第13話 遅刻

 週末の金曜日、昼間からどんよりとした厚い鼠色の雲がかかり、雨がしとしとと降りしきっている。

 夜になっても雨は止むどころか、むしろ雨足を強めていた。


 琢磨は、本日納期の案件に少々問題が見つかり、定時を過ぎてから大慌てで対応に追われていた。

 結局、手直し作業を終えて無事に納期し終えたのが夜の八時半。

 大幅な残業となってしまった。


 由奈との約束の時間はとうに過ぎている。

 琢磨は急いでオフィスをあとにして、電車を乗り継ぎ急いで自宅まで帰宅。

 そこから、夜飯を食べぬまま車を車庫から出して、由奈の待つ横浜駅前のコーヒーショップ前へと急ぐ。


 雨が降っていることもあり、普段の平日よりも一般道の交通量が多く混雑し、なかなか目的地にたどり着かない。

 琢磨の胸の中で、焦りと申し訳なさばかりが先走る。


 ようやく待ち合わせ場所に着いた時には、既に夜の九時半を過ぎていた。


 ハザードランプを点滅させ、目的地のコーヒー店前の路肩に車を停車させる。

 辺りを見渡すけれど、由奈の姿はない。

 歩道は帰路につくサラリーマンやこれから飲みに行く人々で入り乱れ、色とりどりの傘がうごめいていた。


 ふと、目の前のコーヒーチェーン店が目に映る。

 先週由奈は、このコーヒーチェーン店の中で時間を潰して待っていると言っていた。

 琢磨は店内に由奈がいるかどうか、車の中から店内を覗きみるものの、雨粒のせいで店内の様子はあまりよく見えない。


 車内の時計を見れば、時刻はまもなく夜の十時を迎えようとしていた。

 待ち合わせの約束時間から二時間が経過しようとしている。


 由奈はしびれを切らして帰宅してしまったかもしれない。

 そりゃそうだ。いくら会社の仕事の影響とはいえ、雨の中連絡もなしに二時間も待たされたら、普通誰だって帰るに決まってる。

 せめて、由奈と連絡先くらい交換しておくべきだったなと今さらながらに後悔する琢磨。


 諦めかけて、力が抜けたように運転席の背もたれにもたれかかった時だ――


 どこからともなく、コンコンとドアガラスがノックする音が微かに響く。


 慌てて助手席の方を振り向けば、ピンク色の傘を差した由奈がニッコリ笑顔で手を振っていた。

 車の中を指差して、乗っていいかと確認してくる由奈。琢磨はコクリと頷く。


 由奈は助手席のドアを開けると、濡れないようにして身体を車内へ滑り込ませると、器用に外で傘を閉じた。そして、すぐに助手席のドアを閉め、こちらをくるっと向いて唇を尖らせる。


「遅い! もう来ないかと思ったよ?」

「悪い……仕事が立て込んでこんな時間になっちまった。ずっと、待っててくれたのか?」


 唖然とした表情で見つめると、由奈は首を回してコーヒーショップの方を指差した。


「お店の中で覗きながら待ってたよ。もしかして、事故に巻き込まれたんじゃないかって心配したんだからね?」

「そうだったのか。心配かけてすまん」


 二時間近くも待たせてしまったことに罪悪感を覚える琢磨。


「帰ってくれても良かったのに……」


 思わず、そんな独り言めいた言葉が出てしまう。

 すると、由奈は少しむっとしたような表情を浮かべて胸を張る。


「私はこれでも約束はちゃんと守るのです! それに、琢磨さんは絶対に来るって信じてたから」


 真っ直ぐとした瞳で琢磨を見据えて言い切る由奈。

 その真剣な眼差しを見て、琢磨は思わず口角が自然と上がってしまう。

 どうやら、由奈は思っていた以上に、誠実で律儀な女の子のようだ。

 だから琢磨も、誠意をもってもう一度謝った。


「悪い、仕事が長引いでこんな時間になってしまった。待たせてしまって申し訳ない。連絡先も交換してなかったから、これでも急いでは来たんだけど、心配かけてすまん!」

「いいですよ。私も連絡先交換してなかったのが悪いんですし。なので、これからは緊急の用事が入った時などには、遠慮なく私に連絡してくださいね!」


 そう言って、由奈はスマートフォンを取り出して、メッセージアプリのバーコードリーダーをかざしてくる。


「あぁ、そうだな」


 琢磨もポケットからスマートフォンを取り出して、由奈とメッセージアプリの連絡先を交換した。


 新しい友達の欄に、由奈のアイコンが表示される。

 そのアイコンは、どこか見覚えのある風景画像だった。


「あれ、これって……」

「あっ、分かります? 海ほたるです! 琢磨さんと会う前に一人で撮ったんですよ」


 琢磨はそれを見て、少し驚いた。

 由奈のことだから、てっきり友達と遊びに行った時の画像や、自撮り写真をアイコンにしていると勝手に思っていたから。


「意外だな。もっと大学生って、なんかこう……遊んでますウェーイみたいな画像アイコンにしてるのかと」

「何ですかその偏見。確かにそういう人もいますけど、ごく一部ですよ」


 ちょっと納得がいかないのか、むすっとした表情を浮かべる由奈。

 その表情を見て、ちょっと拗ねている姿も可愛らしいと思った。


 琢磨はスマートフォンをポケットにしまい、カーナビに表示されている時刻を確認する。


「さてと、もうこんな時間だし、あんまり遠くには行けそうにないな」

「そうですね」

「どうすっかなぁ……」


 腕組みして目的地を頭の中で考えている時――


 ぐぅぅぅっと、琢磨のお腹が鳴った。



 車の中に気恥ずかしい沈黙が流れる。


「琢磨さん、お腹空いてるの?」

「あ、あぁ……そう言えばまだ夕飯食べてない」


 仕事を終えた後、由奈の元へ急ぐことだけを考えていたので、食事のことなどすっかり忘れてしまっていた。


「なら、今日はドライブはなしにして、どこかご飯食べに行かない?」

「いいのか?」

「だって、結局この天気じゃ、眺めのいいところに行っても雨に濡れるだけだし、それなら琢磨さんの胃袋を満たした方が良いかなって!」

「でも、俺の飯に付き合うだけになるぞ?」

「いいの! 私は琢磨さんとお話しできればそれでいいし!」


 にこっと笑う由奈の表情に、無理している様子は見られない。

 なら、今日は申し訳ないけど、今日はドライブではなく、腹を満たすことを優先させてもらうことにしよう。

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