十六粒目 逃亡少女
午後二時過ぎの池袋駅は大変混み合っている。人と人との距離は狭く、たらこみたいにぎゅうぎゅうだ。必然、気温と湿度は急上昇する。近頃の日本の夏は亜熱帯のようだと言われるが、山手線周辺の駅に限ればアマゾン川流域並みの暑さとなる。
少女を追って東口から西口方面へと駅構内を駆けていく。注意深くあたりを見回しながら進んだが、彼女の姿はなかなか見つからない。そもそも、この人混みでは待ち合わせをしていない相手を探すなど不可能に近い。
しかし、ふたりのカオルは止まらない。香の方は望む未来を実現させるために。馨の方は望まぬ女装を回避するために。
とにかく闇雲に走り続けたふたりはやがて駅構内から出て、西口公園まで辿り着いた。額の汗を拭いつつ辺りを見渡しても、当然というべきか少女の姿は見えない。
香は近くにあったベンチに座りながら、「もう。どこ行ったんだろ」と大きく息を吐いた。
「未来を見てもわからないんですか?」と訊ねる馨も彼女の隣に腰を落ち着ける。
「わかってたらこんな風に汗かいてないって」
「そりゃそうですよね」と、先の見えぬ状況に辟易した馨が救いを求めるように天を見上げたその時――。
「ちょっと! そこ失礼します!」
と、ふたりが座るベンチの陰に飛び込んで、そのままふたりを盾のようにして身を潜める人がいた。誰かと思えば先ほどの少女だ。さりげなく周囲に視線を巡らせれば、駅構内でこの少女を追いかけていた小太りの男が、大量に流れる汗をハンドタオルで拭きつつあちこち見渡しているのが見える。どうやら未だに『鬼ごっこ』は続いているらしいと、ふたりのカオルはなんとなく察した。
隣に座る馨との距離を密着するように詰めて、背後の少女を隠すようにした香は、前を向いたまま「ねえ」と彼女へ小声で話しかける。
「あなた、どうしたの? さっきからあの人に追いかけられてるでしょ?」
少女は答えず、硬く口を閉ざしたままだ。突然話しかけられて怯えているのだろうと考えた馨は、「そういう話はあの人がどっか行ってからの方がいいんじゃないですか?」と提案したが、彼の意図を理解していない彼女は「平気でしょ」などとあっけらかんとした様子だ。
「あ。もしかしてあの人、誘拐犯とか? それか、あの人は執事で、お姫様なあなたは自由な生活を求めてお屋敷から逃げ出した、とか?」
「まさかそんなわけないでしょう」
「いやいやぁ、あるかもしれないよ? この子、かわいいし」
「いくらかわいいからって、そんな少女漫画みたいな展開が――」
「望まぬ結婚をさせられそうなんです。それで、お見合いから逃げてここまで来ました。あの人はお見合い相手。お察しの通り、生粋のロリコンです」
ふたりにぶつけられたのは少女漫画以上の展開。思わぬ答えに驚いてなにも言えなくなる馨と、「やっぱり」としたり顔で頷く香。両者対照的な反応を見せるふたりへ、少女は周辺を警戒しながら続けた。
「なんとかして夜まで逃げたいんです。逃避行のお手伝いをして貰えません?」
◯
「私、西島美緒です。都内の小学校に通っています。六年生です」
小太りの男が消えたのを見て、西口公園から別の場所へと移動する最中、ふたりのカオルから挟まれるようにして歩く少女は、そんな風にあまりに淡白な自己紹介を唐突に披露した。これを受けたふたりのカオルが自己紹介で返すと、美緒は「ふたりともカオルなんですね」と興味があるのだか無いのだかわからぬ調子で呟いた。
「まあね。結構珍しいでしょ?」
「まあ、そこまででは」
会話を広げようとした香があっさり斬り捨てられて退散を余儀なくされたのを見つつ、馨は美緒の正体について考えを巡らせる。
馨とて、もう高校生。これだけ小さな子どもがお見合いだの、その相手が生粋のロリコンだの、そのようなことはありえないことくらいはわかっている。美緒が嘘をついていることは明白だ。ならば、いったい、この子は何者なのか? 嘘をつく目的はなんなのか? そして、あの小太りの男は何者なのか?
判断材料が少なすぎて、いくら頭を働かせても答えは見えてこない。まあ、そのうちわかるだろうと無理やり頭を切り替えたところで、「止まってください!」と美緒が小声で指示を出した。例の小太りかと思いきや、それらしき影は見当たらない。「どうしたの?」と香が問えば、美緒は「別の追手です」と答え、前方から歩いてくるカーキ色のロングブラウスを着た女性を指した。キョロキョロと辺りを見回しているのは、たしかに誰かを探しているようである。
『追手』までの距離は直線20メートルほど。曲がれるような道はない。このまま進めば見つかることは避けられない――とその時、女がこちらに気付いたのか駆け足になる。
三人は踵を返して元来た道を戻ろうとしたが、そちらにはなんと先ほどの小太りの男。状況はさらに悪くなるばかりで、男はこちらに気付いた様子で「いた!」と大きな声を上げた。
まさかの挟み撃ち。動きが止まった馨と美緒を、香が「こっち!」と引っ張って近くのビルに連れ込んだ。途端にひやりとした空気が肌を包んでぴりりとする。蝉の声よりやかましい音があちこちから響いてくる。入ったのはゲームセンターだ。
狭い通路に漂う煙草臭い空気の中を駆けていけば、反対側の入り口から外へと抜けたが、このままではまた鬼ごっこが始まるだけ。どうする――と考えるふたりのカオルを、今度は美緒が「早く!」と誘導した。
美緒が向かったのは、ゲームセンターと同じビル内の地下一階にあるシネマロサという小さな映画館だ。外に面した有人券売所で適当なチケットを人数分購入し、急ぎ階段を降りていったところでようやく落ち着いた三人は、追手が来ないことに安堵して長いため息を吐いた。
時刻はそろそろ二時になろうかというところ。全体的に深い赤が基調となったロビーの壁には、馨が名前も聞いたことがないような映画のポスターが至るところに貼ってある。一際大きく飾られた邦画のポスターには演者のサインらしきものが大量に書かれていたが、やはりというべきか誰一人として地上波で見るような有名どころの名前は無い。館内には全体的に錆びついた空気が漂っているが、それが却って人を呼び寄せるものがあるのか、客はまずまず多いようである。
ロビーにあるベンチに三人並んで座ったところで、香が話を切り出した。
「美緒ちゃん。さっきの女の人、なんだったの?」
「あの男の姉ですよ」と簡潔に答えた美緒は不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。
「本当、嫌いです」
その「嫌いです」という言葉には恨みのようなものすら込められている気配があり、香はそこに言い知れぬものを感じたのか「そうなんだ」と返すに留めた。
一方の馨はといえば、不思議なことに美緒へ妙な感情を抱いていた。親近感というか、既視感というか、あるいはその両方なのか……それは正体不明ゆえに本人でも言い表すことはできなかったが、少なくとも悪い感情ではないことは確かだった。
シアターの中からブザーが鳴り響いてくるのが聞こえる。間も無くして映画が始まる。「行きましょうか」とベンチを立った美緒は、シアターへと繋がる分厚い扉を開けた。
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