第20話 そろそろ仕掛けますか
「前川さんも限界のようですし、そろそろ仕掛けさせますか」
「えっ?」
「走ってください」
言うなり、相沢が全速力で走り出した。前川は慌てて追い掛ける。
痩せ型でそれほど体力のなさそうな相沢だが、走りは早かった。体力に自信のある前川がついて行くので精一杯になるほどだ。
どんどん路地に入って行き、前川にはもう方向が掴めない。しかし、後ろからかなりの人数が追い掛けてきているのは感じられた。
突然、相沢が止まった。前川も足を止める。
何の変哲もない路地だ。一体ここになにがあるというのか。前川はきょろきょろと辺りを窺う。相沢は前を見たままだ。
「おいっ、あ――」
前川が呼びかけようとした時、頭に衝撃が走った。振り向くと、横浜で会った男が棍棒を手にしている。
「てめえ」
ぐらりと身体が傾いた。どさりとそのまま地面に倒れる。
「帰るぞ、殺人人形さん。お遊びはここまでだって解ってんだろ?」
朦朧とする意識の中、あの男が相沢にそう声を掛けるのが聞こえる。相沢は前川に背を向けたまま、振り向くことはなかった。
どれくらい気を失っていたのか。前川が目を開けた時には、赤い絨毯の上に無造作に転がされていた。拘束されておらず、傷も増えた感じはない。ただ殴られた頭がずきずきと痛むだけだ。
「ここは」
不思議な部屋だった。窓はなく、扉のある壁以外の三面は、鏡が不規則に何枚も掛けられていた。
「気味が悪いな」
前川がそう呟いた時、それが合図だったかのように突如、扉が勢いよく開いた。
「!」
スーツ姿の屈強な男が二人、相沢の両腕をがっちりと捕えた状態で入って来た。
相沢は下を向いたまま、前川を見ようとしない。着ている服はぼろぼろになり、あちこちに血がこびりついている。前川が気絶している間に、かなり手ひどくやられたようだ。
「お前ら」
どうしてこんなにも相沢を傷つけるのか。その理不尽さに怒りを覚える。
「では、始めろ」
しかし、そんな怒りなんて誰も感じ取っていないかのように、どこかから声が聴こえた。一体何を始めようというのか。
「あっ」
その時、前川は気づいてしまった。この鏡はマジックミラーなのだ。この部屋は完全に監視されている。そうしている間に、相沢を二人の男が前川の前に連れて来る。
「おいっ」
冷や汗が噴き出す。一体何をしようというのか。考えるまでもない。多くの人間が監視する中、相沢の忠誠心を試す気なのだ。
その予想通り、右側の男が相沢の手にジャックナイフを握らせた。相沢はされるがままに、ナイフを握り締める。
絶体絶命の状況だ。相沢に前川を始末させるつもりだ。前川の死をもって、裏切り行為を精算するということなのだろう。いや、相沢を人間として受け止めた男を自ら始末させることで、人形に戻らせようというわけか。
実際、そのダメージは計り知れないだろう。相沢の誰かを信じるという心が完全に壊れても不思議ではない。
「くそ」
よろよろと前川は立ち上がった。何とか止めなければならない。しかし、前川は武器を持っていない。スーツのポケットを探ってみたが、総て取り上げられていた。ボールペンすらない。
「前川さん」
相沢が、ゆっくりと顔を上げた。その顔は疲れ切っている。もう駄目だと諦めているかのようだ。
「――」
しかし、目があった瞬間、それは間違いだと気づく。
「そろそろ仕掛けさせましょう」
相沢は確かにあの時、そう言った。そしてこの状況。
なるほど、そういうことか。
この状況を相沢はあえて作らせたのだ。目は正直だと言った前川なら、どうなろうと真意を伝えられると踏んでの作戦だ。
両腕を解放し、男たちが相沢から離れた。ぴんと張り詰めた空気が部屋の中に流れる。
「っつ」
決着を相沢に付けさせるはず。総てはこれに賭けた作戦なのだ。しかし、大丈夫なのだろうか。ジャックナイフはここの連中が用意したもの。細工をしているわけではない。前川は思わず唾を飲み込んでいた。
そしてそれが合図だったかのように、相沢が一気に加速して前川に迫る。
ナイフを握った手に力が籠る。殺気は本物だ。しかし、目だけは真っ直ぐに曇りのないままだった。
「――」
信じて、賭けるしかない。
前川はぎゅっと目を閉じた。途端に腹に熱い衝撃があった。マジで刺しやがったなと、これで本当に助かるのかよと一瞬だが後悔が過る。
「ぐっ」
相沢がそのままナイフに力を入れることなく、体重だけを掛けて前川を床に倒した。
「いっ」
二人分の体重を受けて勢いよく倒れる。前川は背中をしたたかに打って、本当に動けなくなる。息が詰まった。
「よし」
また声が聴こえた。ナイフは僅かだが前川に刺さっていた。そこから力一杯倒れたとなれば、傷は内臓に達しているはず。周囲で監視している連中はそう思い込んでくれたらしい。
相沢がそっと前川に近づいて膝を折った。
「そのまま動かないで下さい。迎えが来ますが、動かないようにしてくださいね」
囁いた相沢の声は、いつも以上に気遣いのある優しいものだった。だからか、緊張の糸が完全に切れてしまい、前川はそのまま意識を失ってしまった。
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