十八粒目 逃亡の理由

 ふたりのカオルは警察に捕まりたくない一心で、小太りの男へ美緒に会ってから今に至るまでのことを嘘偽りなく説明した。美緒が彼を〝お見合い相手で生粋のロリコン〟と評していたこと。美緒はそんな彼と結婚したくないゆえに逃げていたと言っていたこと。自分達はそんな彼女に同情して逃亡を手伝っただけだということ。


〝未来〟云々のことを言わなかったのは無論、余計な混乱を招くのを防ぐためである。


 ふたりの弁明を受けた男は険しい顔をしていたが、「この子たちは嘘をつくような人じゃない」とその場に居合わせた足立、島津から弁護を受け、「なるほど」と一応は納得したらしい。が、続けて「でも、あんな小さい子の言うことを信じたのか?」と言われてしまえば、当然信じていなかった馨としては「まあ」と答えることしか出来なかった。


「ま、いいよ。無事にあの子は捕まえたから」


 そう言って男が去っていこうとしたその時、足立が「待った」と声を上げた。


「不公平だと思うけどね。そもそも、あなたが不審者でないと証明されたわけじゃないんだ。あなたも、身分を明らかにするべきではないのかな?」


「ちょ、ちょっと。足立さん」と馨は彼女を止めようとしたが、彼女は「いいだろう。間違ったことは言ってないはずだよ」と言って聞かない。彼女の言い分は正しいのであろうが、いつ何時でも正しいことが正しいとは限らない。


 小太りの男は何も答えず渋い顔をする。不用意な詮索をした挙句、警察を呼ばれたら困る。女装へと決意をすでに固めていた馨は、「もう行きますね」と香の腕を引こうとしたが、その寸前、「まあたしかに、身内が迷惑をかけたのは事実だしな」と男が独り言のように呟いたのを見て、潮流が変わったことを理解した。


 男は両手を腰に当てながら語りだした。

「……美緒は僕の姪だ。それで、あの子を連れて行ったのは僕の姉……つまり、あの子の母親だよ。半年くらい前に、美緒の父親は交通事故に遭ってね。もう何ヶ月も目を覚ましてない。最近になって急に容態が悪化して……医者が言うには、もういつ亡くなってもおかしくない状態らしい。それで、あの子をお見舞いに連れて行こうとしたんだが、電車に乗る寸前に逃げられて、姉さんと一緒に追いかけてたんだ。あの子は、父親との思い出の場所をぐるぐる回ってたみたいでね。追いかけるのは楽だったけど、なかなか捕まえられなかった。どこかのお人好しのせいでね」


 彼はふたりのカオルへ交互に視線を送り、それから歯痒そうに吐き捨てた。


「〝その時〟に立ち会って貰えないのは、父親にとって不憫だろう。無理やりに見えたことは間違いないとは思うけどさ。とにかく、僕たちは怪しい者じゃない」


 彼の話を聞いて馨は、ようやく「そうか」と理解した。


 ――ああ。だから俺は、あの子の姿にどこか親近感を覚えたんだ。だから俺は、あの子の姿にどこか既視感を覚えたんだ。


 気づきと共に、馨の中に湧き上がってくる感情があった。衝動的な怒りに近い、熱いものだ。彼は自らの感情のまま、「そりゃ、普通なら逃げると思いますよ」と男に向かって半ば喧嘩腰で吐き捨てた。


「カオルくん?」


 怒りの気配を感じ取った香は彼を止めようとしたが――もう遅い。堰を切った彼の言葉は止まらなかった。


「そりゃ嫌ですよ。お見舞いなんて。あの子は賢い子です。わかってるんですよ、自分のお父さんがもうすぐ死ぬって。嫌がるに決まってるじゃないですか。もうすぐ死ぬ人に会うだなんて。当たり前ですよ、そんなの。わかってあげてくださいよ。相手はまだ子供なんですよ?」


 その物言いにムッとした表情を浮かべた小太りの男は、馨にぐいと詰め寄る。


「でも、こういう時に無理にでも腕を引っ張ってやるのが、大人としての役割――」

「そんなのはわかってますよ。でも、理屈じゃないです。人が死ぬんですよ。怖いに決まってるじゃないですか。周りが見えなくなるくらい」


 これ以上話せば、きっと抑えが利かなくなる。そう判断した馨は「失礼します」と一礼してその場を去った。しばらく歩いたが、男は追ってこなかった。


 空には夕焼けの気配が滲み始めている。通りには昼間よりも幾分か清涼感の感じられる風が吹き抜けているものの、その程度では焦げた馨の頭が冷えることはない。


 ――くそ、くそ、くそ!


 やり場のない思いを抱えていると余計に心が沸騰する。叫びたくなる衝動をなんとか堪えながら、行く当てもなく馨が道を歩いていていると、背後から香が追ってきた。


「ずいぶん急だったね、カオルくん」と、いつもと変わらぬ調子で話す彼女にもどかしさを覚えた馨は、歩くのも止めず「急ですいませんでしたね」と刺々しいのを隠さずに返す。そんな彼に苛立つ様子も怒る様子もなく、香はのんびりと続けた。


「でも、ああいう人に怒るカオルくんの気持ち、ちょっとだけどわかるよ」

「わからないと思いますよ。あの子と違って俺の場合は母親ですけど、似たような状況になって……それで、亡くなってますから」

「そっか。じゃ、やっぱりわかるよ。わたしの場合はお父さんとお母さんだったから」


 ゆるやかな口調の彼女の言葉を聞いた馨は、さながら辻斬りに遭ったような衝撃を受けた。同時に、自分や美緒だけが世界の不幸の中心にいるような態度をとってしまったことが堪らなく恥ずかしくなった。彼は歩みを止め、ただただ「すいません」と謝ることしかできなかった。


「いいよ、カオルくんのせいじゃないし。それに、そういう時って誰にだってあるでしょ」


 諭すような口調の彼女を前に、小学生に戻ったような気分になりながら、馨はもう一度「すいません」と呟く。「許す」と彼女が額を人差し指で弾いてくれて、彼は不思議と嬉しくなって、口元が微笑みで緩んだ。


「……お姉さん。許されたついでに、わがままいいですか」

「言え言え。もうガンガン言っちゃえ」

「俺、もう一回あの子に会いたいです」

「超同感。わたしだって、『ありがとう』って言うあの子を見ないと駄目になるから」


 にやりと笑った香は、「じゃ、奥の手出しちゃいますか」と意気込んで見せるとポケットを探った。取り出したのはお馴染みのアポロチョコである。長方形の箱をナイフのように構えた彼女は、「ウフフ」と怪しく笑いながらザザと粒を手のひらに広げていく。


「な、なにするつもりですか?」

「ひと粒食べればほんの一瞬。もうひと粒食べればさらにもう一瞬。あの子がどこにいたのか確かめられるまで、未来にこもるの」


 手のひら一杯に溢れんばかりのアポロチョコ。食べたところで害は無いのだろうが、見るだけで口の中が甘ったるくなってくる。


「大丈夫なんですか、それ。ひと粒だけでも結構クラっときましたけど」

「平気平気。慣れっこだよ。未来を実現させるためなら、このくらい」


 ぐっと親指を立てて答えた香は、手のひらに乗せたチョコを数秒おきに頬張っていく。だんだんと額に脂汗が浮き出てくるその様は、なんだかアブないクスリを服用するかの如くである。


 チョコの数が十四粒目に到達したその瞬間、彼女は電源を落としたように立ったまま動かなくなった。「どうしました?」と馨が声を掛けても返事が無い。十秒経ち、二十秒経ち、いよいよ不安になった馨が救急車を呼ぼうかと決心したその時、急に動いた彼女の身体がよろけて倒れそうになった。慌てて支え、「大丈夫ですか?!」と声を掛けると、彼女は「問題無し」と答えて親指で鼻を拭う。


「よっしゃ。行くよ、カオルくん。あの子に会いに」


 不敵に笑う香の表情は、馨の目にはなんとも頼もしく映った。

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