側から捨てられてしまったようなものだ。武史君に、学校というものは合わないと一言で言ってしまえばそれであっているが、そこから捨てられてしまうというのは、とても悲しいことである。
さあ、これからどうすればいいのだろうとジャックさんは文字通り途方に暮れながら、家に帰った。武史君は、家に帰ると何ごともなかったかのように、すぐにお箏のお稽古にいく支度を始めた。まったく、家族をさんざん困らせておいて、本人はこんなに明るくしているのだろうかと思ったが、武史君の習い事はさせておいた方がいいと思ったので、お箏の師匠である、ジャックさんは、花村さんの家に武史君を連れていく。花村さんの家に着くと、花村義久さんは、にこやかな顔をして、二人を迎えてくれた。ジャックさんは今日はお稽古を見学させてくれと申し出た。花村さんは、どうぞと言って、二人を稽古場に案内した。
「じゃあ、行きましょうか。まず、五段の調べを弾きましょう。」
と、花村さんに言われて、武史君はなれた手つきで爪をはめ、五段の調べを弾き始める。まったく、こんなに上手に弾きこなす子が、なんで岡本太郎みたいな気持ち悪い絵を描くのだろうか。そして、それのせいで、無期限停学処分を言い渡されてしまうとは。
「いいですね、ずいぶんうまくなったじゃありませんか。あなたは真剣にお稽古をしようとするから、上達が早いのに驚いております。」
と、花村さんは、そういって武史君をほめてくれた。それを聞いてジャックさんは、思わず泣き出してしまった。
「なんですか。今日は、何か悲しいことでもあったんでしょうか?」
と、花村さんがジャックさんに聞く。
「私は、教育とは無関係な人間ですし、誰かに口外することもしませんから、お話してみればいかがですか。」
と、花村さんが言ったので、ジャックさんは泣き泣き、武史が停学処分を言い渡されたということを話した。
「確かに、学校で、いろいろストレスあるなら、やめた方がいいっていう人もいますよね。受け皿は色いろありますし、受け入れてくれる学校を探してもいいのではないでしょうか。何よりも、武史君を、変な人間ではなくて、普通に受け入れてくれる学校を探すのが一番だと思いますよ。」
と、花村さんは言った。
「それができれば、苦労はしませんよ。これからまた、武史にあう、学校を探すにしても、僕ももうすぐ出さなければならない展覧会がありまして、忙しくてそういう事もできないんですよ。」
ジャックさんが思わず、日常的な愚痴を漏らすと、
「なら、私が、武史君をお預かりしてもかまわないですよ。」
と、花村さんは言った。
「実は、来週から、しばらく水穂さんと一緒に転地療養で奥大井へ出かけます。その中に武史君を混ぜてもいいのではないでしょうか。自然がたくさんある奥大井なら、武史君もいい気分転換になるのではないでしょうか。」
「奥大井?」
と、ジャックさんは、そう聞いた。
「ええ。奥大井です。正確にいうと、接阻峡温泉というところです。いいところですよ。空気はいいし、おいしいものはたくさんあるし、のんびりしていて、何よりも武史君のような方には、暮らしやすいかもしれないです。」
と、花村さんが答える。接阻峡温泉なんて聞いたことのない地名であったが、そこへ行ってみる価値はあるとジャックさんはおもった。それに、誰かにどうしようもないことをゆだねるのは、悪いことではないということも知っていた。ジャックさんは、「わかりました。お願いします。」
と、花村さんに頭を下げる。武史君が何があったのと聞くと、
「武史は、接阻峡というところに行ってみたいかな?ここ見たいに、便利なものがあるとはわからないけれど、でも自然がいっぱいあっていいところだって。」
と、ジャックさんは説明した。武史君は、それを聞いて何があったのか知ってしまったのか、それとも、単にボケっとしているだけなのか、わからない顔をして、
「うん、いいよ。僕、接阻峡に行くよ。」
と答えた。
これで話は決まった。来週の月曜日から、武史君は、花村さんたちと一緒に、接阻峡へ行くことになった。富士駅に集合して、富士駅から東海道線で金谷駅、そして、金谷駅から大井川鉄道で千頭駅。そこからは、井川線に乗りかえて接岨峡温泉駅へ行くというかなりの長旅である。
月曜日。ジャックさんは、武史君を花村さんに引き渡した。そして、自分は展示会に向けて、そそくさと後にした。こういう時はあまり劇的な別れにしないほうがいいと思ったのだ。武史君は大好きなおじさん、つまり水穂さんと電車に乗って接阻峡へ行くと言って、とても喜んでいた。
武史君は、水穂さんの手を引いて、電車に乗った。電車は平日ということもあり、ずいぶんすいていた。富士駅から乗っていた乗客は、途中の静岡駅とか、焼津駅とか、島田駅といった大きな駅で降りてしまい、金谷駅まで乗っていたのは、武史君たち三人だけであった。武史君たちは、予定通り金谷駅で降りて、大井川鉄道に乗り換える。大井川鉄道は、小さな気動車で、時折SL列車も走るという、観光要素の強いローカル線であった。
途中駅では、切符を切りに来た車掌さんが、鉄道唱歌をハーモニカで吹くというサービスもあった。それに合わせて、武史君はいい声で歌うのには、ほかのお客さんもびっくりしていた。
「まもなく、千頭駅に到着いたします。」
と、車内アナウンスが流れて、三人は電車を降りる準備をする。もう千頭駅からして、周りの風景はお茶畑ばかりの、富士市の街とは全然違う風景になっていた。
電車は千頭駅に到着した。千頭駅から、接岨峡温泉駅までまた別の電車に乗っていくのであるが、花村さんが切符を買おうとしたとき、水穂さんが言った。
「待ってください。彼を喜ばすために、奥大井湖上駅で降りましょう。奥大井湖上駅で休憩して、そしてまた次の電車で接岨峡温泉駅へ行けばいいでしょう。」
花村さんは少し考えて、
「そうですね。奥大井湖上駅で、少し休憩してもいいですよね。そして、タクシーに乗ってもいいですね。」
と、水穂さんに同意した。水穂さんがそういうことを言うのだから、今日は比較的体の具合がいいということだろう。
「それでは、奥大井湖上駅まで切符を買っておきます。」
と、花村さんは、三人分の切符を買った。
しばらくホームで電車を待つと、アプト式電車がやってきた。三人は、しっかりと電車に乗った。もうこの電車は市街地を走ることはなく、高山というところにふさわしい場所を、ゆっくりゆっくりガタンゴトンと走るのであった。時々、キツネとかたぬきでも出てきそうな場所を走り、大井川の渓流に沿ったところも走る。大井川は、穏やかな川で、水がきれいなことを示すために、コバルトブルーに輝いていた。
もうしばらく走ると、長島ダムに到着した。もともと、この電車は、この長島ダムを造るための資材を運ぶために作らせた電車だと花村さんは言った。
「まもなく、奥大井湖上駅に到着いたします。お降りのお客様は、お支度をお願いします。」
と、車内アナウンスが流れ、三人は降りる準備をした。ほかにも、何人か降りる乗客がいた。みんな、この駅で降りるのは、中高年の観光客ばかりだ。電車はトンネルに入り、長島ダムを横切るように走り、長島ダムの真ん中にある半島に立地している駅で止まった。
「さあ、ここで降りましょう。次の電車まで一時間程度です。ここで休憩していきましょうか。」
と、花村さんたちは、電車を降りる。
「うわあ、すごい。」
武史君は、奥大井湖上駅の姿を見て、とても感動したようだ。大きな駅でもないし、確かに便利なものがある駅でもない。近くにコテージが一軒あるだけのことである。でも、この駅は、湖の上にある、小さな半島に立地している、まるで桃源郷のような駅だった。
「僕、この駅を絵にかきたい。」
と武史君は、やっぱり画家の息子の血が騒いだのか、そういうことを言った。一時間以内にかけるかは不明だが、描かせてあげましょうと水穂さんが言った。武史君は、早々スケッチブックを出して、駅の様子を鉛筆で書き始めた。
ところが。
「武史君、何を描いているのかな。」
と花村さんが言う。確かに武史君が描いているものは、駅舎の描写でもないし、駅員さんの様子をスケッチしているわけでもない。ただ、鉛筆で、湖の表面を描いているだけなのである。
「それは、湖の絵を描いているのかな。」
と、花村さんがそう聞くと武史君はもちろんといった。描いているのは、湖の表面ばかりで、人を描いているわけではないし、木を描いているわけでもない。
「湖の音を描いているんだよ。」
と、武史君は説明した。どうも武史君は、変なところに着目してしまうらしい。
「湖の音なんて、絵で表現なんかできるものなのでしょうか?」
と、花村さんが言うと、
「僕は描きたいから描くんだよ。」
と、武史君は、花村さんの言っていることをさらりとかわした。そのまま武史君は、真剣な顔をして、奥大井湖上駅の絵を描き続けている。隣で座っていた水穂さんが、少しばかりせき込んでも平気な様子で描いていた。花村さんが水穂さん大丈夫ですかと、声をかけたりしているが、武史君は、真剣な顔で絵を描いているのであった。
「すごいじゃないですか。湖の音を絵にかいてしまえるくらいなんですから。」
水穂さんは、武史君ににこやかに言った。夢中になって絵を描き続ける武史君であるが、花村さんは、こういう武史君のような子は、まず誰か理解してくれる人がいないとだめだろうな、生きていけないだろうなと思った。それは父親のジャックさんが、一番、気に留めていることだと思った。
「でも、花村さん、武史君には、これを描いているときが一番楽しいんです。それを奪ってしまうのは、僕たちはいけないのではないでしょうか。それを取ってしまうと、武史君は生きるかてをなくすと思います。」
水穂さんにそういわれて、花村さんはそうですねという。武史君はその間にも、一生懸命「湖の音」を描き続けているのだった。そんなところを着目して絵を描こうなんて、やっぱり、医学的に言ったら障害と言えるのかもしれなかった。でも、それは同時に武史君の絵の才能なのかもしれなかった。ジャックさんだったら、間違いなく、無期限停学処分をくだされた原因となってしまうわけなので、止めてしまうのだろうなと思うのだが、花村さんはどうしても止めることができなかった。水穂さんもそれは同じ気持ちでいてくれているようだ。時々せき込むこともあるけれど、終始にこやかな顔をして、武史君が一生懸命絵を描いているのを、見つめていた。
「まもなく、大井川鉄道、井川行きが到着いたします。お乗りの方は、お急ぎ願います。」
と、駅のアナウンスが流れて、花村さんたちは、そろそろ行かなくちゃいけませんねといった。
「武史君、そろそろ電車に乗りますよ。この電車は、一日に五本しかないので、次の電車を逃したら、もう駄目なんですよ。」
と、水穂さんはそういって、椅子から立ち上がると、武史君は、思いっきり湖の音を聞くことができて、もうよいと思ったのだろうか、スケッチブックと鉛筆をカバンの中へしまった。
「それでは、電車に乗りましょう。接阻峡温泉まであと一駅ですから、もうちょっと頑張って。」
花村さんたちに言われて、武史君は、カバンを持った。忘れ物がないかしっかり確認までした。そして、水穂さんの手をにぎるところは、やはり子供だなあと思う。
目の前に、電車がやってきた。桃源郷への滞在は、この電車とともにおわりを告げたのだった。三人は、電車に乗り込んで、桃源郷からかけ離れた温泉街、接岨峡温泉駅へ向かったのだった。
武史君と大井川鉄道 増田朋美 @masubuchi4996
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