第二章
第17話 お誘い
週末はジェットコースターのように過ぎ去って週初めの月曜日。
朝の満員電車に揺られて、いつもの時間に出社した琢磨。
メールチェックをして、朝礼を済ませた直後、谷野がスタスタとこちらへと向かってきた。
「せーんぱい! 資料のチェックよろしくお願いしまーす!」
「お、おう」
谷野から手渡されたファイルを受け取ると、谷野は腰を低くして座っている琢磨の耳元へ口元を近づけてくる。
「先日は送っていただきありがとうございました」
耳元で囁かれて、こそばゆさを感じしつつも、琢磨は平静を装う。
「あぁ、あれくらいお安い御用だ。気にしなくていい」
「お礼と言っては何ですけど、今度ご飯でもおごらせてください」
「いやっ、後輩社員から飯おごってもらうとか気が引けるからいい」
「えぇー!? 先輩つれないなー。たまには私にも見栄張らせてくださいよー」
「俺に見栄を張ってどうする。そういうのは、これから入ってくる後輩たちにやれよ」
「むぅ……」
頬を膨らませて納得いかない様子の谷野。
しかし、諦めがついたのか短くため息を吐いた。
「わかりました。でも、何かしらお礼はしたいので期待しててください」
そう琢磨に言い残して、谷野は自身のデスクへと戻っていく。
本当に礼をされる筋合いなんてないのだ。
先日は、ドライブ彼女である由奈を駅に送り届けた後、偶然にも谷野を見つけて家まで送ってあげただけの事。
大学生の女の子とドライブをしているという事実も谷野には隠しているし、なにより、車内で聞かれた問いに、琢磨は大きな嘘を吐いた。
網香先輩が好きだからこそ、困ったときに彼女を助けてあげたいだけなのに、谷野に見栄を張り、一人前の女に磨き上げてやるなどと豪語してしまったのだから。
後輩に二つも嘘をついて、何が教育をするだ。
嘘も方便と言うが、これではただ後輩に利己的な行動をとった、陳腐な矜持だけだ。
琢磨は、まだ何も成し遂げていないのだ。
昔からずっと、夢なんて達成したことすらない。
だからそこ、無駄に先輩面して体制を保つしかないのだ。
そんな自分が心底嫌いで、嫌になってくる。
「はぁ……」
「月曜日から随分と陰気臭いわね」
唐突に声をかけられて振り向けば、そこにいるのは意中の女性。
網香先輩は、朝から陰湿な後輩を見ても、終始明るい笑顔を振りまいていた。
「お、おはようございます網香先輩」
「おはよう杉本君。ちょっといいかしら?」
「は、はい……」
手招きされて、椅子から立ち上がり、琢磨は網香先輩について行く。
すると、対面側から視線を感じた。
見れば、谷野が含みのある目で琢磨の様子を窺っている。
琢磨は谷野に仕事をしろと顎で指図すると、谷野は納得いっていない様子で唇を尖らせたが、諦めたのか視線をPCの画面に戻して作業に戻った。
谷野が仕事を始めるのを見送ってから、琢磨は早足で網香先輩の後を追う。
網香先輩のデスクに向かうと、先輩はPC画面を指差した。
見れば、そこには――
『今日の夜。時間あいているかしら? 一緒に映画でも見に行かない?』
と書かれていた。
琢磨は呆けた顔で網香先輩の方を見る。
網香先輩は首を傾けて、ダメかしらといったような顔で琢磨の表情を窺う。
急にどういう風の吹き回しかは分からないけれど、これは網香先輩とデートのチャンスだ。断るわけにはいかない。
琢磨はキーボードを叩いて、返事を文字で返す。
『いいですよ。行きましょう』
すると、網香先輩は嬉しそうに口角を上げて、キーボードをタップする。
『ありがと、じゃあ詳細はまた後でね』
網香先輩は軽くウインクをして、にっこりと笑った。
そしてすぐに、手で琢磨を払うようにして戻っていいと合図する。
琢磨はペコリと一礼して、踵を返してデスクへと戻った。
その途中、訝しむような視線を向けている後輩社員と目が合う。
琢磨は谷野を睨み付け、手で作業しろとペンを書く仕草をする。
すると、谷野はべーっと可愛らしく舌を出してから、視線をデスクに戻した。
琢磨の言質を取ったことで、後輩のこのからかいよう。
礼儀の知らない後輩には、後で少し手厳しい指導と教育をするとして、今は網香先輩に誘われたという事実だけで頭がいっぱいだ。
正直、心の中でリトル琢磨が拍手喝采万歳と喜び、飛び跳ねている。
それくらい、網香先輩に個人的に誘われたことに浮かれていた。
しかし、この時はまだ、網香先輩が琢磨を個人的に映画に誘ってきた理由など、知る由もなかったのであった。
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