第16話 胸騒ぎ

 十二月に入り、警視庁の中は何かと騒がしかった。前川もあちこちの手伝いに駆り出されていた。

 相沢を救うと誓ったあの日以来、相沢の本業への依頼がぱたりと途絶えた。それと同時に、相沢が警視庁に姿を見せない日も増えていた。たまに会うと、相沢はかなり憔悴していた。どうしたのか問い質しても、相沢は頑なに口を割らなかった。

「大丈夫です」

 その一点張りで、何をしているのか、何が起こっているのか、前川に話そうとしなかった。

 嫌な予感は日に日に増大していた。相沢の身に何か起きていることは明白なのに、前川は何もできないでいる。

 一人で抱え込むつもりか。

 その可能性は大いにある。前川は相沢にとって、付け込む隙となっているはずだ。いや、すでに大きな隙になっているだろう。相沢は前川を殺すことになるかもしれない。その可能性を最も恐れるようになっている。すでに何かあれば殺せと釘を刺されたと言っていたではないか。

「くそっ」

 元物置部屋で、前川は苛立ちを隠せずにいた。しかし、すぐに思い直す。

「そうか」

 考えようによっては、もう敵にばれていると開き直ることもできる。抱え込んでも仕方ないことを相沢に解らせることが得策だ。

 相沢の住所は知っている。行動が読めないから張り込むしかないが、救うと言った自分が救われていては身も蓋もない。

 前川は早速車に乗り込み、相沢の住む学生向けマンションへ向かった。

 ほどなくして、目的のマンションに着く。玄関の見えるギリギリの位置に車を止めて、一息ついた。

 携帯電話で時間を確認すると、午後二時だった。

 人通りのない淋しい一角である。学生たちは皆、大学に出掛けてしまっているのだろう。人気がない。

 さすがにこの時間に動くことはないか。

 前川が諦めかけた時

「おっ」

 予想に反して、スーツ姿の相沢が前方から歩いてくるのが見えた。以前にスーツを着ていた時と同様に、よれてしわだらけだ。足取りもどことなく重い。

「っつ」

 相沢が車に気づいた。前川は車を降りようとしたが、すぐに止めた。相沢が目で後ろを確認するように訴えてきたからだ。

 相沢の後ろを注意深く見ていると、一人の男が尾行しているのが確認できた。黒い外套に黒い中折帽という出で立ちだ。別に目立つ格好ではないというのに、警戒心があるからか、その男は町の空気から浮いて見えた。

 いると前川が指で合図すると、相沢が小さく頷いてここで待つよう目で合図を返してきた。

 こうしていると、長年コンビを組んでいるみたいだ。

 相沢が平然とマンションの中に入っていく。

 尾行していた男は悠々とマンションの前を通り過ぎて行った。

 すぐに尾行が終わるとは思えない。

 前川は指示通り待つしかなかった。

 三十分ほどすると、前川の携帯電話が振動した。表示は公衆電話になっている。

「前川だ」

「相沢です」

 前川は返ってきた声にびっくりした。相沢がマンションを出た形跡はなかった。しかし、すでに抜け出した後であるらしい。そういうところは、数々の修羅場を潜り抜けた殺し屋だ。

「今、何処だ?」

「落ち合うのは横浜にしましょう」

「横浜?」

 突然の提案だったが、前川は詳しく突っ込まなかった。この場では拙い。どこか離れた場所にしよう。それは当然のことに思えたからだ。

「中華街の前で」

「解った」

 そこで電話が切れた。相沢の声は冷静を装っていたが、切迫していた。すでに事態は最悪の方向に動き始めているらしい。

 胸騒ぎがする。

 前川はさっきの中折帽の男がマンションの前に戻って来たのをバックミラーで確認すると、慎重に車を発進させた。




 ラフな格好をした相沢と中華街の前で無事に落ち合うと、そのまま中華街の中の店に入った。店中は夕食時と重なってかなり繁盛していた。これならば、会話に聞き耳を立てることもできない。

「都内より安全とはいえ、用心するに越したことはありません」

「なるほど」

 この店に決めたのは相沢である。前川はザーサイを突きながら、その洞察力に感心した。料理はどれも美味く、そして価格がリーズナブルなこともあって繁盛し、客は頻繁に入れ替わる。これならば、尾行している奴がいればすぐに解ることだろう。

 こうなると、相沢があえて前川との接触を断っていたのは明白だ。

 がやがやとした店内で、二人の間には気まずい沈黙が流れた。

「ん?」

 ふと、前川は相沢の首元に不自然な蚯蚓腫れがあるのに気づいた。

「まさか」

 前川はいきなりテーブルに置かれた相沢の腕を握った。僅かにしか力を入れていないのに、相沢は顔を歪める。

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