二章「三十六度の言葉たち」①初めての。
鍵を刺し、開ける音がする。その仕草を観察するのはどこか新鮮なように感じた。カチャリ、と扉が開く。
「ほら、入って」
入るまでに時間がかかった。どうしてもこの一歩を踏み出すことに躊躇いを感じる。何故なのかはわからない、ただ掴むところのない手をふわふわと握ったり解いたりするだけだった。
すると、詩音が
刀護は照れくさそうにお辞儀をした。
「お、お邪魔します」
「違うわよ」
困った顔をした刀護を見て、詩音は微笑んだ。
照れくさい。何だかそれだけだった。
「た……ただいま」
「えぇ、おかえり」
刀護が靴を脱ぐのを待ち、それが終わると詩音はスタスタと奥へ向かう。自分の家なのだから慣れも何もない。刀護は不安な気持ちを押しつけながら、同じく奥へと向かった。
居間は一般家庭よりは少し狭いものの、大学生が借りる賃貸としては充分な広さがあった。テレビとテーブル、四人分の椅子がある。
詩音はキッチンへと足を運んだ。
「ちょっとご飯までに時間がかかるから、テレビでも見て暇つぶししておいて頂戴。あ、それともあなたなら小説の方がよかったかしら?」
「……お構いなく」
少し笑って「変なの」と返すと、包丁を取り出して具材を切り始めた。
刀護は料理の音を聞きながら、目を瞑って思い出す。これまでの経緯を。
詩音が来た数日後、刀護は職員から不自然な視線を感じていた。軽蔑というよりは不安、擁護の感情が籠った視線だった。疑問に思いながら過ごしていると、総長から告げられたのは「引き取り手が見つかった」ということだった。ここ最近、養子を探して来る大人はめっきりいなかったため、全く思い当たるところがなかった。更に一癖も二癖もある自分だ、引き取る相手なんて絶対にロクな人間じゃないとずっと思っていた。しかし迎えに来たのは、優しくも安定感のある女性、舞条詩音であった。
驚いてボーっとしているうちに、いつの間にか詩音が過ごしている賃貸にやって来てしまった。彼女曰く「部屋が余ってたから丁度よかったのよ」らしい。しかし、彼女に一切のメリットがない。何か狙いがあるのだろうか。
家族。ふと、その言葉に考えを巡らせる。
漠然としたイメージは、切りきれない血の絆。少なくとも、小説ではそう書かれることが多いような気がした。
考えているうちに調理が終わったらしい、詩音が皿を持ってテーブルに来た。
「今日は肉じゃがよ。ごめんね、お祝いにもっと立派な料理を作りたかったんだけれど、何せお金がないから……」
目の前にある、温かい料理。孤児院で食事をすることは月に三、四回あるかないかだ。他に食事と言えば、学校で食べる給食と、黒箆が買ってきてくれるコンビニ料理だけだ。もしかしたら、こうして温かい料理を食べるのは人生初かもしれない。
詩音が取り皿と白米を刀護の前に並べる。
料理から湯気が出ていることに刀護は驚きを感じていた。小説でしか見たことがない、手作りの料理だ。もしかしたら人生で初めての体験ではないだろうか。
「あなたがどれくらい食べるか、ちょっとわからないから沢山作ってあるわ。全部食べてもいいし、余ったら明日のお弁当に入れるから、気にしないで食べて頂戴」
戸惑いながら、箸を持ち白米に手を伸ばそうとする。
「こらっ」
「え……?」
声を上げられたことに驚き、思わず詩音の方を見る。
「全く……あの施設は神様うんたらという前に、ちゃんとした礼儀作法を教えないのかしら?」
詩音はため息をつきながら「あのね?」と続ける。
「学校でやってると思うけど、ご飯を食べる時には『いただきます』、食べ終わった時には『ごちそうさま』を必ず言いなさい。これから私たちは家族なんだから、そういうことはちゃんと覚えて貰うわよ」
思わず勢いに呑まれたが、そう言えば小説でも書かれることが多いな、と頭を過ぎる。食べる前のこの挨拶は礼儀だ。
刀護は頷き、手を合わせた。
「い……いただきます」
「よろしい、いっぱい食べてね」
詩音も手を合わせ、食事を始める。詩音は箸を肉じゃがに伸ばし、じゃがいもを頬張りながら白米を口に入れる。上手く出来たのか、何度か確かめるように顔を縦に動かした。飲み込み終わり、こちらに視線を送る。「食べないの?」とでも言いたげに首を傾げる姿に、どこか戸惑いを憶えてしまった。
思わず咳払いをする。まずは箸を白米に伸ばした。慎重に口の中に運ぶ。
炊き立ての白米の温もりと特徴ある甘さが口の中に広がる。
すかさず刀護は肉を頬張り、更に白米を食べた。
――す、すげぇ美味しい……。
感動しながら食べていると、クスクスという声が聞こえる。視線を上げると詩音がニコニコしながらこちらを見つめている。
「……何か?」
「いやぁ、それだけ嬉しそうに食べてくれると作ったかいがあったなぁって、こっちも嬉しくなっちゃう」
「べ、別に嬉しそうには……」
「顔、にやけたままだよ」
思わず恥ずかしくなってしまい、刀護は黙って食事を続けた。だが白米も肉じゃがも美味しすぎて思わずにやけてしまう。自覚した後だと尚更それがわかった。噛むだけで美味しいと感じることなんて、今までの食事であっただろうか。
詩音はそれをしばらく眺めていたが、きりがないので自分も食べようと箸に手をかけると、食器を机の上に置く音がした。
「あら、食べ終わった?」
「あ、えっと……?」
「どうかしたかしら?」
刀護は自分の皿を持ち、詩音の前に突き出した。
「……おかわり」
ふふっと思わず笑ってしまう。
「えぇ、いいわよ。まだまだ残りはあるから」
結局、刀護はその日の肉じゃがと白米を全て平らげてしまった。食後のコーヒーを楽しむ詩音に、刀護は少し申し訳なさそうな顔をする。
「ご、ごめん……食べ過ぎた」
「いいのよ。正直、流石に全部食べることはないだろうと思っていたけれど、あなたの嬉しそうな顔を見てたら何だかどうでもよくなったわ」
詩音は優しく微笑む。
「あなたが満足したなら、私はそれでいいのよ。明日のお弁当の具材なんてどうとでもなるわ」
「そういう、もんなのか……」
椅子の上でソワソワする刀護を詩音は見つめる。
「どうかしたの?」
「い、いや……どうすればいいかわからなくって。孤児院ではいつもこの時間には寝ていたから……」
「うーん、そうねぇ。流石にまだ七時半だし、寝るのは勿体ないかしら?」
そう言うと、詩音は何か思いついたかのように、コーヒーを刀護の前に差し出す。刀護はそれを不思議そうに見つめた。
「コーヒーを見るのは初めて?」
「あ、あぁ……小説でしか見たことない」
「飲んでみていいよ」
刀護は詩音からコーヒーを受け取ると、ゆっくりとコップを傾け、恐る恐る口に含む。
「……んげぇ」
「あははっ、舌出して可愛い」
「こんなの、何で小説の探偵とか飲めるんだよ……クソ苦いじゃねぇか……」
「ごめんね、ちょっといたずらしたくなっちゃって」
笑いながら、詩音は刀護からコップを受け取る。苦くてしかめっ面をしている刀護の手に、甘いタブレットを渡すとコーヒーを一気に飲み込んだ。立ち上がると「さて」と切り出す。
「あなたが来て初めての日だし、少しあなたとやりたいことがあるのよ。だから残っている用事を早く終わらせたい。お風呂洗いなら出来るよね?」
「あ、あぁ……」
「じゃあ、ちゃちゃっと終わらせちゃいますか」
腕まくりをする詩音と、勢いに呑まれかけている刀護。
こうして、第一回「お手伝い選手権」が幕を開けるのであった。だが、刀護は知らない。孤児院の大浴場と家庭の風呂では、洗剤の量が違うことを。
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