03:カンバス

「ヒロ兄ィ」

 十年振りに逢った幼馴染みの従兄は、俺を少し見上げて目を眇める。

 千紘と本当によく似ていた。うっかりと、名前を呼びそうになるぐらいには。

 たっぷりと取る間に、複雑怪奇に絡んだ感情があるのだけはわかった。

 ひとつため息吐き出して視線が逸れた。

「……お前のせいだ、って言えたら楽なのにな」

 声色は平坦を通り越して冷気さえ纏う。身に覚えがない。

「久々に顔合わせていきなりなんだよ」

 千紘の家の広い縁側へ両足投げ出して座ったヒロ兄はさあね、といった風だ。

 ばたばたと、来客をもてなすべく慌しい足音を背に、近く、海鳴りが聴こえていた。

 耳を澄ますように瞳を閉じた隣に、俺も腰を下ろす。

「結局、千紘はこれで満足だったっていうのかな」

「……」

「お前に何も言わないままでよかったっていうのかな」

 言葉の意図を測りかねて首を傾げた俺に、再び目を開いたヒロ兄が今度は眇めるでもなく視線を合わせて来る。

 ようやく、彼の言わんとするところがわかった気がして、手が震えた。

「お前が言わせなかったんじゃねーの、省吾」

 何を、とはもう聞き返せなかった。

 わからないフリをしていたかった、それが俺の本音の気がした。

 応えられずに唇を咬む。

「…なんてな、オレが詰ったら千紘にどやされるわ。アイツ、頑固だから」

 肩竦めてなんでもないように声色上げて言うヒロ兄は、眉を下げた。

 ぽん、と俺の背を叩く。

「オレは何度も諭したんだぜ。それでも、アイツ、ついに折れなかった」

「……俺はきっと甘えていた。甘んじてた」

「ばかだよ、お前ら」

 言葉のわり、朗らかにヒロ兄は微笑った。その微笑みすら、千紘に似ていた。

 俺は笑えなかったけれど、この胸に残る痛みを感じ続けていたい、そう思った。

 この痛みが、千紘の居た証だと思った。


 黒尽くめの集まるその日、千紘の部屋で一枚の絵画を見つけた。

 あおい青海から水面を見上げたような彩のカンバス。

 俺は絵に疎いけど、それが海中なのはわかる。いつも俺が見ていた景色だから。

 暗い海中から見上げる水面は陽がまぶしくて、手を伸ばしたくなる。

 そう、手を伸ばすように光が差し込んでいた。


 手を伸ばすように。手を、差し伸べるように。


 「海月」と名前のついた絵画は、地元の美術館に寄贈された。

 冷夏のその夏、蛍の光のようにはかなくひっそりと消えた灯。

 俺だけは絶対に忘れたくない、そう思いながら海へ飛び込んだ。


 ――今年も夏が来るよ、千紘。


(短編SS:線香花火へ続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る