一章「初陣」①慣れない仕事
事務所の扉を開くと、微かにコーヒーの香りがした。青白い蛍光灯に照らされたパソコンとデスクたちが鮮明に目に映る。棚に並べられた書類に、奥にあるキッチン。タイピングの音。まだ
パソコンに向き合い事務処理を行っている
「おはよう、刀護くん。学校お疲れ様」
「おはようございます、所長。今日から冬休みなんで、バリバリ働きますよ」
「それは頼もしいな。是非とも仕事を憶えて活躍して欲しいものだね」
この事務所はそこまで大きい訳じゃない。部屋の中には事務用のデスクが計四つ、奥にキッチンと手前に応接用のソファとテーブルが向き合って置いてある。小説や漫画で見るような典型的な事務室で、これといって特筆すべきものはない。よく言えば落ち着きのある質素な場所、悪く言えば面白味のない殺風景な場所。人と契約的に関わるのであれば、ある意味では合理的な作りではあるように思う。
刀護は右京の向かいのデスクに座ると、自分に与えられたパソコンの電源を入れる。電子機器というのも、孤児院では全く触れてこなかったものだ。エアコンや洗濯機だって触ったことはなかったし、携帯も詩音から初めて与えられた。パソコンだって、孤児院の職員が作業しているのを何度か見かけた程度で、キーボードに触れたのも最近だ。
電源が入るとソフトを開く。刀護の仕事に使う資料をデスクの上で纏めつつ、ソフトに入力を始める。
向こう側ではリズミカルなタイピングの音が聞こえる。素人目から見ても速いと思う、やはり経験の差だろうか。刀護のタイピングが非常に遅いし、ぎこちない。顔をしかめながらゆっくりと文字を打っていく。頭で整理をしながら文字を打つというのは非常に大変だ。
資料とにらめっこし唸りながら整理をしていると、後ろから人の気配がする。振り向くと彼女は自分の眼鏡を上げながら、マグカップを握っていた。
「お疲れ、刀護くん。君は確かコーヒーが飲めなかったな。カフェオレを淹れてみたんだが……どうだい? 砂糖も多めに入れたから、余程苦手じゃない限りは飲めるはずだ」
ありがとうございます、と言いながら刀護はマグカップを受け取る。模様の入った、赤いマグカップ。彼女、浦津椎名曰く新入りである刀護のために買ったものであるらしい。嬉しさ反面、恥ずかしさもありつつ、刀護は口を付けた。苦味と甘みのバランスの取れたコーヒーを、ミルクが滑らかに喉へと流してくれる。暖かい温度に腹の中が少しポカポカした。
「その表情なら、飲めているようだね。よかった、配分に結構手間取ったんだよ」
「オレもまだ子供だなぁ……。あ、そうだ、椎名さん。ちょっとわからないことがあるから、質問しても良いですか?」
「あぁ、構わないよ。どれだい?」
「えっと、この資料のこことそこなんですけど……」
刀護は資料の箇所を指さしながら指示を仰ぐ。椎名は間髪入れずに答える。入力箇所に悩んでいると、直接パソコンの画面を指さしながら指示してくれた。
礼を言うと刀護は再びパソコン作業へと戻る。まだまだ慣れないことだらけではあるが、これも少しずつ慣れていかなければならないのだなと思うと、何だか言葉に表せない不思議な気持ちになる。
「しかし申し訳ないね、事務仕事ばかりで。本当は探偵らしい仕事もさせてあげたいのだが……」
「大丈夫ですよ、まだ慣れた訳ではありませんし。それに、まだ緊張もしていますから……」
「そうか。君の初陣は華々しいものにしようじゃないか。それは約束するよ」
「な、なんか照れくさいっすね……ありがとうございます」
そう言って、再び事務処理へと戻る。タイピングをする指に少し力が入ってしまっているのが、自分でもわかる。力みすぎだろうか、それでもここぞという時には張り切りたい。
しばらく作業をしていると、一仕事終えたのか、伸びをしながら右京が質問してきた。
「そういえば、刀護くんって今日から冬休みなんだっけ?」
「あ、はい。三学期は来年の……十日からだっけ? ともかくしばらくは休みですよ」
「仕事をして貰っている分際でこんなこと言うのも何だけど、宿題とかは大丈夫?」
「友達と集まってやるつもりですよ。どう足掻いてもオレ一人だけじゃ解けないんで……」
それを聞くと、右京は顎を触りながら思い出すかのようにして呟く。
「友達っていうのは、この前の事件の二人かい?」
刀護は頷く。この前の事件。
複数の孤児院を運営していた男、総長。彼が孤児院を運営している理由は、人身売買の品物にするためだった。刀護及び暮人、守花、椎名、右京、そして不思議な少女、渚の六人はこの事件を解決へと導いた。結果、刀護は右京と椎名が運営する「鳴上探偵事務所」に保護という名目で所属することになる。
右京は微笑みを浮かべながらだらりと背もたれに身を任せる。へたれこむように息を吐くと、ぼやくように言った。
「いいなぁ……冬休みがあるって。大人はせいぜい正月休みがあるだけだからなぁ。僕ものんびり過ごしてみたいものだね」
それを嘲笑するかのように椎名が返す。
「何を言っているんだい、貧乏探偵であるこの鳴上探偵事務所は毎日が冬休みみたいなものだろう? 毎日がクリスマスだ、サンタクロースにでもなって子供たちに希望を分け与えようではないか」
「あのね椎名くん? 君も一応この事務所のメンバーなんだよ? どうして自分の首を絞めるようなことを言うんだい?」
「私には自覚症状があるからだよ」
「僕に自覚症状がないみたいじゃないか。僕一応この事務所の所長なんだよ?」
汗を浮かべる右京を見ながら、刀護は再び仕事へと戻る。少しでも自分の中にこれを浸透させないと、という焦りもある。
居場所。不思議な響きの言葉だ。
今まで意識したこともなかった。と、言うよりは認知すらしていなかったというのが正しいだろうか。ともかく新しいものであることに変わりはない。
自分は一体、どこに向かっているのだろうか。
「大体、君はもう少し仕事を手伝って欲しいんだけど。確かに事務処理の分担としては僕の仕事ではあるけれど、それでも大変なのには変わりないんだ」
「だから、刀護くんの教育は私がしているだろう? 抜かりない、任せたまえ。私に任せれば万事解決さ。何せ私は天才探偵だ」
「いや……そうだけども……」
――仲良しだな、この二人……。
しばらくそうしていると、事務所の電
話が響き渡った。古いタイプの白い固定電話だ。二人を見ると、まだ言い争っている。仕方なく、刀護は自分のデスクに置いてある子機を取って電話に出た。
「も、もしもし。舞条……じゃなくて、こちらは鳴上探偵事務所です」
間違えて詩音の家にいる時の応対をしてしまった。というか、探偵事務所に入って初めて電話対応をしたかもしれない。
『うん? ガキの声……お前は誰だ?』
電話の向こうからは低いながらよく響く男の声がした。怖くて思わず体を震わせてしまったが、負けじと対応する。
「も、申し遅れました。新しく入った桐生刀護です!」
『……あぁ、なるほど。椎名が言っていた新入りとは君のことか』
納得したかのように男の声は柔らかいものにある。それでも低さと響きは変わらず、緊張で鼓動が速くなってしまう。
『それはすまないことをした、謝罪しよう桐生少年。そちらに鳴上所長はいるだろうか? 仕事の話があってな、少し変わって欲しい』
それを聞くと受話器を耳から遠ざけながら、二人の方を見る。こちらの会話が気になったか、二人は既に言い争いをやめ、こちらを見つめていた。刀護は右京に、所長である右京に要件があることを伝えると、右京は電話を変わった。
「お電話変わりました。鳴上探偵事務所、所長の鳴上右京です」
電話に向かって礼をしながら、右京は話を続けている。しばらく見つめていると、右京は子機を置いた。
「依頼の電話だったんだろう? どこからだい? ……と言っても、その顔を見れば大体の察しはつくけれど」
「まぁ、椎名の思っている通りだよ。どうやら、今回の依頼は激務になりそうだ」
「そうだね。まぁ、刀護くんの初陣には丁度良いんじゃないか?」
納得している二人を見ていても、刀護は全く理解出来ない。不思議そうな表情を察したか、右京は自分のパソコンを閉じながら言う。
「仕事だよ。君の初陣が決まった」
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