第2話 調査と決着
時計を見れば、時刻は十時。ぼやけた頭を載せたまま階下の洗面台へ向かい、顔を洗って長めの銀髪についた寝癖を整える。キッチンで食事の支度をしていると、マリオンが下りてきた。
「おはようございます、先生」
「ん、おはよう」
少し眼をしょぼしょぼさせているあたり、睡眠時間は長くなかったのだろう。常から朝食には紅茶を合わせる彼女が今日に限って濃い目のコーヒーをチョイスした所からも、眠気に苛まれている様子が伺える。
ジャムをべったり塗ったトーストを頬張りながら、机に向かうマリオン。昨夜はかなり難航したと見え、片付いていない紙の束を精査し始める。
「つかぬことをお伺いしますが…国家憲兵からの任務ですか?」
「ああ。なんでも麻薬の売買とかそういう話らしい」
強盗、詐欺、闇取引。犯罪の温床たる地域とはそういった話題には事欠かぬもので、デッケルとてその例外ではない。
しかし、麻薬の売買など本来ならば憲兵側で捜査する範疇のはず。
「ところが、これが今回はアタシ達のところに回ってきた。理由はまあ…推測は容易だろ」
「その麻薬の中に、軍部しか知りえない成分が含まれていた、と?」
国家憲兵と軍が不仲であるということはおよそこの国においては無さそうだが、それでも大っぴらに調査できないことはある。そういった事例は、この探偵事務所に依頼が回ってくることがある。
「そういうこと、ちと性急な話になるだろうが、そこまでしんどい仕事にはならねえだろ。売人摘発のための情報提供と、回収ルート確立への寄与。そのくらいのもんだ」
そこまで言うと、彼女はライムの顔をじっと見る。
「この仕事、お前に単独で任せてみたい」
「ぼ、僕にですか!?」
この発言、彼は全く想像していなかった。これまでにも、マリオンの補佐という形で軍からの任務を遂行したことはあったが、単独での任務経験は全くない。今回の任務も、彼女と共に当たることになるだろうと思っていた。
「あいにく別件の仕事が立て込んでてなー…。ゆうべの調査もそっちの方だったんだよ」
机の紙束をひらひらと振りながら、困り顔。
「それに、今回のはそんなにデカいヤマってわけでもなさそうだし」
「なんか、そういうのって逆に嫌な予感がしますね」
「そん時ゃそん時だろ。それに」
そこで一旦切ると、今度はにやにやと笑いながら続ける。
「あいつに手伝ってもらえばいいんじゃねえか?またどっかで会うかもねー、なんて言ったんだからさ」
そう言われてぎくりとするライム。虚を突かれたその肩が、見た目にも明らかに震える。今の言葉は、彼がティルとの別れ際に言ったものだ。その動揺を見て取って、芝居がかった身振りで更に言葉を続けるマリオン。
「げに美しきは友情かな!交渉してみたら、何とかなるんじゃないの?」
「ど、どっから見てたんですか!」
「べっつにー、偶然見ただけー」
泣きそうな顔で訴えるも、彼女はただしらばっくれるばかり。
「それにゆうべは早々に帰ってきたからなー」
「嘘つけー!今朝方まで調査してた感じじゃないですか!」
ひたすらに喚くその肩を掴んで、上階への階段へと向かわせるマリオン。
「素晴らしい観察力をお持ちなのはわかったから早く支度して来いよ探偵くん。調査は速度が命!小遣いもやるから」
「分かりましたよぉ、それと調査資金って言ってくださいよ!」
「それはこの仕事を成功させたら考えてやる」
それから四時間ほど。どこか疲れを帯びた、しょんぼりとした顔で街を歩くライム。街に溶け込むベストにシャツ、地味な色味のズボンと靴。少し緩めのキャスケット。
近頃ボーデン及びデッケル地区で売買されている新種の麻薬の中に、軍部しか知りえない成分が含まれていることが判明した。連邦軍諜報部・シュテッフラー班においては、売買ルート特定と回収の効率化のための調査に尽力されたし――出がけに確認した調査資料には、おおよそ想像通りのことが書かれていた。
「連邦軍諜報部」。
従業員たった二人の探偵事務所ごときに、何故そう幾度も軍からの依頼が回ってこようというのか。
シュテッフラー探偵事務所、その実、諜報部の駐屯所。ライム達は二人とも、正式に「軍人」を名乗れる立場だ。
とはいえシュテッフラー班などと御大層に記されてはいるが、マリオンとライム二人だけ。その他各地に民間の仕事を装った駐屯所は存在するものの、密に連携を取ることはあまりない。
午前中の調査は、正直なところ徒労に終わった。調査の基本は足というマリオンからの教え通り、聞き込みを行ったが、一体誰に尋ねたものか。やはり一人では見当がつかなかった。
まずは憲兵に尋ねた。子供の遊びと追い返された。
次に路地裏で見かけた、昼間から酒を飲んでいた老人に尋ねた。殴られかけて慌てて逃げた。
新聞を買ってみた。どうやら買うべきものを間違えたようで、スポーツのニュースやゴシップが踊る。
通過する乗り合いバス。ボーデンへ向かう労働者たちを載せて走るそれが吐き出す蒸気が、ライムには自分の溜め息に重なって見えた。自らの未熟さを噛みしめる。こうなることすら見越して、彼女はティルへの助け舟を提案したのだろうか。
「でも……できれば、そうしたくはないなぁ」
ライムは、ティルに協力を求めるか決めあぐねていた。人数が多いのに越したことはないが、軍からの依頼であることが果たして隠し通せるか甚だ疑問だ。
一旦昼食を取ろう。脳に栄養を与えて、それから改めてどうするか考えよう。そう考えて角を曲がると、誰かにぶつかった。大柄な人物だったようで、ライムは衝撃に軽くよろめく。
「いたた…すいません」
「おい、痛ぇじゃねえかこの……ライム?」
ぺこりと下げた頭の上から聞こえてきた、聞き覚えのあるやや低い声。黒い短髪、いかめしい釣り目。ズボンや中に着ているシャツこそ違うものの、昨晩と同じ黒いジャケット。ティルだ。
「ふぇ!?……ひ、久しぶり」
「昨夜会ったばっかじゃねえか。どうした?」
思いもよらない人物に出会ってしまったことで、思わず変な声が出てしまったライム。少し言葉に詰まるが、彼はあっけらかんと問うてくる。この様子だと、不信感を持たれている様子はない。
「いや、先生からお遣いを仰せつかっちゃって」
「ほう…そのお遣いってのはどっちだ?買い物か、それとも?」
どうやら興味がある、といった風のティル。まだあまり気は進まなかったが、蛇の道は蛇とライムも話してみることにした。大っぴらには言えないと念を押せば、相手も応えて人気のない路地裏へ。
「仕事だよ。今回初めて、単独で調査に当たることになった」
「そいつぁすげえ」
ライムの言葉に、彼は素直に驚いた様子で目を丸くする。
「それで、人手や知恵が欲しい。協力してもらえないかな」
「ほう、そりゃ随分と面白そうな話だ」
快い反応を返されて、ライムの目に一寸光明が見えた気がした。
だが、そう簡単には行こうはずもなく。
「が……昨夜の決着がまだついてないぜ」
「どういうこと?」
「強い方が弱い方を従えるってのが野良犬の掟だろ」
ティルは上着を脱ぎ、戦闘態勢に入る。「昨夜の決着」というのは、途中で止まった喧嘩のことを言っているのだろう。確かに彼からしてみれば拍子抜けであったろうし、煮え切らない物があるはずだ。
これは避けられそうもないと悟り、ライムは肩にかけたカバンを下ろす。
「いいのか?どうせ鉄板かなんか入ってんだろ、それ」
「分かってるんじゃないか。それじゃもう効果ないよ」
彼の推測通り、カバンには鉄板が入っている。だがあくまで護身用、さしたる厚みはない。すでに手の内が露呈している相手に対して使ったところで、たかが知れている。
隙を見せず見つめ合う二人。ことりと音を立てて、鞄が倒れる。それを合図に双方が動く。
間合いに飛び込もうとするティルを、ライムが高く跳躍して躱す。身を翻しながら放たれた回し蹴りをしゃがみこんで回避し、そのまま転がってティルの背後を取る。ひじ打ちを半身で避けると、そのまま体を回してのラリアットが飛んでくる。頭を下げて躱そうとするも、鳩尾めがけ放たれたもう片腕への対応が遅れる。咄嗟に半歩引いて衝撃を減らす。
「ぐ…!」
それでもライムより明らかに大柄な体から放たれる一撃は重く、一瞬大きく息を吐き出してしまう。その隙を狙って、さらなる攻撃を加えようとするティル。大きく飛び退いて背後にあったゴミ置き場に隠れ、ライムは呼吸を整える。
「今日こそは打って来い!逃げてばっかりじゃつまんねえぞ!」
本気の怒号を聞き、ライムも覚悟した。相手がその気ならば、こちらも逃げの手を打つ訳にはいかない。
相応の力を示さねばなるまい。
簡素な屋根の付いたゴミ置き場、その陰にいる相手の出方を想像するティル。自分とて頭の悪い方ではないし、喧嘩の直感ではこちらに分があるはず。
その直感が、相手の動きを捉えた。視線を上へ。踏み込む音は大きく一回。屋根板の上、屈み込むような姿勢で静かに着地したライム。先程までと比べ目に迷いがない。覚悟を決めたようだ。ならば急き立てる必要もあるまいと腰を低く構え、拳を握り直す。
先に動いたのはライム。大きく跳躍し、その勢いのまま空中で回し蹴りを放つ。これを避けるのではなく、腕で弾くティル。弾かれた足でバランスを崩すこともなく着地し、引き続き蹴りを打ち込んでくる。狙いは顎、あるいは鳩尾、あるいはこめかみ。
ライムには分かっているのだ。体格から来る非常に大きな威力差、ならばと一撃で片を付けるために狙うべき場所。相手とて格闘の素人ではないということにティルは内心驚喜しながらその攻撃をいなしつつ、隙を見て拳を打ち込む。当たりはしないが、それでいい。狙うべき位置は、互いの身長差も相まって軒並み高い。目的は、回避したライムが重心を崩すこと。本気の一撃は、そこに一発で十分。
上がった脚と体を、一本で支えるもう片方。脇腹に痛烈な一撃が撃ち込まれそうになり、回避を試みたライムは姿勢を崩す。それを見たティルが一瞬長めに動きを止め、グッと拳を振りかぶる。
しかし、己が決着の一打を叩き込もうとした相手はこちらを見て……にやり、不敵に笑った。
その直後、ライムの体が空中で横向きに回転したかと思うと、ティルは屋根間に覗く上層の基礎を見上げながら、仰向けに叩き付けられていた。
何が起こったか。ライムは確かにバランスを崩してはいたが、その一瞬で何とか軸足に力を込め、跳躍。ぐるりと回る視界の中、驚いた顔のすぐ下にある首を足で挟み込んで反動をつけ、動揺して力の抜けたティルの体ごと後ろ向きに回転、そのまま叩き付けたのだ。その勝因は、ティルの動きが一瞬だけ長めに止まったこと。ティル自身よく知っている――そして、未だ誰も破れたためしがない――彼の弱点。
大きな体を丸めてむせ返るティルに、にっこりと笑いかけるライム。
「ぐ……なんだよ、やるじゃねえか……」
「これで協力してもらえる?」
「ああ、そういう約束だったしな」
呼吸を整えて立ち上がり、ティルはどこか満足気に握手を差し出してきた。その手をがっちりと握り返す。
「流石にまあ……二人じゃたかが知れてるわな」
夕刻。ティルがねぐらにしているという、プールバー跡。
彼の知恵も借りつつ聞き込みを行ったライムだったが、今日の結果は芳しいものではなかった。
「結果から言えば、麻薬はデッケルだけでなくボーデンにまで広まっている」
一人のときと違い多くの証言が集まったが、売人の出没情報が一定しない。デッケルの範囲内だけでも地区の情報が様々で、更にはボーデンの炭鉱で買ったというものまであった。
ライムが困り顔で唸っていると、ティルがからっとした声で話しかけてきた。
「で、どうすんだよ?明日はそこまで範囲を広げるのか?」
「明日?明日も協力してくれるの?」
単純に驚いていた。てっきり今日だけしか力を貸してもらえないとばかり思っていたのだ。そこに、ありがたい事に更に言葉が追加される。
「それなら、うちのメンバーを招集してやる。人手も脳みそも、大いに越したこたぁねえだろ」
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