第129話 俺はどうせ下っ端だよ

「はぁ、疲れた……」


 リーゼンの役所で働く彼は、疲弊した身体に鞭を打ちながら帰宅しているところだった。


 ここまで疲れているのは他でもない、街中を駆けずり回って、一日がかりで空き家を調べさせられたためだ。

 上司が言うには新代官の急な命令だというが……。


「ただでさえ人が減って仕事量が増えているってのに……。俺も退職して、噂の荒野の街に移住するべきかな……」


 前代官を追うように、役場の同僚たちが次々と辞めて移住してしまった。

 新しい代官は正直あまり有能には見えないし、彼も本気で移住を考える頃合いだろうと思い始めていた。


「って、あれ? もうこんなところに? おかしいな……」


 重い足取りで歩いていたはずなのに、気づけば自宅のすぐ近くだった。

 考え事をしていたから、体感的に早く感じるだけだろうか。


「いや、そもそも身体が軽い気が……? それにこの道、こんな綺麗な石畳だったっけ……?」


 首を傾げつつ歩いていると、なぜか前方に行列を発見する。

 いつもの通勤路に、こんな行列ができる店なんてなかったはずなのにと思いながら近づいていくと、そこに見慣れた妻の顔があった。


「あんた、お帰り。どうしたんだい、そんな疲れた顔して?」

「そんなことより、何なんだ、この行列は?」

「トイレだよ、トイレ」

「……トイレ?」


 彼には何のことかまったく分からなかった。

 そもそも彼らが並んでいる建物は、ずっと前から空き家になっていたはずだ。


「誰でも使っていいトイレが街の各所に作られたんだって。あんた、役所に勤めているくせに知らないのかい?」

「俺はどうせ下っ端だよ……」


 自嘲気味に笑う彼を余所に、妻は目を輝かせて言う。


「しかもあんた、このトイレが凄いんだって! お尻を奇麗に洗ってくれるんだよ!」

「お尻を……?」

「お陰で見ての通り大行列さね。あたしもさっき入ったばかりだけど、ついついまた並んじまって。今いるのはほとんどがリピーターだよ」

「じゃあ、あっちの行列もトイレに?」


 少し離れたところにまた別の行列ができていた。

 そこも確か空き家になっていた場所だ。


「あっちはお風呂だよ」

「……お風呂?」

「それもいつでも使っていいんだってさ! あたしはまだ行ってないんだけど、さっき隣の奥さんが凄くよかったって言ってたから後から行こうと思ってるよ!」

「うちの街に公衆浴場が……?」


 ここリーゼンの街には、お風呂があるような家は少ない。

 ごく一部の金持ちの家だけだ。


 かといって、公衆浴場のようなものもなかった。

 そのため普段は井戸水などを使い、身体を洗ったり拭いたりするくらいで、住民たちはあまり清潔とは言えない。


 荒野の街への移住が盛んになったのも、その街に立派な公衆浴場があって、誰でも好きなときに利用できるという噂が広がったことが一因だった。


「これで少しは移住者も減るかもしれないな……。けど、いつの間に? 工事をしている様子はなかったし、役所でもそんな話は一切聞かなかったが……。……ん? 空き家? もしかして、今日いきなり空き家の調査を命じられたのは、このため……? いやいや、さすがにそんなはずは……」


 不思議に思いつつ帰宅した彼は、「え?」と目を丸くした。


「家が綺麗になっている……?」


 築百年ほどの古い石造りの家だったはずだ。

 外壁は罅割れ、塗装はとっくに剥げ、塀には消えない落書きがあった。


 なのに、まるで新築のように生まれ変わっていたのである。


 彼の家だけではない。

 よく見ると両隣の家も真向いの家も、すべて新築同然の姿へと変貌を遂げていた。


「まさか家の中も……って、なんだ、変わっていないのか」


 慌てて家に駆け込むと、いつものあまり掃除の行き届いていない汚らしい光景が彼を出迎えてくれた。

 家具や調度品などもそのままだ。


 ちょっと残念に思っていると、ふとそれに気が付く。


「空気が……爽やか?」


 普段なら変なニオイが充満している玄関が、まるで草原にでも立っているかのような新鮮な空気に満ちていた。

 しかも室内がいつもジメジメしがちだったのに、今は気温や湿度がちょうどよく、非常に快適である。


「一体この街に何が起こっているんだ……?」

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