第30話 狂風
服を脱がされた夢奏の腹部に、火のついたタバコが押し付けられた。ジュッ、という音と共に熱さを超えた激痛が夢奏の脳に伝わる。
痛い、やめてお父さん。そう叫んでも、父はタバコを離さない。
助けて、お母さん。そう叫んでも、母は冷めた目で見つめるだけで助けてくれない。
火傷の痕は未だに消えず、痛々しい記憶として心身共に刻まれている。
◇◇◇
風呂場。浴槽に貯められた湯は冷め、ぬるま湯と言うよりも殆ど水に近い。夢奏の入浴の順番はいつも最後であり、敢えて熱が冷めるまで待たされ、湯が冷めてから入浴を促される。
ごく稀に、仕事で苛ついていた父が風呂場に乱入し、冷たくなった湯船に夢奏を沈めた。その度に夢奏は死ぬ程の苦しみを味わい、ほぼ高確率で飲んだ水を夕食と共に吐き出していた。
そして夢奏が嘔吐すれば、父は汚いなクソガキと罵り、夢奏の顔を強く叩く。
◇◇◇
まだ掛け算もできない頃、その年で最大の雷雨が起こった。その時、何を思ったのか両親は夢奏を外に放置した。
幼い夢奏は空を破るかのような雷鳴を恐れ、中に入れてと両親に乞う。しかし両親はただニヤけるだけで、窓もドアも施錠したまま室内でテレビを見ていた。
◇◇◇
木枯らしが舞い、雪がちらつく真冬。突如水を浴びせられた夢奏は、かつての雷雨の日のように家の外に追い出された。
真冬故、ただでさえ冷たく痛い風が、水を浴びせられた夢奏にとっては凶器のようにも感じられた。加えてその時、夢奏は猿轡を咥えさせられた挙句、手脚をガムテープで固定されていた。助けを呼ぶことすらできない。
◇◇◇
家が家事になる数週間前、両親は旅行に出かけた。家の中に食料は残されておらず、何かを買うための金も無い。即ち、家に置いていかれた夢奏は、食べるものがない。
空腹が頂点に達した時、夢奏は自宅の庭に生えた雑草を食べた。しかし雑草は少なかったため満足に腹を満たすこともできず、少し躊躇った末に土を食べた。
不味い。とても食べられたものではない。そこで夢奏は土に水を加えて泥団子を作り、これは泥に似た団子だと言い聞かせることで何とか空腹を凌げた。しかし胃の中に貯まっているのはただの土。栄養を摂ることもできず、最終的に食べた土全てを吐き戻した。
◇◇◇
家が火事になる数時間前、父はコップに入れられるサイズにするため、大きな氷をアイスピックで削っていた。
その途中、理想の大きさにまで氷を削れた。しかし最後の最後に力加減と角度を間違え、氷は砕けた。その瞬間父は激怒し、腹癒せに砕けた氷を夢奏に投げつけた。氷塊をぶつけられた痛みは父の予想など遥かに超えており、夢奏は痛みに顔を歪める。
しかし父は追加の氷を掴み、その後数回に渡り氷をぶつけ続けた。
◇◇◇
腹部に押し付けられたタバコの火。
溺れさせられ何度も飲んだ冷たい風呂の水。
鳴る度に全身の毛を立たせた雷。
吹く度に刺されるような感覚を与える冷たい風。
空腹を満たすため食べた挙句吐き戻した不味い土。
腹癒せのために投げつけられた硬く冷たい氷。
これまで夢奏が味わってきた苦痛は数えきれない。中でも以上の6つの出来事はトラウマとして夢奏の脳内に焼き付いており、始達と暮らしている今でも鮮明に覚えている。
そして、それらのトラウマを夢に見る。その度に夢奏は寝起きで吐き気に襲われるが、僅かながら慣れたのかもう暫く吐き気を感じていない。
(またあの夢……もういい加減飽きたな……)
今日も夢の中で、夢奏はトラウマの数々を三人称視点で見てきた。虐待を受けていた当時の夢奏の主観ではなく、あくまでも虐待の様子を見る第三者として。
ただ主観だろうがそうでなかろうが、自分にとってのトラウマを再び見るのは辛い。慣れたとは言っても、精神が削られるような感覚は未だに感じている。
(もう9時過ぎ……起きよ……)
時計を見た後、夢奏は寝間着から部屋着に着替え、まだ眠いと言わんばかりに欠伸をしながら階段を下りた。
洗面所で顔を洗い、液体歯磨きを済ませ、寝癖を直す。いつもの朝の行程であるが、今日は休日であったため平日時よりも少しのんびりとしている。
朝の行程を終えた夢奏は洗面所を離れ、リビングへと移動する。いつもなら始が朝の挨拶をしながら出迎えてくれるが、今日はいつもとは違っていた。
「おはよ、夢奏」
リビングで夢奏を待っていたのは始と、数日ぶりに会う璃乃だった。
「璃乃? え、なんで居るの?」
「……夢奏、大事な話があるの。一緒に来てくれる?」
璃乃の表情は真剣そのもので、その鋭い眼差しは夢奏に拒否権を与えなかった。
「……すぐ着替えるから玄関で待ってて。始、悪いけどちょっと出てくる」
「……うん、なるべく早く帰ってきてくれよ」
◇◇◇
璃乃はただ黙って歩く。夢奏はその後ろをついて歩く。暫く歩き家から遠ざかった頃、璃乃は廃工場の前で立ち止まった。工場の表面は錆や腐食、塗装剥がれが目立ち、見るからに暫く人は立ち入っていない。というか入りたくない。
しかし璃乃は周囲に誰もいないことを確認すると、足早に工場の中へと入る。夢奏は躊躇ったが、ついて来いと言われたため重い足を動かし工場の中へと入った。
工場の中には、空き缶などのゴミが僅かながら捨てられている。恐らく子供が秘密基地か何かにしているのだろう。
しかし一つだけ気になるのは、工場内に鏡の破片が無数に落ちている。誰かが意図的に蒔いたのか、或いは元々鏡を作っていた工場だったのかは分からない。どちらにせよ気味が悪いことに変わりはない。
「こんなとこに連れて来て……どうしたの?」
夢奏と2人で家を出てから、璃乃は1度も夢奏と目を合わせていない。しかし夢奏の問いに答えるため振り向き、先程よりも鋭く険しい目で夢奏を見た。これは夢奏の直感であるが、その目からは友好的な感情は一切感じられず、怒りや恨みといった負の感情しか感じられない。
「聞いたよ。夢奏……この戦いの根源なんだってね」
「……は? いや、ちょっと待って……誰から聞いたの?」
「恭矢、とか言ってた」
その瞬間、夢奏は察した。
恭矢は夢奏を「根源を殺せる可能性を持った者」だとした。しかし恭矢は戦士ではなく鏡像、人間を殺したい側。根源だけでなく、恭矢にとっても無属性の夢奏は邪魔な存在。即ち、消すしかない。
そこで恭矢は、夢奏のことを知り、且つ夢奏の力を知らない存在である璃乃と接触。璃乃に「夢奏は最強の力を持つ戦士」ではなく、「戦いの根源であり殺すべき敵」であると吹き込んだ。
璃乃は董雅を尊敬していた。故に董雅同様、自分の中に正義を宿している。正義を宿しているからこそ、根源を殺さなければならないという意思が恭矢への疑いを誤魔化した。
「根源である以上、生かしてはおけない」
璃乃は前髪を上げ、パーカーのポケットから出したヘアゴムでポニーテールを作る。
「待って! 私は根源なんかじゃない!」
「証拠は?」
「っ……な、無いけど……でも! 本当に根源じゃない! それに私は、璃乃と初めて会った日に戦士になった!」
「これも恭矢から聞いた。夢奏は既に力を手にしてたけど、根源だって思われないために敢えてあの場で鏡像を受け入れたように振舞った……ってね」
璃乃はパーカーのポケットから黒いグローブを取り出し、それを両手に被せる。
「務君……務恭矢が嘘をついてるの。璃乃に、私を殺されるために」
「何で嘘をつく必要が?」
「私が、根源を殺せる可能性を持ってるから。務君は鏡像側……私がもしも根源を殺せば、鏡像は多分これ以上増えなくなる。もし増えなければ、務君の目的の人類虐殺が難しくなる」
夢奏の予想通り、根源が死ねば鏡像はもう増えない。それ以前に、現存する鏡像の全てが消滅する。なぜなら根源は鏡の世界の核のような存在であるが故、生き続ければ鏡の世界は残り続け、死ねば鏡の世界も終わる。つまり虚言を吹き込み仲間割れを起こし、自分の有利な方へと事を進める恭矢も消える。
恭矢の目的は人類の虐殺。根源が死ねば果たされぬが、夢奏が死ねば根源を殺せるであろう存在は消えるため目的は果たされる。恭矢にとっては、何としても早い段階で夢奏を殺したい。
「けどその話にも証拠がない。証拠がない以上、夢奏を潰して確認するしかない」
「私より鏡像を信じるの!?」
「どっちも信じちゃいない。仮説があり証拠がないなら、2人共潰せば真実が分かる」
夢奏は悟った。いくら説得しても、もう璃乃は夢奏を殺すまで止まらないと。
「私は私の正義に従って生きてる。私にとって害悪となる可能性を持った存在は、鏡像だろうが人だろうが躊躇い無く殺す」
璃乃はパーカーのファスナーを開け、勢いよく脱ぎ捨てる。パーカーの下には黒いセーラー服を着ており、この時点で璃乃のコスチュームは揃った。
「正義? それが正義だって言えるの!?」
「私の正義を実行するためなら、私は悪にだって徹する! 克巳さんから貰った綺麗な正義を隠して、真っ黒な悪に染まる……そのために! 私は仮面を被った!」
璃乃は床に散らばった鏡の破片から薙刀を取り出し、片手で構える。
纏った黒い服、薙刀、仮面という言葉。その3つから、夢奏は巷を賑わせている仮面の処刑人の正体を理解した。
「仮面の処刑人……璃乃だったんだ……」
「……ただ一つだけ、戦士になって良かったと思うこともある。この力が無ければ、今頃私は生きてない。それだけは感謝してる」
鏡像が璃乃の前に現れなければ、璃乃は父により定期的に身体を穢され、恐らくは自殺していた。父を殺せず自分を殺していた。璃乃が今も生きられているのは、鏡像が存在しているが故。根源には感謝さえ抱いている。
「だから夢奏……感謝の意を込めて、あなたを処刑する」
両手で薙刀を構える璃乃。最早弁明は不可能だと理解した夢奏は、無言で床の鏡に手を翳し自らの鏡像を銃へと変化させる。
「分かってくれないならそれでいい……璃乃がそうしたいなら、私は全力で迎え撃つ」
「行くよ……夢奏!!」
少しの沈黙を挟んだ後、璃乃は薙刀を振り夢奏へと切りかかる。
対する夢奏は璃乃の肩に銃口を向け、一瞬の迷いすらなく引き金を引いた。銃口から放たれた透明な銃弾は照準通りに璃乃の肩を捉えていたが、セーラー服に接触した瞬間に弾は威力を失い、璃乃の皮膚を破ることすらできなかった。
しかし痛み自体はあったため、刃の軌道はずれ、璃乃の攻撃は夢奏の服の一部を破っただけで終わった。
「その服……防弾?」
「仮に防弾だったとしても、鏡像から作り出した銃弾は防げない……と思う。残念ながらこれは普通の服。今のは超高圧、且つ圧縮して局部的に吹かせた風」
「風で銃弾を止めた、いや、減速させたと。そんなことできるの?」
「普通じゃ考えられない力。それを使いこなすのが私達でしょ」
そもそも火や水を使っている時点で人間離れしている。そんな人間離れした者であれば、風圧で銃弾を止めることなど容易。とは言え能力の使用タイミングや具合を少し間違えれば、人間離れな能力は命取りとなる。
「克巳さん曰く、風属性は6属性の中で1番弱いらしいよ。けど使い方次第で強弱は入れ替わる。夢奏が能力を破壊できたって、私の起こす風は夢奏の弾丸を止められる。1発目は減速が限界だったけど……2発目からは止める!」
まるで璃乃から発せられる殺意に呼応したかのように、璃乃の背後から強めの風が吹いた。風は非常に冷たく、皮膚の表面から寒さを通り越した痛みが脳に伝わる。
冷たく強い風。璃乃を見つめる冷たい目。2つの要因は、夢奏の中に刻まれたトラウマの1つを蘇らせた。
(ああ……あの時の風に似てる……)
寒い。痛い。そしてなにより、怖い。トラウマを抉られた夢奏は恐怖で身体に震えが表れ、引き金に重ねていた指から力が抜けていく。
息も僅かに荒くなり、汗も止まらない。そして鼓動も早い。璃乃は気付いていないが、夢奏は今、とても戦えるような状態ではない。
「鏡が散らばってるの、不思議に思ったでしょ。これ、私が蒔いたの。夢奏を殺すために、最高の舞台を作ったつもり」
風の発生源である心葵の周囲に散らばる鏡の破片は、強風に煽られ僅かに動いている。
そして一瞬、一部の鏡に高圧な風が当てられ、うち数枚が浮遊。さらに後方からの強風により、浮いた鏡は高速で夢奏へと向かう。
鏡の破片の1枚は夢奏の頬を掠り、2枚はそれぞれ腕と足に切れ目を入れる。少し遅れてやってきた破片は、夢奏の左肩へと刺さる。夢奏の攻撃で先程ダメージを受けた璃乃と、期せずして同じ場所にダメージを受けた。いくら風を操れるとは言えど、さすがに璃乃でも鏡の軌道を決めることはできない。
「どんな気分? 大好きな鏡に攻撃されるのって……」
「大好きな鏡……別に、大好きな訳じゃない」
「そう? 鏡像生み出したんだから、てっきり鏡が好きなものだと思ってた。けど夢奏が死んでいったみんなの苦しみと悲しみを痛みとして味わえるなら、痛みに悶えながら死ぬのなら、鏡が好きだろうが嫌いだろうが私はどうだっていい」
璃乃から放たれる風は鏡をさらに浮遊させ、夢奏は飛来する破片を避けることなく全て受けている。
(大好き……鏡……あぁ、思い出した。私、小さい頃に鏡の自分とお話してた……)
走馬灯、とでも言うのだろうか。
鏡の破片で身体に傷が増える最中、夢奏の脳内にかつての自分の記憶が蘇った。
小さい頃から夢奏は、両親だけでなくクラスメイトからも嫌われていた。
声が小さい。ウジウジとした態度が気に入らない。自分よりも顔だけは可愛い。会話が長続きしない。嫌われる理由は様々。そして嫌われているが故に、夢奏には友達がいなかった。
酷いイジメを受けている訳ではなかったが、学校に居ても自分に居場所は無い。家に帰っても、両親からの虐待を受ける。加えて家に自室は設けられておらず、家に居る間は眠る時でさえも階段の踊り場。家の中での唯一の安息の場所は踊り場だった。
趣味を抱くことも許されなかった夢奏だが、両親が不在の間は鏡に映った自分と向き合い会話をすることで、寂しさを紛らわせていた。鏡の中の自分と話している間は、死にたいという気持ちを考えずにいられた。
歳を重ねる毎に鏡と会話することも減り、両親が火事で死んだ頃には既に鏡の自分と会話していたことすら忘れていた。無論、高校生になった夢奏は、鏡と話していたことなど覚えているはずもない。
しかし璃乃の発言が、霧がかかり漠然としていた璃乃の記憶を鮮明にさせ、鏡と会話していた当時のことを思い出させた。
――ようやく思い出してくれた?
「っ!!」
幼い頃。まだ鏡の自分と話していた頃の夢奏自身の声。その声が聞こえた瞬間、夢奏は無意識に銃口を璃乃へと向けていることに気付いた。直後、自らの行動に疑問を抱くよりも前に、夢奏の指は引き金にかけた指へ力を加え発砲した。
「無駄だって!」
発砲とほぼ同時に璃乃から圧縮された風が吹き、銃弾は減速。璃乃の身体を貫くよりも前にスピードを失った。
しかし銃弾は璃乃の目の前で爆散。その瞬間、璃乃の周りに吹き荒れていた風は部分的に消滅。璃乃を防御する見えない壁は消えて無くなった。
「狂風……爆散!」
璃乃は一瞬、何が起きたのかが分からなかった。しかし風が消える理由はただ一つ、夢奏の持つ無属性の力によるものだということを思い出した。そして悟った。銃弾を防いだところで、銃弾が爆散すればその周囲だけ属性能力が消滅するのだと。
風が消え、少しの思考を挟んだ後、璃乃は再び風を吹かせようと力を使用した……のだが、風が璃乃の周囲を覆うよりも、夢奏が引き金を引く方が早かった。
「っ! うぐっ!」
銃声が工場内に響き、璃乃の腹に開けられた穴から鮮血が溢れ出る。
予期せぬ痛みに薙刀を握る力が失せ、薙刀は音を立てて床に落ちた。さらに璃乃の周りを覆っていた風は止み、璃乃は夢奏を前にして膝をつく。その際に鏡の破片を膝で踏んでしまったため、膝を切ってしまった。
「思い出したよ……私、小さい頃に鏡の自分に向かって一方的に話してたことがあるの。話し相手が居なくて、本当は寂しかった。けど1度だけ、鏡の中の私が……私の言葉に答えてくれたことがあった」
いつの頃だったかは漠然として覚えていない。しかしその出来事だけは、不自然な程鮮明に思い出せた。
「今思えば"あれ"は……私の鏡像だった」
鏡像絡みの戦いが起こるよりもずっと前に、夢奏は鏡像に出会っていた。
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