第28話 仮面

 話は数ヶ月前に遡る。


 冷たく吹き荒ぶ冬の風は寒さを超えた痛みを与え、人々に外出を躊躇わせた。

 しかし平日。警報も出ていなければ雪も積もっていない。社会人や学生は通勤通学を余儀なくされていた。


「それじゃ、行ってきます……」


 リビングのテーブルに肘を着き、頭を抱えて苦い顔をする母。しかし璃乃は学校があるため過度な心配はせず、淡々と挨拶をしてリビングを出る。

 空調の効かない廊下は寒く、靴下越しに感じる床の冷たさに身を震わせる。

 靴を履き、鍵を回しドアノブに手をかける。その直後、玄関近くの階段が軋む音が聞こえた。

 瞬間的に鳥肌が立った。しかしこのまま気付かないフリをしていれば、恐らく安全に家から出られる。そう考えた璃乃は震える手でドアノブを回し、気付いていないように装い颯爽と家の外に出た。


「挨拶くらいしろよ……」


 階段から璃乃を見ていたのは父。

 璃乃の父は一流企業に勤めていたエリートだったが、会社の倒産という最悪の壁が立ちはだかり精神に異常をきたした。

 会社が倒産して以降、璃乃の父は働いていない。ショックから立ち直れていないのだ。璃乃の母は何度も就活を促したが、父は決して頭を縦に振らず、ショックから派生したストレスでさらに精神が病んだ。

 父は温厚で明朗、人付き合いも良く、近所からも評判だった。しかし今では見る影もなく、近所の人からは哀れみと蔑みが混合した眼差しを向けられるようになった。その視線が嫌で、父は未だ家の外に出られないでいる。

 そしてストレスが溜まった父は、段々と家族に高圧的な態度をとるようになった。


「父親に対してあの態度はなんだ……娘の癖に生意気なんだよ……そうだ、俺は悪くない……俺は何もしていない……なのになぜあんな態度をとる? なぜだ、なぜだ、なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだ!!」


 階段から聞こえてくる声に恐怖し、璃乃の母は身体を震わせていた。


「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない!!」


 父は寝巻きで裸足のまま玄関に向かい、鍵を開けて外に出る。そしてまだ家の前を歩いていた璃乃に接近し、璃乃の腕を強く掴んだ。

 驚きのあまり璃乃は声も出せない。そして温厚や明朗と言った言葉とは真逆の、さながら鬼のような形相の父と対面し、抱いていた驚きはすぐに恐怖へと変わった。

 父は璃乃を引きずりながら家へと戻り、床へ璃乃を投げた後に玄関を施錠。そして床に転がる璃乃の首を掴み、リビングまで引きずる。強く首を掴まれた璃乃は、苦しみと同時に吐き気さえ抱く。

 リビングに入れば父は璃乃を投げ、投げられた璃乃は椅子にぶつかる。そのまま椅子は動き、机の位置をずらす。急に机が動いたため、頭を抱えていた母は机で胴体を強打。予期せぬ痛みに母は顔を歪めた。


「げほっ!! ぅ、うぇ、げほっ!!」


 首を掴まれ引きずられた挙句背中を椅子で強打した璃乃は、着地と同時に咳き込む。そんな璃乃を見下しながら、父はブツブツと何かを呟く。その顔は相変わらず険しい。


「お、お父さん……やめてください!」


 腹部を抑えながら、璃乃を庇うように父の前に立ちはだかる母。しかし父は無慈悲に妻の側頭部を平手打ちし、その強さに押し負けた母は転倒、衝撃で首を痛め気を失った。


「おい璃乃……なんで無視したんだ……ええ? なんで! 父親オレを無視した! ああ!?」


 この家で1番偉いのは俺だ。

 誰のおかげで飯が食えていると思う。誰のおかげで何かを買えていると思う。

 俺がいたからお前は生まれてきた。俺がいなければお前は今頃ここにいない。


 自分が家族内で一番偉い。自分の言うことは家族内で絶対。自分に逆らう者は許さない。会社の倒産という予期せぬ事態により性格が豹変した父には、狂人という言葉が相応しいのかもしれない。


「お仕置きが必要だな……」


 そう呟きながらズボンを脱ぐ父。その行動を見て、璃乃はこれから自分が何をされるのかが容易に理解できた。


(逃げないと……初めての相手がお父さんだなんて絶対に嫌!)


 璃乃は恐怖で震える身体を無理矢理起こし、足を滑らせながらも家からの脱出を試みた。

 リビングのドアは開け放たれている。リビングの前の廊下を走れば玄関につく。解錠してドアを開ければ、逃げ切れないにしろ誰かに助けを求めることができる。

 璃乃はリビングを抜け、廊下を走り玄関へと向かう。父はその後を追うが、璃乃が玄関に到着する方が早かった。

 しかし玄関のドアは鍵が閉められており、鍵を開けるという行程に入れば一瞬動きは止まる。例え一瞬とは言え、父の方が走るスピードも歩幅も上。

 その一瞬があったからこそ、父は璃乃に追いつけた。


「逃げるな!!」


 父は璃乃の腕を力強く掴み、リビングまで引っ張ると同時にリビングの床へと投げた。床に当たった際に手首を捻り、さらに頭を打った。璃乃は頭と手の痛みに抗えずにそのまま床に伏せる。

 痛みに呻く璃乃に歩み寄る父。そして父は璃乃の目の前に立つと同時に、履いていたボクサーパンツを脱ぎ捨てた。

 璃乃は恐怖と痛みで動けず、下半身を露出した父をただ見上げるしかできなかった。


「い、いや……」

「元はと言えばお前が悪いんだ。俺を無視して学校に行こうとした……お前が! 悪いんだよ!!」


 父は怒号と共に璃乃のスカートを脱がし、フリル付きのショーツを破り捨てた。璃乃も下半身が露わとなったが、恐怖のあまり寒ささえも感じなかった。


「俺は間違ってない……これは罰だ……馬鹿にしたような目で見てくるお前への! そうだ罰なんだ! 俺は正しい! お前が悪い! だから何されてもおかしくない! そうだろ!!」






 ズブ……ブチブチブチ!






「ぅあ"あ"あ"あ"!!」


 激痛。下腹部から感じる痛みと違和感は全身に鳥肌を立たせ、璃乃は決して字では表せないような声で叫んだ。喉を枯らすほどのその叫びは家の中だけでなく、家の外にまで響いた。

 愛する人にしか捧げないと誓っていた璃乃の純潔は、無情にも自らの父親によって奪われた。それは璃乃にとって酷く絶望的で、この先の生きる希望すらも薄れていく。


(なんで……こんなことに……)


 痛み、屈辱、恥辱に心が折れかけた璃乃は、不意にリビングに置かれた鏡を見た。


(嗚呼……私、本当にお父さんと……酷い顔……いっそ死んだ方がいいのかな……?)


 下半身は露わに。床には自らの血。そして璃乃の横腹と尻を掴み腰を動かす父。鏡に映る自分自身を見て、璃乃は本格的に生きる気力を失った。






「っ!?」


 鏡に映る璃乃は、無表情でこちらを見ていた。鏡の中の璃乃は涙を枯らし、実体の璃乃と違い痛みも感じていないように見える。

 璃乃は最初、自分は絶望故に幻を見ているのだと勘違いした。しかし鏡の中の璃乃は実体の璃乃に手を伸ばし、一言「助けて欲しい?」と呟いた。その瞬間、璃乃は妄想だろうが現実だろうがどうだっていい、そう考えた。


「た、す……けて……」


 その声は細く、興奮状態にあるとは言え父にすら聞こえていない。しかしその声は確かに鏡の中へと届き、鏡の中の璃乃は狂ったかのような笑顔を見せた。


「なら、こいつ殺してあげる」

「っ!?」


 鏡の璃乃、もとい鏡像の璃乃は、鏡像の父の首に自らの人差し指を向けた。直後、鏡像の璃乃の人差し指から圧縮された風が放たれ、鏡像の父の首を撃ち抜いた。

 鏡の中で父の喉に穴が空いた同時に、実体の父の喉にも同じ場所に穴が空いた。まるで蛇口を捻ったかのように溢れ出す血液は璃乃の腰や背中に落ち、璃乃は全身の毛が逆立つような感覚を味わった。

 しかし鏡像の璃乃は喉だけでは終わらず、両腕に1つずつ、胴体に2つの穴を開けた。最初はわけも分からずただ混乱していた父だが、5つ目の穴ができたとほぼ同時に父は失神。璃乃の上に乗る形で倒れた。その際回避できなかった璃乃は穴だらけの父に圧迫されたが、なんとか父親をどけて璃乃は脱出。

 璃乃は穴だらけの父を見た。床には大量の血液。穴の断面からはグロテスクな身体の内側が見え、瞬間的に璃乃の胃から内容物が逆流。床に嘔吐した。

 胃液と唾が絡んだ咳でさらに吐き気を催すが、寸前のところで2度目の嘔吐は回避。荒くなった息のまま父の死体から離れた。

 動く度に下半身が痛む。足にも腰にも力が入らない。故に身体は腕でしか動かせない。即ち上半身しか使わない匍匐前進でしか動けないが、璃乃は廊下まで逃げた。冷たい床に対し身体の接地面が広い為か、璃乃の身体は寒さで震えている。否、震えは寒さだけではなく、鏡像の自分に父が殺されたことへの恐怖も混ざっている。


(わ、たし……お父さんを、殺した……の?)


 困惑と恐怖。目の前で父が穴だらけになり、璃乃の精神は決して良好とは言えない状態にある。故に通報や自首(?)といった行動に出られず、ただその場から逃げるという無意味な行動しかできなかった。





「すみません! 警察のものですけど!」

「ひっ!?」


 家の外にまで響いていた璃乃の叫び。その声を聞きつけた近隣住民達が警察に通報。多少時間はかかったが、到着した警察がドア越しに璃乃達へ声をかけた。


「宮尾さん! いらっしゃいますか!?」


 璃乃は焦った。

 リビングには穴だらけになった父の死体、気絶した母、血と吐瀉物で汚れたカーペット。どう足掻いても言い逃れができない、事件性100パーセントの状況である。

 しかし璃乃は考えた。いっそ全て話せば楽になるのではないかと。とは言え「鏡の中の自分に殺された」などという話、実際に見ていようが見ていまいが信じてはもらえないだろう。それでもいつかはバレる。ならば最悪嘘をついてでも早々に事を終わらせたい。


「……そうだよ、話せば楽になる……最悪少年院とかに行くことになっても、その時は自殺すればいい……」


 璃乃はリビングに投げ捨てられていたスカートを拾い、それを履いた。ショーツは破られ履けない状態にあるため、スカートの下は履いていない。

 所謂ノーパンの状態で璃乃は下半身にできる限り力を入れ、壁に凭れつつ立ち上がり、玄関まで歩いた。






(返事がない……殺人か? それとも籠城、いや或いは聞こえていないか……どちらにせよ、中を確認しないと帰れないな)


 通報を受け、璃乃の家にやって来たのは董雅だった。

 董雅はこの時点で既に鏡像関連の事件で駆り出される立場だった。しかし他の刑事よりも比較的近い場所にいたため、鏡像絡みではないと聞かされた上で来ている。


(いっそ突入するか? しかし事件だと確定した訳じゃない……さて、どうするか)


 悩む董雅。しかしそんな董雅を救うかのように、突如玄関のドアが開いた。

 開いたドアの隙間から璃乃が顔を出し、董雅は恐る恐る声をかけようとした。


「け、警察の者です。叫び声が聞こえたと通報をう」

「入って下さい。それで……私の話を聞いてください」


 食い気味に話す璃乃の要求を聞き入れた董雅は玄関のドアをさらに開き、家の中に足を踏み入れる。その際玄関のドアは施錠し、近隣住民が入ってこないよう気を配った。


「っ! 君、その背中……」


 璃乃の背中には、父の身体から流れ出た血液が大量に付着している。その血を見た瞬間、董雅は自らの背中を毛虫が這っているかのようなゾワゾワとした感覚を味わった。


「訳は追々お話します。ひとまず、こっちへ来てください」


 董雅は玄関で靴を脱ぎ、リビングまで案内された。


「これは……!」


 地獄絵図とでも表現すべきリビングを見た董雅は、真っ先に父の死体の損傷具合を気にした。

 これまで見たことがないような殺され方をしている。仮にこれを璃乃がやったのであれば、どうやって殺したのか。最悪のシチュエーションが脳裏を過ぎったが、そのシチュエーションがただの思い過ごしだと自身に言い聞かせるため璃乃に尋ねた。


「……君が殺したのかい?」

「信じてくれないでしょうけど……鏡に映った私がやったんです。こう、人差し指を向けて、そしたら……こんな有様に……」


 信じてくれないでしょうけど。その言葉を文頭に置き、ただの嘘を「信じ難い事実」として主張する犯罪者を董雅は過去に見たことがある。ただ、本当に信じ難い話であったためすぐに嘘だと見抜かれたが。

 しかし董雅は直感で理解した。璃乃は嘘を言っていないと。

 その話が嘘であったとしても、次に「どうやって殺したのか」という疑問も浮かんでくる。対してその話が本当であれば、鏡像絡みの事件として解決に導くことができる。寧ろその方が董雅的には簡単に終わらせられる。


「……鏡の中の君に会わせてもらうことはできるかな?」

「え? い、いいですけど……ただ、私はどうすればいいんですか?」

「簡単さ。この鏡の前に立ってくれ」


 璃乃は董雅に誘導され鏡の前に立った。そしてその隣に董雅が並び立ち、鏡に映る璃乃と目を合わせた。


「動きなよ。君が鏡像だってことは分かってる」

「……その言い方から察するに、あなた……鏡像を知ってるのね」

「っ!?」


 璃乃の意志に関係なく勝手に喋る鏡像。しかしこれが本日2度の登場であるため、璃乃も1度目に比べれば驚きは抑えられていた。


「なぜこの子の家族を殺した?」

「……実体の私は、私に助けて欲しいと願った。だから私は父親を殺すことで、私自身を助けた。寧ろ私が殺していなけりゃ、実体の私は父親の子供を孕むとこだったかもしれない」


 父親の子供を孕む。その言葉と、璃乃の背中に集中して付着した大量の血液。そして璃乃の足に垂れるように付着した血液。それらの要因から董雅は事件の状況を察し、璃乃の鏡像が璃乃を守るために父を殺したのだと理解した。


「……なるほど、大体分かった。つまり君は他の鏡像とは違う。そういうことでいいかな?」

「それは分からないけど、少なくとも私はあなたを殺す気は無い」

「うん、なら良かった。君、今から署に来てくれるかい? 俺の居る部署なら、どんな話をしても大丈夫だから」


 その後、璃乃は董雅の車で警察署まで連れられ、鏡像という存在、鏡像に関連した話などの長々とした説明を受けた。


 父が死んだショックで母は自殺。残された璃乃は董雅の援助を受け1人暮らしを始めた。その後は時折董雅が遊びに来るようになり、董雅のアドバイスを受け戦士として成長していった。


 ◇◇◇


「克巳さん……私を置いて逝ったこと、私は許した訳じゃありません。けど小夜さんと会えて幸せな時間を過ごせているなら、私は怒りません」


 初めて鏡像と会い、董雅と会った日のことを思い出しながら、璃乃は自室で黒いセーラー服に着替えていた。その服は町で「仮面の処刑人」として知られる謎の殺人鬼と同じものである。


「怒りません……だから、克巳さんも私を怒らないで下さい」


 黒いショーツの紐を縛り、その上から黒いスカートを履く。その後黒のニーソックスを履き、黒いグローブを手に装着する。


「私はあの日から、女性の純潔を奪う存在を憎く思ってるんです。仮にその女性が既に純潔を失った人であっても、了承無しに女性の身体を穢す存在が許せません」


 普段は下ろしている前髪をオールバックにした後、ヘアゴムを使いポニーテールを作る。


「私は私ですけど、この服を着てる間は、この仮面を被ってる間は私が私でなくなります。今だけ私は、存在の証明すらされていない噂だけの存在」


 璃乃は手に取った黒い仮面を被り、部屋の電気を消す。


「今の私は宮尾璃乃じゃなく、仮面の処刑人です。克巳さんが世話してくれた宮尾璃乃は、私ではありません。だからこの一時ひとときだけは、私から目を逸らしてください」


 璃乃改め仮面の処刑人は、町に巣食う悪人を駆除するため、過ぎ去る風のように夜の町に溶け込んでいった。

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