二章「三十六度の言葉たち」③新しい生活

 暮人くれとは教室に入ると、ある人物を探す。今日はどうやら、机に座ってボーっとしているようだ。

 歩いて近づくと、こっちに気づいたのか立ち上がる。立ち上がるあたり、警戒されているのかかもしれない。


「何よ、亜嵐あらん

守花もりかさんよぉ……英語の宿題、終わってるか?」

「終わっているわよ。確かに量は多かったけれど、問題一つの難易度はそこまで高くなかったわ」

「……頼む、写させてくれ」


 守花はため息をつき、呆れた顔で暮人を見る。


「珍しいわね、あんたが宿題を忘れるなんて。私より成績は良いのに」

「チームの方で少し盛り上がってよぉ……疲れて寝ちまった」


 この中学校の偏差値はそこまで高くはない、平均を少し上回っているかどうかというところだ。その中で守花の成績は上の中くらいなのだが、ヤンキーであるにも関わらず、亜嵐暮人あらんくれとという人間は入学してから半年、試験結果一位から一度も席を明け渡したことがないという、少し異例な人間なのだ。更に全国の模試でも、必ずトップ十に入る。校則違反を破ったり授業態度が悪かったりするが、成績は凄く良いことから教師たちも扱いに困っている。

 対して、守花は努力タイプの人間だ。勉強量や授業態度で成績をカバーする。決して頭が悪い訳ではなく、学校の中でもある程度上位にいるものの、才能に溢れている暮人を見ると少し嫉妬してしまう部分もある。だが評価している部分もあるので、こうしてたまに会話したりしている。

 守花と向かい合う形で暮人は座り、持っていたノートを広げた。守花もノートを開き、暮人に見せる。

 書き始めようとした暮人の目の前を影が覆った。誰か人が来たのか、特に気負うことなくそちらを見上げる。すると、


「お、おはよう……」


 普段、全く喋らない男が、こちらに挨拶をしてきた。

 刀護とうごは緊張した顔で、汗を流しながらこちらを見つめている。暮人と守花は思わず顔を見合わせた。

 勢いよく暮人は立ち上がると、刀護と肩を組んだ。


「よぉ! 何だ、お前から挨拶してくるとは思ってなかったぜ! 珍しいこともあるもんだなぁ!」


 ――い、勢いがすげぇ……背中バンバン叩いてくるじゃねぇか……。


 痛みに顔をしかめているが、暮人の勢いは止まることはない。痛い、本当に痛い。もうちょっと手加減出来ないだろうか、これ絶対背中に手形出来てるぞ。

 驚いている刀護に、守花は微笑みかける。


「おはよう、桐生くん。君から挨拶してくれるとは思わなかったわ」


 守花の微笑みに、刀護も思わず口が緩んだ。


「それにしても、どうして急にお前から挨拶なんて……びっくりしたぜ」

「私もびっくりしたわ、何かあったの?」

「そ、それは……」


 刀護は苦笑いを浮かべた。

 暮人と守花のことは詩音しおんにも話した。嬉しそうな表情を浮かべながら、詩音は刀護に話したのだ。


 ――その二人はきっと、あなたに興味があるのよ。いい? 人からの優しさは絶対に無碍にしちゃダメよ?


 詩音との約束だった。しかしそれをそのままこの二人に告げる訳にもいかない。

 少し顔を悩ませながら、口に出した。


「まぁ……挨拶してくれるあんたらと、出来れば仲良くなりたくて」


 口から出任せだが、決して嘘ではない。刀護も、この二人と本気で仲良くなりたいと思ったのだ。

 暮人と守花は顔を見合わせると、嬉しそうに微笑んだ。

 椅子から立ち上がって、暮人は自分を指さす。


「改めて自己紹介な。オレは亜嵐暮人」

「うん、ちゃんと覚えてる」

「私は、熊谷守花。覚えてないかもしれないけど、この三人小学校も一緒だったのよ」

「あれ……そうだっけ?」


 刀護が首を傾げる。


「確か、オレたちが五年の時にお前が転校して来たんだっけか?」

「そうだったと思うよ」

「まあお前は覚えてるわな。何せお前は――」

「や、やめ! やめてって!」


 騒がしく暮人と守花が揉める。それを見て、何だか刀護も微笑ましくなった。


「おっ、そうだ、刀護。お前英語の宿題やったか?」

「え? まだ、だけど……」

「一緒に守花に写させてもらわね?」


 守花は、はぁっとため息をつく。


「何よ、亜嵐はそんなにバカじゃないから出来るでしょ?」

「熊谷さん、頼めるかな」


 刀護が手を合わせて頼む。思わず守花もうっとなった。

 しばらく考えた末、


「……わかったわ、写させてあ――」


 学校中にチャイムが響き渡る。担任の先生も教室に入ってきた。刀護と暮人は苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。


「チャイム、鳴ったわね……」

「なぁ、刀護。英語の授業が何限目だったか覚えているか?」

「……一限目、だな」

「宿題を確認するのは?」

「……今日だな」

「宿題を忘れてきたオレたちはどうなる?」

「……成績が下がる」

「正解!」

「この二人、絶対に仲良くなるとしか思えないわ……」


 一限目が始まり、英語の教師がこの教室へとやって来る。今日このクラスで宿題を忘れたのは刀護と暮人、仲良く二人だけであった。



   ***



「そうか、引き取り手が見つかったのか。確かに、拳や動きから少し迷いがなくなったな」


 黒箆はタバコをふかしながら、大の字になって寝転んでいる刀護を見つめていた。日課の修行で黒箆に勝てる日は来るのだろうか。ボロボロになった刀護は肩で息をしながら答える。


「あぁ……良い人だよ。帰る場所をくれた」

「すまないな。オレは何もしてやれなかった」

「アニキにも感謝してるよ。力の使い方と、生き方をオレに教えてくれただろ」


 表情の変わらない黒箆だが、心なしか目元が少し優しい気がする。三年間、随分と苦労をかけてしまった。


「ありがとう、アニキ。一度もお礼を言ってなかった気がする」

「気にすることはない、オレだって自分の目的のためにやっている。英雄にすると、約束しただろう」


 刀護は起き上がると、黒箆が買ってきたスポーツドリンクを飲みながら、パンを咀嚼する。引き取り手が見つかったのだからいらないと捨てようとしていた黒箆を、刀護が静止した。勿体ないので頂くことにする。

 家に帰るのが楽しみに感じている自分がいる。今日の夕食は何だろうか、風呂には何分浸かろうか、寝る前にはどの本を読もうか、明日は何があるだろうか。

 思わず、頬が緩んだ気がした。


「家族、か……」

「そういえば、アニキは出会った時いなかったって言ってたな」

「あぁ、いないな。正確にはいたといるらしい、か」


 言っている意味が分からず、刀護は首を傾げる。タバコを咥えて涼しい顔をしている刀護の視線に気づくと、少し顔をしかめた。


「……何だ?」

「この流れは教えてくれないのか?」

「何故教えなければ……いや、気が変わった。教えてやるよ」


 黒箆はタバコを手のひらで潰す。


「親代わり、姉代わり、恋人代わり……どれに該当するかわオレにはわからないが、オレを育ててくれた人はいた」


 どこか儚げな黒箆の目に、刀護は目が離せなくなった。


「五年以上、そいつとは一緒だった。この外套はそいつから受け継いだものだ」

「大切なもの、なんだな」

「あぁ。あの野郎ミニマリストだから、形見といえる物がこれぐらいしかなかった」


 ――受け継いだ、形見……ってことは……。


 黒箆がゆっくりと目を瞑る。


「想像通りだ、死んだ。手紙とこの外套を残してな」

「ご、ごめん……」

「構わない。むしろお前はそいつを大切にしろ、一生な。オレのようにはなるもんじゃない」


 それだけ言うと、彼は立ち上がった。刀護も立ち上がり「また明日」と声をかける。黒箆は振り向きもせずにその場を去った。

 一人だけの帰り道。だが、今の自分には繋がっている人たちがいる。独りじゃない。

 すれ違う人や車、今までは何も感じることがなかった。だが、この人たちにも繋がっている「心」がある。


 ――オレは心を見ようとしていなかった。


 正確には見ることを諦めていたのだ。自分にはそんなものはない、無縁だ。そして人の心が自分に作用する訳がないと。人はただ、生きている訳じゃない。何も邪悪な部分のみが存在する訳ではない。

 しかし、では。

 この先自分は、どのようにして生きていくべきなのだろうか。

 考えているうちに詩音の家に着いた。


 ――違うか。ここはオレの家だったな。


 ポケットから、貰ったスペアキーを取り出すと鍵を開ける。何度やっても、この自分の家に鍵を開けるというアクションには慣れない。

 扉を開いて、中へ入る。靴を脱いで居間へと向かった。


「ただいま」


 そう言いながら、廊下を歩く。


「あら、おかえり」


 詩音の声が聞こえた。

 キッチンを覗くと、詩音はまだ調理中だった。換気扇が吸いきれない料理の香りが刀護の鼻にも届く。今晩はカレーだろうか。

 詩音はお玉を鍋に立て掛け、ふぅと息をつく。ボーっと調理を眺めている刀護に気づくと、にこやかに手招きした。


「よかったら、カレー作るの手伝って欲しいわ」

「で、でもオレ、大したことは……」

「大丈夫、焦げないように鍋の中のカレーを回して欲しいだけだから」


 そう言われると断れず、刀護はおずおずとキッチンに入った。

 言われた通り、カレーを混ぜる。思ったよりお玉が重い、こうやって調理器具やよそう前の料理を触るのは学校の給食当番を省けば初めてのことだった。孤児院では「食事は神聖なものだ」と教えられ、孤児たちは調理に触れる機会は一切なかった。

 だが、それは詩音も同じはずだ。


「……よく、一年でこんなにも料理出来るようになったな」

「褒めすぎよ、ちょっと照れるわ。最初は苦手だったのだけれど、一年も自炊していれば誰でも慣れるわ」


 照れくさそうに微笑む詩音。綺麗だな、と思ってしまい何だかこっちも恥ずかしくなってくる。

 しばらく回していると、詩音が刀護からお玉を受け取り、小皿にカレーを入れる。


「ほら、味見してみて」


 味見。小説では見たことがあるが、実践は初めてだ。

 ゆっくりと口を付けてカレーを流し込む。


「熱っ!」

「ふふっ」


 ――笑われた……。


 恥ずかしくなっていると、詩音が隣から声をかける。


「味はどう?」

「う、美味いよ」

「味の調整段階だから、遠慮せず気になったことを言ってね」

「……強いて言うなら、ちょっと味が濃い」

「うーん、なら少し水を足してみましょうか」


 こうして刀護の初めての手伝いは終わった。

 カレーライスをテーブルに並べ、椅子に座って「いただきます」と言い食べ始める。

 家庭特有の少し大きいじゃがいもを楽しんで食べていると、前から視線を感じた。

「……どうかした?」

「いや、美味しそうに食べてるなぁって」

「そ、そうか……?」


 しばらくそうやって食事をする。刀護はおかわりをし、二杯半程平らげて食事を終えた。

 食後のコーヒーを飲みながら、詩音は尋ねる。


「どう? 学校は」

「どうって……」

「その話しかけてくれるクラスメイトたちとは、仲良くやってるの?」


 気になるのか、前のめりになって尋ねてくる。目を逸らす、服の襟の中から胸が覗き込むから目を逸らす。何故こんなにも大きいのか……。

 目線を逸らしながら、刀護は今日あったことを話した。暮人と守花に挨拶をしたこと、くだらないやり取りをしたこと、仲良く英語の宿題を忘れて目立ったこと。

 嬉しそうに聞いていた詩音だったが、後半は口に手を添えて笑っていた。


「ちょ、笑いすぎだって……」

「だって、凄く面白そうなんだもの……いいなぁ、楽しそうで」


 コーヒーを飲んで一息つき、頬杖をつきながらこちらを見る。


「この時期の友達は一生の付き合いになるかもしれないんだから、絶対に大切にしなさいよ」

「あ、あぁ……」


 嬉しそうな詩音を傍らに、刀護はふと壁の方を見た。

 詩音に、アストラルのことと黒箆のことは話していない。黒箆に口止めをされている訳ではないが、彼から「アストラルは奇跡の力で不幸を生む」と何度も教わった。それは今、この幸せを取り壊しかねない可能性だってある。


 ――この人にだけは、絶対に不幸にはなって欲しくない。


 それは間違いなく、刀護の意思だった。

 詩音はテーブルの上の食器を片づけ洗い始める。刀護は風呂洗いをしていた。洗剤の量は間違えない、もうあんな間違いは二度としない。本当に恥ずかしいのである。

 食器洗い、入浴など、人通り用事が終わるとそれぞれの部屋へ。


「あれ、刀護くんそっちの部屋に行くの?」


 詩音が不思議そうに尋ねる。

 部屋は余っていたものの、ベッドなどの家具がなかったため注文した家具が届くまで詩音の部屋で寝ていたのだ。


「い、いや、いいよ。自分のベッドあるし」

「この前までは私のベッドで一緒に寝ていたのにねぇ……」


 恥ずかしさのあまり、刀護は勢いよく扉を閉めた。



   ***



「さあ、定例会議を始めようか」


 十一月と少し、調査を粗方終えた鳴上探偵事務所の二人は情報交換を始めた。

 椎名しいなは手を組みながら、にこやかな目を眼鏡から覗かせる。定例会議と言っても椎名と右京うきょうしかいない訳で、というか定期的に会議は開かない訳で、というかこの依頼の会議のためであって。

 右京は自分のデスクから封筒を二つ持ちだし、椎名と向かい合って座る。


「『人間オークション』。非政府組織……というか、犯罪組織『カルナバル』が行っている人身売買イベントだね」

「月偽政府から、日本だった頃に一部のデータを手に入れたよ。全てのデータではないから断言は出来ないけれど、取り締まられた人たちの統計から、オークション当時の商品の年齢は十歳から十八歳……確定するには不十分だが、参考資料程度にはなるだろう」

「活動圏内は旧日本全体、今の月偽にもカウントされるね。何人かの構成員は捕らえられたが、劇薬で自殺……」


 正直、調査には難航している。何せ活動が「人身売買」にのみに縛られた組織だ、非効率的極まりない。これまでにも、何度か犯罪組織を相手にしたことはあった。だがこれ程不可解で非効率的な組織は初めてかもしれない。


「不可解だなぁ……」

「そうかい? 私はある程度目星がついたよ」

「ほ、本当に?」

「あぁ、だがその前にもう一つの要件についてを整理しようか」


 そう言われると、右京はもう一つの封筒を取り出す。


「こっちは調べるの、比較的簡単だったね。対象の名前は『桐生刀護』。この中学校の一年生で春風の家の孤児。第三次世界大戦までの記録は何故か残されていかなったけど、記録では戦争孤児ってことになっているね。そして、アストラル能力は――」

「――『犠牲スケープゴート』、だったね」


 椎名は頷く。


「この『カルナバル』なんだけれど、恐らく宗教が関わっていると思う」

「そうなのかい?」

「えぇ。カルナバルという言葉の元々が宗教用語だからな。とはいえ、その宗教用語元が、『カルナバル』の信仰している宗教だとは考えにくいな」


 何が言いたいのか、いまいち何が言いたいのかよくわからない。それを察したのか、椎名は静かに口を開いた。


「桐生刀護と『カルナバル』。私には無関係だとは思えないって訳だ」

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