第12話 誘惑
「ふぇ……ぶぅええっくしょん!!」
玄関のドアを開けた摩耶の第一声は、お淑やかさなど微塵も感じられない豪快な
「ああぁ……シャワーしよ……ん、んん?」
靴を脱ごうと足下に目をやった時、普段からあるはずの母の靴がない事に気付く。代わりに、この時間は玄関にあるはずのない夢奏と始の靴が置かれていた。
(……ああ、そっか……鏡像の一件で学校がいろいろ気を利かせてくれたのかな)
2人が既に帰宅している理由を察した摩耶。その後2人を出迎るという計画が失敗してしまったことに気付いた摩耶は、再び自らの不運を呪う。
摩耶は靴を脱ごうとしたが、靴下が雨水を吸い込んでいることを思い出し動きを止めた。靴下を脱いだ後の足を拭くため、カバンの中に忍ばせておいたタオルを探す摩耶。しかしタオルを掴んだ時、摩耶は自身の不運を再度認識されられた。
傘もささずに雨の中を疾走したためカバンはびしょ濡れ。加えてカバンのファスナーが微妙に開いており、雨水は布地とファスナーを貫通してカバン内に侵入している。無論、忍ばせておいたタオルもびしょ濡れ。
こんなタオルでは何も拭けない。こんなことになっているとは思いもしなかった。しかし唯一、この場から抜け出す方法があった。
「……助けて始! 夢奏! ビッチョビチョで寒い!」
この時間、本来であれば夢奏も始もいない。しかし今日は違う。呼べば夢奏も始も出てくる。多分。
「……あのー、始? 夢奏さーん!? ちょっと!?」
返事がない。寝ているのだろうか。諦めて廊下を濡らしながら風呂場へ行こうかと考えた摩耶だったが、2階の部屋のドアが開く音を聞いて思い止まった。
「ごめんごめん! ちょっと寝てた!」
階段を駆け下りて来たのは始だった。
「もう……お姉ちゃん泣くとこだったよ」
「嘘つけ。タオル持ってくるから、ちょっと待って」
脱衣所までタオルを取りに行く始。その後ろ姿を眺めていた摩耶は、始の制服が妙に乱れていることに気付いた。本人曰く寝ていたせいであるが、摩耶は既に察している。
学校側公認の上で早退した2人は帰宅し、恐らく母が不在なのをいいことに2階でセックスをしていたのだろうと。
(もしかして、雰囲気壊しちゃったかな……はぁ……ほんと、運悪いな)
◇◇◇
始との濃密な時間が終わり、ベッドの上で力尽きて眠る夢奏。
レム睡眠の中、夢奏は夢を見た。暗闇の中で夢奏は鏡の前に立ち、これが夢であるとは自覚していない。
「答えて……どうして私はこんなに嫌われるの?」
夢奏は問うが、鏡に映った夢奏はその最中口を動かしていない。そして夢奏が口を閉じた時、ようやく鏡の夢奏は口を開いた。
「それは、あなたが全てを終わらせる存在だから」
心当たりはない。自分には何かを終わらせるだけの力も権利も持っていない。それに仮にそんな力を持っていたとしても、一体夢奏は何を終わらせればいいのかが分からない。
「受け入れて。
鏡像の夢奏は、誘惑するように鏡から手を伸ばす。手は鏡の外に出て、実体の夢奏の頬を触れる。
「……終わらせれば、私は嫌われなくて済むの?」
「何を終わらせるかによって、その答えは変化する。けど誰にも嫌われたくないのなら、1番簡単な方法があるよ」
「1番簡単……何をすればいいの?」
鏡像の夢奏は不遜な笑みを浮かべ、実体に顔を近づけながら質問に答える。
「世界を終わらせればいい。そうすればあなたを嫌う人間は居なくなる。無論、好きになる人間も居なくなる。孤独で生き続ける覚悟があるなら、あなたに不可能はない」
それは、夢奏の想像を遥かに超える回答だった。
仮に自分が戦士となり、鏡像を武器にして戦う力を得たとして、その力で世界を終わらせられるのだろうか。
否、それ以前に、嫌われたくないという願いを実現させる方法が世界を終わらせることというのは、極論にも程がある。
確かに鏡像の言っていることは正しい。世界を終わらせれば、天涯孤独と引き換えに誰にも好かれず嫌われない。加えて核爆弾も通用しない鏡像単体で動けば、世界を終わらせることもできないことは無い。
とは言えそれは、夢奏の望む回答ではない。
「……なら、断る。確かに私を嫌う人がいっぱいいるのは嫌だけど、孤独で生き続けるのはもっと嫌だ」
夢奏の願いは、自分を嫌う人間が居なくなり、尚且つ愛している者達と生きたいというもの。世界を終わらせれば、愛する者だろうが嫌いな者だろうが諸共消える。
鏡像の提示する最も簡単なやり方では、夢奏の願いは叶えられない。
「全人類があなたを嫌いになるとしても、あなたは孤独を避けるの? いや、仮に力を拒んでも、いずれ全人類はあなたを嫌いになるかもしれない」
「それは絶対に無いよ」
鏡像の発言を食い気味に否定する夢奏。全人類が1人の人間を嫌うということは考え難いが、可能性はゼロではない。夢奏ももしかしたら、全人類から嫌われるかもしれない。
しかし夢奏は確信している。全人類が夢奏を嫌うはずがないと。
「だって始は……私の事、嫌いにならないから」
根拠は無い。それでも始は夢奏を嫌いにならない。
鏡像は夢奏の発言に呆れ、夢奏の目の前で溜息を吐いた。
「私はあなたの鏡像だから分かる。あなたが本気で言ってることも、始に注いでいる異常なまでの愛も。けど……私を受け入れないと、いつかあなたは後悔するかも」
「後悔なんてしない。なぜなら……いつか私はあなたを受け入れるけど、世界は終わらせない。始が居れば、私はそれでいいから」
鏡像の夢奏は鏡の中に引き込まれ、頬に触れていた手は離れる。
「なら待ってる。あなたが、私を受け入れる日を」
鏡像は鏡の中に消え、鏡は暗闇に溶けた。
夢奏は再び闇の中で孤独になったが、不思議と寂しさや怖さは無かった。
「ん……」
眠りから覚め夢奏は、鏡像との会話が夢の中での出来事であったと理解した。しかし会話の内容はおぼえていない。
1階から摩耶と始の話し声が聞こえる。摩耶の高校は本日午前授業であったことを思い出し、夢奏は霞んだ視界を手で擦り、若干フラつきつつもベッドから下りた。
夢奏は部屋を出て、階段を下り、2人の声が聞こえるリビングのドアを開ける。
「おかえり摩耶」
「お、ただいま」
「あれ? もうお風呂入ったの?」
「傘忘れちゃって……ずぶ濡れになったから」
乾いていない髪。火照った身体。ボディソープの香り。もしも夢奏が男であれば、風呂上がりの色気を放つ摩耶に理性が崩壊していたのだろう。
「もう本当……今日は最悪の1日だったよ」
「摩耶は昔から運悪いもんな」
「まあでも、まだお昼だよ。今日はあと半日も残ってるんだから、何かいいことあるかもしれないよ」
摩耶の運の悪さを指摘する始に対し、夢奏は不運が続いた摩耶を励ます。実際まだ今日は終わっていない。まだ最悪の1日と決めつけるには早い。
「……だね。じゃあ気を取り直して、お昼ご飯でも作ろっかな」
「摩耶は座ってて。私と始でやるから」
「いいよいいよ。一応私が1番歳上なんだし」
「座ってなよ。不運続きなんだったら、間違いなく指切るか火傷する。ちゃんと食えるもの作るからさ」
「……じゃあ、2人の優しさに甘えちゃおうかな」
夢奏と始は互いに向き合った後、小さく頷いた。
「よし、そんじゃ……」
「レッツ、クッキン!」
この後、摩耶の不運はピタリと止まり、最悪の1日ではなく最悪の半日となった。
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