十七粒目 キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

 映画の上映中、「そろそろ潜伏先を変えましょう」と美緒が言い出したことから、これから面白くなってくるぞというところでシネマロサを出ることになった。


 コンクリートジャングルに染み入る蝉の音を聴きながら三人は池袋を歩く。先頭を行くのは美緒である。明確な目的地があるようなしっかりとした彼女の歩き方に、馨はますます彼女を訝しみながらも、どうしてだか問いただすような乱暴な真似は避けたいと思えた。


 やがて三人が辿り着いたのは駅前にある東京芸術劇場である。新幹線の先頭車両みたいに尖った形をした全面ガラス張りの建物で、この季節は太陽を必要以上に反射して眩しい。


 ぎらぎらと輝く特徴的な建物を見上げた香は、「懐かしいなぁ」と目を細める。


「昔、家族に連れて来られたことあるよ、ここ。なんかのオーケストラ聞いたんだよね」

「へえ。なにを聞いたんですか?」

「ううん、覚えてない。ただ、カフェで食べたパフェは美味しかった」

「……花より団子ですね」

「なにぼんやりしてるんですか。行きますよ」


 ふたりのカオルを差し置いてとっとと歩き出した美緒は、自動扉を開いて建物の中へと吸い込まれていく。慌てて追えば、広々としたエントランスに立つ美緒は、空が透けて見える天井をしかめ面で見上げていた。


 もう間も無く十八年目に差し掛かる馨の人生において、東京芸術劇場に来たのは今日がはじめてのことである。色々と見て回りたい気もしたが、この状況ではそうも言っていられない。


「二階にカフェがあります。そこで少し休みましょうか」と提案しつつ歩き出す美緒の後を、「やった! パフェだ!」とウキウキしながら手を叩く香と共について行く。


 上階へ続く長いエスカレーターに足をかけ、中頃の辺りまでやって来たその時――「美緒!」という甲高い声が広いエントランスに響いた。二階からこちらを指差しながらエスカレーターの終わりで待ち受けているのは、先の追手のうち女性の方。彼女の目には、明らかにふたりのカオルへの敵意が込められている。


 その声に弾かれたように迷わず踵を返した美緒は、動くエスカレーターを逆走し階下へ。「あ、危ないよ!」と常識的なところを見せる馨の腕を、「いいから行くよ!」と引っ張る香は、乗客を躱しながら彼女を追ってエスカレーターを一気に駆け下りた。


 一階から地下一階へとさらに降りる。橙色の床を蹴り、天井の低い通路に入れば、池袋駅構内へとつながる通用路へと繋がっている。ラグビー選手のような身のこなしで通行人を避けながら振り返らずに道を駆ける。マルイ方面の出口から抜けて、都道沿いを無我夢中に走れば、いつの間にか先ほど来たシネマロサのほど近く、みずき通りまで至った。


 とりあえず追手を撒くことには成功したらしく、背後に誰かが追ってくるような気配はない。


「なんとか逃げきったみたいですね」と馨は周囲を伺いながら呟く。「早く別の場所へ行きましょうか」と彼が急いだように言ったのは、追手を警戒してというのもあるが、周囲にいかがわしい店の看板が並んでいたゆえである。


 彼の思惑などつゆ知らず、「ひと休憩しようよ」と返した香は、首筋の汗を拭いながら「美緒ちゃん、平気?」と彼女へ声を掛けた。涼しい顔をしながらも肩で息をする美緒は、「ええ」と短く答えるばかりで、やはりというべきか目当ての「ありがとう」は引き出せない。


「それにしても、まさかあんな風に追手と鉢合わせるとはねぇ」


 手近にあった自動販売機でペットボトルの水を買った香は、ひと息に半分ほど飲むと、容赦のない晴天を恨めしそうに見上げた。


「まるで、こっちの行く先をはじめからわかってるみたい」


 香の言葉に美緒がわずかに肩を揺らして反応したのを、馨は見逃さなかった。





 それからも三人の逃亡劇は続いた。百貨店、カラオケ、ファストファッションブランド店、喫茶店、本屋……などなど。


 驚くべきは、様々な場所を規則性なく転々としたにも関わらず、そのいずれにおいても追手と遭遇したことである。いよいよもって、発信器かそれに準ずるものを付けられているとしか考えられず、ふたりのカオルは池袋から離れることを提案したが、美緒はこれを固く拒んだ。


 曰く、「あまり事を大きくしたくありません」とのことである。


 やはり彼女の逃亡には『お見合い』ではない別の事情があることは違いないと、馨はますます確信を深めたものの、その詳細についてはさっぱりわからない。そもそも、わからないでいてあげる方が彼女のためなのではと思った。


 時刻は間もなく五時を迎える。美緒が望む夜が来るまではまだまだ長い。


 道行く三人の先頭を進むのは相変わらず美緒だ。ロサ会館の前の飲食店街を抜け、トキワ通りをしばらく歩いていけば、土地開発を逃れた古びた民家や集合住宅が目立つようになってくる。一歩、また一歩と駅から離れていくたびに喧騒は遠のいて、代わりに住宅街特有の静けさが顔を出す。人の声はおろか、この細い道では車の音すら遠く、さながら別世界へ来たかのようだ。


 三人が向かったのは住宅街の中にある名も無き小さな公園である。滑り台と鉄棒しか遊具が無い上に敷地内は雑草が生い茂っている。


 三人は敷地内のベンチに並んで腰かけた。蝉の音が強く響く夏空を、美緒はなんだか険しい顔で見上げている。そんな彼女の表情を隣で見る馨が、再び親近感、あるいは既視感めいたものを覚えていると、香が彼のシャツの袖を「ねえ」と引っ張ってベンチから立って歩いていった。「なんです」と言いつつその後に馨がついて行けば、わざわざ公園の敷地外まで出ていってそこで足を止めた彼女は、周囲を警戒しつつ小声で話し始めた。


「美緒ちゃん。ありがとう、って言ってくれると思う?」

「まあ、あの子の望み通り、夜まで逃してあげればそれに近い言葉は言ってもらえるとは思いますけど」

「……本当にそう思う?」

「なにか不安なんですか?」

「ほら、警察沙汰とかになったりしないかなって」


 未来実現への優先順位が高いところにあるとはいえ、さすがの香も警察は怖いらしい。彼女の人間味めいた部分を改めて感じつつ、馨が「まあなんとかなりますよ」と勇気づけたその時、「おぅい」とふたりを呼びかける声が飛んできた。


 追手かと思い緊張したがそうではなく、現れたのは先日の騒動の時に出会ったわたあめ売りの大男・島津と、キザっぽいミニマム美人・足立である。島津の方が相変わらずの法被姿で大きな屋台を引いているのはいいとして、足立も同じような格好をしているのが妙だ。


 足立はこちらに手を振りながら、「やあやあ、奇遇だね」と歩み寄ってきた。「どもー」と軽く挨拶した香に続いて頭を下げた馨は、祭りめいた足立の格好を見て「どうしたんですか?」と訊ねた。


「ああ、この格好かい? 似合ってるだろう?」


「うーん、まあまあかな」と香、「手厳しいね」と笑う足立の両者の間に、「いやいや、そういう意味ではなくてですね」と馨が割り込むと、少し遅れて屋台を引いてやって来た島津が「どうも」と挨拶した後に説明を買って出た。


「あの一件以来、足立さんにはウチで働いて貰ってるんだよ。わたあめを降らせたのがちょうどいい宣伝になったみたいでね。毎日大忙しで、大変やら嬉しいやら」


 そこへ足立が「わたあめを買いに来た客が彼の顔を見て帰っていくのが見るに見かねてね。つい手伝いを申し出たというわけさ」と補足を加え、島津のコワモテが天狗面のように赤く染まる。それを見て笑うふたりのカオルへ、クーラーボックスを漁った足立の手から「さあ、どうぞ」とわたあめが差し出された。


「ただのわたあめじゃつまらないからね。私が〝真夏の奇跡〟と名前をつけたんだ」


 キザっぽい彼女の命名を「いいんじゃない」と受けた香はわたあめに口をつける。雪のような冷たい感触に「美味しい!」と笑顔を咲かせた彼女は、公園内にいる美緒へ呼びかけた。


「美緒ちゃーん! 美味しいよ、これ!」


 しかし美緒から返事はない。「おかしいな」と呟いた香は戻ろうとしたが――そうするまでもなく、返事がなかった理由は理解できた。追手のひとりである女が美緒の腕を掴んで連行していく姿が見えたからである。慌てて彼女を追いかけようとしたふたりの行く手を遮るように現れたのは、これまた追手の小太りの男。


 ここで逃げれば警察沙汰は免れない。前方から伸びる厳しい視線に刺されたふたりのカオルはそれを察してその場から動けなくなり、島津は不安そうに辺りをキョロキョロし、足立はといえば「さてさて、これは修羅場の雰囲気だね」とのんびり言った。

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