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準備はいいかい。
飯は食ってあるかい? 飲むものなんかや、つまむものなんかは一切合切片付けたかい?
忠告はしたよ。それじゃあ、話を再開しようじゃないか。
俺はその飯屋――その飯屋って言うのは例の、一昨日のランチがどうのとか言う看板を表に出した飯屋のことさ――に入ったんだよ。何の変哲もない、普通の
中には一人、別段愛想もないが悪くもない、普通の
適当に掛けるように言われてね、俺はすぐ目の前のカウンター席に腰を掛けたんだな。親仁は俺に、メニューも寄越さずに何にするかと聞いてきたんだ。メニューもよこさずにだぜ? 店内をぐるりと見渡したって、それらしいものは無いって言うのにだよ? 俺はあまり待たせるのも悪かったし、親仁と話をするのも面倒だったからさ。表の看板のヤツをだとかなんとか言ったんだ。何より、それが一番気になってたからね。
俺がそう言うと、親父は心底呆れたような顔で言ったね。
「旦那、冗談はよしてくださいよ。あれは一昨日のランチですよ。今は一昨日じゃありませんし、ディナーの時間ですからね。馬鹿言っちゃいけませんよ」
だとかなんとか、そんなようなことをね。俺は親仁のその言葉にイラッとしたんだけどもさ、何より腹が減ってたもんだからね。仕方なしに、千円ぐらい持ち合わせがあるから、それくらいでうまいもんを出してくれと頼んだんだな。普段だったらそんな注文、俺は絶対にしやしないよ? でも、この店にはメニューだとかなんだとか、そういった類のものが無かったからね。そうする他になかったのさ。親仁は俺の注文に、へいだとかなんだとか返事をすると、いそいそと調理場に入って行ったよ。
さて、俺はすっかり気が滅入っちまったんだけどもね、どのタイミングで親仁に話しかけるかを考えてたんだ。ここはどこなのか、今は何時なのか、そういうことを確認したくてね。そうこうする内に、親仁は俺の前にゴトッとコップを出したんだ。俺はそれを見て言葉を失ったね。出してもいない言葉を、出すまでもなく失くしちまったのさ。
コップの中には茶色い液体が入ってたんだ。茶色い液体って言っても、茶やなんかじゃないよ。コーヒーみたいなお茶みたいなスープみたいな、そんな茶色い汁だったよ。臭いもそんな感じでね、雑多な、端的に言うと嫌な臭いだったね。よく見ると、中にはカップ面やらスープやらの具だとか麺だとかの破片みたいなのが入ってたんだよ。俺は親仁に、これは何かと訊いたね。そしたら親仁、なんって言ったと思う? 呆れたように、お冷だって言うんだよ。俺はたまげたね。
俺はたまらなくなって、店を出ようと立ち上がったよ。その時、親仁の手元を見て俺は唖然としたね。
来た道を走って引き返したさ。と言っても長い道のりだったからね。俺はすぐに走りつかれて、そこからは歩き出したんだけどね。振り返ると、まだあの店の灯かりは見えたけどね、親仁が追ってくる様子も無くて、俺は少しほっとしたよ。
どうだい? あまり気持ちのいい話じゃぁなかっただろう? 言うほど気持ちの悪い話でもなかったかもしれないがね。なに、何の忠告も無しにこれを話して、この後のお前さんに大切な御馳走やら何やらが控えていたり、ちょっとした贅沢なんかを嗜む片手間でこの語らいに興じているのだとしたら悪いと思ったんでね。少し大袈裟に忠告させて貰ったのさ。悪かったね。怒ったりなんかしないでくれよ? いいかい?
それじゃあ話に戻ろうか。
俺はその後、そのまま来た道を引き返したんだよ。もう飯はあきらめて、電車を待つのもやめて、線路の脇っちょでも歩いて帰ろうと思ったのさ。
なに、俺は電車でここまでやって来たはずなんだから、線路を辿ればここがどんな秘境の地だったとしたって帰れるはずだと思ったのさ。常識で考えればね、そうだろうと思ったのさ。
それからしばらくはね、特に何もなかったんだな。さっき来た道をただ引き返した、それだけだったからね。でもね、その途中で俺は急に、少しばかりびっくりさせられたんだな。今度はその話をしようと思うんだよ。
ここまで俺が、その真っ暗な道のりで人っ子一人と出くわさなかったっていうのはもう知ってると思うんだけどね、俺はそこで初めて、人と出くわしたのさ。それもね、ただの人じゃなかったもんだから、俺は不審に思って少しばかり肝を冷やす羽目になったんだけどね。何だったと思う? それはね、何ということはないただの子供二人だったのさ。
だけどもだぜ? こんな時間、と言っても正確な時間はわからなかったけれどね。真っ暗でこれっぽっちの人通りもないこんな時分に、街灯も無い、あるとすれば月明かりぐらいしかない真っ暗な夜道でだぜ。子供が二人きりで遊んでるだなんて、とてもじゃないけれどおかしな話だと思わないかね、お前さんは。
まずは声だったね。歌ってたんだよ、奴さんらは。聞こえた時分は飛び上がるかと思ったね。心臓が飛び上がったようだったよまったく。よくわからないがね、兎にも角にもそんな感覚だったんだよ。思わず叫び出すところだったね、まったく。それは童女の歌う声だったんだけどもね。こんな風に歌う声が聞こえてきたんだよ。
「おーどーまーぼんぎりぼーん」
いや、足を止めてなぜだか死ぬかとさえ思ったね俺は。それでね、前方に二人の小さな女の子を見つけてね、さっきも言ったような色々の不信感を抱いたんだな、俺はさ。
それでも二人は歌うんだな。
「ぼんがはーよーくーうぅーりゃー」
とか言った具合にね。幼稚園児か小学校低学年くらいの子供だったけれどね。子供なんて見慣れちゃいないからよくわからなかったけれどもね、たぶんそのくらいの子供らだったと思うんだよ。
子供らは歌いながら、何やら遊びをしているようだったんだ。一人の子がうずくまるようにしゃがみこんでてね、二人の女の子の声がするもんだから、その子も歌ってたんだと思うんだけどね。そうでなくちゃオカルトになっちまうだろう? ともかくしゃがみこんだ女の子の周りを、もう一人の女の子がくるくるくるくると回ってたんだよ。そりゃぁもちろん、やっぱり歌いながらだったね。
「おーどーんがーうっちゅんでーだえがなーいてくーりゅーかー」
てな調子でね。
俺は迷ったんだよ。こんな時分にこんな所で子供二人で遊んでたら危ないと思ってね。でも、こんなご時世だろう? 下手に話しかけたら俺の方が不審者扱いされちまうかとも思ってね。そう考えたら、ここいらではこれが普通なのかもしれないだとか思いはじめたんだね俺は。そうするとだね、途端に
恐いもんだね、人間ってのはさ。いつだって自分に都合のいいように考えるよう出来てるもんなんだからね。でもね、心の底からそれを信じちゃうもんだから、普段は中々気づかないもんなんだけどさ。本当さ。嘘じゃないよ、お前さん。
でもね、何より怖かったのさ俺は。こんな時分にこんな小さな子供がなんでこんな所で遊んでるのかだなんて考えだすとね、それこそ堰を切ったように恐ろしくなっちまうんだからね。そうは思わないかね? え? お前さん。
そんな具合で俺は彼女らが遊ぶ横を通り過ぎたのさ。心臓がおかしくなっちまったみたいに主張してきたね。特に真横を通り過ぎるその時は、本当におかしくなっちまったみたいだったさ。もちろん、心臓がだよ?
でもね、そこで終わらなかったのさ。俺が通り過ぎた瞬間ね、奴さんらは歌うのを突然やめやがったのさ。思わず俺の方が歌い出しちまうかと思ったよ。
だけれどもね、結果的に俺はそうはしなかったってわけなのさ。その代わりかどうかは知らないけどもね、俺は思わず足を止めちったんだな。本当になんでだか知らないんだけれどもね。
すると、女の子たちは突然、話し始めたんだな。確かこんなだったさ。
「にわかによるになったね」
「そうだね。そろそろたちわかれようか」
「うん。もうアベックのじかん」
「チョベリバー」
「いたしかたあるまいよ。バイビー」
「バイビー」
俺は思わず笑っちまったね。今までの恐怖だとかそういったものが、すっかり馬鹿みたいにすっ飛んじまったよ。お前さんもそうだろう?
なんでってそりゃあ、あんな小さな子供がやけに難しい言葉を使ってみたりなんかしてたもんだからさ、なんだか可笑しくなっちまったのさ。子供にありがちな背伸びってやつなんだろうけどもね、大人だってまず使わないような言い回しだったろう? だから俺は、不意に笑っちまったってわけさ。最後のなんて、もはや死語だっただろう? どこで覚えたんだか、そんな子供の無邪気さとでも言えばいいのかね? そういったところが俺には可笑しかったのさ。いや、馬鹿にしてんじゃないよ? ただ、可愛らしくてね、可笑しかったのさ。
俺は不意に振り返って、バイビーを交わした二人を見たんだよ。何の気なしにね。それで、思わず眉をしかめたね。
だけれどもね、彼女たちは消えてなんかいなかったんだよ。さっきと同じように、まるでつい今し方の会話なんか無かったかのように遊んでたんだよ。つまりは歌いながら、一方がしゃがみこんで、一方がその周りをぐるぐるぐるぐると回ってたんだよ。
俺はついさっき、恐ろしさだとか何だとかをどこかへやっちまったばかりだったってぇのに、またもや少々気味が悪くなっちまってね。すぐに二人へ背中を向けて、もう一度も振り返ることなく駅に向かったのさ。
「いしはよいよい、かえるはこわい。こわいながらも」
そんな風な歌に追いかけられながらね。
帰ろうと言った二人が帰らずに、それを聞いてた俺だけが一人、帰ろうとしてんだからまったく、思い返してみればそれこそ可笑しな話だったね。
いや、可笑しな話だったよ。
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