第16話 後輩社員の心情

「いやぁーっ、正直今日は雨で電車も乗るのも億劫だったんで、先輩に送ってもらえてホントラッキーです」

「まあ確かに、雨の日の満員電車は蒸し風呂みたいで最悪だからな」


 それに、雨の日は普段徒歩や自転車通勤している人が電車を使うので、余計に混雑して最悪なのだ。


「にしても先輩、車なんて持ってたんですね」

「ん? あぁ、これは両親のだ。今は借りて乗ってるだけだよ」

「ふーん」


 谷野は、興味なさそうな返事を返す。


 車は一般道から高速道路へと入り、大船方面へとひた走る。


「先輩―」


 谷野が間延びした声で琢磨を呼ぶ。


「ん、なんだ?」

「先輩って、いま彼女さんとかいるんですか?」

「はっ?」


 思わぬ横槍に、間抜けた顔で谷野の方を見てしまう。


「先輩運転中です! 前、前見てください!」

「おう、悪い」


 突拍子過ぎて、思わずよそ見してしまった。


「その反応だと、やっぱり彼女が?」

「いねぇよ……」

「本当ですか?」

「あぁ」

「本当に本当ですか?」

「しつこいな。本当だって言ってんだろ」


 どうしてそんなに気になるんだ?


「そうですか。そうですよね……」


 谷野は一人で納得したように自己完結してしまう。

 そして、少し間を置いた後、独り言のように呟いた。


「先輩は、網香先輩一筋ですもんね」

「な、なんでそこで急に網香先輩が出てくるんだよ」

「え? だって先輩。網香先輩の事好きですよね?」


 周知の事実だというように言ってくる谷野。


「イヤ……ソンナコトナイゾ?」

「いや、なんでそんな棒読みなんですか……」

「棒読みなんてまさか、アハハハハ」

「ロボットみたいになってますけど?」


 谷野の冷ややかな視線が突き刺さる。

 バレバレの嘘だった。

 琢磨は諦めてため息を吐く。


「なぜわかった?」

「だって、先輩いつも網香先輩と話してるとき、顔デレデレさせて嬉しそうに鼻の下伸ばしてます」

「そ、そんなに俺顔に出てるか!?」

「もろ出てます。それと、網香先輩の胸見すぎです」


 そ、そこまでバレてたのか。

 そりゃだって、あの網香先輩の強烈な胸元はどうしても視線が勝手に行ってしまうだろ。


「ってか、先輩社員の会話を盗み聞きしてんじゃねぇよ。仕事しろ」

「むぅ……どっかの誰かさんに質問しようとしたら偶々見かけたんですよ!」


 つまり、谷野が琢磨に質問しに行こうとした時、偶然琢磨が網香先輩と仕事の話をしていたのを見て、その時の琢磨がデレデレしていたということらしい。

 何というタイミングの悪さ。


 もう少し網香先輩と話すときは、自分の視線と周りの視線に気を付けよう。


「それで、せんぱいは網香部長のこと、好きなんですよね?」

「……まあな」


 ここまで来て意地を張るのもおかしな話なので、琢磨は渋々認める。


「そうですか……」


 谷野は納得したようなしていないような曖昧な返事を返した後、また何か考え込むようにして黙り込んでしまう。

 その妙に居心地が悪い沈黙に、琢磨は嫌な汗を掻いてくる。


 高速道路の出口に差し掛かり、ETCゲートをくぐった先の信号で車を停車させ、シフトレバーをニュートラルにしたとき、不意にその左手を掴まれた。

 不意打ちにピクっと身体を震わせて横を見やれば、谷野が上目遣いでこちらを窺うように見つめている。


「先輩は、どうしてプロジェクトリーダーになることをそんなに拒んでいるんですか?」

「はっ!?  なんだよ急に?」

「いいから、どうしてですか?」


 本質を見抜くような視線を向けてくる谷野に思わず心臓が跳ねる。


「そ、それは……」


 谷野の潤んだ瞳が琢磨を射すくめる。それを見ていると、色々と身体に悪い。

 琢磨は慌てて前を向く。

 丁度信号が青になり、谷野に掴まれていた手をシフトレバーに置き、ニュートラルからドライブに戻して再び車を走らせる。


「途中でプロジェクトを抜けるのも気が引けるんだよ。俺は、最後までやり遂げたい主義ってだけだ」

「本当にそれだけですか?」


 至極真面目な声で尋ねてくる谷野。

 すぐにシフトレバーに置いていた手を再び掴まれる。

 緊張で嫌な手汗を掻きそうになってしまう。


「いや……それだけじゃない」


 再び赤信号に引っ掛かり車を停車させたところで、足でブレーキを踏みながら谷野を見つめた。


「お前を一人前の女に育て上げないといけないからな」


 先日の食堂で、谷野が自ら言っていた言葉をそのまま口にする。

 網香先輩が好きだとバレてしまったので、本当のことを言っても良かったのだが、後輩に見栄を張ってしまった。

 すると、谷野はきょとんとした表情を浮かべたかと思えば、ぽっと恥ずかしそうに身を捩る。


「へ、へぇー。先輩、私を女として磨きあげてくれるんですね」

「まっ、俺はお前の教育係だからな」

「へぇーっ、そうですか……やっぱり先輩はツンデレ」

「いや、それは意味わからないけど。まあつまりあれだ、しばらくはお前の面倒見てやるから安心しろってことだ」


 琢磨が視線を前に戻すと再び信号が青に変わる。

 谷野が離してくれた左手をハンドルに握り直して、アクセルを踏み込み車を走らせる。


 しばらくまた、谷野は無言で俯いていた。

 しかし、また信号で車が止まった時に、今度は大胆にも琢磨の肩を掴んで強制的に谷野の方へ視線を向けさせられる。


「でも、そうやって何かをやり遂げようと私のために尽力してくれる先輩。カッコいいなって思います!」


 華やかな口調話す後輩の笑顔は、とても嬉しそうで可愛らしかった。

 その満更でもない笑顔を見て、琢磨は逆に罪悪感を覚える。

 本当は網香先輩の傍にいて、困ったときに助けてあげたいという、ただ好きな女の人に縋っていたいだけの最低な男で、谷野を騙してしまったような感覚に襲われたから……。

 後輩の純粋な笑顔は、琢磨にとって胸に突き刺さるものを感じざるをえなかった。



 ※※※※※



「ただいまー」


 先輩に送ってもらった後、私は一人寂しく家へ帰宅した。

 誰もいない六畳間の狭いワンルーム。

 部屋の明かりをつければ、生活感あふれる空間がそこには広がっていた。

 大学から上京してきてずっと住み続けている愛着のあるアパート。

 都内まで電車で一時間ほどかかり、通勤ラッシュも殺人的な混み具合だけれど、家賃や住み心地の良さから引っ越すことは考えたことがない。


「よいっしょ!」


 私はそのままベッドに倒れ込んだ。

 そして、自然とため息がこぼれ出てしまう。


「何やってんだろう、私」


 ぽそりとひとり言がこぼれ出る。

 送ってもらったのは嬉しかったけれど、私は先輩のことを何も知らないのだと実感させられた気分だ。

 駅前の商業ビルの庇の下で雨宿りをしている時、駅のロータリーにとまった車から一人の少女が出てきた直後、先輩が車内から出てきたのをこの目で目撃してしまったから。


 そして、私が車に乗せてもらったとき、助手席に残るほのかな他の人の温もりとシトラスの香り。


 買い物帰りだとしらを切る先輩に、私は少し心の中がむっとして探りを入れた。

 それでも先輩はあたかも一人で車に乗っていたかのように振舞うので、私は茶々を入れるつもりで網香部長の名前をからかい半分で出したのだ。


 そしたら、先輩の今まで見たこともないような緩んだ表情ときたら……。

 思い出すだけで胸がむずむずとしてくる。聞かなければ良かったと、後悔した。


 結局先輩は『私の教育を終えてない』から、プロジェクトリーダーの話を断ったと言っていたけれど、本当は網香先輩の傍にいたいだけなのだろう。


 先輩はいくつも私に隠し事をしている。

 人は誰にだって隠し事はある。

 だからそこ私は、先輩のことをもっとプライベートまで知りたい。

 それは、私の中に一つの感情があるから。

 けれど、先輩は私に隠し事を教えてくれるようなことはなかった。

 つまり、そこまでの仲に至っていないということ。


 先輩は私のことを、これっぽっちも女性として意識していなくて、ただの仕事仲間の後輩だとしか捉えていない。

 それでも、先輩が私の教育係を全うしたいと、一人前の女性に磨きあげてやると建前としてでも言ってくれたのならば、私はそれを最大限利用してやろうと思った。


 今はそれしか、先輩と私の関係性を進展させるきっかけはないのだから。

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