ボーナストラック③姉弟水入らず、多分

 扉を開け「ただいま」と言うと、奥から「おかえり」という声が帰ってきた。


「どうだった? 友達との初めての食事は」

「楽しかったよ、詩音さんにも色々聞いて欲しいことが……うおぁっ!?」


 居間にまで来たところで、刀護とうごは飛び上がってしまった。詩音しおんは「どうしたの」とでも言いたげに首を傾げる。

 無理もない。現在、詩音は体にタオルを巻いたままの姿で読書をしているからである。豊かな胸元には、まだ乾ききっていないお湯が垂れている。髪もまだ乾かしていないのか、しっとり湿っている。

 詩音は我に返って自分の姿を見ると、恥ずかしそうに笑いだした。


「あはは、ごめんね。一人暮らしの時は着替えるのと乾かすのが面倒だったからこうしてたの。お風呂入っちゃって、その間に着替えておくから」


 つまりは一人暮らしの時の癖のようだ。一人で生活しているとだらしない癖がつくことがあるとは言ったものの、刀護はそんな事情は知らないのである。だがそう言われると反論出来ず、そそくさと風呂へ向かうのだった。

 湯舟に浸かりながら、やんわりと今日のことを思い出す。

 学校で楽しく過ごして、その後にゲームセンターに行って、レストランで食事をとった。全てが初めてで新鮮な出来事だ、思わず口がニヤニヤしてしまう。しかも、これで終わりという訳ではない。これっきりではないのだ。これからも、こういうことがあるのかもしれない。そう思うと、明日が楽しみに感じて仕方がない。


 ――初めてだな、明日が楽しみに思えるなんて。


 口元の微笑みが止まらなかった。

 頭と体を洗うと、浴室を出る。寝間着に着替えてタオルをかけながら脱衣所を出た。

 居間に戻ると、詩音が寝間着に着替えて小説を読んでいた。こちらに気づくと、ホットミルクを飲むかどうか尋ねられた。頷くと、しおりを挟んで立ち上がる。

 マグカップに牛乳と蜂蜜を入れると、電子レンジの中へと入れた。温め終わると取り出し、机へと運ぶ。

 最近寒いせいか、ホットミルクが本当に美味しく感じる。口に含み、一息ついたところで詩音が問いかけた。


「今日はどうだった?」

「今までで一番楽しかったかもしれない……」

「そう、是非聞かせて。お土産話、楽しみにしてたんだから」


 刀護は今日あったことを、ホットミルクを飲みながら話した。学校での何気ないやり取り、ゲームセンターでギリギリだったエアホッケー、二人で気まずかったプリクラに、初めてのレストラン。

 詩音は時折頷き、時折笑いながらその話を聞いていた。

 ホットミルクを飲み切った頃、刀護の話は終わった。詩音は嬉しそうに微笑みながら、頬杖をついた。


「そっか……良い友達に恵まれたね。これからも絶対に楽しくなるわ」

「オレもそう思う。これからもどんどん頑張っていかねぇと」


 それから、と刀護は続けた。


「詩音さんとも出かけたいな」

「え、私と?」

「うん。この前日用品買いに行ったし、商店街に食材買いに行ったりはしたけど、そうじゃなくて……」


 言おうとしていたことが非常に恥ずかしいことであることに気づくと、刀護は思わず俯いてしまった。不思議そうに詩音は首を傾げる。刀護は決まり悪そうに、ゆっくりと口を開いた。


「えっと……ショッピングモールとか、普通に何か食べに行ったりとか……。そういうこと、出来ねぇかな?」

「……デートね、それ」

「そうだけど、そうじゃなくて……」


 恥ずかしくてわしゃわしゃと自分の髪を掻き乱した。状況が呑み込めず、詩音は首を傾げたままだ。

 深呼吸をして落ち着くと、刀護は真っ直ぐに詩音の方を見た。


「家族としても、出かけてみたいんだよ。……ダメかな、姉ちゃん」


 思わず再び目を逸らす。言ってしまった、無茶苦茶恥ずかしい。顔が熱くなってのぼせそうだ。

 パチパチと顔を叩くと少し落ち着く。だが、これからは家族なんだ。「詩音さん」だなんて他人行儀の呼び方じゃなくて「姉」としての呼び方をしないと。

 刀護が落ち着くと、詩音からの返答がないことに気づく。振り向くと、詩音が驚いた顔のまま固まっていた。


「……大丈夫?」

「……姉ちゃんって、呼んだ?」

「うん、呼んだ」

「……刀護くん!」


 詩音は立ち上がると、刀護に飛びついた。ギュッと抱きしめて離さない。


 ――待って姉ちゃん柔らかいとてもいい匂い……。


 刀護の頭の中は空回りしまくっていた。


「よかった……。いつまでも『詩音さん』のままだったから、もしかしたら不満があるんじゃないかって……」

「ご、ごめん……そこまで気は回らなかった。でも、姉ちゃんのことに関しては本当に感謝してるから……ありがとう」


 甘えるように抱き着く詩音を、何故か刀護が頭を撫でている。いつもとは逆であることに少し困惑しつつも、心の中ではあまり不快には感じなかった。というか、こんな綺麗な人に定期的に抱きつかれていたら、自分の中の女性像が凄いことになりそうだ。

 詩音が落ち着くと、ゆっくりと離れた。大泣き、という程ではないが目頭に少し涙が溜まっている。

 感謝の言葉は、言わなければ伝わらない。そんな当たり前のことを、初めて実感した。


 ――今度、アニキにもちゃんとお礼を言わないと。


 そんなことを思っていたが、欠伸が出てしまった。今日は楽しいことが沢山あったから、脳が疲れてしまったかもしれない。


「オレはそろそろ寝るよ。明日は試験勉強しないといけないし……」

「そうね。じゃあ刀護くん、今日は久しぶりに一緒に寝る?」

「うーん、そうだな、それも大事……うん?」

「あ、そっか。私もくんを外して刀護って呼ばないと」

「違うそこじゃない」


 圧倒的にそこではないのである。


「ね……何で一緒に!?」

「姉ちゃんって呼んでくれたから、何か一緒に寝たくなっちゃって」

「絶対におかしい! 孤児院で一人で寝れたんだ、一人で寝ることぐらい出来るわ!!」

「まあまあ、たまにならいいじゃないの」

「待て、姉ちゃん何で襟首を掴む? ダメだぞやめろよ!? おい離せって頼むから詩音さん!?」


 刀護の長い一日はどうやら、もう少しだけ続くらしい。

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