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 目が覚めると、俺はまだ電車の中にいたのさ。

 まあ、そらあそうだろうよ。俺は電車の席に座って眠りについたんだから、電車の中にいなかったらそれこそおかしなことに違いないだろうからね。

 だけどもね、俺は驚いたんだぜ。なぜって、車内には俺以外、人っ子一人いなかったもんだからさ。山手線の車内にだぜ? そんなわけあるかい? 外は真っ暗だったけど、何時だろうと平日の夜だ。俺は終電にだって乗ったことがあるが、ありゃぁ酷かったね。

 ともかくだ。車内に誰もいないだなんておかしな話なんだ。俺のいる車両だけじゃない。隣の車両にも、猫の子一匹いる様子はないんだぜ。そりゃあ、電車の中に猫の子なんていたら大騒ぎだろうけどさ。俺が言ってるのはそういうことじゃないんだよ? わかるかい? 第一、大騒ぎをする人ってヤツが今、この電車の中には精々俺くらいしかいなかったんだから。俺は今、そう言うことを言ってるんだよ。俺はね。

 おかしいと言えば、外の景色もおかしかったね。山手線に乗ってるっていうのに、外は真っ暗で、一つのビル灯かりだってありゃぁしないんだ。まるで田舎みたいな景色が広がってたのさ。

 俺は夢かとも思ったんだけどね。いやぁ、やけに意識がはっきりしてるもんだからさ、ひとまずスマホを取り出したんだよ。電池切れだったね。まさかと思ったよ。電池切れだぜ?

 その頃にはもう、俺は立ち上がって、ガタンゴトンと緩やかに揺れる車内につっ立ってたんだけどね、ひとまず俺は座ることにしたんだ。なぜかって、そんな野暮なことを質問するのはよしてくれよ?

 俺は席について、やっぱりガタンゴトンと緩やかに揺られてたんだ。ガタンゴトンとね。それで、考えてたのさ。俺はいったいどこにいるのか、とか。これはいったいぜんたいどういうことなのか、とかね。そんなことをだよ。

 そうこうする内に、どれくらいの時間が過ぎただろうね。三十分かもしれない。一時間かもしれない。もしかすると、何時間も俺はガタンゴトンされていたのかもしれないね。電車が駅に着いたのさ。

 車内アナウンスなんてなかったんだぜ。本当だよ? 電車は急に、薄暗い駅に停まったかと思うと、ゆっくりドアーが開きやがったんだ。

 外にはいかにも田舎みたいな駅があったね。電灯なんか一個しかないんだぜ。だからほとんど真っ暗さ。

 俺は不気味だったもんで、席に座ったまま様子をうかがってたね。携帯も使えないんだぜ。こんな得体の知れない駅で降りるなんてありえないだろう? 席についたまま、俺は電車が出発するのを待っていたのさ。下手に動くより、動かない方がいいだろうと踏んだんだな。

 だけどもね、待てど暮らせど電車は出発しやしないんだ。待てど暮らせどだぜ? その内、俺はトイレに行きたくなっちまったんだよ。それでも最初は我慢してたんだぜ。だけどもその内、どうにもこうにも我慢ならなくなったもんだから、そこいらで用を足してくることにしたんだよ。

 俺は駅のホームに出て、辺りを見回したんだ。真っ暗でろくに見えやしなかったね。俺は手洗い場を探してる内に電車が出発でもしたら嫌だったから、目の前の柵越しに茂みに向かってすることにしたのさ。何って、そらぁ小便をだよ。

 勘違いしないでくれよ? 俺は普段、別段そんなことをするような奴じゃないんだぜ? でも、背に腹は代えられないだろう? 俺は人生で初めての立ちションを経験したというわけさ。

 茂みに向かってそれをしながら、俺はこの後の事を考えたね。電車に乗ったらまず、先頭車両まで歩いて行ってみようとか思ったんだよ。そうしたら流石に誰かいるだろうとか思ったんだな。

それで、用を足し終えて振り返って唖然としたよ。電車が無いんだ。

 緑のラインの入った見慣れた電車が、跡形もなく無くなっちまってたんだよ。アナウンスどころか、ドアーの閉まる音や電車が動き出す時やなんかの音だってしなかったんだぜ? 確かに俺は後ろを向いてたよ? それだって、電車が発車すれば何かしら音だとか、気配だとかでわかりそうなもんだろう? 確かにこの後の事やなんかを考えてはいたし、生まれて初めての野小便で注意力は多少削がれていたかもしれないぜ? でも、それにしたって電車が発車するのに気づかないってこたぁなかろうよ。

 俺は思わず駆け寄ったね。それで線路をのぞきこんだよ。でもそこには線路しかなかったね。もちろん、そんなところに電車が隠れてると思ったわけじゃぁないよ? そこまで俺は取り乱しちゃいなかったさ。じゃあなにかって、俺は俺のカバンを探したのさ。

 俺はちょいと頭を働かせてね、電車を降りる時、カバンをドアーの開閉部分に置いておいたのさ。そうすりゃあ、もしも俺が用を足してる最中に電車が発車しようとしたって、ドアーが閉まるのを邪魔されて、少なくともすぐには発車できないだろうと踏んだのさ。車内はもぬけの殻だったからね。誰もそれをどけてくれる奴なんかいやしないだろう?

 いや、勘違いしないでくれよ? 俺は普段、そんなことをするような奴じゃないんだぜ? でもね、背に腹は代えられないだろう? 俺はドアーの開閉を邪魔する試みを遂行したのさ。

 それが、俺のカバンは電車ごと消えちまったんだ。忽然とだぜ? 全く、これには参っちゃったよ。途方に暮れたね。絶望さえしたさ。

 それでもいつまでもそうしているわけにもいかないだろう? 俺は駅の中を見て周ることにしたんだ。と言っても、いかにも田舎という風体の、そこから全体が見渡せるような小さな駅だ。普通の駅と言うより、路面電車やなんかの駅みたいだったね。見て周るというほど大仰な作業なんかしなくとも、見てわかるような情報は全て手に入ったさ。

 俺はまず駅の名前を調べたよ。誰だってまずそうするだろうことを、俺もしたというだけのことさ。駅の名前はやっぱり知らない名前だったね。俺は別に、山手線の駅名を全て空で言えるほど電車に詳しかないよ。でもだ。そんな俺でもこんな駅は山手線どころか東京にだってないだろうことはわかったのさ。

 なんて名前の駅だったかって? それが思い出せないんだよ。嘘じゃない。適当言ってるんじゃないよ? 本当だよ? だけども、どうにも思い出せないんだ。でも、およそ人が思いつくような駅名じゃなかったことだけはよく覚えてる。人が思いつくような駅名でもなければ、人が使うような駅名でもなかったし、人が発音するような駅名でもなかったね。俺が読めたんだから、確かにそれは日本の言語を使って書かれたものであるということは確かだったとは思うんだ。でも、その珍妙とでも言えばいいのか、奇妙とでも言えばいいのか、不可思議な駅名はとてもじゃないが人がつけたものだとは思えないような名前だったね。それだけはよく覚えてる。

 駅の名前がわかると、俺はホームのベンチに腰かけて電車を待つことにしたのさ。こんな得体の知れない土地で、真っ暗な中を歩き回るのは危険だと思ってね。恥を承知であえて言うのなら、単純に怖くもあったのさ俺は。だから、それ以上は行動しないことにしたんだ。ベンチに腰掛けて、電源の入らないスマホの電源ボタンを押してみたり、ポケットの中に何が入っているか、つまりその時の俺の全所有物を確認してみたり、また真っ暗な辺りを注意深く眺めてみたりってことをしてたんだな。

 でも、待てど暮らせど電車はやって来ないんだ。もしかすると、アレは終電だったのかもしれないとさえ俺は思ったね。いや、もちろん、電車が急に消えちまったことを忘れたわけじゃぁないよ。そんな不可思議な駅に、終電もなにもあったもんじゃないとは俺だって思うさ。でも、その時の俺はそんな不可解な事実から目を逸らしたかったのさ。きっとね。責めないでくれよ? 仕方がなかったのさ。わかるだろう? なあ、お前さん。

 それはともかくとして、俺は普通に電車を待つ人の気分だったのさ。

 その駅には時刻表なんてものは無かったし、第一時計自体が無いんだ。正確にどれだけ待ったのかだってわかりゃぁしない。ただ、ろくに街灯もないからそこいら中真っ暗で、だから今が夜だってことだけはやけにはっきりとしてたんだな。

 いやだね、生理現象ってのは。俺は腹が減っちまったんだよ。最初はもちろん我慢したよ。でもね、考えても見てくれよ。何もすることがない、退屈な場所に座って、いつまで待てばいいのかもわからない。そんな状況で空腹を耐えることがどれだけ難しいことだと思う?

 俺はその内いてもたってもいられなくなっちまって、駅を出ることにしたんだ。もう少しでお腹と背中がくっついちまいそうなほどだったからね。飯屋でも探しがてら、誰か人に会えないかと思ったんだよ。そうすりゃここがどこなのかはっきりするだろうと思ってね。

 無人の改札を抜ける時、俺は若干躊躇したよ。無銭で出るのは気が引けたからね。でも、俺は切符なんざ持ってなかったし、電子マネーをかざすような機械は一つも見当たらなかったからね。仕方なくそのまま改札を出ることにしたのさ。小銭の持ち合わせがあったら少しぐらいどこかに置いておいてもよかったんだけれどね、生憎あの時の俺には小銭の持ち合わせがなかったのさ。第一運賃だってわからなかったからね。

 普段なら俺だってそんなことはしないよ? ただ、背に腹は代えられないだろう? おまけに俺は、お腹と背中がくっついちまいそうなぐらいに腹が減っちまってたもんだからさ。俺は仕方なしにそうしたってわけさ。後で機会があれば、運賃ぐらい払ってやろうと、そう思ってたんだよ俺は。本当だよ?

 それで俺は、真っ暗ないかにも田舎らしい道を、てくてくと歩いていったんだよ。周囲を見回しても、人の気配もろくな人家もありゃしない。田舎らしい町並みだったね、そこは。

 俺は道に迷っちゃいけないから、真っ直ぐに歩いたね。ひたすらに真っ直ぐに歩いたさ。てくてくとね。でも、どこまで行こうと飯屋はおろか人にだって出くわさない。俺はすっかりくたびれちまって、もうどうしようかと思ったよ。すぐにでもその辺の地べたに座り込んじまおうかとさえ思ったね。

 そんな折にね、やっとこさ俺は、遠く前方に明かりを見つけたんだよ。それが何かはわからなかったがね、俺はもう喜び勇んでを速めたね。しばらく歩くとね、どうやらそれは建物の灯かりだってことがわかったんだよ。俺は胸を躍らせたね。これでようやっと、何かしらわかると思ったよ。

 ほんと言うと不安はあったさ。こんな得体の知れない体験をしてるんだから、そこに何が待っているか、怖くてたまらなかったね。それでも、俺の頭はそんなこと頭の隅っこに追いやって、出来るだけ考えないようにしてたんだ。でなくっちゃ、俺は一歩も歩けなくなっちまいそうだったからね。

 そうこうしてやっと辿り着いたそれは、飯屋だったんだな。こんな所にあるにしては大層な、しっかりとした飯屋だったね。と言ってもだよ。都会にはありふれてるような、普通の飯屋だったんだけどね。ともかくだ。一軒の飯屋が、ポツンとT字路の角に佇んでたのさ。その飯屋は表に看板を出しててね。そこにはこう書いてあったのさ。

 ――一昨日のランチ 鯖の味噌煮定食――。

 たまげたね。最近は特によくあるヤツだよ。居酒屋なんかでも、ワンコインランチだとか言って、五百円で食えるような定食なんかを日替わりで提供してたりするだろう? 流行ってんだろうね。今、そういうのがさ。

 でも、今は昼でもなければ一昨日でもないだろう? だったら今必要な情報は、一昨日のランチなんかじゃなくてさ、本日のディナーだとかになるわけだろう? それを一昨日のランチって、そんなもん掲げとく意味が分からなかったね。

 それでも俺は、そのおかしな店に入ってみることに決めたんだよ。どうにもこうにもならないくらい腹が減ってたから、ってのもあるよ。でも、単純にその看板に興味が湧いたのさ。ははあん、さてはそういう戦略なのかもしれないなと、俺は思ったね。であるならば、俺はまんまとしてやられたことになるともね。でもね、結論から先に言うと、そんなことは微塵もなかったのさ。

おっと、つい話し込んじまったね。ところでお前さん、腹は空かないかい?

 今から飯を食うってんなら、この先の話はまた今度にしよう。なに、お前さんはすぐに俺の話が聞けるんだろう? 心配はいらないさ。一旦、席を外すくらいなんてことはないよ。そのくらい、俺は気にしたりなんかしやしないよ。

 それどころか、話の正に真っ最中でも席を外すんじゃないかとさえ思ってるよ。いや、もうそうしたかもしれないね、お前さんは。目的の駅に着くからだとか、もう仕事だとかなんだとかに行かなくちゃ行けないからだとか、それこそご飯の支度が出来たからだとかね。例えばそんな理由でさ。心当たりぐらいはあるだろうよ、お前さんだって。いや、別に責めてるわけじゃぁないんだよ、お前さん。そこのところを勘違いして貰っちゃぁ困るよ、お前さん。本当だよ? 遠慮なんかしないでおくれよ。好きにしてくれ。そういうもんだろう? 俺たちのこの語らいは。

おっといけねぇ。話が外れちまったね。いやなに、これからする話はどうにも気持ちのいい話じゃないからね。お前さんがこれから飯を食うって言うんだったら、聞くべきじゃないと俺は思うのさ。適当言ってんじゃないよ。本当だよ?

 コーヒーでもすすりながら聞いてるんだったら、それも一度、一遍に飲んじまうべきだね。とにかくこれからする話は、気持ちのいい話じゃぁないんだ。むしろ、すこぶる気持ちの悪い話なんだよ。だから、酒やら茶やらのつまみなんかも食っちまうか、仕舞っておくべきだと俺は思うね。

 そうだな。少し休憩でもしようか? 俺も話通しで少し疲れちまったよ。少しくらいいいだろう、お前さん。すぐにでも話の続きを聞きたいって言うならなに、お手洗いにでも行ってくるか、一度顔を上げて目でも休ませてくれよ。

 俺はちっとその間に、一服行ってくるからよ。

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