アラビアのハムール
孤独なピエロ
第1話
アラビアのハムール
玉栄茂康
私はUAEの小さな首長国ウムアルクゥエンの入り江に住むハムール。アラビア湾には3万種の魚が棲んでいるが、不運にも私は突然生まれ育った海から釣りあげられて人間の住む陸に移り棲むことになった。人間は我々海にすむ動物の最も危険な天敵である。我々は食うために知恵と攻撃力を駆使して捕食するが満腹になれば捕食を止めて休息する。人間は狡猾で残酷なやり方で我々を際限なく捕獲する満足を知らない貪欲な動物である。
ハムールはアラビア湾岸でアラビア人に最も好まれている大衆魚で成魚は図体が大きく強烈な当たりで漁師だけではなく外国の釣りマニアにも狙われるため生息数は年々激減している。ハムールHamoorは英名orange spotted grouper, 日本名チャイロマルハタ、学名Epinephelus coioidesは世界中の温暖な海の岩礁に棲んでおり国により独自の名称がある。例えばマレイシアではイカンバトゥ、沖縄ミーバイ、香港石斑魚石と呼ばれ高級食材に使われる魚である。
物語に入る前にハムールの棲んでいたウムアルクゥエンの美しいマングローブの入り江に案内しよう。
UAEはアラビア湾の北端ホルムズ海峡をイランと挟む砂漠の小さな産油国で日本にも石油を輸出している。 ドバイとアブダビなど七つの首長国の連邦から成り、それぞれの首長国にはシェイクと尊称される王様が君臨する。その北部にウムアルクゥエン首長国がある。力の母という意味の地名から油田を思わせるが、漁業とわずかな農業あとは砂漠しかない首長国だ。商業都市ドバイからホルムズ海峡へ舗装道路を北上すれば、隣接するシャルジャとアジュマン首長国を通過し、四〇キロ程でウムアルクゥエンの入り口に着く。ガソリンスタンドがポッンとあるだけで回りは平坦な砂漠だから間違うことはない。その横から真北にのびた道路が町に続く。町はアラビア湾に突出た半島の先端にあり西側は砂浜に縁どられ、東側は塩生植物の生えた湿地の先に紺碧の入り江が見える。走って見えるのは赤茶色の砂ばかりで町の景色はなかなか出てこない、平屋がチラホラ現れたらもう本通りでビルはNational Bank of Umm Al Quwainの入った古い3階建てのマンションだけ。そこを通り過ぎると魚網の干された入り江の砂浜に出る。直進すればすぐ右側にローカル料理のコルドバレストランCORDOBA RESTAURANTが見える。ここの昼定食マチブース(魚の炊き込みご飯)+魚(タイorフエフキダイ)のホールから揚げ(又はチキンモモから揚げ)+サルーナ(トマトベースの野菜スープ)+野菜サラダ+ヨーグルトサラダは地元一番の人気で美味しい。レストランの裏には門前に古大砲5門を備えた古城が何時でも開放しており食後の散策コースにお勧めである。レストランの先はスーク(市場)でアラビア語、ヒンズー(インド)マリヤラム(パキスタン)、英語看板の食堂、工務店、文具店が連なる。雑貨店らしい店頭には埃を被ったマットレス、トランク、バケツ、ビニールホースが積まれているがとても入る気にはならないだろう。ここには特産民芸品はないから土産品店はない。通行人は地元のアラブ人にインドとパキスタン人の男ばかりで女はいない。漁村の風情を楽しみたいなら先ほどの砂浜を入り江沿いに進むと無人の古い倉庫街に出る。壁の崩れた倉庫は空っぽで赤錆びた扉は開けっ放しだ、倉庫街の端は大きな看板のシャブラ大衆食堂SHABURA RESTAURANTだから行き過ぎることはない。朝は漁を終えた漁師達の朝飯で賑わう。 食堂の朝定食は焼きたてパロータ(クロワッサン風ヒヤキ)+サブチー(野菜カレー)は美味く食後の甘いチャイハリブ(ミルクテイ、ミルクなしはスレイマニ)を入れて2Dh(140円)と安く一服するのにお勧めの場所である。サブチーの他はダール(レンズ豆カレー)とキーマ(羊のひき肉カレー)でどれも辛くない。アラビア人は辛いのを好まないのだ。座って食べる時間がないならカレーのどれかを決めパーソルと言うとサンドイッチ風に白半紙で包み熱いミルクテイを使い捨てのプラスチックカップに入れてくれる。食堂正面の倒壊しそうな二階建てはUAE農水省の倉庫で昔はイギリス海軍の事務所だった。右向かい青空魚市場では漁師達が裏の船着場から魚を搬入している。数十年前までは真珠採り漁業で賑わった木造桟橋はまだしっかり起こっているがその面影はなく漁網と塩漬けの魚が干されている。ハエの飛び回る漁網の横で子供達が釣りをしている。入江にはマングローブの森に覆われた大小30の小島が浮いているはずだが桟橋から眺望できるのは3つの島である。この入り江と外海がウムアルクゥヱン漁師の漁場である。漁場は首長国の領土の地先に限定されており魚群を追って隣国の漁場に侵入することは禁止されている。沖合は自由操業だがイラン領海近くではイランの国境警備艇が海賊に変身して略奪するので忌避するがUAE領海内であっても沖合のサワラの漁場では不法侵入してくるイラン警備艇に違法に拿捕され連行される場合もある。拿捕された漁船は没収され漁民は保釈金が支払われるまでイランの劣悪な監獄で数年間過ごすことになる。運が良い者は漁船は没収されるが国境付近で操業している僚船に引き渡されて帰国できる場合がたまにあるがそれは監獄が政治犯で満杯のため収容場所が足りないイラン側の国内事情によったらしい。
アラビア湾のマングローブ
植物学者の間ではマングローブは熱帯の高温多雨地域で河川から流出する淡水と海水が混ざる汽水沿岸に生える植物で河川のないアラビア湾の高塩分には生存できないと考えられているがそんな常識を覆す自然がこの入り江にはある。この種類のマングローブは学名Avicennia marina,英名gray mangrove,日本名ヒルギダマシはニュージーランドから沖縄まで広く分布している
この高塩分耐性のマングローブはクルムと呼ばれアラビア半島ではアラビア湾の他に紅海に分布し、オマン沿岸にも分布しているがオマンは4千メートルのオマン山脈から出る伏流水がインド洋に流出して沿岸海水は外洋と変わらないのでマングローブの形質は異なるようである。インドネシア起源のマングローブが海流に乗って全く環境の異なる沿岸に漂着して生きていることは驚異である。マングローブが沿岸生態系の中核で漁業資源に大きく寄与していることは世界中で報告されている。この入り江でもマングローブは同様に水産業に大きな役割を果たしている。マングローブの森から流れ出る枝葉と森に生息する動物達の排泄物などの有機物が肥料分となり入り江の浅い海底は海草ナミジグサの繁るモ場で覆われている。海草の表面と根元には多様な小動物のヨコエビ類と貝類などが棲みつき魚介類の稚魚の餌場と隠れ場になっている。入り江から流れ出る有機物は肥料分の少ない外海の貴重な栄養源となる。入り江周辺の沿岸では増殖したプランクトが海底の珊瑚礁とアコヤ貝の漁場を支えている。5月はマングローブの一斉開花でつぶらな黄色の花からでる芳香が街まで流れてくる。6月に落花して8月末から半胎生種子という果皮に包まれた大粒のソラマメに似た種子を付け10月には成熟した種子を自然落下させる。種子は果皮の浮力で海面を漂いながら潮流で周辺の沿岸に分散する。種子は数時間後に海水中で果皮を破って沈む、沈んだ場所が潮干帯であれば定着して生き残るが沈下場所が深ければ死滅して海底に住む小動物の餌となる。ここのマングローブにはアラビア湾の高塩分海水から樹の生存に必要な真水を作る特殊な能力が備わっている。真水を抜き取った海水は葉表面の塩細胞から排出されて塩の結晶となる。マングローブの葉は表面に塩分が残っており塩分を求めるラクダとヤギの最高の飼料で古来より盛んに刈り取りが行なわれて絶滅の危機に瀕していたが近年政府は緑資源の重要性と水産資源への影響に気づき刈り取りは禁止されている。因みにマングローブの種子は栄養価が高くラクダの母乳の出を良くするというので妊婦ラクダの滋養食として海岸に漂着した種子を採集する農家もある。
農水省倉庫の裏の砂浜には魚網と古いJohnson船外機をつけた木造船20隻ほどが干されている。木造船は海水を吸収して重くなるうえに船底にフジツボとカンザシゴカイ、海草が付くと船足が落ちるので漁を終えるたびに浜に揚げて干して船底掃除する。漁船は近くの小さな造船所で老人がインド人労務者を使って作っており設計図もなく多様な形の木材で漁船を作る驚異的な技術である。船体の木材はイエメン等アフリカから輸入されるマングローブだが世界的に流行しているマングローブの資源保護による木材輸入制限と価格の高騰で造船所は経営不振だったが農水省の漁業近代化政策の影響で閉鎖された。農水省は軽くてメンテが簡単なファイバーグラス製漁船と高価でエンジントラブルの多いジョンソン船外機からトラブルの少ない安価なヤマハ船外機に変えるよう100パーセントの補助金で奨励した。同時に農水省大臣は持続的な水産資源利用と環境保護の観点からの海中投棄で海底を汚染しているナイロン製古漁網の海中投棄の禁止とナイロン製の刺し網とはえ縄よび底引き網漁業を禁止した。農水所はコットン性漁網を用意して2年以内に手持ちのナイロン漁網と交換するよう罰則規定を設けてナイロン漁網を排除してコットン漁網に代えた。さらにワシントン条約に加盟して、モ場に海草を食べに来遊するジュゴンとアオウミガメの捕獲も厳しく禁じられた。これらの動物は食料の足りない時代には貴重なたんぱく源であった。いずれも脂肪が多く筋肉は魚と塩漬けしてべドウインの住む砂漠に運び羊とヤギと交換された。脂肪分はドラム缶で自然発酵させて木造船の船底の付着物防止に塗装されたがその腐臭はすごくハエ飼育場のようだった。SHABURA RESTAURANTの前をすぎて直進すると道路はUmm Al Quwain Portの入り口で終わる。
ウムアルクゥエン港:
港は入り江に面したコンクリートの広場で事務所はなく岸壁に博物館が欲しそうな古いダウ船が放置されているだけ。港から先は平坦な砂浜が3キロほど広がり、港の端から捨て岩積みの防波堤が砂浜を囲い込むように外海へ伸びている。漁船は防波堤に沿った深さ3~4mの水路を往来している。ここは流れが早く防波堤が岩礁となり魚が集まる絶好の釣り場である。
3月のウムアルクゥエンは雲のない青空で午前中の気温は25℃。港の水面を覆う黒雲のようなイワシの大群は空と海から襲来するカモメとカマスに四散して水面に青空を写すがすぐもとに戻り水面を覆っている。防波堤の水際ではイソガニとハゼが打ち寄せる波に流されないよう踏ん張っている。普段は人気のない港だが今日は防波堤の上に人影があった、 アラビア人と日本人親子が釣をしていた。
ハムール:
アラビア人は私を「ハムール」と呼ぶ。私の仲間は世界中の暖かい海の岩礁に住み、日本人はハタ、マレー人はイカン・バトゥー(石魚)、英国人はグルパーなどと呼んでいるが今は名前なんかどうでもよい、私は一匹の魚として大変悲惨な状況に置かれている。涼しい海底からいきなり引っ張り上げられ太陽にさらされる羽目にあっている。砂浜に放り出されたので、体に砂がこびりつき痛くてたまらない。皮から水分がじわじわ吸われて気が遠くなりそうだ。
人間達に好かれるスマートなシマアジやタイなど泳ぎの達者な連中は、陸に上がるとバタバタもがき体力を消耗してすぐ死ぬが、我々海底に住む魚は少々の事ではジタバタしない。だからこんな砂にくるまっても我慢できるのだ。エラには砂がついてないからもう少し我慢できそうだがこう水分を抜かれては苦しいなあ。
砂だらけの目から青空の中に人間が見える。背の高い褐色の男はカンドーラ(白いアラビア服)に頭をガトゥラ(白いスカーフ)で巻いた地元のアラビア人、こいつが私をこんな目に合わした悪党だ。そいつから少し離れた岩の上に日本人親子が立っている。二人ともTシャツと半ズボンで帽子を被っている。
先程から釣りはさっぱりだった。魚達は仲間が透明な糸で次々引き上げられたのに警戒して簡単には針付き餌に食いつかないはずだ。子供は飽きたのか竿を置き私に近づいてきた。私と目を合わすと大声を発した。
「お父さん、このハムールの目青いよ!
「どれどれ、本当だ、宝石みたいなきれいな目をしているね、ハムールは夜行性だからかな」
「もう死んじゃったかなあ」
「駄目だろうね」
「そうかなあ」
言いながら、子供は私を蹴飛ばした。転がった拍子に湿った砂が剥げ落ち、砂がへばりつく。熱い!熱い!跳びはねたが、熱さはとれるどころかエラに砂が入ってしまった。もう駄目だ!チクチク刺す砂粒の間から子供が見えた。私は目を閉じることができない、私にはまぶたがないのだ。
「見て!お父さん、まだ生きている」
「ほう、すごい生命力だね」
「ねえ、バケツに入れていい?」
「いいけど、スルタンに聞いてからだよ」
「スルタン!アテネ、ハーダー、ハムール(このハムール、ぼくに下さい)?」
「イェス、ヒロシ」
「お父さん、バケツに海水入れてよ」
「そんなことは自分でやりなさい」
「ハーイ」
「ヒロシ、軍手をしなさい、ハムールのエラブタと背ビレにはするどい棘があるぞ」
小さな手の圧が砂毛布から伝わってきた、私は両手でしっかりつかまれ水に移された。
「ヒロシ、まず体についた砂を落としなさい」
「ハーイ、あばれないかなあ」
子供は体にこびりついた砂をこすり落としてくれた。バタツク気力はなくされるままになった。こすられながらエラ蓋を膨らませ深呼吸した。
「お父さん、生き返えったよ、でもエラに砂がつまって苦しそうだよ、エラも洗うの?」
「エラはいいよ、そこを傷つけると助からないぞ、ハムールが自分できれいにするよ」
体の砂を落とすと、子供は両手で私を抱え新しい水に移してくれた。心地よい冷たさが体に染み込む。手が放れると私は底に横たわり深呼吸を続けた。
「お父さん、ハムール寝ちゃったよ、やっぱりだめかなあ」
「いや、もう大丈夫だ、深呼吸をしているだろう、生きようと頑張っているのだよ、少ししてから水を取りかえなさい」
上あごの針傷と皮膚の痛みは取れないがエラについた砂を落として楽になった。どうやら助かったようだ。丸く縁どられた青空の中に子供の顔が見えた。
しばらくして、私は新鮮な水に移された。子供にがっちりつかまれるのは不快だが跳ねる気力はなかった。
「ヒロシ、もう終わるぞ! スルタン、ハラース」
「お父さん、今日はたくさんつれたね」
「うん、でもフエフキダイとフエダイの雑魚ばかりだよ」
「きっとお母さんがよろこぶよ」
「さばくのは、お父さんだからね」
三人は釣り具を片付け私を覗きこんだ。体のあちこちが痛いが腹ばいになって見上げた。
「ねえ、お父さん、すごいでしょう、もう元気になっているよ」
「ハムールの生命力は本当にすごいね」
「家で飼っていい?」
「駄目だよ、ハムールを入れる水槽がない、海に返しなさい」
「だって、せっかく生き返ったんだもの、口から血が出ているし海に返したら死んじゃうよ、ねえスルタン」
「ヤマさん、ひとまず実験室に行って処理を考えましょう」
「そうだ、ヒゲヅラ君がまだ実験室に居るはずだから、ヒロシ、彼にハムールを飼う方法を頼んでみたら」
「うん、でもヒゲヅラさん大丈夫かなあ」
「とにかくハムールをクーラー・ボックスに移しなさい、海水がこぼれるとまずいから」
私は水と一緒に四角い箱に流し込まれた。蓋が閉まり奇妙な振動が伝わってくると水は左右・上下に揺れ出した。揺れ動く水中で体を保つには胸鰭でバランスをとり壁にぶつからないように定位する。こんな場合、慌てると頭をぶつける。壁にぶつかって死ぬことはないが、口先を怪我したら治るまでひもじい思いをしなければならない。
振動が止まると揺れもおさまった。蓋が開き水面に子供の顔があった。
「お父さん、ハムール車に酔ったかなあ」
「吐いてないだろう、大丈夫さ」
「ハムールもボクみたいに吐くことがあるの」
「悪いものを食べたりすると吐きだすよ」
「吐かなくても、車酔いって気持ちわるいよ」
「気分は良くないだろうね、なにしろ車は初めての経験だろうから、ほらスルタンと一緒につり道具を実験室に運びなさい」
箱は閉じられ左右に大きく揺れ定位するヒマなくドシンと置かれた。蓋が開きヒゲヅラの大きな顔が水面にあった、危険を感じて箱の隅に身体を丸く硬直させた。こうして物に引っ付いて頬と背鰭の棘を逆立てると敵から攻撃されにくいのだ。
「おっ!小粒だがなかなか立派なハムールですな」
「とっても強い引きでしたよ」
「ほう、ヒロシくんが釣ったのか、すごいじゃないか」
「ボクではありません、スルタンですよ」
「スルタンか、スルタン!マブルーク(おめでとう)、」
「ねえ、ヒゲヅラさん、このハムール飼えませんか?」
「刺身にしょうよ、この二百グラムサイズは生きづくりには多少足りないけど、頭と骨皮は煮付け、胃袋は塩焼き、面倒だからから揚げにして中華風アンカケ、これがビールとよく合うのだ、シュクラン(ありがとう)、スルタン」
「ヒゲヅラさん!このハムールはボクがもらったのです、飼うのですから」
「なんだ、ヒロシくんのか」
「ヒゲヅラ君、ハムールを飼う水槽はありますか?」
「ええ、予備がありますよ、すぐ用意しましょう」
「ヒロシくん、その前にハムールにエアーをやろう」
ヒゲズラは先端に小石の付いたビニール・チューブを投げ込んだ。クラゲのリボンのようにクニャクニャ踊りながら小石からブクブク泡を吹き出し近づいてくる。怖くて逃げたが壁にぶつかり隅に丸まりチューブを眺めた。小石は空気をブクブク吹き出している。
「ヒゲヅラさん、びっくりしていますよ」
「大丈夫、こうしておけばしばらくは元気でいるよ、今からハムール用の循環式水槽を作るからね」
「おねがいしまーす」
「スルタン、砂洗いを手伝ってくれ」
「イェス、外に干してある砂ですね」
ヒゲヅラは透明な四角い箱を抱えて戻り後からスルタンが砂を運んできた
「ありがとうスルタン、砂はこれで十分だ」
ヒゲヅラは水槽に砂を敷き始めた。
「ねえ、お父さん、循環式水槽ってなあに?」
「ほら見てごらん、ヒゲヅラ君が上げ底に砂を敷いているだろう、汚れた水や糞を砂の層を通して奇麗にする水槽のことさ」
「ほんとうに水がきれいになるの?」
「本当さ、砂の層に水をきれいにするバクテリアが住むと3ケ月ぐらい水は交換しなくていいだろうね」
「ボクのグッピーの水槽なんか、水交換してないよ」
「いや、時々交換しているのだよ、ほらお母さんがバケツに水ためて一日おいているだろう、あれは汚れた水を交換するため水道水の含まれている魚に有害な塩素を抜いているのだよ」
子供は箱の縁をつかんで私を見ていた。顔がブクブクで揺れている、
「オーイ、ヒロシくん、できたよ」
「ねえ、ヒゲヅラさん、この水槽にハムール入れて大丈夫ですか」
「心配ないよ、15日間ぐらい餌をやらなければ水槽は落ち着くからね」
「えっ!15日間も餌なしですか」
「ヒロシ、循環式水槽が水をきれいにする力を持つには15日以上かかるんだよ」
ガラス水槽:
ヒゲヅラは私を水槽に移した。中は平らな砂地で真ん中のビニール・パイプからブクブクが出ている。人間達が透明な壁の向こうに見えた。何もない砂場の隅に体を丸めて周囲を眺めた。まる見えだとどうも落ち着かない、水流で気持ち良さそうなブクブクの根元にくぼみを掘ることにした。尾鰭を振って砂を掘り始めたら、水面からヒロくんの手が入ってきた。身をひるがえして手をくぐり抜けて逃げた、透明な硬い壁に頭をぶつけた。手が追ってきたのでがむしゃら逃げて壁にぶつかった。
「ヒロシ!追うのをやめなさい、ハムールがパニックになっている」
「ハムールはボクがこわいの?」
「多分怪獣だろうね」
我々魚からすれば人間は最も狡猾で残酷な怪獣だ。
「ひどいなあ、ボクが怪獣だなんて」
ヒロシくんが遠ざかると、ブクブクの根元に戻りうずくまった。
「ヒゲヅラさん、水槽に顔をちかづけないでね、ハムールがショック死するとたいへんですから」
「ふん、私よりもハムールの方がよっぽど怖い顔していると思うけどね」
「ねえ、ヒゲヅラさん、15日間も餌なしで本当に大丈夫ですか?」
「心配ないよ、ハムールは断食に強い、なにせこいつはモスレム(回教徒)だからね」
「えっ!どうしてわかるのですか?」
「そもそもこのUAEはモスレム国家でイスラム教が国教だ、だからこの国に住むすべての動物もモスレムなのだ、そうアッラー(イスラムの神様)が決めたそうだ」
「じゃー日本の魚は仏教徒ですか?」
「そうかもしれないけど日本には国教がなくバラバラだから多分無宗教だろうな。ヒロシくん、循環式水槽は15日間ぐらい餌なしで魚を飼わないと砂の層に水を奇麗にする細菌が発生しないのだよ、その細菌が砂の中に現われる前に水が汚れると腐敗菌が出てきて酸素を消費して魚が棲めなくなるんだ」
「でも15日間も餌なしなんてかわいそうです」
「そうか、よし!ではヒロシくんの要望に答えて特別サービスの10日にしょう」
「本当に10日も餌をやらないのですか」
「これ以下はだめだ、それにハムールは餌づいてないから食べないよ、餌が残って水が汚れたら死んじゃうぞ」
私はブクブクの根元に腹ばいになり人間達を眺めた。
「ねえ、ヒゲヅラさん、ハムールをここにおいていいですか?」
「あれ、家で飼わないの」
「家にはグッピーがいるのです、お母さんが絶対反対するに決まっている」
「ヒロシが責任を持って面倒見ないからだ」
「ボクも時々は世話しているよ!」
「餌やりだけね」
私は尾を振って砂を蹴散らし隠れ場のくぼみを掘った。
「ヒゲヅラさん、ほらハムールはこんなに元気ですよ、10日も食べないとお腹がすいてたまらないと思うな」
「生かす為にはしかたがないのだよ、まあ10日立つと慣れて餌を食い始めるはずだからね」
「ヒロシ、そろそろ帰るぞ」
「ヒゲヅラさん、ハムールを刺身にしないでね、それからちゃんと餌をやってくださいね」
「うん、酒のつまみは十分あるから心配するな」
ヒロシくんは透明な壁に額を押しつけた。私はくぼみから体半分出し正面で眺めた。
部屋に二人残った。四つの机が向かい合い、私の水槽の乗っている机にヒゲヅラ、その向かいにスルタンが座っている。スルタンは網、ヒゲヅラは小さな機械をいじっている
「スルタン、ハムールの釣り餌は何、ナガール(モンゴイカ)かい?」
「ラー、ルビアン、ハーダゼン(いえ、エビです、今はこれが一番です)」
「釣り場は防波堤の例の根かい?」
「そうです、あそこにハムールの巣穴がありますね」
「そうだね、僕も先月あそこでこれより大きなハムールをイワシで釣ったよ、すぐに刺身にしたけどね。こいつはそのあとがまかな」
「ハムールの棲家はだいたい決まっていると親父が言っていました」
「スルタン、そういえばそろそろナガール(モンゴイカ)のシーズンだね、イカは釣れたかい?」
ラー(いえ)、餌に捕まって1匹が水面まで上ってきたけど後から追ってきた大きな奴に抱きつかれて糸がゆるんだ隙に逃げられました、」
「そいつは残念だった、イカは酒のつまみに最高だからね」
「イカは釣り上げるのが難しいからヤスで刺さないと駄目です」
「そうか、それで市場で買うのと浜に打ち揚げられているイカの甲羅には穴が開いているんだ」
「イカはどうやって食べているの?」
「から揚げとサルーナに入れます」
「僕は刺身と塩コショウをまぶして軽く半焼きする。スルタンの好きなテンプラも良いけど油をはじくから最近はやらない」
「スルタン、今度イカ獲りに行きたいね。」
「夕方の引き潮がいいですね」
二人は仕事を終えたらしく帰る前に私を覗いた。私を釣った背の高いアラビア人は漁師のように日焼けした筋肉質の太い腕とアラビア人特有のヒゲがなく褐色の大きな目をしている。ヒゲヅラは中肉中背で唇が厚くコショウダイに似ている。
「お前さん、死ぬなよ」
「大丈夫ですよ、ヒゲヅラさん、ハムールは強いですから」
「うん、しかし皮の火傷がひどいね、今日と明日木金は定休日、土日はドバイの農水省で会議だから月曜日までハムールが留守番だ」
「ヒゲヅラさん、灯りとクーラーは消しますか?」
「ナトゥール(守衛)から文句を言われるだろがクーラーを消したら水槽の水温が上るからそのままにしておこう」
「最近ここでは頻繁に停電がありますから、エアーが止まった場合水は冷えていた方が安全でしょう」
人間達の去った部屋はブクブクとゴーゴーだけである。腹ばいになり敵はいないか眺めた。動き回るのを好まない性にこの状態では他の魚のように泳ぎ回る気になれない。
周囲を見ようと少し浮上した。先程痛い目にあった透明な壁に沿って泳いでみる、尾ひれのひとかきで壁にぶつかり、底から壁にもたれて体を伸ばすと鼻先が水面に出た。砂浜に放り出された時、死を覚悟していたが、よもや食い意地の結末がこうなろうとは。腹は減ったが唇と皮の痛みで食い物どころではない。どうやらこの長四角い透明箱が私の生きる所になったようだ。
突然灯りと一緒にブクブクとゴーゴーは消えたがしばらくして復活した。白髭の老人が入って来た。
「やれやれ灯りとクーラーをつけっぱなしだよ」
パチン、ブクブクだけの暗闇になった。私は暗い部屋の空間をみつめた。闇の中に私を見つめるハムールがいた。近寄り向い会い自分だと気づいた。唇が厚く大口で頬に鋭い棘を持つ醜悪な魚である。入り江にはいろんな顔の生き物がおり顔つきで友好と危険性はすぐ分る。カマスとダツは冷徹で目を合わせたら追いかけられそうだ。アラビア人に好まれるタイとボラは柔和な目をしている。私の顔は獰猛そうで小魚には怪物だろうな。この大口に飲み込まれるから誰も怖がって近寄らない
岩場の裂け目に群れで陣取るガンガゼの青模様した丸目はこちらの動きに合わせて鋭い棘を向けてさあ来て見ろと誘うけど余計なお世話だ近寄るもんか。こいつらが増えて割れ目が占領されると隠れ場にこまる。ガンカゼは大挙して海藻それに岩表面を覆う微小藻類とそこに棲んでいる小動物を一緒に齧り取るので小魚の餌まで消滅して砂漠にする。砂漠化した海底はガンカゼ帝国になってしまう。そこでは痩せ細ったムラサキウニがビニールを齧って何とか生きている。ガンカゼを食う物好きは歯が丈夫で皮膚が固い鱗で包まれたモンガラカワハギぐらいだ。ガンガゼをひっくり返して棘の少ない尻から齧り内臓まで食うやり方は合理的だ。ノコギリガザ二は海底に目玉と短い触角をユラユラ揺らしてアミに見せて食い物発見と近寄れば砂下に隠した強力な二本バサミでバッサリやられる。クラゲは嫌われ者で触手を恐れて誰も近寄らないがいつも逃げ回っている臆病なスズメダイはクラゲの触手が海藻に絡みついて本体の傘部から切れ離れるや日頃の恨みとばかりに群れで本体を齧り殺す。我々海に棲む者は皆孤独の単独者で生きるも死ぬも自分の判断で決まる。食うか食われるか生き残るためには自分に備わっている能力をフルに活用して遭遇した状況に対応しなければならない。
まだ観察してないが人間もいろんな顔と行動パターンがあるようだし彼らだって我々と同じように遭遇した状況に対応して生きているはずだ。
海:
イランから吹く冬のシュマールが止む3月の夕暮れ、海底のサンゴ礁で暮らしていたつがいのハムールはお腹の張ったメスに並んでオスがゆっくり浮上して水面に向かう。陽の落ちた薄暗い水面でオスはメスの頬を数回キスした後お尻を軽く突き排卵を促す、排卵と同時にオスの放精で水面は白濁する。数百万の受精卵が水面に分散した後ゆっくり沈み始める、浮いた卵は未授精卵である。沈む途中で海中を遊泳しているイワシの群れや稚魚に大部分の卵は食われるが海底に落ちても安全ではなくサンゴ礁は貪食なサンゴ虫の口だらけ、砂地はイソギンチャクと砂から這い出てくるヤドカリとゴカイの上等な餌である。海藻の森の葉の上に落ちたわずか数個の卵で発生は始まる。3日後卵の殻を破って赤ちゃんハムールが出てくる。赤ちゃんはお腹に付いている自動栄養保育器の卵黄で餌なしで浮遊するが卵黄を吸い尽くす12日頃に背びれと胸鰭に不相応な長い棘をつけた仔魚になる。捕食者は海中に無数いるが幸運なことに私は食われず生き延びた。長い棘は泳ぎに役立たないが捕食者には食いにくいと思われたかもしれない。長い棘でバランスを取りながら回りにいる小さな動物プランクトンを食い続けた。20日で口の大きな不細工な稚魚に変態した。35日目幼魚となり遊泳力がついてまともな魚の格好で餌が捕れるようになると海藻の森では餌が足りなくなった、ある日森を離れて当てもなく遊泳しているとプランクトンの群れに遭遇して上昇するものを追って水面近くに来てしまい隠れ場がないことに気づき用心しながら泳いでいると大きな黒陰の下に入った。黒陰の下ではいろんな種類の稚魚達が賑やかに群れており私も群れに入った。黒陰は海面に浮いた巨大な浮島で海藻、海草、ビニール袋、ペットボトル、木材、人間が捨てた陸上の食い物が集まったゴミ島だった。群れはゴミ島と一緒にどこかに流れていく。ごみ島は隙間だらけで入組んだ迷路のようで壁面に微小生物が付着しておりそれを餌にアミ、ワレカラ、ゴカイ、エビ、カニの幼生などが沢山棲み付きこれらが我々稚魚の食い物になった。島の下ではアジ、イワシ、スズメダイ、クロダイ、イサキ、フエフキダイ、フエダイなど多種多様な稚魚が群泳して島に集まる動物プランクトンを食っていた。泳ぎ回るのが苦手な私はハゼ、オコゼ、ギンポ、べラ、フグと一緒にゴミ島の中を棲家にしていた。群れには敏感な者がいてカマスとダツなど危険な連中が近寄ると警報を発して一斉にゴミ島に潜り込んできた。ダツは長い口ばしをゴミの隙間から差し込んでくるが透明なビニール袋の裏に避難すれば安全だった。ゴミ島に近寄ってくるクラゲは透明で長い触手をこちらの動きに合わせて伸縮させる危険な捕食者だった。クラゲの触手は獲物に触れると瞬時に数百本の毒針を発射して射殺するので人間も忌避する恐ろしい奴だ。クラゲは本体の傘部が破壊されても残った触手は海中を漂い獲物に触れると毒針を発射して殺す無差別な殺戮者である。空から木材の上に降りてくる海鳥も恐ろしい捕食者だったが島の下に避難すれば安全だった。迷惑な大物は息継ぎにゴミ島に頭を出すアオウミガメでクラゲを食いながら海草と一緒にアオサの生えたビニール袋まで食って隠れ場を壊した。カメの胃腸は消化できないビニールが詰まって便秘だろうな、海底の草を食っておれば健康なのにアホナ奴だ。ゴミ島は船の航行と荒天で時々分断されたが私は大きな塊に引っ付いた。
マングローブとモ場
数ヶ月海面を漂った私のゴミ島は潮流に乗ってウムアルクゥエンの沿岸に近付いた。沿岸の海底は砂漠だがサンゴと海藻に覆われ岩礁が所々に頭を出し周りは大小様々な種類の魚で賑わっていた。スズメダイは仲間の群れを見つけて岩礁に行こうとしたがゴミ島の下で待ち構えていたダツとカマスに食われた。その日の風向きと潮流でゴミ島は運が良ければ入り江に流れ込むが、悪ければ砂浜に打ち上げられ日干しになる。この日ゴミ島は上げ潮に乗って入り江に入った。ゴミ島から草原が見えはじめると泳ぎに自信のある連中は草原を目指して一斉に降下した。ダツとカマスの襲撃を恐れて必死で泳ぐ。クロダイとイサキが草原に着いたとたん草陰からフエダイとコチが飛び出してきて次々に食われた。フエダイはイサキをくわえた瞬間カマスに食われた。草原は大混乱だ。ゴミ島に残った我々は海藻の間から惨事を眺めた。ゴミ島は草原を通り過ぎてマングローブの森に入ると下枝の茂みに引っ掛かって止った。茂みの回りに捕食者は見えず、木の上からハゼとベンケイガニが訪問者を珍しそうに眺めていた。森の水底は地面から突き出た無数の細長い気根で覆われ、その下では沢山の巻貝キバウミ二ナとヘナタリガイが落葉を食っている。ボラとクロダイの稚魚が列をなして気根の隙間を通り抜けていく。ゴミ島から葉の茂った下枝に移ったとき幹の陰にかくれていたゴマフエダイのアベックに出会った。二匹は森の外に出たいが上げ潮に乗って来遊するカマスとダツの群れを避けるため引き潮まで待っていた。森の周辺は広大な草原である。この草原の何処かに私の住む場所があるかもしれない。夕方の引き潮時に二匹と分かれ森から流れ出ている小さな水路に乗って草原に出た。水路周辺の草原ではフングル(海産メダカ)の大群が餌をあさっていた。フングルは鱗の堅い小魚で旨くないので無視して通り過ぎようとした、突然シラサギが舞い降りて一匹が捕まると群れはパニックでチリジリに逃げだした。
私は水路の小石にへばりついて隠れた。鳥は歩きながら草むらに隠れたものをついばみさらに水路に沿って逃げ遅れたものを探している。私の傍にフングルが隠れていた。真上からシラサギが覗く、フングルがついばまれると同時に、食われる!私は水路先の深みに向かい全力で泳いだ、シラサギが追ってくる、何度かの口ばし攻撃をかわして深みの縁にたどり着き懸命に潜ってカラフルな小魚が舞っているサンゴの森に着いた。彼らは突然の侵入者に驚いて珊瑚の隙間に潜り込んだ。彼等は臆病でサンゴから離れない習性を持っていた、当然だろうこの水路には飢えた怪物が徘徊しているのだから。シラサギが怖いのでしばらくそこに留まったが食い物にこまった。小魚達は狭いサンゴの隙間で生活しており私が動くとさっとサンゴの間に入り動かない。
モ場:
食い物は目の前にいるが1匹も捕獲できない。ここは私には不適な所だ、危険だが上げ潮に逆らってその先の草原に移ることにした。まず長身のフラミンゴの群れが餌とりをしている草原に行こう。フラミンゴはコエビ類と藻類が主食で魚を食わない。あの深さだとシラサギは足が届かないので森の中だから空からの攻撃はないだろう。上げ潮は新鮮で見通しが良く泳ぎやすい。カマスとダツがうろついているが安全な隠れ場を見つけようと必死に泳ぎ続けてクロダイとヘダイの若魚がチラホラ見える草原にたどり着いたが疲れ果て草の根本に潜り込んで眠った。
ここは砂漠の砂が風で運ばれて岩盤に積もってできた柔らかな砂地に海草が茂った広大なモ場だ。砂に覆われてない岩盤のでっぱりにはアコヤ貝、カイメン、フジツボ、サンゴが付着し所々にある割れ目は隠れるのに手ごろだが誰かの巣穴のようで怖くて近寄らなかった。数日間私は草の根元に隠れながらモエビとゴカイを食った、草原に寝そべっているナマコ、ヒトデ、ウニ、ウミウシ、エイ、逆さクラゲのオヨギイソギンチャクは無害だが食い物にならない。美味そうなテンジクダイはいつもガンガゼの棘の間に隠れており捕獲したいけどガンガゼの鋭いやじり棘が危なくて簡単には近寄れない。イモ貝は寝たふりで油断させ毒針を打ち込む危険な奴。エビ、イワシ、イサキ、スズメダイ、クロサギが安全な食い物。歯の丈夫なクロダイとフエフキダイは巻貝とアコヤガイの稚貝を食っていた。草食性のアイゴは草陰で待っておけば群れで集まるので狩りやすかったが背鰭と胸鰭の毒棘で飲み込むのに苦労した。草原を真っ黒な塊で動くゴンズイは背鰭に長い毒棘を持ち飲み込みにくい、ハオコゼは草陰にジッとしている地味な小魚だがアイゴよりも強烈な毒棘が背鰭にあり近寄らなかった。モヨウフグは泳ぎ下手だが毒があるので食い物にはならない。動きが鈍いカワハギ、ハコフグ、タツノオトシゴは不味くて消化に悪い。砂底をつつくボラ、イトヨリダイ、ヒメジの群れは敏捷で泳ぎが速いので最初からあきらめた。フエフキダイとフエダイの大きいのに出会った場合は密集した海草の根本に潜り込んだ。海草のない狭い沙底にはスナイソギンチャク、砂下に潜むコチとガザ二、砂底そっくりな偽装名人のモンゴイカなど大型捕食者が潜んでいた。
草原には半年住んだ、フエフキダイとフエダイの若魚に遭遇しても逃げずにすむようになったが海草の間に逃げ込む小魚やエビを追うのができなくなる。獲物探しでウロウロせず食ったら隠れているのが安全で普段は草陰にジッとしていることが多かった。モ場は生存競争で緊張しどうしだったが海草のおかげで平穏であった。私達には被害はないが時々来遊する巨大なジュゴンの群れには驚いたが海草を根こそぎ食って裸地するのでみんな避難場探しであわてた。群れには夫婦と子供がおりメスは時々食うのを休んで胸ビレの根元から子供にオッパイを飲ますのでその陰は安全だった。彼らは臆病で遠くに漁船の音がしただけで一斉に沖に逃げていった。さら地が元の草原に戻るには半年以上かかった。草原には群れで餌をとるアイゴ、クロサギ、ヒメジ、ボラなど沢山の魚種が来遊するがハムールと出会うことはなかった。草原で食い物の魚を捕えるには、フエフキダイとフエダイのようにスピードが必要だが私の体型は相手の隙をついた急襲で追跡による捕獲は無理だった。もう少し大きな獲物が欲しいがこの付近の草原には適当な大きさのが少なく隠れ場もない。
草原にはアナジャコの巣穴に居候するハゼ、小穴に住むギンポ、体を枯草に似せたヨウジウオ、タツノオトシゴのような定住魚がいるが、成長すると何処かに移住していく連中が多かった。フエフキダイ、フエダイ、クロダイ、アイゴ、ブダイは海藻の茂る防波堤の岩場、イサキ、クロサギ、ヘダイ、ボラは防波堤近くの砂底へ移動していった。若いエビは海草に紛れて沖合いに出てから砂泥の海底に移動するらしい。彼らは本能的に行き先が分かっていた。私はどこに行くべきか分からなかったが餌の多そうな岩場に決めた。草原を通って行けば安全にたどり着けるだろう。
仲間との出会い:
夕方の引潮時に移動を始めた。浅い草原には危険なカマスとダツは残ってない。草原を抜けて大きな割れ目が点々とつづく岩底を避けて泳ぎ海草がまばらな砂場に出た。砂場の向うにフジツボと海綿に覆われた岩山が見えた。砂底から少し浮上して注意しながら岩山を目指した。砂場を進み岩壁の傍に来てホッとしたとき、真下の砂からコチが飛び出してきた。恐怖とパニックで体が硬直して動けない!瞬間コチは横から突進してきた大口に飲み込まれた。大口は大きな雄ハムールだった。気が付くと私は彼の横にいた。引き潮時に危険な砂底をふらつくなんてアホと言われた。ついてこいとは言わなかったが動き出した彼に付いていくことにした。彼は先ほど通り過ぎた岩底まで来るとゆっくり大きな割れ目に入っていった。入り口から覗くと暗い中に幾つか青い目が光っている。中は色々な大きさのハムールが雑居していた。新妹よお前は無知だからしばらくここで暮らせと大きなハムールに言われた。その巣穴に棲むには約束があった。食い物は自分で獲ること、腹が減っても共食いはしない、定期的な協同清掃である。巣穴は奥が深く水流が弱いので皆で尾鰭を振って溜まった老廃物と砂を掃きだす作業だった。ハムールは共同で狩りはせず単独行動で獲物を待つ。翌日から巣穴の周りで餌を獲り危険を感じたら逃げ込んだ。巣穴近くまで追ってくるフヱフキダイとカマスは大きなハムールの餌食になった。巣穴に棲んだ1年間で幾つかの大切なことを学んだ。砂場に隠れているコチとワタリガニは砂表面に偵察用の目を出しているので迂回するか離れて上方を泳ぐこと、ダツは水面、カマスは中層を好み数匹で行動している。クラゲは流れに向かって傘を収縮させながらリボンを流して獲物を探すので傘の上方を泳げば安全である。砂場に落ちている餌は拾わないこと、砂に良く似たスナイソギンチャクとモンゴイカに絡め取られたら抜けられない。最も怖いのは人間である。彼らは色々な手法で我々を捕らえようとする。それが目の前にある罠カゴのガルグールと透明な刺し網だ。
ガルグールと刺し網
鉄線で編まれたガルグールは中央に我々の好きな食い物ホビス、乾燥イワシ、砕いたアコヤ貝が置かれており広口の漏斗に導かれて安易に入ると一生出れない仕組みになっている。最初に小魚のスズメダイ、クロサギ、ベラとガザ二が餌につられて入る。小魚を狙ってフエダイとフエフキダイが入る。用心深いクロダイでさえ貝肉に誘われて入る。中の魚を狙って入る食い意地のはったハムールもいた。生き餌にひかれてモンゴウイカも入ってくる。小魚が網目から逃げ出すと残った連中同士食い合いながら逃げ出そうともがくが数日後にカゴは引き上げられる。刺し網は私のような小サイズ魚は通り抜けるが大きな魚は背鰭が引っ掛かりもがくほど網が絡みつき逃げられない。ガルグールは古来よりアラビア湾岸で使われいる漁具である。
昔はデイツの葉の主軸を割いて編んでいたが海水を吸って軟弱となりハムールの体当たりで穴が開き数日で駄目になるので鉄線製が導入された。鉄線ガルグールは錆で腐食しても5ヶ月程度持ちこたえる。荒天日に流失するガルグールと刺し網は海底でゴーストネットとなり魚を捕らえて死滅させる。ガルグールは腐食するとハムールの体当たりで穴が開くので深刻ではないが刺し網は海底に棲むカニ、ヒトデ、コチなどを絡め捕りながら移動してサンゴ礁に絡まり停止するので厄介である。モ場に沈んでいるゴースト刺し網が海草を食べにくるジュゴンとアオウミガメに絡みつくと浮上して呼吸ができずに死ぬ。
仲間たち
巣穴は新入りが加わり混雑しだすと大きな者は順次巣穴を出て餌が豊富らしい沖の深い岩礁に移動していく。巣穴周辺は大体知り尽くしたので餌の多い防波堤の岩場に移ろうと思った。ここから岩場までは海草が続くが途中にアイゴの大群に食われたらしい短い海草の砂底は危険だが所々に突き刺さっている死んだハボウキ貝の大きな逆三角の殻は隠れ場になるだろう。潮が引き始めた夕方巣穴を出て岩場に向かった。砂底に危険な目玉はなかった。海草のないくぼ地を通過したとき見たことのない砂の盛り上がりに危険を感じて急上昇したときガレイが飛び出してきた。尾を振って攻撃をかわし近くの半開きの殻に逃げ込んだ。殻から突然の避難者に仰天したギンポが飛び出ていった。
モンゴイカ
カレイは逃がした獲物をしつこく追い回すことはないが、私はショックですぐには動けなかった。興奮がおさまり周囲を眺める余裕が出てきた。塔の主は随分前に消滅したらしく内壁はフジツボとアコヤ貝に占領されているが壁一面にモンゴイカの卵が整然とぶら下がっていた。半透明な膜を通して生まれ出てきそうなチビイカが見えた、ギンポは出てきたチビを食っていたのだ。モンゴイカは強烈な食腕を持つ凄腕の捕食者でモ場では危険な連中だ。
卵に見とれていると、壁の外から水を吐く音が聞こえた。塔の側でモンゴイカのつがいが向かい合っていた。一回り小さいメスが足を揃えてつぼませると、オスはつぼみを包み触手をくねらせながらメスの背中と腹を愛撫した。重い水の吐息、二匹の背中を濃い虹色のさざ波が流れていく。逃げ出す機会を伺ったが、オスはメスを愛撫しながらも周囲への警戒を怠らない。このままだとメスが塔に卵を隠す時に見つかってしまう。私はいつでも逃げ出せるようにした。
突然塔が激しく揺れた、イカが体当りしたらしい、シューという断末魔とともにスミが吐き散らされた。周囲は真っ暗、狼狽して脱出が遅れた。スミが鰓にへばりつき苦しくなる、思い切って外に飛び出すと人間の腿にぶつかり足元の草陰に隠れた。
水面ではモリで背中を貫かれたメスイカがスミをシューシュー飛ばしてもがいている。私は子供の足に丸まって隠れていた、彼はイカに気をとられ私に気づいてない。オスイカが人間と対峙していた。モリが背に打ち込まれた。串刺しにされたオスイカは腕をクニャクニャ懸命に動かしながら必死につかみかかろうとしている。空をつかむ腕の隙間から、シューシュー苦しげな荒い息とともに大量のスミを吐いた。煙幕の中で私は恐怖で動けなかった。スミが潮に流され視界が戻る。
「じいちゃん!ここにハムールがいるよ、ほらぼくの足のそばに」
頭上にモリ先が見えたが動けずに足にへばりついた。
「突くな!アリ、ハムールはお前に助けを求めたのだ、よく見ろ、まだ小さいぞ」
「わかったよ、じいちゃん」
モリ先は頭上で止まった。
モリ先が水面に抜け、子供の足はゆっくり離れたが動けなかった。
「ほら行け、ハムール」
老人の堅い指先が背に触れたとき、私は弾けたように彼方の草むらに突進した。
「じいちゃん、このナガールは夫婦かい?」
「そうだ、この大きいのがオスで小さいのがメスだ、ナガールは夫婦仲がとてもいい。いいかい、つがいのナガールを見つけたらまず小さいのを突け」
「でも、大きいのが逃げちゃうよ」
「大丈夫さ、さっき見たようにオスはけっしてメスを残して逃げない、メスを助けようと向かってくる。オスを先に突くとメスは逃げてしまうけど、お腹の赤ちゃんを守るために逃げるのさ」
私は草の根元に潜り込んで身体を固くした。早く日が落ちて欲しかった、暗くなれば人間はいなくなる。草陰で落ち着くとさっきの状況を思い浮かべた。人間に見つかったときなぜナガール夫婦は逃げなかったのだろう。格好つけて勝てない人間に対峙するなんて無謀だったけどナガールのオスはああするしかなかったような気がする。理解できないのは人間の行動だ、彼等はナガール夫婦を刺し殺したのに私を逃がした。アラビアには助けを求めて懐に飛び込んで来た者を保護する伝統がある。
私も敵に追われて側近くに隠れた者は食わない。
防波堤の岩場:
ずいぶん時が過ぎたような気がした。満潮になり深くなると草原に賑わいが戻った。横をボラ、キス、イサキの群れが餌をつまみながら通り過ぎていった。水面にはサヨリの群れが浮いている。空腹だがイワシの群れが通っても襲う気にならなかった。クロダイの群れが通り過ぎたとき、彼らについて行くことにした。草原から砂底に出ると前方の岩場は魚達の往来で賑わっていた砂底を横切りスズメダイが群れているサンゴの下に隠れた。住人たちは食事に忙しく新入りに気を留めるものはいない。近くの岩の隙間にクマノミのつがいが出入りしている。食おうと隙間に入ったとたん背中を刺されて慌てて外に逃げた。クマノミは餌をおびき寄せるためのイソギンチャクのおとりだった。次に見つけた大きな隙間は最初に安全を確かめてから入り中の砂溜まりに尾鰭を振ってくぼみを作り腹ばいになった。
落ち着いて見渡すと、ここは水通りが良く棲家としては悪くはないが正面と上はオープンで外から丸見え、しかも奥行きがあまりなかった。こうしている間にもコショウダイとチョウチョウオの大きいのが正面から上に通り抜けて行った。テンジクダイの群れが整然と入ってきたのは幸運だった。大きな目をした小魚達は、私が居るくぼみ近くでおしゃべりに夢中である。ちょうどいい大きさの晩飯が中ほどにいた。群れがゆっくり隙間の上に動いたとき、突進してそいつをつかまえた。彼らはパニックになったが、再度の攻撃がないと分ると群れを整え移動していった。群れの利点はどうでもよい1尾の犠牲者で全員が助かることだ。満足して腹ばいになって入り口を眺めた、大きな訪問者は絶えることなく続く、ヘダイ、クロダイ、ブダイ、フエフキダイ、ゴマフエダイが入って来たが私を無視して泳ぎ去った。ここは外から丸見えでも食い物の小魚が好んで通る隙間らしく餌待ちに便利だった。私は満腹すれば3日は食わないですむ、動き回らないからあまり腹が減らない。小魚が近くに来ても食欲がないから知らぬふりだ。時々好奇心から夕方巣穴から出て外界を眺めた。海が凪いだ日にはよく人間が潜ってきてモリで魚を衝く。こんな場合は私が真っ先に狙われるので防波堤の奥深く皆と一緒に隠れることにしていた。
移転:
数日続いた悪天候で岩から剥がれた海藻が水底を漂い私の隙間に入り込んできた。海草に紛れた見えない捕食者に用心していると海藻の塊から大きなノコギリガザミガプコプがハサミを振りかざして襲ってきた。ハサミをかいくぐって上方に逃げた。ガブコプはハサミを挙げて悔しがったが、そのまま私の寝床のくぼみに潜り込んだ。短い触覚と丸い目玉を砂から出し偵察も抜かりない。ガブコプと喧嘩して棲家を取り戻す気はなく近くの岩陰に隠れて新しい巣穴を探すことにした。
翌朝、私は岩陰に隠れながら防波堤の隙間を物色した。防波堤は遠くまで続いているからどこかにいい場所があるだろう。前の隙間から遠く離れた所で手ごろな隙間を見つけた。入り口は狭いが奥行きはありそうだ。儲かったと入った途端、鼻を噛みつかれた。驚いて逃げる横腹に強烈な頭突きを食った。外に飛び出したら、尾に噛みかれた。この凶暴な奴は赤色ハムールのアローサ(ユカタハタ)だった。しつこい追撃に岩の上を逃げ回っりなんとか砂底に逃げたら追撃を止め引き返していった。水面からカマスが我々を見ていた。カマスが攻撃してきそうな気配を感じ砂底の廃棄ロープの下に隠れた。頭から腹まで痛く尾鰭は少しかみ切られている。砂底は危険だ近くの岩陰に移って明日まで待とう。
巣穴探し:
明け方から棲家を探した。格好な割れ目や隙間はアローサでふさがっており、挨拶が威嚇ですめばいい方で、ひどい奴だと入り口付近を通っただけで攻撃してきた。追撃は岩場だけに限られた。砂底では追う方がカマスの標的になりやすいのである。アローサのテリトリーに入らないように気をつけていたら手頃な隙間は見つからずに遠くに来てしまった。腹が減ってきた、焦りとともに水面が気になった。先ほどからかカマスが私に狙いをつけていた。なるべく底すれすれに泳いだが、砂に潜む捕食者にも用心しなければならない。カマスは私と平行に泳ぎながら接近してくる。遊泳力で劣るので泳いでは逃げられない。近くの岩壁のくぼみにへばりついた、これならカマスが突進してきた時に間一髪でかわして逃げられる。それを感じてカマスはすぐに攻撃してこず私が岩から遠ざかるのを待っているようだ。 カマスはしばらくついてきたが、遠くに魚達の賑やかな群れが見えたとき去っていった。そこは防波堤の崩れた岩場で魚達のたまり場になっていた。海藻と付着生物に覆われた岩場は隙間が多く、ブダイ、ベラ、コショウダイ、スズメダイが出入りしている。隙間を覗くと若いフエダイがあわてて奥に逃げた。奥は砂地で四方の隙間から流れがありアローサが占有してないのが不思議だった。先住者がいなければ丁度良い、ここ住むことに決めた。
新しい棲家は心地良く、食い物は岩場周辺に集まるので容易に捕えた。狩りではイワシやアジそれにグルクマなどの群れは後ろの奴に狙いをつけた。先頭は用心深く遊泳力もあるが後部は先頭を頼るので注意力が薄いからである。岩や砂の上を這っている若いカニも食った。不猟のときはそこら中を泳ぎ回っているスズメダイである。ブダイは群れでよく通るが、鱗が硬く美味しくない。小魚よりも少し大きな若魚を一匹捕えるのが効率的であったが、遊泳力で勝てぬ連中と勝負する気はなかった。捕獲の基本は油断している獲物を急襲することだ。魚達が餌漁りに忙しくなる朝夕の薄闇や夜間が良い。岩陰で寝そべりながら獲物が近寄って来るのをひたすら待つ孤独の時間、獲物が目標範囲に入れば突進して飲み込む。目先でカマスとフエフキダイ先取りされたり邪魔が入り失敗も多かったが飢えることはなかった。
釣り:
ある日の午後、岩場はいつもより賑やかである。スズメダイとフエダイが底に転がっているイカの切れ端を突いていた。ベラ、ハゼ、クロサギ、タマガシラ、フエフキダイ、コショウダイが交互につついている。イカの匂いが流れてきたが、明け方にグルクマを食ったので食欲はない。切れ端を丸呑みできないスズメダイ、ベラ、ハゼは小片でもせしめようと頑張っている。フエダイ、フエフキダイ、クロサギは、思い切り飲み込んでたちまち水面に引っ張り上げられた。彼らは必死に岩場へ逃げ込もうとジグザクに泳ぐが頭を上に向けられてはどうしょうもない。抵抗が弱まると真っすぐ水面に引き上げられていった。我々は呆然とその光景を眺めた。イカの付いた針は透明な糸に結ばれ水面に続く、その先には竿を持った人間がいる。針に掛かった奴が苦痛と恐怖にもがいたので我々は危険を感じて一時的にそこから離れるがイカの肉はめったにない上等な食い物で針つきの危険物にもかかわらず、みんなが奪い合うのも無理はなかった。
大きな影がゆっくり近づいてくると小魚達はパッと四方に散った。近くに住む老クロダイである。彼はイカの周りを旋回しながら念入りに観察した。イカを丸呑みせず、ほんの少しだけかじった。針が動くと少しだけかじる、これを数回繰り返して針が切れ端から見えると去っていった。続いて小魚たち針が裸になるまでつつきだす。
岩場に住んでから何回も針付き餌は投げ込まれてきた。イカの切れ端、イワシやアジの肉片、貝にエビといろんなうまいものが投げ込まれた。危険な飛入りもあった。釣られてもがいているフエフキダイの腹をカマスが猛スピードで切り裂いていく。砂からいきなりパクリのコチ、ガザ二はそこのけとハサミを振り回すので嫌われたが。自慢のハサミで食い物をつかんだまま引き上げたり食い終わった針が甲羅の端に引っかかりバタバタする格好は面白かった。エイは針をくわえ込み一進一退の迫力ある綱引きをやらかしたがなかなか引っ張り上げられなかった。綱引きの最中に糸が切れて助かるのもいたが長い糸髭を口から引いていた。大きなフエフキダイはイワシ肉を食って綱引きをしたが。フジツボで糸を切り逃げたが針が喉に刺さり衰弱して死んだ。
人間はこの岩場で色々な仕掛けでたくさんの魚を捕まえた。我々は満腹したら余計な獲物は獲らないが人間は飽きることなく獲り続ける。
私はこの岩場に2年住んだが人間は刺網とガルグールさらに餌つき針で際限なく魚を獲り続けていた。ある日の早朝岩場は暗い内から人声とスクリュー音でうるさく危険を感じて巣穴から様子を見ることにした。舟から細く透明な刺し網が投げ込まれ防波堤と砂底を仕切った。突然人間達は喚きながら舟縁と水面を強烈に叩き始めた。カマス、ボラ、アジ、グルクマ、フエフキダイ、ブダイは驚き、深みに逃げようと次々に網に絡まった。海底では驚いて砂から飛び出したコチとガザ二が絡まった。もがけばもがくほど網は絡みつく。私達は息をひそめて恐ろしい光景を眺めた。
網が引き上げられてからしばらくは岩場に動きはなかった。昼間には
先に岩の隙間に逃げ込んだ。
昨日から獲物がない。刺網騒ぎで皆神経質になり接近が難しくなっていた。テンジクダイとグルクマの群れを襲ってみたが駄目だった。夕方はカマスとダツの群れがうろついたので巣穴にこもった。昼間の岩場はいつものように賑わっていた。2日も食ってないので猛烈に腹が減った、餌探しに巣穴から出た時水面から美味そうなエビが目の前をゆっくり沈んできた。集まってきた魚達を蹴散らしクロダイより先に飲み込み巣穴に向かったが、グイッと引かれて針が上顎に食い込んだ、驚きと恐怖で必死に巣穴に向かうが糸に引かれて頭はあらぬ方向に向かう。散々泳がされたあげく力果て空中に吊り上げられ、針をはずされたあと砂の上に転がされた。
水槽の中で:
私は水槽で4日目の朝を迎えた。生き残った喜びはないが箱の中でなんとか生きれそうだったが。ブクブクとゴーゴーの止るのが半日以上続いたのにはこまった、我々魚が生きるには水中に溶けている酸素が必要なのだ。5日目は暗い中のブクブクだけ。水は温くやけどから出るヌルヌルと尿で汚れ気分が悪くなった。水は濁り呼吸しづらくいやな感じだ。鰓蓋を広げ口から水を送り込む。これまで水面で弾けていたブクブクの泡が引っつき重なりだした。泡は水面を覆いつくすと溢れて机の上に落ちた、鼻先を水面に出しパクパクしたら泡が鰓に引っ付いて呼吸できなくなりフラフラした。早朝の薄暗い部屋にTシャツにGパンの大きなアラブ人が入ってきた。彼は私を見ると部屋を出てすぐにバケツを下げて戻ってきた。褐色の大きな手で新しい海水に移されブクブクも下りてきた。鰓蓋を膨らませて息をした。
ヒゲヅラが入ってきた。
「サバーヘー(おはよう)、マージッド」
「サバーヘー、ヒゲヅラさん」
「おっ!マージッド、ハムールの水汚れていたか?」
「危なかったですよ、もう少し遅れていたら酸欠で死んでいました」
「シュクラン、助かったよ、こいつを殺したらヒロシくんから一生恨まれるからなあ」
「水槽は駄目になりましたからリセットしましょう、新しい砂と海水が必要ですね」
「そうしょう、マージッド、海水の入ったポリタンクがよくわかったね」
「昨晩スルタンが私の泊まり先のアブドラ家に電話をくれました、週末から長い停電があったのでハムールが心配だったそうです」
「スルタンはどうしたの?」
「昨晩お母さんをドバイのラシッド病院の緊急に連れて行きました、持病の腰痛がひどかったそうです」
「スルタンもたいへんだね、親父さんも一緒かい?」
「相変わらずですよ、親父さん友人と漁に出たようです、女房が病気だというのに」
「そう言えば前もお母さんが倒れた時、息子がいるからバダバタすることはないと言っていたなあ」
ヒゲヅラは指先で私の背をつついた、私はそのまま横に倒れ口をパクパクさせた。ヤマさんが入ってきた。
「サバーヘー、みんな朝から忙しそうだね、ヒゲヅラ君、ハムールは生きていますか?」
「ヤマさん、木曜日から停電続きらしいですがなんとか生きていますよ」
「停電ですか、飼育試験室のエビとアイゴが心配ですね?」
「これから水槽用の砂集めをしながら見てきます、マージッド、空のポリタンクとバケツを三つ持っていこう」
「ヒゲヅラ君、私はアイゴの標本を測定してから行きます」
二人が出て行くと、ヤマさんは私を覗きこんだ。
「ハムールはしぶといなあ、これほど強いとは思わなかった、しばらく飼ってみるか」
ヤマさんは部屋を出ると漬物アイゴの入ったガラス瓶を数本抱えて戻ってきた。彼は瓶からアイゴを取り出し順次測定し終わると私の隣のゴミバケツに放り込んだ。そのうち間違えてアイゴ数匹が私の所に放り込まれた。アイゴから染み出てくる悪臭で目と鰓が刺すように痛んだ。アイゴから離れようとしたが逃げ場がない。水中にいるのが苦しく飛び出したくなり鼻を水面につき出してフラフラ泳いだ。
「ウェー!臭い、ホルマリン標本室だ!」
ヒゲヅラ達は入ってくるなり、窓を開け放した。
「そんなに臭いますか、そう言えば目が少しチクチクしますね」
「ヤマさん、もう鼻と目をやられていますよ、大丈夫ですか?」
「別に痛みはありませんが、臭いませんよ」
「鼻がホルマリン固定されていますよ、あーあ、ゴミバケツにホルマリン標本を捨てましたね」
「臭いますか」
「たまりませんね、あっ!こりゃひどい、ハムールにまでこんなことして」
ヒゲヅラはバケツからアイゴを取り上げて見せた。
「ほらヤマさん、ハムールが水面でくたばりかけていますよ」
「本当だ、バケツ違いですね」
「これで死んだら親父の責任だ、責任転換バンザイ!」
「早く新しい水に移して下さいよ」
ヒゲヅラは私を海水の入ったバケツに移した。不快な臭いは消えたが、皮が剥がれるような痛みに目と鰓はボロボロになった気がした。私は底に横たわり深呼吸を繰り返した。
「まずいなあ、ハムールはかなり弱っていますよ、このまま死んだらヒロシくんには親父さんがホルマリン消毒したと弁解しますか」
「これぐらいの消毒では死なないと思いますけど」
「ハムールの活力に期待しましょう」
「ところでヒゲヅラ君、試験室のエビとアイゴは元気でしたか?」
「ええ、大丈夫でした。いまモハムードが水交換しています」
「ではマージッドに水槽の洗浄と砂交換は任せて、我々は網生簀に行きますか、クロダイとアイゴが腹をすかしていますよ」
「そうですね、マージッド、ハムールを頼むよ」
マージッドは水槽の準備ができると私を移した。ブクブクと砂底も前と同じだ、ひとまずブクブクの根本にうずくまる。水の振動で痛みが疼く、嫌な臭いが体中にしみ込んだようだ。鰓蓋を開き深呼吸を続けた。痛みを感じる間はまだ生きているのかな。
人間:
ヒゲヅラ達は昼過ぎに事務所に帰ってきた、すぐ後からスルタンも現れた。
「マルハバ、ヒゲヅラさん、ハムールは生きていますか?」
「ああ、スルタン、この通り元気だよ、ところでお母さんの具合はどうだい?」
「前とおなじ症状です、痛み止めの注射で楽になったですが2日ほど入院させました」
「ヤマさん、神経痛でしょうか」
「そうですね、母親がこうなったのは、三年前にクーラーを取り付けてからと言っていました。若い頃は朝夕遠くの井戸まで水汲みに通っていたらしいので足腰は強かったはずです。」
「ヤマさん、疲労と近代病ですか」
「ヒゲズラくん、先進国家の全ての人間は、近代化の受益者かつ被害者ですよ、特にこの国は近代化を極端に圧縮して導入した為、近代文明の明暗が凝集して移植されたようです」
「ヤマさん確かに生活は百倍豊かになったけど、昔は無かった問題がでているそうです。伝染病、肥満、糖尿病、心臓病、飲酒、それに車事故ですね。日本だって同じことが言えますけど」
「ヒゲヅラ君、アッラーがモスレムにアルコールを禁止したのは正解だと思いますね」
「酒なしでは社会は真っ暗ですよ、コラーンにはアルコールは絶対駄目と書いてないそうです、なあマージッド」
「そうですヤマさん、コラーンには絶対飲むなではなく良くないとあるのです。古代のアラビア人も酒売りユダヤ商人から酒を買って楽しんでいたらしいですから」
「ほう、ではマージッドは古代人を真似ているのか」
「古代のジャーヒリーヤ騎士道時代の英雄達が陽気になるために飲んだ薬ですよ、彼らは飲んでも家族や他人に迷惑をかけなかったと思います」
「だからみんな砂漠やホテルの裏バーで飲むのかな」
「人目が怖いからです、でも本当に怖いのは我らがアッラーです」
「マージッドはアッラーが怖くないのかね」
「飲んでもアッラーの教えに背いたことはないですから、それにコラーンに従い人助けを楽しくやっていますし。アッラーの御前では、正直に飲酒していましたと答えます」
「ヒゲヅラ君、マージットみたいな気持ちで飲めば二日酔いはなくなりますよ」
「酒は楽しく、二日酔いは反省です。飲むのに理屈は要りませんよ」
「今やこの付近の海と砂漠はビールカンとウイスキイビンだらけ、酒酔い運転で死亡事故も多いし、きっとアッラーは怒っていますね」
「そういえば、この前潜ったらモ場にビールカンが転がっていましたがハゼとギンポの棲家となり有効利用されていました」
三日を過ぎて皮の痛みは消えた、白濁した目には外界が霞んで見えた。息苦しいのは鰓が治ってないからだろう、私はブクブクの根元に横たわった。半死になりながら体には生きようとする力が残っていた。
「ヤマさん、ハムールは持ち直したようです」
「たいしたものだ、すごい生命力ですね」
「ヒゲズラくん、次は餌のタイミングですね、三、四日待って動けるようになってからやりますか」
「明日は市場調査ですから、標本用魚と餌イワシを買ってきましょう」
五日後、皮は白っぽく鰓もまだ完治してなかったが、視力はかなり回復していた。そういえばあの日から今日まで何も食ってない。猛烈に腹が減った、いくら眺めても澄んだ水槽には食い物らしきものは見当たらないがいつもの態勢で獲物を待つことにした。
ヒゲヅラが近づいてきた。
「ハムール君、気分はどうかね?」
ヒゲヅラが指を突っ込んできた、獲物だ!突進して指に噛みつき、反転した。
「ギャーッ!」
ヒゲヅラは飛び上がり、私は水中に落ちた。ああ、びっくりした、引き上げられた拍子に歯が3本も欠けてしまった、それにしても不味い獲物だった。
「オー、イテェー、歯が三本も刺さっていますよ、何てぇ奴だ」
「ほう、すごい食欲ですね、たしか冷凍庫に餌用のイワシがありますよ」
ヒゲヅラがイワシ落としてくれた、一息に飲み込んだ。冷たい!胃袋が震え上がる、たまらず吐き出した。味はたしかにイワシだがこの冷たさはどうしたことだ。
「ヒゲヅラ君、吐き出しましたよ」
「凍ったままではまずかったようです」
「震え上がっていますよ、凍ったイワシなんて初めての経験でしょう」
「やっぱり指の方が良さそうですね、君の指は油が乗っていますからね」
ヒゲヅラが手を突っ込んできた、指なんぞに興味はなかった水槽の隅で知らんふりした。
「かわいそうだから、解凍してやるか」
ヒゲヅラはイワシの袋をつかみ部屋を出て行った。先ほどのイワシを飲み込んでみる、冷たさが腹に凍み妙な気分になって吐き出した。吐き出すとますます腹が減ってきた。
「おっ、よっぽど腹が減っているな」
「ヤマさん、できました、なかなかうまそうでしょう」
ヒゲヅラはイワシをつかんで水槽の上でヒラヒラさせた、イワシが手から離れる前に飛び上がって食らいつき、尾鰭で水面を思い切り蹴った。水しぶきがヒゲヅラの顔を洗った。
「ペッペッ、ひどい奴だ、助けたお礼が噛みつきと水かけか」
「本来に戻った証拠です」
指は不味かったが久しぶりのイワシは美味しかった・
「いつか生き作りだ、頭はスープだしにしてやるぞ」
「一年はかかりますよ」
「うーん、では全快祝いをヒロシくんからいただきますか」
「それがいいですね、」
ヒゲヅラはぶっぶっ言いながら、イワシを3匹落としてくれた。今度は底に落ちたのをゆっくり飲み込む。腹一杯だ、4匹目は食うのは止めてブクブクの根元に戻った、ビゲヅラはイワシをすくい上げた。
「ヤマさん、やっと満足しましたよ」
「イワシはまだ残っていますか?」
「数匹です、ホルマリン漬けならたくさんありますけど」
澄んだ水と上等な食い物で、私は本来の体にもどった。海には自由があったがここには安全と食い物がある。本性が底性だから泳ぐ自由が欲しいとは思わない。慣れると人間達の動きも気にならなかった。
朝、スルタンは一番に来て机を拭いている。
「サバーヘー!」
ヒゲヅラが入って来た。
「スルタン、お母さんの湿布薬だ。これは前のより効き目があるけど、痛みがひどい時に使うようにしてね」
「シュクラン、これを貼ると気持ち良くなるそうです」
「病院の薬はどうだい?」
「また痛み止めの飲み薬です、最近それも効かなくなりました」
「出稼ぎ医者の治療は簡単すぎて信用できないからなあ」
私は正面でヒゲヅラを眺めた。口髭と厚ぼったい唇はコショウダイに似ている。コショウダイは岩場を遊泳するおとなしい魚で追いかけられたことはなかった。
ヤマさんとマージッドがバケツを下げて入ってきた。
「ヒゲヅラ君、マージッドは昨晩なんと海に飛び込むベンツを見たそうです、港に行ったらクレーンが車を引き上げていました」
「へぇ、マージッドの知り合いだったの?」
「ほら入国管理局のラシッド局長ですよ、昨晩港で一緒に飲んだのです。眠たいからもう帰るといって車に乗り込みました。車が走り出し、あれと思ったらゆっくり海中散歩に降りていきました。心配して水面を見ていたら本人が浮いてきて、「おおい!俺の車知らないかですよ、さすが元真珠取り漁師」
「ヒゲヅラ君でなくて良かったです」
「ひどいことを言いますね、私は飲んでも安全運転です、なあマージッド」
「ヤマさん、私達は事故を起こすような飲み方はしてないですよ」
「君達みたいのがいるからUAEの車事故の発生件数はどんどん上っているのです」
「ヤマさんUAEで酒が自由に手に入りだしたのは数年前からだそうです、だから限度を知らない連中がいるのです」
「ヒゲヅラ君、君の二日酔いはまだしも、最近の酒酔い運転による死亡事故はひどすぎる。アッラーはこの愚かさを防ぐために昔から禁酒を定めているのです。警察は厳しく取り締まるべきです」
「酒は悪魔からの贈り物かもしれませんね。でも飲酒はモスレムに新しい何かをインパクトしています、マージッドの仲間達と飲んで気付いたのですが、彼らは無意識に古い因習から離れたいのです」
「飲酒による戒律からの離反ですよ、さしずめヒゲヅラ君は悪魔の子分だね、マージッド」
「ヤマさん、確かに戒律は守らなければなりません。でもモスレムの精神を失い、上辺だけ戒律を守っている連中の方が問題です」
「マージッド、毎日祈りの声が町中に響き、人々は朝から晩まで5回アッラーへの感謝を祈る、今日もコラーンに従って生きたのだと自省する、これは良いことだと思うね」
「ヤマさん、祈りは大切ですが形です、アッラーは祈りだけでは満足しません。コラーンに従った生き方をすることがもっと大切だと私は信じています」
「戒律に従い真面目に生きることかね」
「そうです、正直に生きる。それほど難しくないですよ、それにザカート(定めの喜捨)とサダカ(自発的喜捨)、生活に余裕ができたら貧しい人々に施しを行うことです」
「マージッド、当たり前のことだけど難しい戒律だね、人は金持ちになると際限なく富を欲しがるものだよ、」
「ヤマさんコラーンには富める者は貧しい者に財力の数パーセントの施しを与えるように説いています。与える者はアッラーの評価という代償を得ますので、与えられた者は何ら卑下する必要はありません。最近の金持ちの祈りは形だけでザカートやサダカの心は小さく、富を増やすことばかり考えています」
「ヒゲヅラ君、金持ちが社会に富を還元するのは難しいですよ、ザカートとサダカを戒律に入れているのはアッラーが人間の本性を知っているからでしょうね」
「マージッド、エジプトではいたるところでバクシーシ(布施)を当然のように請求されたけど、教えが染みついているね」
「ヒゲズラさん物乞いはサダカを堕落させた行為です」
「ヤマさん、ホメイド爺さんが金持ちは広い砂漠の砂ほどの富を食らってもまだ欲しがると言っていました」
「ヒゲズラくん、資本主義社会では資本は磁石のように欲しいだけ富を引き寄せますから金持ちが自制することはないでしょうね。
「ヤマさん、宗教の戒律で金持ちに数パーセントの財を社会に還元せよと定めているのはイスラムだけですよ。
「キリスト教と仏教では無理な話ですね」
「ヤマさん、神父と坊主は愛と慈悲を説法に使いますが現状に合わない形骸だけの説教ですから精神に響かないと思います」
「ヒゲズラくん、イスラムはアッラーとの直接対話ですから坊主は要らないのです、でも日常生活の運用上で不明確な出来事が起こるとコラーンの解説者が出てきて裁定するのです。キリスト教と仏教にも同じような連中がいるでしょう」
「そうですねヤマさん、コラーン解説者イマームが世界中のモスクにいて勝手な解説を若者に吹き込んでいる。イランではシーア派坊主が政治を牛耳っていつまでも民主化できない。」
「ヒゲズラくん、イランでは坊主が国家の中枢にいて厳しい戒律で国民を纏めているのです、アラブ人は部族の自己主張が強いので民主主義では纏まらないと思います」
「ヤマさん、イスラムの大儀のために人を何人殺しても死んだら天国に行けるというまやかしのジハードを若者に吹き込むのは犯罪ですよ」
「ヒゲズラくん、モスクを通して貧困層へのザカートはイスラムの戒律に従って素晴らしいことですが、それに反体制プロパガンダを付随させ若者を洗脳することはコラーンに反すると思います」
「マージッド、ザカートとサダカは個人的なものだろうね?
「ヤマさん、ザカートは持てる財力が主ですが、自分のできる事で人を助けるサダカも大切ですよ。スルタンと私は貧乏ですから小さいサダカですが、大きな門もあります」
「マアージッド、大きな門とはシェイク(首長)のことかね?」
「そうですヤマさん、貧しい人や困っている人を助けるために門を開いています。助けを求めるローカル(現地人)は誰でも入れます」
「シェイクは超法規的存在ですから市民の相談事に対処してくれます、また老人、孤児、障害者の福祉施設もシェイクが私費で運営しています」
「ローカルだけかね、外国人は駄目かな?」
「ローカルがほとんどですが、外国人でもヤマさんみたいな禁欲主義者なら大丈夫かもしれませんよ」
「虚偽の判定が難しいだろうね、平気で嘘をつく者もいるだろうし」
「ヤマさん、当人の社会的評価やこれまでの行為を参考に、ザカートを行う者が直接判定します。もし虚偽をなした場合、厳罰に処せられ社会から弾きだされます、
「マージッド、戒律を守り人生をまっとうすると、アッラーから天国に入る許可を与えられるのだね」
「そうですヒゲズラさん、最後の審判で天秤にかけられ、正しく生きた者は復活して天国にいけます。天国は水と緑豊かな美しい都で永遠の命が与えられるそうです、もっとも酒はありませんけど」
「ヤマさん、私やマージッドには物足りないですが、ヤマさんには向いています」
「ヒゲズラくん、異教徒は入れてくれませんよ、マージッドの合否は飲酒罪をどう見てくれるかでしょうね」
「そうですね、飲酒は公言しているし、モスクで規定の祈りもなし、暇さえあれば私と釣りでしょう。まあ人の面倒をよく見ているからギリギリの線かもしれませんね。でもマージッドは気にしてないです」
「ヤマさん、私はアッラーの御前で正直でありたいのです、それは人に対しても同様です。嘘をついて生きるのは性にあいませんし、モスクで形だけの祈りよりコラーンの教えを実践する方を選びます。私はアッラーの御前で自信をもって自分の人生を説明できると信じています」
「ヒゲヅラ君、そういえばスルタンは昼間の祈りはしないしモスクにも行かないね、真面目一筋で酒は飲まず人の世話にかけては町一番なのに」
「ヤマさん、スルタンの祈り場所は浜辺です、日没前の浜辺でメッカに向ってひざまずいていますよ。傍からみるとボケッと海を眺めているようですけど、でも金曜日の礼拝には二人ともモスクに行きますよ、なあスルタン、」
「ヤマさん、私の祈りは簡単です、一日が無事にすんだ感謝の祈りです。海に出て魚がたくさん捕れたら、アッラーへの感謝。捕れなければ明日は頑張りますという報告です。我々はアッラーに期待してはいけません、今日生きたことを感謝するのです。情けないことに、今やモスクはアッラーに物を強請る所になってしまいました」
「ヒゲヅラ君、酒飲みの君達と付き合っていると、スルタンは天国に行きそびれますよ」
「大丈夫ですよ、アッラーはすべてを見通していますからスルタンの生き方でゼーン(OK)ですよ」
「ヤマさん、少し前まで私達は自然の中で肩を寄せ合って生きていたのに、石油の富ですっかり変わってしまいました。ラクダとロバを捨て自然から去ったのです。灼熱の数百年を私達はしょっぱい水と少ない食物を分け合って精一杯生きてきましたがこの僅か数年で冷風も真水も贅沢な物資も手に入り夢としか言いようのない生活に人々は酔っているけど、私はどうしても酔えないのです」
「ヒゲズラくん、石油というアッラーからの贈り物で人が変わっていくのも試練でしょうね。田舎から東京に出ると人が変わり冷徹な都会人になってしまう。でもそれは悪いことではありませんよ、もっともヒゲヅラ君のように適応できないのもいますけど」
「私はハムールのようにのんびり怠惰に生きたいてす。雑踏の中で時間に追われるベルトコンベア生活は性に合わないです」
私は腹ばいになって人間達を眺めた。人間は私達のことを怠け魚のごとく考えているらしい。海底の岩棚にボケッと寝そべって獲物を待っているからだろう、それでも外敵から何時でも逃げられるよう四方に気を配っている。単独で待っているのは効率が悪いが獲物を油断させるためそれなりに精一杯のやり方なのだ。魚捕獲のタイミングだって他の魚に負けない計算で実践している、もっとも対象物を間違えるドジはやったけど。
ヒロシくん
人間達が去ると部屋はブクブクだけ。私は聴くことはできるが、コトヒキやグチのように音を出すことはできない。私は胸鰭を動かし底から少し浮いてゆっくり水槽を往復した。たいしておもしろくないが、ボケッと腹ばいでいるよりまだ良い。無目的に泳ぐ習性のない私が、こんなにのんびり泳ぐのは海では考えられないことである。
ヒゲヅラは休日の金曜日を除いて毎朝食い物をくれた。イワシとアジの切身がメインで、だいたい同じ品が数日も続く。エビが五日続いた日は嬉しかったが、イワシが十日続いた時はさすがに閉口した。たまに行う嫌な水交換ではヒゲヅラの手際の良さには感謝するが、食い物に関する限り彼のメニューは単純で面白くなかった。海洋研究者なのに魚に味覚があるのを全く理解してない
金曜日は休日で誰も来ないはずだか、昼過ぎにヒゲヅラがヒロシくんを連れて来た。ヒロシくんはすぐ水槽に顔をくっつけてきたが、私は腹ばいのまま眺めた。
「ヒゲヅラさん、ハムール元気ですね」
「生かすのに苦労したんだよ」
「ちゃんと餌はやっていますか?」
「毎日だよ、ヒロシくんやってみるか、冷凍庫に釣り用のエビが入っているはずだよ」
「ハーイ、取ってきます」
「水道水で解凍してね」
「ハーイ、わかってます」
ヒロシくんは小さな手にうまそうなエビを二匹つかんでいる。エビが落ちると、私は水面まで突進して飲み込んだ。水しぶきがあがり、ヒロシくんは驚いて手を引っ込めたが、すぐに次ぎを落としてくれた。エビを飲み込みいつもの場所に戻り腹ばいになる。
「ハムールってすばやいんですね」
「食う時だけだよ」
「合理的な魚だって父が言ってました」
「僕には生意気な魚だけどね」
「ヒゲヅラさん、ハムールに噛みつかれたでしょう、痛かったですか?」
「痛かったよ、歯が3本も刺さっていたんだから」
「ハムールも歯が抜けて痛かったと思います、虫歯抜く時の痛さはすごいんですから」
「ヒロシくんは虫歯がないと思ったけど」
「お父さんです、この前虫歯抜いてウンウンうなってましたよ」
「鼻も悪いけど歯もひどいようだね、そうだヒロシくん、いいこと教えてあげよう」
「なんですか」
「このハムールはオスかメス、どっちだと思う」
「顔つきからみてオスですね」
「残念でした、メスだよ、ハムールの小さいのはみんなメスなんだ。アッラーがそう決めたんだから」
「またうそ言って!」
「本当だよ、小さい時はみんなメスで、まあ5年生ぐらいなるとみんなオスに性転換するんだ、いいだろう」
「よくないですよ、気持ち悪い」
「だからこのハムールは女の子なんだ、よく見てごらん、なかなかかわいい顔しているだろう」
「ハムールは性転換すると顔つきがかわるのですか」
「そうだろうね、ほら市場に転がっているヒロシくんよりデカイ頭、いかにも凶暴な面しているよ」
「ねえ、ヒゲヅラさん、防波堤で潜ったら別のハムールに会えますか」
「ああ、スルタンの話では例の岩場に新人が棲んでいるかもしれない」
「潜りたいです、ぼくそいつを見たいです」
「よし、ヒロシくんの休みの日に潜ろうか」
「お父さんが一緒でないとお母さんがOKするかなー」
「大丈夫さ、お父さんも潜るだろう」
「駄目なんです、鼻が悪いから耳抜きができないそうです」
「確かに鼻は悪いね」
「ボク潜れないのです。お父さんが教えてくれないから」
「練習すればすぐ潜れるよ」
「でも岩場はこわいです」
「今度の休みの日に飼育室前の砂浜で練習しようか、お父さんに話してみるよ」
「お願いします」
「ねーヒゲズラさん、ボクがおごりますからサワルマ(アラビア風サンドイッチ)食べにいきませんか?」
「いいね、でも今サワルマ食べたら晩飯が入らないから、お母さんから怒られるぞ」
「大丈夫です、お父さんがハムールのお礼をしなさいって言ってましたから、」
「少ない小使いで足りるかい」
「ご心配なく、ちゃんと持っています」
「よし決まった、行こうか」
私はヒロシくんが近寄るのを腹ばいのまま眺めた。
「バイバイ、元気でね、また来るから」
ヒロシくんとヒゲヅラが去ると部屋はブクブクだけ、私は腹ばいのままぼんやり考えた。海では何もなしに過ごすなんてあり得ない。まず食わねばならない。ヒゲズラから食い物を貰うのは楽でわるくないが何か物足りない気がする。所詮私は底魚のハムール、それ以上は考えない。
事件:
アラビアの七月夏は陽光が強烈だ、影が濃すぎて本体の存在が薄くなる。光りに体を突き通されぬよう、人々は白や黒い服を着る。焼けついた湿度90パーセントの重い大気が、容赦なく大地に覆いかぶさる。人々は影に潜み、ひたすら陽が落ちるのを待つ。
出勤後ヒゲヅラ達は事務所に居ることが多くあまり外出しなくなった。この暑い時期に幾度か停電を経験した、ブクブクが長く止まると苦しかった。私の生活において水温の上昇はあまり良くない。ヒゲヅラは停電時の水質保持のためと食い物を3日に1回しかくれない。
朝の出勤後ヒゲズラは私の食い物を忘れて真剣な顔つきでスルタンと話しこんでいた
「スルタン、昨日ウムアルクゥエンで何か大事件があっただろうか?ひき逃げとか殺人が、」
「いえ、そんな事件はありませんでした」
「おかしいなあ、昨日夕方帰る途中ウムアルクゥエンの出口で軍隊の検問で車の中からトランクまでチェックされIDを見せろと停められた、IDはまだ農水省から発給されてなくパスポートと運転免許証は濡れないように事務所の引き出しに入れっぱなしで持ってなかった。身分証なしということからバリケード横のジープに連れていかれた。隊長らしいのに説明したが誰かに頼んで事務所から持ってきてもらえというばかりでこまっていると、丁度白バイが通りかかり私を見て隊長に説明してくれたので開放された。」
「白バイならサーレムタハヌーンですね」
「そうだ、事務所に来たことがあって覚えていた」
「何があったか電話で聞いてみましょう」
「ついでに昨日のお礼も伝えてくれ」
電話が終わるとスルタンはヒゲズラにパスポートの保管場所を確かめた:
「ヒゲズラさん、サーレムから伝言です、パスポートのコピーと運転免許証は常時に携帯し当分は砂漠に近寄らないようにとのことです」
「サーレムの話では、王室の問題で公にできない事件が昨日ありました」
「スルタン、軍隊が出動するぐらいだから大事件だったんだ」
「ウムアルクゥエンのシェイクラーシッド首長のお姫様がUAE大学でシャルジャ出身の学生と恋仲に陥り身分違いで結婚が不可能だから二人で外国に逃げようと駆け落ちしたのですが運悪くシャルジャ港の貨物船で見つかり、姫様は城に幽閉、青年は処罰日まで牢屋でした。数年前のサウジアラビアでは同じような事件で青年は斬首、お姫様は袋に入れられて石打ちで殺される刑でした。今回の処罰はきびしいだろうと考えられていたそうです」
「それで,刑は執行されたの?」
「青年が脱獄したのです。誰が手引きしたか分りませんが当直の警官は責任を取らされて牢屋です。青年はそのままシャルジャに逃走すればよかったのですが、首長に“私は彼女を心から愛しているのでいつか彼女を貰いに行くと”公衆電話から伝えたそうです。それで軍隊動因の非常線が張られたのです。」
「素晴らしくジャーヒリーャ(騎士道)的で豪胆な青年ですね、無事逃げてほしいな」
「砂漠はシャルジャに続いていますから街に入り込めば青年の一族が助けてくれますが、砂漠で捕まると殺されて埋められるでしょう。」
「そうか、それで砂漠に近寄るとまずいのだね」
王室からかん口令が出たらしくウムアルクゥエンではこの事件は話題に上ることなく忘れられた。
ラマダン;
八月朝、スルタンが新聞を抱えて入って来た。
「サバーヘー、ヒゲズラさん、三日後からラマダン(断食月)が始まります朝昼の飲食は駄目です、食堂と酒屋も休みですよ」
「ついに来たか、ビールとウィスキーを買い込まなくちゃいかんな」
「ヒゲヅラ君、ラマダン中ぐらいマージッドに習って禁酒したらどうです、体中のアルコールが完全に抜けますよ」
「きびしいラマダンにビールがなければ真っ暗ですよ、ホテルのバーは一ケ月も閉じるのですから」
「ヒゲズラくん、確かにこの暑さの中で、飲食なしを日の出から日没まで三十日も続けるのは辛いと思いますが、日頃の贅沢を戒めるために健康に良いと思います、断酒も肝臓に休暇を耐えますから良いでしょう」
「我々外国人も従えというのだから、むちゃくちゃですよ」
「ヒゲズラくん、でも外で飲食したら、外国人でも罰せられますよ、去年イギリス人が町中でついタバコを吸ってしまい、ブタ箱入りしたのは本当ですよ、車の中でタバコを吸って捕まった日本人もいますよ、謝れば注意で済みますが、下手に反論するとブタ箱ですよ」
「ヤマさん、ラマダンになると町中が惰性とイライラで充満するし、喉の渇きが一番こたえるみたいですね。仕事はダラダラ、仕事帰りの夕方は帰路を焦るから、いたるところで交通事故です」
「ヒゲズラくんも知ってのとおり皆さん夜中に友人訪問で動き回るから睡眠不足で夕方には喉の渇きも加わり街中ヒステリー状態になるのでしょう」
「スルタン、毎年ラマダンして苦にならないかい」
「いいえ、ヒゲヅラさん、ラマダンは苦しいけど一つの区切りになるのです、それにこれはアッラーとの約束ですから守らなくてはなりません」
「アッラーはラマダンを夜遊びせよと教えてないはずだけど、去年の町中は夜通し騒いでひどかった。静かにコラーンを読む気にならないのかな」
「ヒゲズラさん、私も読みませんよ、でも断食の後に飲む一杯の水のうまさ、最初に口にする一粒のデイツ(ナツメヤシの実)のありがたさをアッラーに感謝します」
「ヤマさん、みんながそう思うとアッラーも満足でしょうね、でも今のラマダンはお祭りですよ。食い物に対する感謝も薄れているし」
「ヒゲヅラ君、苦行より楽しいラマダンの方が人々には馴染みやすいのでしょうね。車という便利な足で親戚や友人を訪問し楽しい一夜を過ごすことは非難できませんよ。人々がラマダンで食物への感謝を再認識することは大切ですね、人は豊かになると贅沢になり食物を粗末に扱うようになりますから」
「ヤマさん、デイツはアッラーの贈り物と感謝されても、今の子供達は虫歯のもとのお菓子を好んで食べていますよ。我が農水省ではデイツ栽培を奨励しているというのに」
「仕方がないですね、これが世界的な子供の傾向ですから。ヒロシなんてチョコレートとポテトチップを昼飯代わりにしたいと思ってますよ」
「水に対してはもっとひどいですね、海水の淡水化で高価なエネルギーを使用しているのに、毎日平気で洗車していますよ」
「こういう事はアラビア人だけの問題ではなく、先進国の問題そのものですね。日本だって負けずに贅沢していますよ、問題が多過ぎて気づかないですけど。どうも文明が進むほど人間は資源を無駄遣いする傾向が出てくるようです」
「貴重なビールをシャワー代わりにする人種もいますからね。汗かいた後のあの爽快さを知っている連中が、平気でビールを粗末にする皮肉な国ですから」
「ヒゲヅラ君はビールが気になってしかたないみたいですね」
「ラマダン中は私と友人で七ケース必要です、オーバー分はヤマさんのリカーパーミット(酒購入許可証)の枠でお願いします」
「いいですよ、私は妻との晩酌用の缶ビール10本で十分ですから、」
マージッドが農水省本省の通達文書を持ってきた。
「ヒゲヅラさん、オフィスは平日九時から一時まで、木曜日は正午までになります」
「マージッド、午後はどうしょうか、ラマダン中の殺生は良くないから釣りは良くないし調査も水なしではきつすぎる。アパートに閉じこもるのはもっとつまらないなあ、TVは一日中コラーンの詠唱だけだし」
「ヒゲヅラ君、JICA(国際協力事業団)に提出する報告書を作成したら良いでしょう、時間がたっぷりありますから、素晴らしい報告書ができますよ」
「報告書で苦しむのは一日でたくさんです」
ラマダンはイスラム暦(太陰暦)九月に行う二九日または三十日間の断食で、モスレムにとってたいへん大切な生涯苦行のひとつである。日の出二時間前から日没まで、飲食や性交渉を完全に断たなければならない、そして日没後は正常な生活に戻る。この苦行は、妊婦、病人、老人、子供に強要されないが、大人の仲間入りをしたい子供は自発的に行なう。外国旅行中の者は帰国後まで延期できる合理性もある。仕事などは頑張ってやる必要はない。この期間、レストランは夜間営業のみでバーや酒屋は完全休業、アルコール類は完全に姿を消す。ラマダンの目的や効果など理解しようとしないことだ、これはアッラーとの契約で経済効率なんぞ考える範疇のものではない。
ラマダン開始の数日、人々は気負いがありいつもより快活になる。しかし十日も過ぎた頃から疲れが出初め、町全体の雰囲気にずっしりのしかかってくる。農水省ウムアルクゥエン事務所もこの時期は訪問も遠慮され来客はほとんどない。就業時間は短縮され仕事はスローペースで時間を潰していく。喫煙者には地獄の日々だ、トイレに隠れて吸おうものなら、臭いからすぐに発覚し全員から冷たい非難を受ける。水道の栓をひねり、口をすすぐのさえ危ない、例え飲まなくとも、飲んでいると見なされてしまう。ラマダンも中盤に入ると、喉の渇きから話すことも億劫になりよほどの重大ニュースでない限り朝の世間話も始まらない。みんなボーッとして時間の流れにまかせ一日を過ごす。昼間の町は閑散としてゴースト・タウンのようだ。しかし日没近くになれば、町は買い物に出た人と車で騒然とし、車のイライラ・クラクションがそこらじゅうに鳴り渡る。車事故が起こっても警官はなかなか来ないが、運良く来てもすこぶる機嫌が悪い。
スルタンとマージッドは、虚ろな目に唇はひび割れ砂漠の迷い人のように水槽の水交換もきつそうだ。ひび割れた唇は痛いらしい、しかし舌でなめて湿らすことすら、苦行に反する行為ということである。人々は無口にならざるを得ない、静かで緩慢な日が過ぎていった。
ラマダン二十日目の朝。私に食い物をくれた後ヒゲズラとスルタンは包み紙を持って出かけようとした。
「ヤマさん、スルタンのおじいさんホメイドにラマダンの挨拶をしてきます」
「ヒゲズラくん、おじいさんは、今年もラマダンをしているのですか?」
「高齢で衰弱しているため止めるよう医者から言われたそうですが、聞かないそうです、スルタンもあきらめていますよ」
「ヤマさん、じいさんはラマダンで死んだら、本望だそうです」
「さすがは真珠採りの生き残りですね」
「ウムアルクゥエンの老人達は、みんなやっていますがラマダンで死んだ者はいないそうです
「ヒゲヅラ君、この過食時代にラマダンは体に良いのかもしれませんね。どうですこの際マージッドに見習って禁酒しては、胃と肝臓がきれいになりますよ」
「シャワーあとの一杯は最高で捨てられません」
「意志の問題ですよ、そういう人は戒律で押え込まれた方がうまくいくかもしれませんね」
「私の胃と肝臓は上等です。異教徒がラマダーンしてもアッラーは喜ばないと思いますけど」
ビゲヅラはスルタンを引っ張って部屋から逃げ出した。入れ違いにマージッドが入ってきた。
「やあ、マージッド、御苦労さん」
「ヤマさん、エビ3匹とアイゴ5匹が死んでいました。これが死骸です」
「餌の食いはどうだった?」
「あまり食べていません、底に残った餌は腐っていました。水温が三五度もありましたから夏バテの食欲不振です」
「ヤマさんこれで停電でもしたら酸欠で全滅ですよ」
「しかたがない、餌の量と飼育数を減らすか」
真珠採り
スルタンがバケツに山盛りの貝を持ってきた。
「ヒゲズラさんマハール(アコヤ貝ですよ)」
「スルタン、これどうしたの?」
「親父からガルグールに入れる餌用にマハールを頼まれたので入り江の沖で潜って集めました」
「スルタン、おやじさんはマハールで何を獲るの?」
「大きなシェリー(フエフキダイ)とシャーム(クロダイ)です、二匹ともマハールの殻をかち割って食うのが好きなんです」
ヤマさんがアコヤ貝をテーブルに並べ重さと厚さを測ったあと、ヒゲズラは貝を開き肉は私にくれた。初めて食う肉で美味しかった
「ヤマさんルル(真珠)なんか入ってないですね」
「これしきの数では最初から期待値0ですよ」
マジッドが貝をより分けてサザエとヒオオギガイを取り出した。
「ヒゲズラさんにはこれがいいですね」
「ヤマさん、今晩のおかずにどうぞ」
「スルタン、ホメイドじいさんに挨拶に行こうか?
「久しぶりですから喜びますよ」
二人が出て行くとマジッドは貝を片付けた。
「ヤマさんこれは捨てますか?」
「きれいなものはサンプルにするから洗って陰干ししよう」
「マージッドはホメイドじいさんに挨拶にいかないの?」
「じいさんは苦手です、会う度に説教と酒飲むなですから」
「ほう、正直なマージッドにも弱点はあったのか」
「じいさんや私のお袋なんか、もとから酒を悪だと見なすんで、いくら説明してもだめなんです」
「そりゃあ、理解しろというのが無理な話だよ」
「マージッド、100年前からアラア湾沿岸は極貧で人々は過酷な生活の中真珠採りで何とか生きてきたのだね」
「ヤマさん、砂漠で生きるには、それしか方法がなかったのです。雨が年に2、3回、百ミリ以下の雨量です。飲み水は遠い内陸のオアシスの井戸から女子供がロバで運んでいたのです。この枯れた土地には水がないのです、ここでは必死に生きなければ日干しになってしまいます。生きるために全力を尽くさなければなりません、これを我々の祖先は紀元前から続けてきたのです」
「そういう極限の生活でも彼らは未知なる世界での冒険心を忘れず未来を期待して耐えていたと思います。シンドバットの冒険はその民話を集めたものだろうね」
「今では忘れられていますがジャーヒリーャ時代は冒険に満ちていたと思います
「マージッド、そういえば、ホメイドじいさんの海の話は実に面白いね、暦なんかなかったはずだのに彼の記憶力には感心する」
「最後の航海を終えたとき、じいさんは白内障、皮膚病、中耳炎それに脚気で体はガタガタだったそうです。水は飲料用だけですから、潜水した後はシャワーなんかありません。引っ掻き傷と塩漬の体で四ケ月ですよ、食い物は米と貯蔵ナツメヤシに釣った魚、よほど頑丈でないともたなかったでしょうね」
「マージッド、現在から考えると、真珠採りは本当に割に合わない仕事だよ。この前ヒゲヅラ君とスルタン二人が1日中潜ってアコヤ貝を5千個集めたけど軍手はフジツボと貝表面の棘状突起でボロボロ、それで消し粒より小さな真珠がたったの1粒しか取れなかった。一隻の船が一週間に三万五千個の貝を採集したが、商品サイズはわずか三個だったという報告もあるぐらいだから、一獲千金になるような大真珠なんて宝くじより悪かっただろうね」
「ヤマさん、家族を養うには、真珠獲り水夫になるしか現金収入がなかったのです。船長から金を前借りして家族に渡し、四ケ月もの苛酷な航海にでていく男達の気持ちは、計り知れないほど不安で暗かったような気がします」
「そうだ、真珠産業は湾岸住民の生活を支えていた。世界大恐慌の不況と日本の真珠養殖により衰退したけど、タイミング良くアラビア湾岸で原油が発見され、UAE は1971年にイギリスから独立して産油国の仲間入りだ。人々の生活は大幅に向上し真珠採りから解放された」
「ヤマさん、アッラーは苦難の民に、ひとときの安らぎを与えて下さったのです」
「アッラーの贈り物を子孫が無駄遣いしなければ良いけど」
スルタンとヒゲズラが熟れたデイツの房を抱えて入ってきた。
「ヤマさん、熟成して美味しそうでしょう、じいさんとこの老デイツにできていたものです、まだつまんてはいけませんよ、家に帰ってから食べて下さい」
ラマダーン二九日目、今日のスルタンとマジッドは髭を剃り、さっぱりした服装で楽しそうであった。マージッドはヒゲヅラに向かってタバコをふかすふりした。
「ヒゲヅラさん、ラマダンは明日で終わりますよ」
「やっと終わりだね、でもサウジのお天気査定イマームが今晩の月を見て決めるのだろう、まあ雨は絶対ないと思うけど」
「多分大丈夫です、ラジオで今晩は快晴と言っていましたから」
「ヒゲヅラ君、九日間のラマダン休暇がありますよ」
「酒屋とホテルのバーも休みですから私はアル・アインオアシスに泊込みで行きます、ヤマさん一緒にいかがですか」
「ブレイミー・オアシスも良いですね、オマーンのカトワ・オアシスも探索予定に入れて下さい」
「ヒゲズラくん、スルタンとマジッドは大切なモスク礼拝と親戚周りで初日から5日間休みですその間に我々は旅行と休息ができます」
「では決まりました、魚への餌やりは今日から1週間休み、7日目からは我々が出ましょう。かわいそうだがハムールは水質保全のためラマダンだ」
私はヒゲヅラ達が去ってから食い物がないので六日間じっとしていた。
七日目の朝ヒゲヅラとヤマさんが現れた。空腹でうずくまっている私を覗きこんだ。
「ヤマさん、ハムール元気がないですよ」
「一週間も絶食させられましたからね」
「モスレム・ハムールはそれぐらい大丈夫と思ってましたけど」
ヒゲヅラがそろりと指を入れる、私はくぼみから出て攻撃態勢に入った。指は慌てて退散した。
「ヒゲヅラ君、かなり飢えていますよ、冷凍庫に魚の標本がないですか」
「空っぽです、前の標本はイケさんが全部ホルマリン漬けにしました」
「じゃあ、もう一度その指をしゃぶらせたらどうですか」
「冗談を、結構痛いんですよ、とにかく何か探してみます」
ヒゲヅラは隣の標本室で何やらゴソゴソしていた、やがて食い頃なエビを持ってくる。
「一応洗いましたがエビがありました」
「ほう、そいつはハムールが感激しますよ」
ヒゲズラはつまんだエビを水面でゆらしたので飛び上がって飲み込み水面を叩いてくぼみに戻った。毒味と悪臭で刺すような鋭い痛み、胃を絞り吐き出した。
「おや、好物のエビを吐きましたね」
「やはり漬物は口に合いませんか」
「漬物エビですか?」
「ヤマさんの作ったホルマリン漬けですよ」
「胃が固定されたでしょうね、水をたくさん飲めば大丈夫ですよ」
子供の誘拐殺人事件
私はくぼみにうずくまり、胃に水を送りこんだ。体が不快な匂いで包まれた気がする。あれは毒アイゴと同じ毒エビだ。
「ヤマさん、市場で餌用のイワシを探してきます」
「私も標本になるめぼしい魚が欲しいですね」
やっと食い物にありついたら毒エビとは。胃は痛むが、たぶん大丈夫だろう、それにしても腹が減った。
正装したマージッドが顔を出した。
「マルハバ(こんにちは)、ヤマさん、ヒゲズラさんはまだ来ていませんか?」
「市場に魚を買いに行ったところです」
ヒゲヅラがビニール袋を下げて帰って来た。
「マージッド、ほらハムールの餌をもらってきた、これなら文句はないだろう」
ヒゲヅラは大きなイワシを落としてくれた。すぐには食らいつかず、匂いを嗅いで残した、胃が痛んで食えない。くぼみに戻りヒゲズラを眺めた。
「ヒゲズラくん、すぐに食べないですね、警戒していますよ」
「ハムールは学習したようです、人間は信用できないと分ったのでしょう」
火曜日の早朝、ヤマさんとヒゲヅラは週末に防波堤で釣りをする話をしていた。マージッドが入ってきた。
「マージッド、週末に釣りに行かないか」
「サーレムから聞いたのですが、ここ数日の間にシャルジャとアジマンでは大変な事件が起こっていますので海岸に行くのは当分の間止めた方が良いです」
「大事件?ヒゲズラくん昨日までの新聞にはこれといった事件なんか載っていませんでしたね」
「ヤマさん、この国は言論統制がありますから、新聞とTVは国のイメージを悪くするニュースなんか出ませんよ」
「マジッド、公表されない事件みたいだね」
「ヤマさん子供だけを狙った猟奇的な殺人らしいのです」
「子供って、この辺の砂漠でサッカーやっている元気な子供か?」
「そうですヤマさん、その中でもあまり抵抗できない小さな子供です」
「確かに、大きいのに混ざって暗くなるまで遊び回っているけど、変な奴に付いていくような子供はいないと思うけど」
「たまたま、アジマンの浜辺で早朝散歩していた人が、波打ち際に子供の足の一部を見つけたことから、誘拐殺人との関連が出てきたのです。子供をバラバラに切り刻んで海神に捧げる狂信教信者の犯行のようです。」
「モスレムにそんな悪魔教はないと思うけど、それで犯人はつかまったのですか」
「残念ながらまだらしいです、これまでに3人の子供達が行方不明になっており、警察は誘拐とみて内密に調査しているようですがまさか殺人にまで展開するとは考えてなかったようです」
「怖いですね、マージッド、この国には凶悪犯罪はないと思っていたのですが」
「ヤマさん、それは新聞とTVの話です、世間ではそれなりに事件は起こっていますがニュースに乗らないだけです」
「当分の間、奥さんと子供だけの外出は控えた方がよろしいでしょう、釣りも犯人逮捕まで休みですね」
「そうしましょう、ヒゲヅラ君が誤認逮捕でもされたらたまりませんからね」
「海岸での釣も駄目か、そんな奴見つけたらそれこそ八つ裂きにしてやりたいな」
「ヒゲズラくん、そんなに過激では、本当に誤認逮捕されますね、釣は当分止めにしましょう」
「ヤマさん、ニュースに乗らないから世間は警戒してないですよ、我々もマジッドから聞いて知ったぐらいですから、マージッド、どうして警察は事件を公表しないのかな?」
「警察は確実な証拠がないので事件を公表して市民をパニックにすることを避けたのでしょう」
ヒゲズラが釣りを休んで10日経った朝、何時もは沖合に停泊している沿岸警備艇が飼育室前に係留されている。ヒゲヅラとスルタンが食堂で朝飯を食べていると遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。
「ここでサイレンなんて初めてだよ、スルタン、何か事件でもあったのかなあ」
「おかしいですね、ウムアルクゥエンポリスがサイレンを鳴らして走るなんて」
先頭の白バイとパトカーは食堂の前を通り過ぎ後続の1台が飼育室の前に停止した。パトカーから制服制帽の警察高官が降りて飼育室に入り、誰も居ないとわかると食堂に向かってきた。
「おい、スルタン、何かまずいことがあったのか?」
「警察署長のシェイク・アブドラ王子のお出ましとは、これは大事件ですよ」
ヒゲヅラはスルタンに従って表に出て、シェイク・アブドラを迎えた。シェイクはヒゲヅラと握手を交わしながら自分も魚が好きで水槽を持っていると語った。スルタンはシェイクと握手しながらたずねた。
「アブドラ殿下、何か事件があったのですか」
「スルタン、君たち漁師に面倒な頼みがある」
「どうぞ何なりと申し付け下さい」
シェイクはスルタンを飼育室に連れて行き、何か大切な用事を依頼しているようだ。話が終わると、スルタンはヒゲヅラに告げた。
「シェイクから大切なことを依頼されましたので、私はこれから船出しなければなりません。今はできませんが明朝に説明します」
スルタンは出漁の準備をしている漁師仲間を呼び集めるとシェイクの依頼を伝えた。漁師達は積んであった網を浜に上げた。漁船団は待機していた沿岸警備艇に先導されて出て行った。
翌朝、スルタンはシェイク・アブドラの依頼をヒゲヅラに話した。
「昨日の早朝、隣のラス・アル・カイマ首長国で漁師の地引網に子供のものらしい手足と胴部が入っていたそうです。シェイク・アブドラの依頼は、ウムアルクゥエン沿岸と沖合に漂っている浮遊物の探査でした。両隣の首長国でも同じように捜査が行われていたはずです」
「何か見つかったかね」
「残念ながら漂流物にはそれらしいものはありませんでした」
警察官の話では、数日前にシャルジャとアジマンの沖合いで子供の手足が浮かんでいるのが見つかったので警察は子供3名の失踪がこのバラバラ事件に関係しているのではないかと捜査しているそうです」
警察は紙上に子供の疾走事件が各地で3件発生していることを公表したが、沿岸で見つかった子供の手足との関連については触れてなかった。事件の全容が明らかになったのはドバイで4人目の子供が失踪した数日後であった。
珍しく職員達は朝からアラビア語新聞を前に会議をしていた。
ヤマさんが英字新聞を片手に入ってきた。
「ヒゲヅラくん、例の子供失踪事件の犯人がウムアルクゥエンで捕まったようですよ。犯人逮捕、詳細は書いてないけど取調べ中らしい」
「スルタン、ウムアルクゥエン警察はどう発表しているの?」
「ヤマさん、犯人は昨日逮捕されたそうです。犯人はアジマンのパン屋で、サッカーから帰る途中の子供にパンやお菓子をやって親しくなり家まで送ると言って連れ去ったそうです」
「スルタン、ウムアルクゥエン警察はよく犯人を逮捕できましたね」
「警察は死体を運ぶには車が必要と考えて、海岸に続くすべての幹線道路と沿岸の防波堤周辺を警戒していたそうです。2日前の晩パトロールの警官がウムアルクゥエンの防波堤で挙動不審の釣り人を見つけ尋問したところ、持っていたアイスボックスは空で血痕が付いていたので連行したそうです。警察は4人目の被害者を遺棄したと確定するには証拠がなく公表を控えていたのですが、インシャアッラー遺体の一部は昨日入り江口に張っていたハッサンの刺網に懸かって流失を免れたのです」
「スルタン、どうして犯人はウムアルクゥエンに来たのだろう?」
「他の海岸は警備が厳しくなったからです、犯人はあの防波堤に釣りに来たことがあり夜間の港には人影が少ないことを知っていたのです」
紙上での警察の談話として、「犯人は精神異常者で子供を海神の生贄にする妄想に取り付かれていた。夜間に防波堤近くに車を止め釣人になりすまし怪しまれずに遺体を海に投棄していた。ウムアルクゥエンの防波堤は長距離で足場が悪く遺体を投棄した後、車に戻るのに手間取った」という簡単なコメントであった。
殺人犯に対する裁判では死刑判決が出たが被害者遺族は残された犯人の子供3名に同じ罰を行えと主張した。
犯人の妻はショックで狂乱し首吊り自殺した。残された子供3人はシャルジャのシェイクスルタン首長が後見人として引き取ることで殺されずに済んだ。判決から1週間後アジマンの砂浜で早朝の公開銃殺刑が行なわれた。アラビア語新聞だけに頭を袋で覆われた射殺体の写真が載っていた。
事務所は悪魔に取り付かれた男の話で賑わっていた
「ヤマさん、海の悪魔は海のジンだと皆さんは思っているようです」
「ヒゲズラくん、イスラムには地獄にまつわる鬼、幽霊、悪魔は存在しませんよ。地獄はフィレンチェの詩人ダンテ・アルギエーリがローマカトリック教会へのゴマすり用に空想で創作したものを後世の連中がキリスト教と教会の権威を高めるために脚色したのだと思います、日本でも誰かが想像で描いた地獄と鬼さらに幽霊まで坊主に利用されていますよ」
「ヤマさん、神を信じない者は地獄に落とされる、これはアフリカと南米の無知なる人々には効果がありましたが地獄のないイスラムには余り効かないでしようね」
「そうですねヒゲズラくん、イエスと仏陀は地獄なんて一言も言ってないはずですが、坊主達が布教のために勝手に創作して死に対する不安を抱える大衆を脅すのに使ったのでしょね、それが繰り返し使われて大衆の深層心理に刻まれると子孫にまで記憶遺伝していくのかな」
「ヤマさん、ヨーロッパ中世ではその虚構を打ち砕く科学者や人物は魔女とか魔法使いの異端者として葬りさったのでしょうね」
「そうですねヒゲズラくん、中世ヨーロッパのキリスト教興隆の時代はひどかったでしょうね、民間伝承の民話もうまく利用されて悪魔、幽霊化け物を作りだしている、現代人もまだ惑わされていますよ」
「ヤマさん、砂漠には旅人を道案内したり惑わすジンという魔物がいるといわれています。これはイスラム以前のジャーヒリーヤ時代のベドウイン民話が語り伝えられたものではないかと思いますが私はこのジンが好きです。月夜に砂丘の影から現れるジンの女影法師ブラックゴーストはニャリ笑った歯がきれいそうです、」
「怖いですけど会ってみたいですね」
「モハメッド、ザラゥニは、子供の頃おばあさんの死の直前に足元にいるブラックゴーストを見たと言っていました」
「ヒゲズラくん、現代科学者は砂漠のジンはかげろう、たぶん海のジンはジュゴンとイルカだと片付けるでしょうね」
「ヤマさん、今時ジンの話をすると笑われますよ、科学文明人は民話と一緒にロマンも消してしまった」
「ヒゲズラくん、アラビアの古人は自然の怖さを経験的に知っていたのですよ、そこから油断するな自然にはジンがいるぞと警句を遠まわしに伝えていたのでしょう」
「ヤマさん、砂漠は砂丘だけではなく所々に危険なサブカがありますよ。Sabkhaは砂地の平坦な所で歩けそうですが砂の下は泥沼で危険です」
「そういえば、ヒゲズラくんはサブカを調査したことがありましたね」
「UAEからカタールまでの沿岸300kmは緑が全くない生き物には厳しい環境の塩漬け砂漠でした。海を目指して幹線道路を走っているとサブカの水平線に海の中の緑が見えたのをマングローブの森と思って向ったら途中でスタックして海どころではなく救援のブルドーザが来るまでの間炎天下で水なしで待つひどい目に会いました」
「道案のスルタンと一緒なのに陽炎に騙されたのですか」
「視力の良いスルタンは向こうには何もないと言ったのですが、わたしは4WDトヨタランドクルーザーで問題ないから行けと躊躇しているドライバーに命じたのです。走っている最中に前輪が泥に潜り込んでスタック、はまると車輪が空回りしてますますもぐり込むまさにアリ地獄でした」
「ジンにマングローブの幻影を見せられたのですね」
「悔しいですが、その海と緑は我々が帰るまでサブカの水平線に見えました」
「文明の利器に頼る馬鹿者とジンが哄笑していますよ」
「ヒゲズラくん、最近外国人の砂漠ツアーが増えていますが危険を知らないでしょうね」
「ヤマさん、リワ砂漠の奥に探検ドライブに出た5人の若者が帰らないので警察が空から3日間捜索したそうです」
「リワ砂漠から奥は延えんと巨大な砂丘ですから捜索は難航したでしょうね」
「救助隊が発見した時にはサブカにスタックした車の周りで全員ばらばらに裸で死んでいたらしいです。脱水と熱射病による錯乱、ひどいのはラジエータの水を飲んで苦しんで死んでいたという悲惨な事件がありました」
「ヒゲズラくん、やはりジンのいる砂漠は怖いですね」
カプコプとの戦い
ある朝マージッドが魚とガザ二の入ったカゴを抱えて入ってきた
「マージッド、この大きなジェッシ(シマアジ)とガブコプ(タイワンガザ二)はどうしたの?」
「スルタンの親父さんからです、ガルグールで捕まえたそうです」
「うまそうだね、シマアジは刺身、ガザ二の酒蒸しはビールに合うぞ」
1匹が口から泡を吹いている。
「おっ、まだ生きている奴がいるぞ」
ヒゲヅラはハサミつまみ私の水槽に放り込んだ。半ば意識を失ったガブコプは底に沈んだ。
「くたばったか、ガブコプ君」
ビゲヅラが殻をつかもうとすると、ガザ二はハサミを振り上げて立ち上がった。ヒゲヅラは慌てて手を引っ込めた。
「おっ、生きていた、まるでロボットですよ、ヤマさん」
「ロボットなら制御が効きますけど、ガザニは狂暴そのものですよ」
ガブコプはハサミを頭上に振り上げ威嚇の態勢に入った。
「生意気にもうケンカの態勢か」
「ガザニは海底のヤクザみたいにケンカ好きでしょうね」
「ヤマさん、こんな狂暴な奴にガブコプなんて面白い名前ですね。市場ではブクブクでも通じましたよ」
「アラビア人は、海の生物を形から名付けるのが好きです。シタビラメをホビス・アル・バハールなんて海(バハール)のホビス(種なしパン)でしょう。面白いのがナマコとウニ、漁師達が何て呼んでいるか知っていますか? ヒゲヅラ君の好きなものですよ」
「そうですね、海のハリネズミ(コンフィデル・バハール)と海のキュウリ(キャール・バハール)ではないですか」
「ヤマさん、漁師達はウニのこと、エィズ・アル・アジューズ(老婆の恥部)と言ってます、ナマコはずばりズッブ・アル・バハール(海のチンポコ)ですよ」
「今度ヒロシくんに教えてやりましょう、きっとよろこびますよ」
私は不愉快である、平穏な水槽に突然狂暴な奴が喧嘩腰で現れたのだ。ガブコプはハサミを構え、あたりを伺いながら私に近づいてくる。小さなヒゲと目だけなら愛嬌もあるが、甲羅からくる冷酷な顔つきは好きになれない。ハサミが鼻先に突き出されるや、砂を蹴って後に逃げた。追ってこないが、ガブコプは体を揺すり私のくぼみに潜り込んだ。しかたない、私は水槽の隅で相手の動きを見ることにした。
「ヤマさん、ガブコプは強いですね」
「無法な世界を見せつけられて嫌ですね」
「今晩の肴にしますか」
「命拾いしたと安心して、肴にされるのもかわいそうですね」
「ではハムールには悪いけど、しばらくガブコプと同居してもらいますか」
ガブコプにくぼみを占領されたのは悔しいが、こんなこと我々の世界では日常茶飯事なのだ。弱者は食われる前に逃げるしかない。反撃する気はなかった。当方に勝ち目はないし生き延びるのに無用な闘いはしない。今は餌にならぬようのんびり寝そべってなんかいられない。潜っているがどうせ暗くなったら襲って来るだろう。ここでは私という餌しかないのだ。
「ヤマさん、二匹ともおとなしいですね」
「夜になってから、ガブコプがハムールを襲うでしょうね」
「大丈夫ですか、ハムールが食われでもしたら、それこそヒロシくんに会わせる顔がありませんよ」
「まあ、ドジなハムールならそれも仕方ありませんね」
「言い訳はドジですか、だいたい釣られたことがドジなんですけど」
「二匹の食うか逃げ切るかの生存闘争を見たいですね」
「徹夜で頑張ってみますか」
「見たいけど、そんな元気ありませんね、こんな場合こそビデオ・カメラですよ」
「私はこのアジとガザ二を肴に飲む方がいいですよ、半身はヤマさんの刺身用にしてマージッド、今晩アジ煮つけとカニ酒蒸しで一杯どうだい?」
「いいですね、八時頃、アブドラ兄弟を連れていきます、喜びますよ」
「スルタンはどうだい、ノンベエ達とは面白くないか」
「入り江の沖でシェリー(フエフキダイ)釣りです」
「大丈夫かい、夜の海は危ないから、数日前ムバラクが魚集めで明かりを灯したらダツに飛び込まれて大怪我を負って大変だった」
「ご心配なく、私は明かりなしです、海には小さい頃から出ていますから星明りで十分です」
「そうだね、スルタンは水底の魚を判別できるぐらい目が良いから明かりはいらない」
二十章
UAE農水省ウムアルクゥエン支所は、本通りの端に立つ古びた二階建ての二階にある。階段を上った右側がJICA水産専門家の Mariculture Project水産養殖プロジェクト事務室で、日本人二人は入り江の魚とエビの生態調査をしながら、試験室と網生簀でアイゴ、エビ、クロダイの飼育試験をしている。事務所は朝7時半に始まり、午後3時半に終了するが、定時前にくるのは日本人、スルタン、マージッドで、他の職員は八時半頃に出てきた日本人は余程仕事が好きなのか終業時の3時半を過ぎても残っていた。他の職員は出勤するとまずチャイを飲み新聞を読みながら世間話しをするが、日本人はチャイを飲みながら仕事をした。余裕がないのかよく疲れないものだ。
部屋はゴーゴーとブクブクの騒音だらけ。ガブコプは砂に潜って動く気配はなく目を砂から出し短い触覚をピクピク揺らしている。腹ばいになって眺めた。来たら逃げるだけだ。
暗くなるとガブコプはゆっくり砂から立ち上がった。私が寝ていると思ったらしく、折り畳んだハサミを抱え後ろから忍び足で近付いてくる。私はガラスに沿って体を伸ばし、横目でかれとの間合を測った。ガブコプは素早くハサミを突き出してきた、すこしだけ前に動く、ハサミは空振りしてガラスにぶつかる。ガブコプが態勢を立て直す間に、私はゆっくりと向かいの隅に移った。今度は突進してきた、ハサミの下をかいくぐり向かいの隅に移る、甲羅がガラスにぶつかる鈍い音がしたが、すぐに次の攻撃、ガラスにぶつかる音。甲羅はこれぐらいのショックではビクともしないようだ。それにしても彼の小回りのなさには失望させられた。
ガブコプは、時々立ち止まって休憩してはしつこく攻撃してきたが諦めてブクブクの下に潜りこんだ。寝たと思ったら明け方まで何回も飽きもせず砂から出て来た。明るくなる頃には落ち着き砂に潜ったまま目と触角は砂上に出して偵察していた。私はガラス沿いにくぼみを掘り腹ばいでガブコプの目玉を眺めた。
ヒゲヅラとマージッドが入ってきた。
「おっ、ハムール生き残っていたね」
「ヒゲヅラさん、ガブコプが見えませんよ」
「砂に潜っているんだよ、マージッド手を入れるなよ、挟まれるぞ」
ヒゲヅラはボールペンを水槽に突っ込み、ブクブクの根元にゆっくり近付けた、砂が舞うとガブコプががっちりボールペンを挟んでいる。
「ほら、すごいだろう、挟まれたら痛いぞ」
スルタンが重そうなバケツを片手に入って来た。
「ヒゲヅラさん、ボラのチビがたくさん取れました」
「ほう、まだいたのか」
「飼育室前の浜です、パンクズを投げると集まってきました、でも全部ソベィティです」
「コボラだね、大きくならない奴だ」
「大きくなるビャハ・アラビ(アラビアボラ、タイワンメナダ)のチビなら良かったのですが、ヒゲズラさんどうしますか」
「少しヤマさんの標本にして、後はハムールにプレゼントしょうか」
ヒゲヅラはチビボラ数匹を標本瓶にしまい、残りを水槽に流し込んだ。チビボラはパニックに陥った、ガブコプはハサミを振り回して一匹捕まえる。私はフラフラ近寄って来た三匹をひと飲みした。チビボラは危険に気づき、すばやく群れを立て直すと我々から遠のいた。ガブコプは獲物を食い終えると、ハサミを振り上げチビボラを追いかけ始めた、こうなると捕まる相手ではない。水面にいるチビボラにはハサミを振って必死に泳ぐガブコプはピエロに見えるだろう。私とてボラは苦手な相手だ。なにぶん水面での遊泳力があり、とても捕獲の対象になる相手ではなかった。だが今は私の捕獲範囲に入っているのだ。
まず傷つき弱っているのを狙う、群れの後で遅れまいと必死に泳いでいる奴だ。体力が低下すると遊泳力は落ちる、しかも群れから脱落しまいと必死だからスキだらけ。チャンスは遊泳速度が低下した時だ、突進して水と一緒に飲み込む。残りは群れを崩すことなく私から離れて泳ぐ。
ヤマさんは、水槽の上から私の捕獲を見ている。
「ヒゲヅラ君、ハムールはなかなか頑張りますね、生き餌は久しぶりなのに上手に捕まえていますよ」
「ガブコプはどうです、まだハサミを振り上げて追っかけていますか」
「元気なチビボラはガブコプには無理ですね、でもこれからはハムールも捕獲に手こずりますよ」
私は満腹だ。ガブコプはあれから一匹も捕まえてない、まだハサミを立てチビボラを追い回している。彼等は元気一杯泳ぎ続けていた、どうにもならないガブコプは疲れ果て砂に潜り込んだ。
水槽の騒動が去るとヒゲヅラ達は自分の仕事に取り掛かった。ヒゲヅラとマージッドは、エビとアイゴ標本の重さと長さを測り、ヤマさんは顕微鏡を覗いている。
二十一章 アブドラ3兄弟
スルタンがアバイヤ(黒布の覆い)を羽織、バルカ(カラス天狗の覆い)を付けた小柄な老夫人を案内してきた。
「ヤマさん、ヒゲヅラさん、ミセス・アブドラです」
「ヤマさん、アブドラ三兄弟の母親ですよ」
「ヒゲヅラさん、三人とも10日間帰宅しないので、お母さんは心配のあまりマージッドを訪ねてきたそうです」
「まずいなあ、マージッド、彼等仕事も行かず例の巣にこもって酒盛りの最中だろうな」
「昨日の続きですよ、家に帰ってないとは思いませんでした」
「マージッドどうする?」
「捜してくると言って、お母さんにはひとまず帰ってもらいます。あんな所を見たら卒倒しますよ」
「それが良い、ボクの車で送ったらいい、ほらキイだ」
マージッドとスルタンは、両方から夫人を支え出て行った。
「ヒゲヅラ君、アブドラ兄弟というのはそんなに凄いのですか」
「ゴリラの太ったのがカンドーラを着ていると想像した方がいいです、長男が身長百九十センチに体重140キロぐらいですね、下にいくほど多少小さくなりますけど」
「そんなのが酔っ払うと怖いですね」
「あの兄弟の親父は厳しいモスレムで、酒は無論タバコも絶対駄目だったそうですが親父が死んでから飲み始めたらしいです」
「老人は、青春を貧困と厳しい環境の下で過ごし自制の念がありますが、石油の富をもろに受けた若者達に自制を強いるのは難しいでしょうね」
「親父という歯止めがなくなり、欲望が水鉄砲のように吐き出されたのですね、引金を離せばよいのだが、惰性に流れて引き続けるのでしょうね、イスラムの戒律に従うよう坊主に説得を頼むしかないでしょう」
「ヤマさん、もう彼等には戒律の歯止めは効かないですよ」
「ヒゲズラくんはマージッドと飲み歩いているようですがよくアブドラ兄弟と友達になれましたね」
彼らと出会ったのはマージッドと行ったシャルジャのパレスホテルのアラビア人専用裏バーで、相席だったのです。彼らはビールばっかり飲んでいました。」
「そんな所によく行きしたね」
{ビールが飲めると聞けば何処なりと行きます}
「バーなら女性もいるでしょう?」
{ヤマさん、残念ながら女性はいないのです。独身女性の雇用は厳禁だそうです}
「よく男ばかりで飲んで楽しいですね、人目を恐れて裏バーで隠れて飲むのは精神的によくないですよ」
「ドバイのホテルのレストランでは私と一緒にマージッドも飲みますよ」
「マージッドのように自制して飲めばまだしも、いったん欲望が宗教心を突き破ると後は惰性でしょうね」
「でも一緒に飲めば楽しいです、飲み方はすごいけど、酔って人に迷惑をかけたことは一度もありませんよ」
「よくそんな凄い連中とつき合って体がもちますね」
「私はオンザロック、彼らはウィスキィストレート、ビールは冷したものはのどにしみるから温いまま飲みます」
「酒の飲み方を知らない気がしますね」
「ヤマさん、隠れて飲むのに、氷や冷やすなんて贅沢は言えないと思います、暑いですが砂漠は飲むのに最高の場所ですよ」
「ウィスキィ瓶やビールカンが砂漠のあちこちに転がっているのは、君達のせいなんですね」
「ヤマさん、酒飲んで夜の砂漠街道をぶっ飛ばすのは気持ち良いですよ、この前トライしたら百九十キロぐらい平気でした」
「酔っ払い運転で自滅するのはまだしも、対抗車線に飛び出したり、ラクダやウシを轢き殺したりするのは犯罪ですよ」
「ラクダとウシには気をつけています、ぶつかったら一環の終りですから」
「ヒゲズラくん、夜の砂漠には猛毒のサイドワインダーとサソリが出てきますからいまにひどい目に会いますよ。サイドワインダーに咬まれたらオサラバ、サソリはものすごく痛いそうですよ」
「ヤマさん、彼等は砂漠のベドウインに習って飲み場の周囲をエンジンオイルの廃油で囲む結界を張り火を炊いて明るくして危険な動物は近付かないようにしています、小便はサーチライトで照らす範囲という不便はありますけど」
「そんなことでは巡回中の警察に捕まりますよ」
「カセットラジオで音楽を聞きながら水タバコをふかしていますので怪しまれません、せいぜい帰りは気をつけるようの挨拶ぐらいです」
「ヒゲズラくん、このままではアル中が増えますから私はコラーンに従って禁酒を徹底するよう警察に提案したいですね」
二人が魚とエビの標本を片づける頃、就業時間は終わっていた。二人とも帰る気がないのか、糸と網を取り出してタモ網作りはじめる。しばらくするとヒゲヅラは水槽に顔を近付けてきた。私は腹ばいのまま眺めた、ヒゲヅラは悲しい顔をしている。
「ハムール、お前さんどう思う、アブドラ兄弟はもう後戻りできない。母親はアブドラ長兄が心臓を患っていることを知らない。養生すれば良いけどやけになっているから長くはないだろう。彼らは祈りをとっくの昔に止めたけど、母親だけは祈ってくれるだろうね、アッラーどうかこの哀れな子を天国へと」
マージッドとスルタンが戻って来た。
「お疲れさん、マージッド、お母さんどうだった?」
「ずっと泣いていました、父親が死んだ後、悪魔に息子達をさらわれたと言ってました」
「私達も悪魔の仲間かもしれないなあ」
「ヒゲズラさん、兄弟に家に帰るように言ってきます」
「ヤマさん私も一緒に行ってきます」
水槽は静けさを保っていた。チビボラは私から遠い水面に漂い、砂の上に出た目玉とヒゲがその動きを追っている。急ぐことはない、暗くなればチビボラの動きは鈍くなるはずだ。
夕方、帰ったはずのヒゲヅラが、ビニール袋を下げて戻ってきた。ヒゲヅラは袋から青色のカンビールを取り出しマージッドに渡した。スルタンにはディキシーソーダだ。どのカンも海底によく転がっており、ハゼの棲家やスズメダイの隠れ場に利用されていた。
「スルタンは酒を飲んだことがないだろう」
「一度ありますよ、近所に住んでいたイギリス人一家を船で入り江を案内したらお礼に夕食に招待され、そこでジュースと間違ってワインを飲んでしまったのです」
「スルタンが! 余程甘いワインだったね」
「飲んだ後、頭がフラフラして気持ち悪くて吐きました、気がついたら前の浜辺に寝てました、頭痛のまま家に帰ったら親父から怒られモスクでお祈りをさせられました」
「それっきり飲まないのだね、そのフラフラが気持ち良いとまた飲むことになるんだけど」
「本当に気持ち悪かった、二度と飲みたくないです」
「マージッドはいつから飲んでいた?」
「クゥエート研究所に居た頃、日本人研究者の為にヤミ酒を買い集めていましたが、いつの間にか自分も一緒にノンベエになっていました」
「クゥエートはサウジアラビアと一緒で厳しい禁酒国家だろう。飲酒は公開鞭打ちの刑及び国外追放、禁酒ができそうな気がするけど」
「ヒゲズラさん、非合法で怖くてもノンベエは酒をどこからか手に入れるものです」
「マージッド、お母さんに怒られただろう」
「ノンベエになってから、母親が悲しみましたよ、でも父親は早く亡くなっていましたから、文句いう者もいませんでした」
「私は大学生になってからだ、親父がひどいノンベエで家族に迷惑をかけていたから、絶対に飲むまいと思っていたのに」
「ヒゲヅラさん、アブドラ兄弟ちゃんと家に帰ったでしょうか」
「大丈夫だよスルタン、車に押し込んで見送ったから」
「マージッド、家に電話してチェックした方がいいね」
薄暗い部屋にいきなり明かりが灯った。水面でまどろんでいたチビボラがいっせいにざわめいた。ガブコプは半身を砂から出していたが、眩しさに慌てて砂に潜った。
「ヒゲヅラさん、まだ帰ってないそうです」
「やっぱりか、あれほど約束したのに」
「多分、カジノ・バーでしょう」
「しかたがない、家まで引っ張っていくか。スルタン、お前は残れ、バーに入るのを知り合いに見られたらまずい」
ヒゲヅラ達は一息でビールを飲み干しカンを袋にしまいこむ。スルタンは二人を戸口まで送り、椅子に戻るとソーダを飲みながら新聞を広げた。
「ラスアルカイマ街道で二名死亡、酒酔い運転でラクダに衝突。昔はこんなことはなかった。石油が出てから人は平安を疎んじ欲望の赴くままだ。我々は一体どこに流れて行くのだろう」
隣部屋で電話が鳴った。スルタンは立ち上がり部屋を出て行く。
「今からアブドラ兄弟を送っていく、チョット手こずったよ」
「良かったねマージッド、お母さんきっと感謝するよ」
「スルタン、俺はヒゲズラさんと一緒に帰る、お前も帰った方がいい」
「わかった、では気をつけて」
スルタンは机の上を片づけると明かりを消した。突然の暗闇にチビボラはパニックだ、めちゃくちゃに泳ぎガラスに衝突する。ガブコプは砂に潜ったままである。
暗闇の中ガブコプは砂から出て水面のチビボラを追い始めた。泳いでチビボラを追いかけるのは経験したことがないだろう。ヘラ足を器用に使い水面に昇りハサミを振り回すが、音に敏感なチビボラの動きは余裕があった。空腹のガブコプはチビボラが駄目とわかると私を追い回す。こう邪魔が入ると、私もチビボラどころではない。チャンスはガブコプが作ってくれた。ガブコプのしつこい追跡に、一匹がガラスにぶつかりフラフラ沈む。私は突進してハサミの鼻先でチビボラを頂いた。ガブコプは怒りハサミを上げて攻撃してきたが軽くいなした。
ガブコプは私とチビボラをしつこく追い回したが、ハプニングは起こらず、無駄な動きばかりしていた。私は、追われて近くにきたチビボラ二匹を頂いた。ガブコプは手ぶらでうろついていたが明るくなると砂に潜り込み私とチビボラを睨んだまま動かない
ヒゲヅラとヤマさんが入って来た。
「ヒゲヅラくん、ガブコプは砂に潜っているけど目と触覚は攻撃に備えていますよ。それにしてもチビボラが減っていますね」
「ハムールでしょう、暗闇に紛れて捕まえるは得意ですから」
マージッドがドアから顔を覗かせた。
「やあマージッド、昨晩はお疲れ様、アブドラ兄弟の様子はどう?」
「二,三日は家に居ると思います、少しは母親を安心させる気になったはずです」
「マージッド、この前アブドラ長兄は調子が悪そうだったけど病院に行くだろうか?」
「駄目でしょう、親父さんが亡くなってから外人医者にろくな奴はいないと言っていますから」
「まあそうだろうけど、それよりも心臓と肝臓に良くないと禁酒を宣告されるのがいやなんだろうな」
ヒゲヅラは我々の食い物を忘れていた。私はチビボラを食べたのでまだいいが、ガブコプは空腹のため恐ろしく凶暴になっている。今彼は砂に潜って攻撃のチャンスを待っている。私は彼から少し離れ。チビボラは私から遠のいた水面を泳いでいる。
ドアをノックして三人の巨人が入ってきた。男達は水槽の側にきて握手した。ひと通り握手がすむと、ひときわ大きなアブドラ長兄が太い声で。
「ヒゲヅラさん、昨晩はすみませんでした」
「お袋さん、安心したろう」
「一晩中涙の説教です、参りましたよ」
「これからどうする?」
「ひとまずこいつ、末弟を家に残そうと思います」
「いやだよ兄貴、お袋の面倒なんて」
「お前、軍隊の休暇はとっくに終わりだぜ、それに無断欠勤は営倉行きだ」
「覚悟しているさ、俺嫌だ!一人だけ家に残るなんて」
「お前は職業軍人で公務員、俺達は輸入代理店の経営者で立場が違うんだ、それにお袋はお前が居れば安心する」
ふて腐れたアブドラ末弟は大きな人差し指を水槽に突っ込んできた。私は指先を避けて逃げたが、指先が砂に潜ったガブコプの上に来た時。ヒゲズラが「アブドラ!、ハーダ-カプコプ!(それはガザ二だ)」と叫んだが、それよりも早く、ガブコプは飛び上がり指をガッチリ挟みこんだ。
「ギャー」
水しぶきが撥ね、ガブコプは指を挟んだまま空中に引っ張り上げられたが、自分でハサミを折り水中に落ちた。ハサミはしっかり指に食い込んだままだ。
「イテェー、このやろう俺に恨みでもあるんか、兄貴何とかしてくれ」
「お前、ガブコプとケンカしてどうするんだ」
アブドラ次兄はハサミをはずしクズカゴに捨てた。挟み跡から一筋の血が滲み出す。ガブコプは水底で、片方のハサミを振り上げまだ戦う余力を見せている。ヒゲヅラはティシュペーパを渡しながら
「ヤマさん、ガブコプなかなかやりますよ」
「本当に凶暴ですね」
アブドラ末弟は、指をティッシユ・ペーパで拭きながらガブコプを睨みつけた。
「俺帰るよ、兄貴達にはつまはじきにされるし、ガブコプにまでコケにされたんじゃ面白くないや、さいならヒゲヅラさん」
「サーレハ、そんなにがっかりするなよ、時々呼ぶから」
「皆さん、俺達帰ります、どうもお騒がせしました」
「またなアブドラ、マージッド、一緒に行って様子を見てくれ」
巨人達はサンダルを踏み鳴らして出て行った。ガブコプはハサミを降ろしたが、砂に潜らずボ-ッとしている。興奮と空腹のあまり狩猟のパターンを忘れたのか、日中なのに私に近づいてくる。私は少しだけ動き間を取ったが、彼は一本ハサミを立てながら迫ってきた。
「イケさん、ガブコプいやに頑張りますね」
「腹が減ったのですよ、何か餌はないですか」
「スルタンから生きの良いイワシを貰いました、冷蔵庫に入っています」
「もったいないけど、少し分けてあげましょう」
ヒゲヅラは小イワシを持ってくると、2匹をガブコプと私の上に落とした。私はまず1匹を飲み込み。ガブコプがハサミでつかんでいるのをもぎ取った。ガブコプは怒りハサミを振り上げて追ってきた。
「ヤマさん、ハムール張り切っていますよ」
「ガブコプが鈍すぎるんです」
ヒゲヅラはイワシをガブコプの真上と水槽の端に同時に落とした。私はまず片方を飲み、反転してガブコプの上に落ちてくるイワシをくわえた。
「イケさん、すごいですよハムールの動きは」
「ガブコプが頭にきてますよ、でも一本バサミでは撃退さえ無理ですね」
「イケさん、これならハムールも勘弁するでしょう」
イワシ二匹を私の上に、一匹をガブコプの上に落とした。私はゆっくり二匹のイワシを食った。ガブコプはハサミでイワシをしっかり握り、私を牽制しながらブクブク下のくぼみに移動していった。
「ヒゲヅラ君、一本バサミのガブコプは哀れですね」
「ハムールに完全にコケにされてますよ」
「強力なハサミも片方欠ければ威力なしですね」
「バランスも悪そうです、再生するまではハムールの天下ですね」
私は満足だ。水槽端のくぼみに腹ばいになった。ガブコプは肉片をポロポロ落としながら、ガツガツ懸命に食っている。 この日から冷凍イワシが一週間も続く。これは水っぽくてまずい、しかもガブコプは食い方が下手くそで、内蔵や肉片をバラバラ撒き散らして水を汚した。まずくとも食い終われば、私は昼寝、一本バサミも砂に潜ったまま夜まで動かない。夜の散歩では相変わらず私を邪魔するが、しつこく追い回してこなかった。
チビボラは活発に泳ぎ回っている。彼らにはガブコプの食い散らしがちょうどよい餌になった。私はイワシで満足し、チビボラを追い回す気にもならない。
ガブコプとの同居生活は長く続いた。チビボラは間引いたので、残っているのは俊敏な奴だ。ガブコプは一本バサミを振りながら、相変わらず私のくつろぎを邪魔しにきた。
昼前にヒゲズラとスルタンはマージッドを残して事務所を出ていった。後から来たヤマさんは二人がいないのに気付くと
「マージッド、二人は網生簀に行ったのかい?」
「はい、アイゴ生簀の底が破れそうだから潜って修繕するそうです」
「そういえば、アイゴは網に付いた藻を食いながら糸まで食うから気をつけないと穴から逃げられるからね」
昼過ぎて2人は戻ってきた。バケツにガザミと数個のオニサザエが入っている。「ヤマさん美味そうでしょう、生簀の回りにいました」
「ほう、そいつは珍しいですね、岩場ではなくモ場に棲んでいるとは」
「オニサザエとガザ二はアコヤ貝の天敵ですよ、生簀の周りにはアコヤ貝が固まりで棲んでいますから狙ってきたのでしょう、フエフキダイとクロダイもアコヤ貝が好物ですからどれも貝の食い放題ですよ」
「そういえばヒゲズラくん、隣のラスアルカイマの遺跡調査でゴミ捨て場らしい所から数種類の魚骨に混ざってオニサザエ、サザエ、アコヤ貝が発掘されたというニュースがありました」
「ヤマさん、サザエは岩表面の藻類を食うので内臓は沙入りでゴリゴリして食えませんが、オニサザエは肉食だから内蔵まで食べられるだろうからつぼ焼きにしてみましょう」
「私は遠慮しておきます、ヒゲズラくんの反応をみた後にトライしましょう、スルタン、どう思う」
「ヒゲズラさん、私達はサザエは食べてもオニサザエは食べませんよ」
「スルタン、昔は食べていたのだろう」
「親父はオニサザエの内蔵には毒があり焼いても煮ても毒は消えないそうです。内臓をはずした筋肉部だけが食べられるのです、これを見て下さい」
スルタンはサザエとオニサザエ1個ずつを割って肉を取り出し水槽に入れた。私はサザエをすぐに食ったがオニサザエは残した。
「おつ、ハムールは毒に気づいたか」
「ヒゲズラさん、オニサザエの内臓は捨てましょう」
「そうか、オニサザエはアコヤ貝を襲うときに貝の小さく開いた隙間から毒液を注入して貝柱を麻痺させてこじ開けて中身を食うのだ」
「その毒液が内臓に残っているのですよ」
「ヒゲズラくん、その格好ではカゼ引きますよ、シャワーを浴びてきなさい」
「スルタン、先に入るよ」
「ギヤー」シャワー室からヒゲズラが飛び出してきた。「スルタン、湯船に変なものがいる」スルタンがシャワー室を覗いて、「ヒゲズラさん、何にも怖くないですよ、キャメルスパイダーです」ヤマさんも覗く。「どれどれ、これは珍しいお客さんだ、ヒゲズラくん、サンプル瓶に入れて下さい」「冗談をクモは苦手です、ヤマさんがどうぞ」「
ヒゲズラくん、このクモはサソリの天敵で、最初にサソリの毒針の尾を鋭い歯で噛み切ってから本体を食うそうです。砂漠の益虫ですよ」
「ヤマさん、クモが興奮してエラを震わせていますよ、攻撃態勢ではないですか」
「毒はないと思いますが鋭い歯で咬まれたら痛いでしょうね」
「ボクは遠慮します、スルタン、頼む」
ヒゲズラが逃げ出すと、スルタンはクモを標本ビンで簡単に捕まえた。
「ヒゲズラさん、私達は子供の頃こいつをサソリと喧嘩させて遊んでいました」
「ヤマさん、持って帰ってヒロシくんに見せて下さい、喜びますよ」
「それは難しいな、ヒロシが飼うなんて言い出したら女房が悲鳴を上げるだろうな」
「スルタン、ヤマさんが駄目なら、このビルから遠く離れたところに逃がしたくれ」
「これまでゴキブリを食ってくれたのですから逃がしたほうがいいですね」
「ゴキブリも食うのか?」
「ほら時々ゴキブリの羽が落ちていたでしょう」
「こいつがいたということはこのビルの何処かにサソリもいたのか?」
「わかりません、このビルは長い間空き家でしたから」
カプコプの死
最近の食い物は、これまでとはずいぶん変わっている。魚味のする小さな堅い粒で不味いうえに食ったあと胃袋でゴロゴロして気持ち悪く消化にも悪そうだ。ガブコプはハサミで器用につまんだが、かじるそばからバラバラ飛び散った。食い散らかしはチビボラが喜んでついばんでいた。
水が冷たくなると、食欲が減り食い物は残り出した。ガブコプは相変わらずひどい食い方をしている。そんな日の続いた朝、水が白く濁った。
「ヒゲヅラ君、水が濁っていますよ、濾過システムが駄目になっていますね」
「ハムールとカプコプに配合餌料ははだめでした、マージッド、水と砂を交換しょうか」
私とチビボラは、網で掬われバケツにほうりこまれる。次にバタバタ抵抗するガブコプが落ちて来た。掃除で移されるのは慣れているがガブコプと狭い所に入るのは面白くない。なるべく離れるようにした。彼はハサミと足を縮めてうずくまり短い触覚を忙しく震わせている。チビボラは気ぜわしく水面を泳ぎり回っている。
「イケさん、二匹とも静かですよ」
「呉越同舟ですな、さすがのガブコプも緊張しておとなしいですね」
清掃が終わると、チビボラは網ですくわれて水槽に戻った。ガブコプは水面にヒゲヅラの影が写るや、壁を背に片方しかないハサミを立てた。
「ヒゲヅラ君、相変わらずガブコプは好戦的ですね、一本バサミでも威力がありそうですよ」
ガブコプはハサミを立てバケツ逃げ回ったが、網をがっちり挟んだまま水槽の上までくると自分からハサミを折って水槽に落ちてブグブクの根元に潜った。
「ヤマさん、まずいです、これじゃ食うのが大変ですよ」
「ハサミの再生まで餓死しないよう見守るしかないですね」
ガブコプは砂に潜ったまま翌朝まで出てこず、久しぶりに静かな夜だった。
掃除から5日目、水はきれいだが食い物はない。腹が減ったのか、ガブコプは砂から出るとハサミを立てる恰好で近づいてきた。急いで逃げることもないが、細い足先でごそごそさわられてたまらないので反対側の隅に移った。六本の足は歩行用でヘラ足二本は遊泳用、物をつかむことができない。ガブコプの邪魔がないので、私は暗闇の中で獲物の捕獲を楽しむことができた。チビボラは大分減らしたが残った5匹は反応が速く捕獲はあきらめた。
十日目、久しぶりにアジの切身を腹いっぱい食った。ガブコプは腹が減っているのに立ち往生である、食おうとしてもつかむハサミが出ないのだ。まもなくしゃがんで食い始めたが、足がやたら動き回り口を餌に寄せられない。焦るほど食い物を蹴散らしている。やっとくわえても口元の押えがきかず、口が動く度に食い物を取りこぼした。こんな食い方だから、一切れ食うのにずいぶん手間取り水を汚した。人間達はカプコプに同情しているようだが私は腹ばいで眺めた。カプコプは次の脱皮でハサミは再生するかもしれないが、このままだと衰弱して死ぬだろうな。
アブドラ長兄の死:
一月はアラブの冬で日中は暖かいが朝方は20度まで下がる。涼しくなったのでゴーゴーは止りブクブクだけだ。
早朝 マージッドが入って来た。日頃はジーパンにTシャツ、無精髭の大男が今日は純白の正装カンドーラを着てガットラとアガル(黒紐のわっぱ)を被っている。さっぱりするとなかなかの男前で立派な口髭をしている。
「おっ、マージッド恰好いいじゃない、見合いでもするんか?」
「ヒゲヅラさん、パレスホテルの裏バーでアブドラ長兄が倒れました」
「えーつ、病院は?」
「近くのクゥエート病院、でも担ぎこんだ時は、手遅れだったそうです」
「ヒゲズラくん、あんな巨体、運ぶのに大変だったろうな、ホテル側も警察のチェックで迷惑だろう」
「ヤマさん、常連のお得意さんです、最後ぐらい我慢してくれますよ」
「マージッド、お袋さんは大丈夫かい、卒倒しなかった?」
「危なかったです、でも気を取り直して祈ってました。アッラーどうか息子を地獄に送らないでくれと」
「マージッド、アブドラ長兄は天国に行っても喜ばないかもしれない、地獄で鬼達と飲む方が楽しいはずだよ」
「彼は望み通り地獄かもしれません」
「ヤマさん、アッラーもひどいですね、飲酒しても世間様には無害、ただ陽気に楽しく生きただけなのに」
「初めに契約ありき、神様の慈悲は契約を順守した者にしか与えられないでしょうね」
「ヤマさん、神様はきびしい保険屋さんですね、神と契約しない者や戒律を破った者は、最後の審判で天国に入れず地上に残すのですから」
ヒゲズラくん、イスラムには地獄とそれにまつわる鬼とか、幽霊、悪魔はありませんよ。地獄はフィレンチェの詩人ダンテ・アルギエーリがローマカトリック教会へのゴマすり用に創作した神曲を後世の連中がキリスト教と教会の権威を高めるために脚色したのだと思います」
「そうですね、ヤマさん、イエスと仏陀は地獄なんて一言も言ってないはずですが、坊主達が勝手に創作して死に対する不安を抱える大衆を脅すのに使ったのでしょね。それが繰り返し吹き込まれると大衆の深層心理に刻まれてしまい、さらに想像豊かな絵描きと作家が地獄を膨らまして描くから大衆の精神に死に対する恐怖を増幅させたのでしょう。我々は子供の頃悪いことをすれば地獄に落とされるぞとよく脅されましたよ」
「ヒゲズラくん、宗教的権威に疑問を呈する科学者と無心論者を魔女裁判で見せしめ処刑して権威を百年以上守っていたのですからカトリック教会の権力志向あすごいですね」
「ヤマさん、神を信じない異端者は地獄に落とされる、これはアフリカと南米の無知なる人々には効果がありましたが地獄のないイスラムには余り効かなかったと思います」
「ヒゲズラくん、イスラムの創始者モハメッドはアッラーとの直接対話に基づいて全ての偶像を破壊する過程で教会の権威主義にまつわる地獄と悪魔の話も破棄したと思います」
「ヤマさん、砂漠には旅人を惑わすジンという人助けと悪さをする魔物がいるといわれています。これはイスラム以前のジャーヒリーヤ時代のベドウイン民話が語り伝えられたもので私は好きです。月夜に砂丘の影から現れる女影法師ブラックゴーストはスタイルが抜群に良くニャリ笑う歯がきれいそうです、風の創り出す緩やかな砂丘の連なりは腹這いになった女性の美しい曲線みたいですから、その下から現れるゴーストは容姿端麗でセクシーだと思います」
「怖いですけど会ってみたいですね」
「モハメッド、ザロゥニは子供の頃おばあさんの死の直前に枕元にいるブラックゴーストを見たと言っていました」
「ヒゲズラくん、今では砂漠のジンはかげろうか旅の孤独感が作る幻影でしょうね」
「ヤマさん、今時ジンの話をローカルにすると笑われます、科学は民話と一緒にロマンも捨ててしまった」
「ヒゲズラくん、アラビアの古人は自然の怖さを経験的に知っていたのですよ、そこから油断するなジンがいるぞと警句を伝えているのです」
「ヤマさん、砂漠は砂丘だけではなくという草木の生えない平坦な湿地(サブカsabkha)が点在しており砂に覆われて一見固い平地のようですがその砂下は底なしの泥沼です」
「そういえば、ヒゲズラくんは砂漠沿岸を調査したことがありましたね」
「UAEからカタールまでの沿岸300kmは緑のない白い塩漬け砂漠(サブカ)で生き物は生存できない所でした。単調な道路を南へ走っているとアブダビャという所で水平線に緑と海が見えたのをマングローブの森と思って向ったら途中でスタックして海には行けず救援のブルドーザを暑い日差しの下で待つひどい目に会いました」
「道案内にスルタンも同行したのに間違えましたか」
「目が良いスルタンが向こうはサブカで危ないと言ったのですが、マングローブと海見たさにこの車は4輪駆動だから行けとドライバーに命令したのです」
「スルタンはまともなのに、ヒゲズラくんはジンのマングローブ幻影に惑わされたのですね」
「トヨタランドクルーザーでしたがはまると車輪が空回りして自力で抜けられないの泥地でした」
「悔しいですが、その緑は我々が帰るまでサブカの水平線に見えました」
「文明の利器に頼りサブかを知らない馬鹿者とジンが哄笑していますよ」
「帰りはスルタンの指示に従いなんとかサブカを抜け出しましたが、二度と行きたくない所です」
「海と砂漠ではスルタンの素晴らしい眼力が頼りになりますね」
「ヒゲズラくん、最近4輪駆動による砂漠ツアーが流行っているようですが事故が心配ですね」
「ヤマさん、数日前リワ砂漠の奥で大きな遭難事故があったそうです」
「リワ砂漠の砂丘は大きくはるか彼方まで続いているから事故が起こっても救援が難しいでしょう」
「5人の若者が4輪駆動でドライブに出て帰らないので警察と軍隊が空と陸から捜索しましたが救援隊が着いた時には全員熱射病と脱水症でスタックした車の周辺に裸で死んでいたそうです。その中の一人はラジエータの水を飲んだらしく苦しんで死んだ悲惨な事故でした」
「スルタン、最近車による若者の死亡事故が先進国並みに増えているというニュースがあったけど、飲酒運転での事故かな」
「ヒゲズラさん、若者達は飲酒よりも新車を飛ばすことが快感なのですよ、スピードの出し過ぎでヘアピンカーブを曲がりきれずに路肩から砂漠に突っ込んで横転するケースです。ほらよく道路脇の砂漠に焼けてつぶれた新車が放置されているでしょう」
「負傷者は緊急病棟だと思うけど車は警察が処理しないの?」
「あれは見せしめにおいてあるのです」
「ヘアピンカーブの手前にスピード制限の立て札があるけど効果ないようだね」
「若者達はその倍以上で走る競争をするので返って危険なのです」
若者の車事故増加傾向を止める目的で警察はドイツ製の写真併用スピード監視カメラを導入し違反者には罰金を課すことにした。このカメラは若者に頗る評判が悪く、走る車からカメラに向って石と瓶をなげつけて破壊する若者が出てきた。警察はカメラ近くにパトカーを置いて牽制したが夜間に破壊されることが増えたのでその対策と併用してスピードガンによる取り締まりで効果をあげたように見えたが、ご婦人方からレーダが違反車同乗者女性の正面写真を撮影しているのはアラブの礼節に反するとの非難が出たため車後方からのナンバープレート撮影に切り替えた。
因みに若者達が国営テレビの宣伝と銀行の融資勧誘に煽られて高価な高速走行自動車を競って買い求めて破産するケースが出てきた。若者達とその家族の困窮を憂慮した大統領は今回に限り彼らの銀行への借金を肩代わりしてやり、今後若者への車販売は支払い能力に準ぜよ布告これに反した銀行は処罰するとした。国営テレビに対してスピードを競うような扇情的な車の宣伝を禁止した
「ヒゲズラさん、大統領は国民の声をよく効いて下さっています」
「国民を守るための法律はこれから整備されていくだろうな」
「ヒゲズラさん、酒酔い運転ももうすぐ厳罰になりますよ」
「しかたないなあ、大統領命令ならば皆従うだろう、飲酒運転はやめた」
「ヒゲズラくん、権威を伴う規範がないと君みたいな人間は遵守しませんよ。人間は自由な存在ですが、社会の一員にならないと生活できません。そこで社会の維持という大儀で二面性の社会規範ができたのです。精神を宗教で押え行動を法律で規制するやり方です。人間が造った物ですから常に不完全で、しかも時の権力者の都合通りに変更・規定されてきました。それは現在の民主主義国家でも続いています」
「ヤマさん、規定に神の威光をかぶせれば戒律になり効力は強力なりますね、法律は規定に罰をかぶせて威すわけですか。確かに社会には必要なものですが体制側の権益を守るように仕組まれているから必ず何処かに不具合が出てくると思います」
正装したスルタンが入ってきた。
「ヒゲヅラさん、今からアブドラの葬式です、行きますか?」
「ああ一緒にいくよ、着替えるので少し待ってくれ」
カプコプの死:
今日は水の濁りがとくにひどい。ここ数日ガブコプが少食で餌を食い散らしたからだ。どうしたことか砂に潜ったきり夜の散歩にも出てこない。触覚は気ぜわしく揺れているが元気がない。私はこの濁りのせいでエラもつまり気味で気分が悪かった。
夜中にブグブクが消え停電だ。静かだったガブコプが砂から出てふらつきながら壁を伝って水槽の隅へ行き座り込んだ。一息ついて立ち上がったが体が小刻みに震えている。甲らと腹の境に裂け目ができ新しい柔らかな体が少しだけ出てきた。新しい体は殻から出ようと頑張っているが脱げそうもない、全身の力を集中しているようだが難しそうだ。やっと体半分を脱いだが全部脱ぎ終わるには時間がかかりそうだ。
朝、ブクブクがゆるい流れにわずかな酸素を運んできた。ガブコプは古殻から新しい体半分を出したまま触覚だけがゆらゆら揺れている。
気分は良くならない。私は水面に浮くと、チビボラと同じようにエラを広げ、口からパクパク空気を飲み込んだ。
やっとヒゲヅラが来た。水面をふらふらしている私達はすぐに新鮮な水に移された。
「ヤマさん、やばかったですよ、でもハムールは頑張るなあ」
「濾過システムが駄目になっていたのですね、それに昨夜の停電は長かったらしい」
「ヤマさん、ガブコプはかわいそうなことをしました」
「脱皮しょうとしたのですね」
「脱皮で体力を消耗したうえ、水質の悪化で酸素が足りなかったのです」
机にはガブコプのぐったりした新しい柔らかな死骸と古い殻が乗っていた。我々の世界では死は常時すぐ側で起こっており当たり前のことだ。
「ヤマさん、砂が臭いですよ、ガブコプはほとんど餌を食べてなかった」
「ハサミのないカニは、エビより弱いですね、武器に頼る者の末路ですか」
スルタンはガブコプの死骸を新聞紙に置いた。
「ヒゲヅラさん、ガブコプどうしますか?」
「埋めてやろうか」
「供養も良いでしょう、ヒゲヅラ君も情が移りましたね」
マージッドは水槽の砂をバケツに移し始めた。
「ところでヒゲヅラ君、アブドラ長兄の葬式はどうでした?」
「アブドラ兄弟にお悔やみをした後、大部屋でお茶を飲みながら故人の生前の話しです、遺影はありませんでした」
「モスレムは偶像を忌避しますから遺影はないでしょうね、お母さんは大丈夫でしたか?」
「女部屋で女性客と一緒でしたから、会えませんでした」
「お棺はどうしました?」
「シャルジャ野菜市場裏の墓地に車で運び埋める穴までは肉親と親戚が担いで運びました。私は離れて見たのですが、お棺から出された遺体はミイラみたいに白布で巻かれていました。右肩を下に顔をメッカに向けて砂穴に埋めました。墓標はなく拾い集めた小石で埋めた場所を囲み大きめな石を真ん中あたりに置いただけです。これでは次にお参りに来た時迷うでしょうね」
「ヒゲズラくん、モスレムに墓参りの風習はないそうです。ときたま思い出して来ることはあるそうですが、まあ今度来るときは誰かの埋葬か自分のですよ。それに、砂葬は王様や平民の区別なくみな同じ、これはなかなかいい方法ですね。肉体は大地に帰し、魂は永遠ですか」
「ヤマさん、モスレムは死んでも大地には帰りませんよ、死は魂が肉体より一時離れるだけです。肉体は最後の審判まで大地に残ります。最後の審判で善なる者の肉体は魂と一緒に復活させられ天国に入りますから、日本のように火葬で肉体を焼却するなんてモスレムにはとんでもない話しです」
「ヒゲズラくん、コラーンの教えに背いた者は、永遠に大地に閉じ込められるわけですからアッラーとの契約を遵守しなければなりません」
「ヤマさん、モスレムの子は誕生よりモスレムですがコラーンの教えに従うかどうかは個人の生き方でしょうね。例えばスルタンは定められた回数の祈りをしないし、モスクにも行ってないけど他の人よりモスレムらしいと思います」
「ヤマさん、マージッドは飲酒していますけど、良い性格をしていますよ、二人とも天秤にかけられますか」
「アッラーは天秤なんか使いませんよ、死んだら即裁定でしょうね、モスレムは即断が好きでしょう」
「そう言えば凶悪殺人犯の死刑執行なんかはすごく早いですね。神様も即断でいかないと昇ってくる人数はさばけないでしょうから」
マージッドは水槽に新しい砂を敷き、ポリタンクから海水を流し込んだ、ブクブクが勢いよく始まる。私は水槽に移されると、ブクブクの下に腹ばいになった。
「ヒゲヅラ君、ハムールは元気みたいですね」
「でも濾過システムが駄目になりましたから、数日間は絶食ですね」
「ヒゲズラ君、この際ハムールを飼育試験室に移したらどうです、あそこなら水交換も楽でしょう」
「そうですね、試験室にミニ水族館を作りますか」
絶食は五日間で六日目の朝、私達は空腹のままバケツに放り込まれ、マージッドの太い腕を眺めながら外に出た。「マージッド、海水がこぼれないようこのビニールでフタをしてくれ」
「ヒゲヅラさんの車も随分サビましたね」
「潮風のせいだよ、ここは塩分が強すぎるんだ、マフラーがボロボロで排気音がひどいよ」
ヒゲヅラは農水省の倉庫前に車を止めた。
「マージッド、シャッターを上げてくれ」
マージットが正面の鉄壁をガラガラ持ち上げた、部屋の中央には2面の四角いタンクが置かれエビとアイゴが入っている。その周りにはヒゲヅラの胸あたりの棚に馴染みの魚の入った水槽が壁に沿って並んでいた。チビボラとはここで別れ、私は空の水槽に移された。隣は大きなツバメウオのつがいで、背鰭が水面から出て窮屈そうである。他の水槽にはフエフキダイ、フエダイ、クロダイ、ヘダイ、モヨウフグ、ブダイ、ミノカサゴ、ベラが入っている。向かいの食堂では漁師達がお茶を飲んでいた。
「マージッド、ついでにエビとアイゴの水交換もやろう、海側のシャッターも開けてくれ」
鉄壁がガラガラ上に上がると、砂浜に漁船と海が見えた。漁船ではカンドーラや腰巻の漁師達が刺網を繕っている。この界隈は船のエンジンや大声でしゃべる人間達、ブーブー通り過ぎる車の雑音であふれている。
ヒゲヅラは全部の水槽の水交換を終えると、ブクブクの出る小さな機械をひとつづつ点検している。
マージッドがポンプを手に入ってきた。
「ヒゲヅラさん、エビとアイゴの水交換が終わりました、配合餌はいつもと同じ量ですね」
「うん、アイゴはサラダを食わせないと調子が悪くなるからナミジグサも入れよう、浜に打ち上げられているのを拾い集めてくれ」
ヒゲヅラ達は私以外の魚に食い物をやり食堂から運んできたチャイを飲み終えシャッターを閉めて帰った。私はブブブクの下にくぼみを掘り腹ばいになった。タンク横のガラス窓から漁師達の往来が見えた。腹は減ったが食い物は期待できそうもない。 翌朝暗いうちから浜辺は漁師達のかけ声と船外機の騒音であふれていた。エンジン音が遠ざかり船が出払うと浜辺は波音だけになった。
朝日が差す頃、漁から帰ってくる船で浜辺は賑やかになった。浜でせりがはじまる。船の水揚げはカゴで一括せりにかけられ、いい魚ばかりの部分買いは許されない。魚はドバイの魚市場に運ばれていく。
売れ残った魚は隣の青空魚市場で売られる。
道路側のシャッターが上がりビゲヅラが入ってきた。つづいて海側のシャッターも上がり朝陽が水槽に入る。
飼育室近くにも次々船が着き漁師が魚を詰めたカゴを降ろしはじめた。スルタンは挨拶がてら数匹の魚をカゴからつまみ出し持ってきた。その中の小さなフエダイが私の朝飯、水面に飛び上がって飲み込む。勢いに応えて、スルタンはもう一匹大きいのを持ってきた。
「よっぽど腹へっているなあ、スルタン、その大きな奴はどうかな」
大きすぎて飲み込めないので無視した
「エビには配合餌料ですか」
「いや、今日は魚の切身でいこう、エビとアイゴタンクの水交換を頼む、終わったらアイゴに海草と配合餌料をやってくれ、私は魚市場を覗いてくる」
スルタンが魚を切っていると、ガットラで頭をぐるぐる巻いた漁師が入って来た。
「アッサラーム・アライクン、スルタン、ルビアン(エビ)とサーフィ(アイゴ)は元気かね」
「マルハバ、イブラヒム、今日の水揚げはどうだった?」
「ホッバート(サワラ)が少し、後はシェリー(フエフキダイ)、ベダ(クロサギ)、ジッド(カマス)の小物ばかりだ」
「それじゃ、あんまり金にならないね」
「昔に比べて魚が減ったよ、どうしてだろうか、お前の所の先生に聞いてくれよ」
「捕りすぎではないかと言っていたよ、昔に比べて漁師と船の数が多くなったからね」
「農水省が無計画に補助金を出したからだぜ、街の船主がやたらに増え、奴らの雇ったインド人やバングラディッシュ人が増えたからだよ」
「我が農水省のことをつつかれると、耳が痛いね」
ヒゲヅラが自分より大きなバショウ・ガジキを引きずってきた。
「サバヘー、イブラヒム、このカイル・バハールはどこで捕れたかなあ?」
「沖ブイの先で、ハッサンの刺網に絡まった奴だよ」
「網がメチャメチャになっただろうね」
「たまらないよ、こいつに飛び込まれたら一日の漁が駄目になってしまう」
「これが二十ディルハム(千四百円)だから、網の修繕代の方が高くつくね」
「スルタン、ちょっとこいつを持ってくれ」
「ヒゲヅラさん、これどうするんですか?」
「まず測定して写真を撮る、尾をつかんで持ち上げてくれないか」
スルタンは両手でなんとか持ち上げるが、長い口バシの頭は地面についたままだ。こんな巨大な魚を見るのは初めてだ。ビゲヅラは写真を撮ると、カジキを水際に引きずっていった。
「スルタン、解体するからナイフを取ってくれ」
「食べるのですか?」
「刺身とステーキだよ、これ日本では高いんだ、ヤマさんが喜ぶぞ」
ヒゲヅラはカジキの頭部を切り捨て、長い胴部を十個に切断した。スルタンは油の乗った赤身の肉片を我々に配給してくれた。初めて食べる肉で柔らかくおいしかった。
アブドラ次男の死;
ヒゲヅラ達の朝はエビとアイゴタンクの掃除と水交換に餌やり、魚市場の水揚げ調査、入り江の網いけすで飼育しているクロダイとアイゴの餌やりをゴムボートで行く。
水槽は漁師がガルグールから持ってきた魚で賑やかだ。隣の魚市場と漁師達のおかげで、私は毎朝新鮮な魚を食うことができた。
四月、水が暖かくなった。周囲は相変わらず賑やかだ。私は平穏な水槽から人間界を眺めた。覗きに来る子供の中には、手を突っ込むのがいたがスルタンとマージッドに追いだされた。
朝いつもの通りヒゲヅラとスルタンは水槽の水交換を済ませゴムボートで出て行った。
漁を終えた船が次々に帰り浜はせりで賑わった。ほとんどの船は昼前に浜に上がったがヒゲヅラ達は昼過ぎても戻らない。
カンドーラで正装したマージッドがタクシーから降りて来た。ヒゲヅラ達が海に出たのに気づき、私達が食い物をもらってないのを見ると隣から魚をもらってきた。マージッドは魚を刻みながらしきりに海の方を見ていた。昼間の浜は、波音に合わせて無人の船がゆらゆら揺れている。マージッドはしばらく海を眺めていたが、食堂に入り漁師と何やら話している。
静かな浜に微かなエンジン音が届き、二隻の船が波間に小さく見えた、「イスマイルだ」と誰かが言った。漁船に引かれてゴムボートが浜についた。ヒゲヅラ達はイスマイルと握手を交わしてから、食堂に入ってきた。
「ヒゲヅラさん、随分遅かったですね、一体どうしたんですか?」
「まいったよ、エンジンが故障して漂流だ、ちょうどイスマイルの舟が通りかかったので助かったよ」
「私はこれ以上遅かったら、誰かに頼んで船を出してもらおうと思っていました」
「ところで、どうしたの?、カンドーラで正装なんかして」
「ヒゲズラさん、今度はアブドラ次男ですよ、昨日の夜中ファルアラージュムラ街道でラクダと正面衝突しました」
「えっ!命は、重態なの?」
「死にました。事故は真夜中で早朝発見されたのですが手遅れでした」
「例の所で飲んでいたんだなあ、マージッドは行かなかったの?」
「誘われたのですが、ちょうど兄がサウジアラビアから来て行けませんでした」
「砂漠での酒盛りか、星明かりで飲む酒はうまかったなあ、時が止まったようで、アブドラは砂漠で寝ればよかったのに。」
「もう葬式は終わったの?」
「暑いから警察の検視後早めにすませたようでした」
「親戚の連中はアッラーの罰と言ってました」
「あっ!アブドラ末弟はどうした、飲む時は一緒のはずだけど」
「あいつは軍の営倉に入っていました、今日から三日間だけ弔いの特別恩赦で出してもらいましたけど、喪が開けたら数年牢屋入ですよ」
「喧嘩して相手を傷つけたのかい?」
「いいえ、詐欺の片棒を担がされたのです。あいつはスーパーマーケットの開店資金七十万ディルハム(5千万円)を銀行から借りたのですが、これを相棒のパキスタン人に持ち逃げされたのです。当人は銀行から訴えられて警察に拘留されました。こんなですから、軍職も解かれました」
「どうしょうもない奴だなあ」
「お袋さんは半狂乱ですよ、頼りの親戚連中は恥じさらし者に関わりたくないそうです」
「七十万ディルハムは大きすぎるなあ、スルタン、アブドラを何とか助ける方法はないかなあ」
「あいつはシャルジャ首長国出身だから、シェイク・スルタン(シャルジャ首長国の王様)に嘆願するのが良いと思います」
「王様はそう簡単には会えないと思うけど、マージッド、この線でいってみるかい?」
「やってみますか、このままではお袋さんが発狂しかねないですから」
「ヤマさんに事情を話して、マージッドに特別休暇をもらおう。スルタン、どれくらいの日数かると思う?」
「まずお城に行って嘆願申し込みをやり、順番を待ちで最低一週間、査定から拝謁まで十日ぐらいですね」
「よし二五日貰うか、マージッド、なんとかこの間で頑張ってくれ」
夕闇の迫った飼育室はシャッターが閉まれば薄暗い。私は底から少しだけ浮き、ゆっくり水槽を一回りした。隣のツバメウオ夫婦は顔が会うと、あわてて方向転換、水槽の端に逃げた。「日頃群れで行動して用心深い貴方がたはどうしてガルグールなんかに入ったのだ?」
「子供達が餌につられて入ったので私達も入ってしまったのです、でも子供達は網目から出て外で待っていた群れに戻ったので安心しています」。
平安である、新鮮な食い物それに水も気持ちいい状態に保たれている。行動の自由はないが、この快適さに比べれば何でもない。隣のツバメウオは不幸だと思う。寄り添うべき子供達との離別は悲しいだろう。草原で見たツバメウオは、いつもつがいの群れに子供達が周りにいた。生きることは孤独だ、連れ合いを持てば離別の悲しみに会う。モンゴイカのつがいもそうだった。私は生まれたときから独りで生きてきたからそんな悲しみはない。
毎日の日課からマージッドが抜けた。水槽のエビは、成長してちょうど食い頃だ。ヒゲヅラは時々間引いたエビをくれた。
今日、スルタンは水交換のあと、ガルファ(グルクマ)1匹をくれた。
アローサ;
船が浜に着き、漁師イブラヒムが小走りで飼育室に入ってきた。アローサ(ユカタハタ)をつかんでいる。アローサは赤膚に青い斑点をちりばめ、目立つ恰好をしている。ハタ仲間では大きくならない種類だが、ケンカ早い連中だ。イブラヒムはそいつを私の水槽に放り込んだ。
アローサは私を一瞥し、すばやく水槽の隅に移動した。私よりひとまわり大きい、いやな気がした。
「どうだいスルタン、ハムールよりアローサの方が見栄えがいいだろう」
「シュクラン、でもケンカをしないか心配だ」
「ハムールの方が強いに決まっているさ」
「このアローサは生きがいいね、ガルグールかね?」
「そうだよ、五個を三日間も沈めたのに捕れたのはこれだけだ」
「おかしいね、三日間でこれだけとは、誰か揚げた奴がいるな」
「最近は海まで欲で汚れているよ、覚えているだろう、昔は誰のガルグールにも魚が詰まっていた。だいたい他人の物を揚げる奴はいなかった、
石油が出てからインド人やバングラディッシュ人のお雇い漁師が随分増えたよ」
「イブラヒム、お前の所だってインド人を八名も雇っているじゃないか」
「俺は船頭で一緒に乗っているから、悪いことは絶対させない。ひどいのは船をインド人やバングラディッシュ人に貸して儲けている街の金持連中だよ」
「漁師も年寄りばかりだね。私の親父も歳できついらしく、最近はあまり漁に出てないよ」
「スルタン、俺の息子なんか漁師は嫌だとさ、若い連中は海の仕事より車を乗り回す方が楽しいんだ。仕事もクーラーの効いた部屋でなければ駄目だ。俺達はもうインド人やバングラディッシュ人なしではやって行けないね」
若いインド人がイブラヒムを呼びに来た、船からはみ出した網の山に真っ黒なインド人が7名乗っている。
「スルタン、今から刺し網をやってみるよ」
「今なら潮もいい、がんばってな」
「インシャ アッラー」
飼育室の作業が終わってもヒゲヅラは来ない。シヤッターを降ろしかけた時、浜の方から誰かが大声でスルタンを呼んだ。頭を布切れでぐるぐる巻いた真っ黒なおやじである。
「どうしたアブアンタ」
「スルタン、日本人の先生はいないのか? でかいカイル・バハール(カジキ)が3本入ったぞ」
「生きのいいのを一本頼む、ついでに頭と内蔵を除けてくれよ」
スルタンはシャッターを閉め、おやじと一緒に浜へ降りていった。
飼育室が暗闇につつまれると、アローサは思ったより早く挑戦してきた。たいした傷もないらしく、もう捕まったショックから立ち直っている。我々の戦いは、腹部への頭突きと尾鰭に噛みつくことである。アローサの頭突は強烈かつ正確で、同じ反撃をしても、ダメージは私の方が大きかった。反撃を弱めると傘にかかって攻撃してきた。完敗である、逃げ回ったが、アローサは自分が疲れるまで攻撃を止めなかった。
朝日が窓に射す頃、私は疲れ果て水槽の隅に丸くうずくまった。腹の肉はささくれ、尾鰭もボロボロである。アローサはゆっくり回遊しながら、側を通るたびに腹や尾鰭に噛みついてくる。痛い!どうにもならない、体がピクピク動く、だが逃げる力は消え失せていた。
シャッターが上がりヒゲヅラが入って来た。私を見ると大声を発し、逃げ回るアローサを網で掬い上げた。
「スルタン!誰がこんな奴を入れた、ハムールが死にかけているぞ」
「おっ、ひどい、イブラヒムですが、始末しますか」
「いや、隣のツバメウオを他に移してこいつを入れよう、イブラヒムの好意もあるし」
アローサは隣の水槽に移されたが、ガラスごしにしつこく威嚇してくる。私は疲労と痛みでうずくまったまま動かなかった。
「ヒゲヅラさん、大丈夫でしょうか?」
「うん、これぐらいでくたばるようなハムールではないさ」
「どうしますか?」
「しばらくは餌なしだ、衰弱して食えないからね、水交換を毎日やるか」
翌日、私は隅にうずくまり動かなかった。
「さっぱり元気がないなあ、おいハムールなんとか頑張ってくれよ」
ヒゲヅラが水交換をしていると、ヤマさんとヒロシくんが入ってきた。ヒロシくんは私を見るや、大声で父親を呼んだ。
「お父さん!、ハムールはどうしてこんな大ケガしているの?、とても痛そうだよ」
「このアローサとケンカして負けたんだよ」
「アローサってそんなに強いの?」
「まず体力の差だ、二匹の大きさを見てごらん。それに戦意の差、アローサは仲間同士でよくケンカするが、ハムールはケンカをしないんだよ」
「ひどいなあ、ケンカしたくないのにいじめられるなんて」
「自然界では逃げれば良いけど、水槽の中はどうしょうもないからね」
「怖かっただろうなあ、アローサって本当に意地悪な顔してる」
「学校のいじめっ子と同じだろう」
「ねえ、ヒゲヅラさん、ハムールにつける薬ありませんか?」
「薬はあるけど、こんな場合自然に治すのが一番いいんだ」
「ハムール、元気になりますか?」
「大丈夫さ、これまで生き延びてきたガッッがあるからね」
「もう怖い目に会わさないで下さいね」
「うん、わかった、今回はボクの大失敗だ」
ヒゲヅラがシャッターを降ろす時、ヒロくんは背伸びして顔を近づけた。
「ハムール、頑張るんだよ、傷はすぐ治るからね」
五日経過した。傷は一向によくならず、白っぽくジクジクうずいた。
「まずいなあ、ヤマさん、傷が細菌感染したようです」
「抗生物質を使いますか」
「テラマイシンがありますから処置しましょう」
ヒゲヅラは水を交換した後、青い粉を水面に振りまいた、水はたちまち青く染まり少し息苦しい気がした。その日から水交換の後に青い粉がまかれ、傷の痛みも少しずつ和らいでいった。
九日目の朝、ヒゲヅラとヤマさんが私の前にいた。
「ヒゲヅラ君、薄皮ができましたよ、ハムールなんとか頑張ってくれましたね」
「テラマイシンが効きました、抗生物質も馬鹿にできないです、あと三日ほど続けてから餌をやります」
動くと痛かったがブクブクの下に移動して体を丸めて眠った。
それから数日後に空腹を感じた。少しだけ泳いでみる、痛みはなかった。気配を感じアローサがガラスに顔を押しつけ威嚇してきた。
翌朝、ヒゲヅラはエビを落としてくれた。ゆっくり飲み込む、一尾づつ満腹になるまで食った。アローサはガラスに頭をこすりつけもがいていた。他の魚達もエビだったが。アローサだけはフエフキダイの切身だった。
今日は朝から曇り空でシャマール(北風)の強い日だ、漁に出れない船とヒマを持て余した漁師達が飼育室にたむろしている。傷跡はまだ残っているが、ブクブクの根本を尾で堀ってみた。アローサが隣から威嚇してきたが取り合わなかった。
飼育室の前に車が止まり、マージッドがアブドラ末弟と一緒に入ってきた。ヒゲヅラ達は二人を囲み握手をする。
「マブルーク(おめでとう)、アブドラ」
「シュクラン・ジャジーラ(大変ありがとうございました)、皆さんにはご心配かけました」
「マージッド、本当によくやったな」
「順番待ちと書類審査で二週間かかりましたが、拝謁は一番に回してくれました。拝謁は五分でした。首長は母親の話に涙を流され、すぐ側近に借金七十万ディルハムの穴埋めを命じ、さらにアブドラが元の軍職に戻れるように手配して下さいました」
「ヤマさん、すごいですね、首長が民衆の相談に乗ることは聞いていたけど、ここまでやってくれるとは」
「ヒゲヅラ君、アラブ首長国連邦の七首長は超法規的存在ですよ、政治、経済、司法の頂点にありますからね」
「ヒゲズラさん、この処置に対して、アブドラは首長と契約を結びました。母親の面倒を見ることと軍務に励むことです」
「マージッド、禁酒はなかったの?」
「なかったです、軍務に忠実ならそんなに飲めないでしょう」
「もしその契約を破ったらどうなるの?」
「今まで破った者はいないです、恐らく一生牢屋でしょうね」
「おい、アブドラ、酒はどうする?」
「止めます、もう牢屋はこりごりです。暑くてたまらないですよ、蚊とナンキンムシに食われるし、マージッドに話したけどまずい飯でも腹一杯食わしてもらえないんです、ほらこんなに痩せました。」
「当たり前だ、罪人には人様と同等の資格なんてないさ。お前は銀行をだまして金を盗んだ悪党の仲間なんだ」
「俺、本当に馬鹿だった。兄貴達みたいに自由人になりたかったんだ。でもわかった、俺には軍隊の方が性に合っている」
「それにお前は、お袋さんより先に死んではならないんだぜ」
「分かっている、皆さん本当にありがとうございました」
「アブドラ、もう誘わないけど真面目にがんばれよ」
「うん、シェイクスルタンとの約束を守って、お袋を大事にする」
「では皆さんお元気で」
ヒゲヅラ達はアブドラと握手を交わした。アブドラを見送ってから戻ってきた。
「ヤマさん、もうアブドラと飲むことはないです」
「アッラーよりも首長の方が怖いようですね」
「現実の刑罰は地獄より怖いですよ」
「ヒゲヅラくん、それにしても詐欺の相棒は天国でしょうね、あれだけの大金があればパキスタンでは豪勢な暮らしができますよ」
「スルタン、こんなのはまだ序の口だろう」
「ヒゲズラさん、外人の引き起こした詐欺事件は多いです。」
「ヒゲズラくん、急激な経済成長に対応する人材が足りず、重要ポストが外国人に占められているから腐敗が出てくるのです」
「ヤマさん、お雇い外国人は地位保全のためこの国の若者に技術移転をしませんからまともな人材が育つにはまだ先ですね」
「ヒゲズラくん、経済の発展とともにアラブの心が失われるのは心配です」
「ヤマさん、確かに砂漠の民は近代文明に埋没するかもしれませんね、でもスルタンやマージッドのように逞しさと優しさを持ったモスレムは文明の砂ごときには絶対埋もれませんよ」
ポツリ、曇天から水滴が落ち続いて大粒の雨が激しく乾いた地面を叩きつけた。地面から湯気が立ち昇る。道路に小川ができ濁り水は砂浜を通って海へ流れ込んだ。スルタンは雨に打たれている。ずぶ濡れのまま両手を空に差しのべ、楽しそうにほほ笑んだ。
「アル・ハンドリラ、今日は最高の天気だ。恵の雨ですよ、ヒゲヅラさん」
「そうだね、スルタン、実に久しぶりのマタール(雨)だ」
「ヤマさん、雨はアッラーの最高の贈り物です」
「ヒゲヅラくん、雨はアラビア人の命の源ですから、スルタンが雨天を最高に良い天気だと言うのが分かりますね」
「ヒゲズラさん、雨への感謝は水の命を大事にしている人間にしかわかないと思います。小さい頃、井戸から苦労して汲んだ水は、しょっぱかったけど本当に貴重でした。今では石油を燃やしていくらでも海水から水を作りますから飲み水の心配がない若者達は水の命は知らないです」
「ヤマさん、我が日本も同じことをしていますよ」
「そうですねヒゲズラくん、総合開発と称する自然破壊を散々していた企業とそれを宣伝していたマスコミがさあ自然を大切にしましょうなんて先頭で騒いでいる国ですから水の命なんて深刻に考えてないでしょう」
「ヤマさん、人間というのは実に愚かで昔からアホなことばかり繰り返している。神様はとっくに愛想を尽かしていいはずですよ」
「戦争はその最悪例ですね。国民一致団結して戦争をやり、後に国民総反省の繰り返し、日本なんかは異常な自虐的猛反省を現在に至るまでやっている」
「でもイラ-イラ戦争後の両国は全然反省してないですよ、むしろ逆ではないですか」
「独裁者は自己を絶対正義にしなければ存続できませんから、イラクではあのようにバース党で国民を縛り、反対者は抹殺する以外に国をまとめる道はないのです、アラブで平和を維持するには独裁でないと統制できないのでしょう」
「欧米職諸国の提唱する民主主義ではイラクは欧米諸国をバックに利権を主張する連中に分断されてしまいますよ」
「欧米職諸国は石油の利権を狙っていますから独裁を潰せば新政権からご褒美をもらえますからね」
「ヤマさん、イラクでは教育とマスコミが率先して権力の走狗になっているとイラク人のハッサンアルマタケが言っていました。体制追随のマスコミと教育は社会の害毒になりますね」
「ヒゲズラくん、真実を叫ぶにはリスクが伴います。日本では見ぬ振りだけど、イラクの場合は暴力による抹殺ですね。でも真実の抹殺はほとんどの途上国では日常茶飯事ですよ」
「ヤマさん、民主主義国家でもポピラリズムの横行で同じことをしていますよ」
「ヒゲズラくん、アテネのポピラリズムがソクラテスを死刑にしたようにポピラリズムの流れに竿を差すには命をかけるぐらい覚悟が要りますよ」。
利権と保身ばかり謀る政治家にそんな人物はいないし人権を叫ぶマスコミは金儲け企業の走狗ですので民主主義は崩壊していますよ」
鋭い閃光が暗い空を走る、続いてものすごい破裂音が黒雲の彼方から響く。雨は前にも増して激しく降ってきた。
「ヒゲヅラ君、雨宿りは長くなりそうです、帰りましょうか」
「そうですね、マージッド、アブドラの救済祝いに一杯やるか」
「ヒゲズラさん、アッラーの贈り物に乾杯しましょう」
シャッターが閉まる。飼育室はガラス窓を叩く雨音とブクブクの合唱だ。豪雨は夕方まで続いた。
朝、窓からさす日差しは暖かかった。シャッターが上がると浜の騒音がいっせいに入ってきた。水揚げをする漁師、せりの人垣、いつもと同じ風景だ。青空にはカモメが浮かび漁師の捨てた雑魚を拾っている。飼育室前の道路はぬかるんでビーチサンダルの漁師達は歩きにくそうだ。
恵みの雨はそれから二度降り、最後の雨でスルタンは風邪をひいてしまった。
停電:
七月、アラビアの盛夏、太陽は晴天の青空から強烈な陽光を地上に投げつける。水の生温い日が続く。ヒゲヅラ達は汗びっしょりで飼育室を動き回っている。
静かな朝だ、漁に出る漁師はなく浜はひっそりしている。ヒゲヅラとヤマさんはいつもより遅くきた。
「ヤマさん、さすがに誰も漁に出ませんね」
「ウムアルクゥエンの全員がシェイク・ラシッド首長の弔問に出ているはずです」
「ヤマさん、朝スルタンからとマージッドと一緒に弔問に行くと朝連絡がありました。それからマージッドは明日母親の病気看病のため急遽サウジに帰ります、スルタンは母親の入院で今晩はドバイ泊です」
「ヒゲヅラ君、弔い休日は一週間もありますよ、どうしますか」
「酒屋も一ヶ月間弔い閉鎖です。ビールの買い置きがないんで参りましたよ。少し分けて下さい」
「残念、私もありません。この際喪に服して酒を断ちなさい」
「冗談を、ヤマさんが駄目なら、ドバイの知り合いに頼みます」
「ヒゲヅラ君、それにしても静かですね、ほら桟橋に止っているカモメ達も不思議そうですよ」
「ヤマさん、あの桟橋、昔は真珠採りのダウ船で賑わったことでしょうね」
「20世紀のアラビア湾岸は真珠取りで繁栄していますから、このへんも少しは潤っていたと思いますよ。もっとも第一次世界大戦後の世界大恐慌と日本の真珠養殖で真珠漁業は打撃を受けて衰退してしまいますけど」
「ヤマさん、ここはアブタビやドバイの商業都市と違って、昔から極貧だったようです。毎日が苦しかったけどみんな助け合いながら生きていたとホメイドじいさんは言ってました」
「ヒゲズラくん、彼らはしょっぱい水で200年以上もよく耐えて生活できたと感心しますね。当時は獲れた魚を売ろうにも輸送手段がないから現金収入がなく相当貧乏だったと思います。シェイクのさい配する真珠採りで何とか食っていけたのでしょうね」
ヒゲヅラ達が仕事をおえた頃食堂は休業したままで通りに人影はなく照りつける日差しが道路に反射してまぶしく二人は目を細めて飼育室の日陰に入った。
「ヒゲヅラ君、のどが乾きましたね、お茶もないし我々も帰りますか」
「そうですね、これでは車のクーラーもなかなか効かないですよ、こんな時こそビールがうまい」
「まだビールの夢を見ていますね」
「ところでヤマさん、こんなに暑いとクーラーの一斉使用で発電所がオーバーヒートして停電になりそうです、懐中電灯とローソクを準備していますか?」
「そうですね、帰りにスーパーで電池を買わなくちゃ」
「ヒゲズラくん。どれくらいの時間停電するかわかりませんから、我家の冷蔵庫の中身が心配です」
停電は2日続いた。各地のトランスがオーバーヒートで焼けたのである。ラスアルカイマ首長国では15日間の停電で多くのスーパーマーケットが倒産した。
「ヤマさん、昨日の停電はひどかったでしょう、部屋が暑くなったので車を走らせてクーラーで涼みましたが真っ暗闇の中涼みでドライブに出た人が多くて道路は人と車で渋滞していました。車がオーバーヒートしそうになりホテルの駐車場に停め海岸に行きましたが我家と同じ蒸風呂でした」
「我家はヒロシが暗がりを怖がって寝かすのに大変でしたよ
「ヤマさん、ここも停電が心配です、水交換して餌はなしですが、明日の朝はドバイでスルタンを拾ってから出てきます」
「そうですね、お願いします」
人口の少ないウムアルクゥヱンは電力消費量が少ないため小さな発電所で間に合っているが隣の首長国から避暑に集まってくるので電力負荷が最大になる可能性が出てきた。
海へ:
朝ブクブクはいつものように出ている。ヒゲズラとスルタンが来て水交換をしたが食い物はなかった。ボートで海に出たあと二人は帰っていった。
昼間ここが揺れるものすごい爆発音と同時にブクブクが消え飼育室は無音になった。夜になっても無音のままだ。暗闇の中で魚達の微かな吐息が漏れだした。ツバメウオは顔を水面に出し苦しそうにパクパクしている。やがて全員がパクパクしだした。私はまだすこし余裕があった、腹ばいになりエラを少し広げた。隣のアローサは、水中を往復しながら頭を水面に出している。
私が水面に頭を出す頃、ツバメウオとほかの魚は底に横たわり、アローサは水面をフラついていた。私は水面に鼻先を出し、エラを広げチビボラと同じようにパクパクした。不快な泡はないが苦しい。
窓から 朝日が射してきた、浜はいつものように賑やかになったが、ブクブクは出てこない。アローサは底に横たわっていた。生き残ったのは、私とチビボラそれにエビだけのようだ。
ヒゲヅラとスルタンはいつもより早くきた。
「あっ!全滅だ、停電が長かったのか」
「ヒゲズラさん、ちょっと食堂で話を聞いてきます」
「ああ何てこった、一年間の試験がパァだ」
「ヒゲヅラさん、この一帯は昨日の昼から停電です。魚市場の横にあるトランスが爆発して焼けたそうです。連絡しても発電所の連中は来なかったそうです」
「スルタン、発電所に連絡してくれ、エビを助けなくては」
私とチビボラは新しい海水の入ったバケツに移された。なんとか助かった、まだ息苦しいので底に横たわりエラを膨らませた。スルタンが二人のインド人技師を連れてきた。ヒゲヅラは彼らに早くトランスを修理するよう頼んだが、パーツがないと言い訳ばかりして修理に取り掛かろうとしない。
ヤマさんの車が飼育室に着きヒロシくんが飛び込んできた。
「ヒゲヅラ君、生き残ったのはエビとハムールだけですか」
「アイゴと他も全滅でした。発電所の奴等、責任者が休みでいないからパーツが出せないとぐずぐずしているんです」
「ヒゲズラくん、有力者の命令なら必死で頑張りますよ」
「スルタン、どうしようか?」
「ヒゲヅラさん、シェイク・アブドラ(首長一族次男王子)に頼んでみます」
「頼むよスルタン、すぐに行こう」
「ヤマさん、ハムールをお願いします」
ヒゲズラとスルタンは車をとばして王子の屋敷に向かった、
私はヒロシくんの汲んできた新しい水に移された。ヒロシくんの顔が水面近くに見えた。
「ねえ、お父さん、ハムールは元気になるかなー」
「底に棲んでいるハムールは酸欠に強いからすぐ元気になるよ」
「でも電気がこなかったら、ハムールも死んでしまうよ」
「確かにそうだ、こまったねどうしたらいいかなあ」
ヒゲズラの車に続いて白いベンツが 食堂の前に停車し背の高い恰幅のいいアラビア人が降りて来た。
「ヒゲヅラさん、シェイク・アブドラがアハメッド所長を遣してくれました」
ヒゲヅラ達はアハメッドと握手を交わした。それから飼育室の状況を見せた。
「あなた方日本人が貴重な試験を行っていることは、シェイクもご存じです。今回は申し訳ないことをしました」
アハメッドはインド人技師を呼び、すぐパーツを取り寄せるよう命じた。
「トランスの修理を始めますのでご安心下さい。」
アハメッドは、パーツが届いたのを確かめると飼育室に入ってきた。
ヤマさんとヒゲヅラは礼を述べた後、アハメッドにエビの養殖試験について説明した。食堂からスルタンの注文したお茶が届く。お茶を飲み終えるとアハメッドは握手し暇を告げた。
「スルタン、シェイク・アブドラが何かトラブルがあったらすぐ来いと言われたぞ」
「シュクラン、シェイク・アブドラによろしく伝えてくれ」
再び握手だ、走り去るベンツを見送りヒゲヅラとスルタンが戻ってきた。
「ヒゲヅラ君、スルタンもなかなかの者ですね、シェイクの威光を間近で見ましたよ」
「スルタン一族はここではシェイクから信頼されているのです」
「ヒゲズラくん、上の命令なしでは働かない連中には困ったものです」
「ヤマさん、出稼ぎ外国人の常套手段ですよ、地位保全と責任回避それに怠惰です。 命令されるまで何もしないのが得策ですから」
「ヒゲズラくん、それは英国の植民地時代からの防御本能かもしれませんね、支配者は自由意志を嫌いますから。自由意志に基づく行動は民主主義社会でこそ保障されます。勿論行動には責任がつきますけど」
「ヤマさん、民主主義社会でも 責任をごまかす人間は多いですよ、とくに政治家と大企業それに役人のお偉いさんは遺憾でしたで済ませるくせが身についていますね」
午後の暑い浜辺でヒゲヅラは魚の死骸を海に捨て、スルタンは家主のいない水槽を洗っている。人間は自分達の仲間の死を悲しむが我々魚の死なんには無関心だ。ヤマさんは空になった水槽の前で考え込んでいる。私は底に腹這いになり丸く縁取られた青空の中に心配そうにの覗いているヒロシクンを眺めた
「ヒロシ、ハムールを海に帰そうか」
「えっ!逃がしちゃうの?」
「ここではこの先いつ停電するか分からない。ハムールはこれまで何とか生きのびたけど次の停電で苦しみながら死ぬかもしれない、みすみす見殺しにはできない、ヒゲヅラくん、どう思いますか?」
「所有者はヒロシくんですから、彼に決めてもらいましょう」
ヒロシくんはしばらく私を見つめていた。
「海に帰していいですよ、ヒゲヅラさん」
「よし決まった、刺身を逃がすのはチョット惜しいけど」
ヒロシくんはバケツを下げると立ち上がった。揺れる青空の中に、細い腕と小さな手が見え、波音が近づいてくる。バケツが砂の上に静かに置かれた。
私は小さな手に抱えられ、波打ち際に放された。寄せ返す波にもまれながら突然の状況に途方にくれた。
「お父さん、ハムール動かないよ」
「状況が分ってないのだよ、少し押してやりなさい」
ヒロシくんの小さな指に押され、フラフラと少しだけ泳ぎ近くの石に丸まって水面を見た、揺れる波間にヒロシくん、後にヒゲヅラ達がいる。
「ハムール、大丈夫かなあ?」
「すぐに本能に目覚めるはずだよ」
「大丈夫さ、こいつには根性がある」
「インシャ、アッラー」
どうしていいかわからない、
ヒロシくんが「行けよハムール!叫びながら背中を押された。尾をふって石を離れ、深みに向かい全力で泳いだ。海草の香りで何をすべきか思い出した。
アラビアのハムール 孤独なピエロ @stamaei
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