二章「三十六度の言葉たち」②ただ、諦めない
現在、刀護の心の中は複雑な感情が渦巻き続けている。
一つ目は罪悪感だ。風呂掃除をしたことがあるといっても、それは孤児院の大浴場を当番制で洗ったことがあるだけだった。そしてそれは、家庭の風呂の加減を知らないということになる。結果、泡塗れになった浴槽を見た詩音が大爆笑し「私も初日は同じことしたわ」と、笑いすぎで涙を浮かべながら泡を洗い流していた。
二つ目は、測りかねることが出来なかった。小説の言葉を借りるのであれば「興奮」や「高揚」が当てはまるだろう。先に風呂に入れてくれた
部屋の中は綺麗に整頓されており、可愛らしい女の子の部屋というよりは、落ち着いた女性の部屋というのが第一印象だ。だがぬいぐるみが置いてあったりと、所々に幼さが見える。また、自分の部屋からはしなかった、ふわんとした甘い匂いがした。
――小説でいうならここは女の子の部屋で、オレは初めてその部屋に……。
刀護の感情と心臓が爆発して暴れ出したのはそこからだった。
恐らく今の自分の顔は真っ赤だろう。それもそうだ、女の子の部屋だなんて人生で一度も入ったことがない。孤児院は他の子供の部屋に入るのは禁止だったし、何なら自分の部屋からは埃とカビの匂いがするくらいだ。
――こ、こんな……こんな体験オレは知らない……。
程なくして、部屋の扉が開いた。
「ごめんなさい、少しのんびりし過ぎたわ……って、何で立っているの? 別にベッドに座っても良かったのに」
詩音は孤児院では見たことがない、羊のようなもこもこした寝間着を着ていた。髪の毛は濡れてしんなりしており、体は火照っている。首にかけたバスタオルで時折額から垂れてくるお湯を拭いていた。
――し、知らない……こんな姿オレは知らない……。
そろそろ刀護の頭はオーバーヒートしかけていた。女性と極端に接点がなかった故の末路である。
「あら、顔が赤いわよ。困ったわね、湯舟でのぼせちゃったかしら?」
更なる追い打ち、オーバーキル。刀護のライフはゼロ、ゲームセット、白目寸前。
力尽きるかのように、刀護はしんなりとベッドに座り込んだ。
――ど、どうなってる? 何か、舞条さんが凄く魅力的に見える……。孤児院の奴らでも職員の人たちでも、こんなことなかったのに……。
詩音が隣に座った。ふわっと甘い匂いが鼻まで届く。
――助けてアニキ!!
会心の一撃、心からの叫びであった。
「……あのね」
詩音が切り出す。必死な表情の刀護と裏腹に、詩音の表情はどこか思い詰めたかのような表情だった。刀護も思わず顔を傾ける。
「私の話を、聞いて欲しいの」
雰囲気が変わったことを察し、刀護は静かに頷いた。詩音の表情に、切なさのような色が差し掛かる。
「知っていると思うけど、私も春風の家の出身よ。身寄りがなかった私は、七年前……十二歳の頃に、ここに来たの。それ以前はまた別の施設で過ごしてたの。あの施設は……酷いものだったわ。やりたくないことをやらされて、罪を被って、心も、体も、凄く痛かったわ……」
胸をぎゅっと、握りしめる。影のある詩音の表情は普段の彼女からは想像することが出来なかった。
「前の施設から、私を出してくれた人がいたの。もう名前も憶えていないけれど、その人は春風の家に私を逃がしてくれた。それが、私が初めて感じた優しさなの。春風の家で過ごしていたら、その優しさも随分長く忘れていたわ」
でもね、と続ける。
「一年前、私は春風の家を出て、運良く合格した大学で勉強しているわ。色んなアルバイトをして、買い物をして……この一年、何とかここまでやってこれたの」
それは奇跡だ。神の祝福とか、そういう人知を超えた超常的なものではない。人の繋がりと心、何より優しさが育んだ偶然の状態だ。
「色んな人に助けられたわ。大学の先生、同級生、バイト先の店長、先輩、商店街の人たち、そして何より、私を前の施設から救いだしてくれたあの人……」
詩音の表情は、次第に困ったような笑顔になる。彼女の手は、彼の膝の上にあった刀護の手を握っていた。
「この前、初めて私はあなたの目を見たわ。きっと、いつかの私がしていた目……もしかしたら、それより濁っていたかもしれない、今もそう。そして私はそれを見ようとしてこなかった自分を、とても責めたわ」
詩音の温もりが、手を介して心へと伝わってくる。ぐちゃぐちゃに絡まった「何か」が、少しずつ緩んでいく。
見上げると、詩音はまっすぐにこちらを見つめていた。
「だから、助けたい。今度は私が、あなたに優しさを教える」
詩音の言葉が、心に触れる。
「だから、あなたの『今まで』を教えて欲しい。私がきっと『これから』を与えてみせる」
断ると、そう言うつもりだった。
何故なら、それは。
綺麗事だ。
「……それより前のことは覚えてない。だが、オレは六年前の大戦の戦争孤児だ」
偽善だ。
「恩人に、生き方を教えて貰っている」
欺瞞だ。
「施設じゃ、オレはつまみ者だった。神に感謝しないクズ、従わない三下……施設の問題は、問答無用でオレのせいにされてきた」
傲慢だ。
「痛みは数知れず、傷だって、苦しみだって、辛さだって悲しさだって憎しみだって!」
まごうことなき空虚な感情だ。
「ずっと独りで、ここまで歩いて来た」
なのに、どうして。
「オレは、
こんなにも止まらないのだろう。
詩音の手が、刀護の頬に伸びた。恐怖で体がこわばる。
「そうなのね……。独りで、よく頑張ったわね」
肩を優しく触り、そっと抱き寄せられる。
「っ……」
彼女の温もりが全身に伝わってきた。心地良い熱が体にじんわりと伝わってくる。
自分の何かが書き換えられている。知らないものが体に入ってくる。心地よさが枯渇した心に潤いをもたらす。
――知らない。
震えが、止まらない。
――知らない。
何かがこみ上げてくる。
――こんなの、オレは知らない!
ぐちゃぐちゃになった頭の中、自然と腕に力が入り、詩音を引き亜剥がそうとした。
「助かるのを諦めないで!!」
詩音の叫びが確かに刀護に届く。
呆気にとられ、その場で凍り付いてしまった。首元に当たった、温かい雫ではっとなる。
「私も、怖かった。人と繋がって今まで頑張ってきた自分が無くなるのが怖かった」
力強く「でも」と続ける。
「私たちは弱いから、独りでは生きていけないのよ」
そんなことはない、刀護は今まで独りで生きてきた。生活していたし、歩いていたし、走っていたし、戦ってきたし、眠っていた……。
――……あれ?
「助けてしか貰えなかった、こんな私だけれどね……」
――オレは……。
「絶対、何があっても、あなたの味方でいるから……」
――どこに、帰ればいいんだっけ。
「だから、お願い」
「あ……」
「頑張った自分を、諦めないで」
――そこからは思い返すと恥ずかしい。
「う、あぁ……」
刀護はひたすら、詩音の腕で泣き続けた。
「あぁぁ……クソっ……」
何の涙だったか、それを説明するのは少し難しい。色んな感情があった。刀護を抱きしめ、撫で続ける詩音の目尻にも涙が浮かんでいた。
どれくらいそうしていたか。五分かもしれないし、十分かもしれない。三十分、あるいは一時間かもしれない。泣きつかれた刀護は、そのまま詩音の腕の中で眠りについた。
誰かの温もりを感じて眠るのは、これが初めてだった。
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