其の一 桐生刀護の初仕事

プロローグ「新しい日常」

 目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。

さて、ここで問いたい。こんな平々凡々な日常生活の一ページ、諸君ならどういう対応をするだろうか。

普通に止める。悪くないだろう。

二度寝する。それもまた一つの選択肢だ。

破壊する。漫画ならよくある展開だ。

無視する。これで二度寝出来る者はかなりの強者だ。

桐生刀護きりゅうとうごはベッドの中で腕を組みながら考える。今は十二月上中旬、誰もが布団が恋しくなる季節だ。そんな状態で、誰がわざわざベッドから這い出て学校に行こうとするだろうか。

刀護はそんなバカな真似はしない。如何にこの至福の時を噛みしめるかを優先的に考える。これこそが洗礼された賢者、最強の人間だ。義務感によって学校や仕事へ行く者など愚か者、文字通り愚者だ。もちろん自分は前者である。温もりを肌で感じ、体に刻み、体温を極限まで引き上げるのだ。

しかしそれには大きな障害がある。そう、刀護の至福の毎日は彼女によって遮られると言っても過言ではない。


「刀護、朝ご飯出来たよ。……もう、また二度寝かしら」


 そう、この声の主、舞条詩音まいじょうしおんである。彼女のことを出来るだけ短く表現すると、孤児を引き取りアルバイトで生計を立てるスーパー美人大学生だ。違和感を憶えるかもしれない。だが決して間違っていないことに留意して欲しい。

 詩音の足音が扉の前まで迫ってきた。ドアノブを捻る音、入る音、閉める音の順に耳へと届く。落ち着いた足音がベッドの隣まで来た。

 彼女は優しく声をかけながら、刀護の体を揺する。もちろんそんな刺激では起きない。というか、起きたくない。


「朝よ。早く起きないと、また遅刻しかけるわよ。今日は終業式でしょ? ……全く、仕方がない子ね」


 そう言うと、布団を捲られる。いつもは布団を捲られ、しばらくその寒さに晒され目を覚ますのだが今回は違った。布団を再び掛けられる。というか、隣に温かいものを感じた。落ち着く温もりだ、これならよく眠れ――。


「……って、何でご入場してるんだよぉ!?」


 跳び起きるとはまさにこのことだ。直角を描くかのように体を起こすと、詩音はクスクスと笑っている。


「だって、何をやっても起きないんだもの。これはこちらも新たな作戦をってね。作戦コードは『弟にお姉ちゃんの温もりを』よ」

「決め顔で言ってるけどそのまんまだかんな……?」


 この姉といると、本当に自分の中の女性像がひん曲がりそうだとつくづく思う。美人で胸が大きくて……やめよう。何だか変態みたいだ。

 詩音は刀護に早く着替えるように告げると、部屋から出て行った。しぶしぶ刀護も布団から這い出る。外気は寒いが、我慢出来ない程ではない。

 自分の部屋のクローゼットを開けると、制服を取り出した。着替えている時が一番寒いのは男女変わらないだろう。インナーを着るとシャツに袖を通し、詰襟を羽織る。こんな些細な着替えの瞬間でさえ、刀護は幸せの渦中にいた。

 今までの場所では味わえない、日常への喜び。

 部屋から出ると、机に朝食が並んでいた。白米と味噌汁、焼き魚がラインナップだ。詩音たちの朝食は和食と洋食を交互に出している。詩音曰く「日本人ならやはりお米、でも食パンの方が楽」だからこういう手法を取っているらしい。そっちの方が面倒くさくないだろうかというのは、吞み込んでいる。


「……何か今日魚デカくね?」

「あぁ、それは高垣くんが安くしてくれたのよ。朝ご飯の魚は小さくなりがちだから、たまには大きいのをって」


 高垣くん、というのは例の商店街の鮮魚店にいた、あの男性である。

 手を合わせて挨拶すると、箸を持つ。


「宿題どう? 出来そうかしら」

「うーん、暮人たちが頭良いから大丈夫だと思う。何ならあそこに頼ればいいし」

「えっと、鳴上探偵事務所さん、だっけ?」

「そうそう」


 詩音にも、事務所に所属するための経緯は話した。刀護がアストラルを持っていることにあまり驚かなかったのが引っかかったが、すんなり受け入れてくれた。しかし事務所に所属することはかなり渋っていた節がある。探偵があまり真っ当な仕事じゃないのは、本の知識で詩音も刀護も知っていた。致し方無いとため息をつきながら、その上であまり危険な仕事を請け負わないようにと釘を刺されたが。

 味噌汁を啜りながら、刀護は言った。


「今日も事務所に行くつもり。早く仕事を覚えて役に立たないと」

「そっか、それじゃあお金を渡しておくわね。今日は大学が遅くなるから、事務所さんでお世話になるなり、コンビニで買うなりしてね」

「うん、わかった。ありがとう姉ちゃん」


 この「姉ちゃん」呼びもまだまだ慣れない。しかしこの気恥ずかしさは、詩音と家族になった故だと思うと、少し嬉しくもある。

 ごちそうさまと言うと、刀護は鞄を取った。


「あれ、もう行くの?」

「早めに出て暮人くれとの野郎を驚かせてやろうと思って」


 それを聞くと詩音は思わず吹き出してしまう。口元を押さえて笑いながら手を振ってくれた。

 靴を履いて玄関を出る。息を吐くと、体の中と外気の温度の差で息が白くなる。ずっと疑問に思っていたことだったが、この前守花が教えてくれた。空模様より白いこの息は直ぐに色を掻き消されてしまう。何だか切ないな、と思いながら歩き出した。

 家からの通学路はまだ慣れない。未だに自分の家から通っているという感覚がないのだ。孤児院と家は完全に逆方向で、大通りを歩くのは同じだが、完全に感覚が違う。

 そして、孤児院のことだ。総長の逮捕と共に、もちろん春風の家は潰れた。総長が持っていた孤児院は日本、月偽を合わせて全部で二十軒あったらしく、新聞の一面に載る程の大事だった。総長は運営面でも非常に優秀で、場合によっては事務処理なんかを一人でやっていたらしい。そのせいか三分の一くらいの孤児院が倒産し、職員が失業、孤児たちが行き場を失うことになった。どちらの国の政府も対応はしているものの、傷はまだ癒えていない状態だ。

 刀護にとっては、確かにどうでもいいことだ。だが、それは幸せを得た後だから言えることであって、そうじゃない人たちは――


「うぉあぁ!!」

「ひぎゃぁ!?」


 耳元に大声が届き飛び上がってしまう。振り向くとそこにいたのは満足そうな笑みを浮かべる暮人だった。


「……何なのお前?」

「いやぁ、驚かすならお前に限るぜ。最高のリアクションをありがとう」


 こいつだけは殺さなくてはならない。そう思った瞬間だった。

 二人並んで歩き出す。


「そういやお前、随分と髪が伸びたな」

「そ、そうか?」


 あれから日数が経って、刀護の髪は肩にかかるまで伸びていた。手入れをせずボサボサ頭であることから女性と間違われる心配はないが、不良に間違われる可能性はある。


「暮人も髪長いじゃん」

「まあそれを言われれば何も言い返せないんだがな」


 くだらない髪の毛談義をしているうちに、学校についた。下履きに履き替え教室へと向かう。教室の扉を開け、中へと入る。冬休み前だからか、全体的に活気があるように思えた。

 そんな中、こちらに向かってくる人影がいた。


「おはよう桐生くん、暮人」


 守花もりかだ。彼女は微笑みながら手を振る。


「おはよう、熊谷さん」

「おう。なぁ、冬休みどうする? またどっか遊びに行くか?」


 暮人が嬉しそうに切り出した。


「私は構わないけど、二人とも予定は大丈夫な訳?」

「お、オレは宿題が……」


 何を隠そう、刀護はバカである。


「なら前のテスト勉強みたいに、ファミレスで宿題でもするか。遊ぶならその後でもいいだろ」

「そうね。大丈夫よ桐生くん、暮人がいればなんとかなるわよ」

「白昼堂々オレ任せかよ……」


チャイムが鳴り、生徒たちが席につき始める。三人も笑い合うと、自分の席へと向かった。



   ***



 今年全ての学校行事を終え、三人は帰路へとついた。


「来年はいい年になるかなぁ」

「全員で初詣にでも行かねぇか? チームの奴ら、いつも夜更かししてるくせにこういう日はさっさと寝ちまうんだよ」

「中学生だけじゃ不安だけど……桐生くんはどう思う?」


 刀護はぼんやりと空を眺めていた。守花の視線に気づくと慌てて返事をする。


「も、もちろん行こう!おみくじとか引いたことないし、楽しみだなぁ」

「んじゃ、計画でも立てながら帰るか」

「あー、それなんだけどさ。ごめん、事務所に行かなきゃだから」

「そうか、お前は行かなきゃいけないのか」


 二人に分かれを告げると、刀護は歩きだした。

 嘘をついた。向かう先は探偵事務所ではない。どうしても行きたい場所があった

 河川敷。ガラリとした、寂しくて静かな場所。

風を感じながら、刀護は階段を降りた。草や土を見るが、もう足跡は残っていないようだ。

あの事件以降、アニキ――黒箆くろのは姿を現さなくなった。何か事情があるのかもしれない、そう思い刀護は毎日約束の時間にここへと訪れた。しかし、彼の姿をあれ以降、一度も見たことはない。


――まだ、教わっていないことが沢山あるのにな。


いつまでもここにいる訳にはいかず、刀護は階段を上った。

もう一度振り返る。やはり、誰もいない。


――これが、新しい生活って訳か。


何かを得るためには、どうしても何かを捨てるしかないのだろうか。

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