第五章 二十七話 「夢の中で」
朦朧とする意識が晴れた時、イーノックは故郷の森林の中を走っていた。温かい陽光、体に感じる心地の良い風は戦場のジャングルとは全く違うものだった。全てが優しい。いや、優しいと感じることができた頃の記憶……。彼の体はまだ小さく、幼かった。
(そうか、戻ってきたのか……。この日々に……)
染み染みとした感慨とともに自らの小さな掌を見つめたイーノックは不意に背中に走った痛みに背後を振り返った。
「何、ぼおっとしてんだ!イーノック!ここは戦場なんだぞ!」
視線の先で、つづみ銃の玩具を手に得意げにそう言った少年の姿を見て、イーノックの心は激しく揺れ動いた。
(兄さん……!)
もう会いたくても会えない人……、そんな兄の幼き日々の姿に揺さぶられるイーノックの心中など知らず、
「何泣いてんだよ!」
と笑った幼きヴェスパ・アルバーンは踵を返すと、濃い森の中を走り去って行った。
「待って!」
「悔しかったら、追いかけてみろ!」
先を走る兄の小さな背中をイーノックは必死で追いかけた。
だが、追いつけない……。追いつけず、息が切れそうになった瞬間、聞き覚えのある青年期の兄の声が脳裏に響いた。
「俺は人生の中で一度だけでも……、一度だけでも国のために戦いたい……」
そう言いながら、森の中から現れた兄の姿は先程より大きく、大人になっていた。
「イーノック、父さんと母さんを頼む……!」
軍服姿に身を包み、肩にスリングでボルトアクションライフルを背負ったヴェスパはイーノックにそう言うと、森の中へと走って行った。その先の森はナパームの炎で赤く燃えたぎっていて、熱気に顔を歪めたイーノックが、
「待って!」
と叫んだ瞬間、今度は彼の耳元で三八口径の銃声が轟いた。聞き覚えのある銃声に恐る恐る背後を振り返ったイーノックの視線の先には自ら頭を撃ち抜き、倒れた兄の姿があった。
「兄さん……!」
そう叫ぶイーノックだったが、彼にはもうどうすることもできなかった。彼は後悔することしかできなかった。兄の言葉を真剣に受け止めなかった自分自身の至らなさを……。だが、今のイーノックは違っていた。
(誰であっても、過去に起こった事を変えることはできない……。だけど……)
「自分を変えることはできる……。そして、未来も……」
その声に顔を見上げたイーノックの頭上には煌々と光り輝く明るみがあった。
兄の声……、確かに兄の声がした。
「もう迷いはないな?」
姿はない。だが、確かに聞こえる兄の声にイーノックは答えた。
「ええ、この戦場に来て、仲間達から多くのことを学びました」
兄の後を追って辿り着いた戦場で見たこと、感じたこと、それらは自分のこれからの人生を大きく変えることになるだろう……。イーノックはその確信を抱いていた。これからは兄を救えなかった後悔ではなく、未来のために生きていくことができると……。
「さぁ、もう行け。ここはお前のいるべき場所ではない」
兄のその一声に我に返ったイーノックは追いかけなければならない一人の男の背中を思い出して、昏睡の眠りの中で目を見開いた。その瞬間、頭上に輝いていた光が彼の周囲を包みこみ、イーノックはもう二度と会えぬ兄に永遠の別れを告げたのだった。
☆
(雪……)
空を舞い散る白い粉塵を薄く開いた瞼の間から見て、イーノックはぼんやりとそう思った。だが、体を包む大気は痛々しいほどにまで暑く、彼の上に舞い落ちてきた粉塵は雪のように優しい肌触りをしてはいなかった。
(灰……?)
そう考えたところで急速に正気に戻ってきた意識で先程までの激戦を思い出したイーノックは飛び上がるようにして、半身を起こした。体に積もっていた粉塵が舞い上がるとともに全身に激しい痛みが走る。身につけていた戦闘服は布切れ同然の状態になっており、全身は黒く焦げ付いたように煤がまとわりついていた。
(最後の熱気……)
意識が消失する前に感じた、命を絶ち切るような熱感を思い出したイーノックはふと傍らを見やった。そこには彼の背中に銃剣を突き刺した民族戦線兵士が殆ど炭化した状態でうつ伏せに転がっていた。
(この男が期せずして覆いかぶさったおかげで俺は生き延びたのか……)
その事実を認識したイーノックは痛む体をゆっくりと起き上がらせると、自分の周囲を確認した。
見える限り、死屍累々の山。炭化した死体と破壊された車両が沈黙して転がる周辺は舞い上がった硝煙と灰のせいで数十メートルほどしか視界が利かなかったが、さながら終末の世界といったような情景だった。
呻き声や助けを求める細い声が聞こえる人の山の中を呆然として歩いていたイーノックはそこに見つけるべき人の背中を探していた。
「大尉……」
(あれほどの爆発なら巻き込まれているに違いない……)
そう考え、死体の山を彷徨うイーノックだったが、ウィリアムとユーリの姿は一向に現れなかった。
もしかして、二人は自分の手の届かぬところに消えてしまったのではないか……。
その不安が脳裏をよぎった瞬間、無意識の内に涙を流してしまっていたイーノックだったが、微かに彼のことを呼ぶ声が遠方より聞こえてきたのはその時だった。
(この声は……!)
「大尉……!」
声がする方向を見ると、灰白色の霧の中で小さな黒い影が手に握ったライトの光を振って、彼を呼んでいた。
「大尉……!無事だったんですね!」
先程とは違い、喜びから涙を溢れさせながら、イーノックは人影の方へと走った。
「イーノック!イーノックか!」
「大尉!」
自分の姿を見つけたらしい人影に向かって、イーノックは応答を返しながら走った。
(この足を進めた先に全ての兵士と戦場を救う正義が……、戦場の絶対正義を知る男がいる……)
そう信じて、痛む体に鞭を打って全速力で走ったイーノックだったが、硝煙の霧の先で彼が見たのはウィリアム・R・カークスではなかった。
「サンダース少佐……」
自分の名前を呼んでいた人影の正体がウィリアムではなかったと知ったイーノックは一気に全身の力が抜け、その場に倒れ伏しそうになった。
「大尉は……、大尉はどうしたんですか?」
イーノックの必死の問いにサンダースは表情を曇らせた。それが全ての答えを物語っていた。
「彼はまだ発見できていない……」
その答えを聞くよりも先に踵を返したイーノックは灰の舞い散る中を、ふらつく体を引きずりながら、探すべき人の姿を求めて彷徨い始めた。
「探しに行かないと……」
「おい!待て!」
サンダースがイーノックの肩を引き止めた瞬間、強力なダウンウォッシュの風が彼らに吹き付け、二人の周囲の霧が唐突に開けた。
「探しに……」
そこまで言ったところで力を使い果たし、サンダースに抱き止められるようにして意識を失ったイーノックの頭上にはリロイ達を乗せたMH-53ペイブロウの巨大な機影がゆっくりと降下してくるところだった。
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