第6話 昇進の結論

 琢磨はいつもの時間に出勤した。

 いつものようにPCの電源をつけてメールチェックを終えて朝礼を終えた後、今週の資料作成作業を進めていた。

 すると――


「杉本君、ちょっといいかしら?」


 窓際の席に座っていた網香先輩に声をかけられた。


「はい」


 網香先輩の方へ目を向けると、先輩は何やらファイルを持って席を立ち、可愛らしく胸元辺りで手招きをした。

 どうやら、付いて来いということらしい。

 琢磨はPCをスリープ状態にして席を立ち、網香先輩の後を追っていく。


 網香先輩が向かった先は、オフィス端にある個別面談室。

 第一面談室を使用中に札を切り変えて、琢磨を先に部屋に通す。

 一礼して琢磨は会議室の中へと入り、手前にあった椅子へと腰かける。

 後から入ってきた網香先輩は、向かい側の椅子に腰かけて、前の机の上にファイリングされている資料を置いた。


「さてと……どこから話しましょうかね」


 網香先輩は、含みのある笑みで机に頬杖ついて、琢磨に上目づかいを向けてくる。

 網香先輩に手のひらで踊らされているような感覚を感じて、琢磨は背筋がぞっとした。

 しかし、琢磨は終始平然とした様子で皮肉めいて答える。


「どこからって、網香さんが聞きたいことは一つでしょ?」

「そんなことないわ。私は杉本君に聞きたいこと沢山あるわ。もちろん、プライベートなことも含めてね」


 ウインクしながら妖艶に笑む網香先輩。

 冗談で言っていると分かっていても、意味深な笑みを送ってくる網香先輩に琢磨の胸の鼓動が高まってしまうのはいかしかたない。

 さらに質の悪いことに、網香先輩はこれを意識して言っていないのが困りものである。


「そんなこと言って、また俺をからかおうとしても無駄ですよ……」

「本当よ、私は杉本君のプライベート興味あるもの。休日は何してるんだろーとか、帰社後は直帰してるのかなぁ、それとも誰かと飲みに行ってるのかなーとか、いろいろ気になってるわよ」

「そ、それくらいなら網香先輩にだったら普通に教えますけど?」

「本当に? じゃあ、教えてくれる?」


 琢磨は興味津々といった様子で見つめてくる網香先輩。

 そのじっとりとした艶めかしい視線に琢磨は思わず目を逸らしてしまう。


「ふふっ……やっぱり杉本君のそういう可愛い反応。好きよ」

「……」


 不覚にも網香先輩の「好き」という言葉に、ドキリとしてしまう。

 こうやって人を試すようにからかってくるのに、異性として意識して聞いてきているわけではないのは本当に質が悪い。


「ふふっ、まあプライベートのことは今度じっくりお話しましょう」


 そうやってさらっと切り返すところを見ても、やっぱり網香先輩は琢磨のことを可愛い後輩程度にしか見ていないことが分かる。

 琢磨がどれほどドキっとしているのかわかっていないことに、少し腹が立つ。

 それでも、彼女が気さくで冗談好きで、魅力的な女性であるからこそ、琢磨はいつもドキドキさせられて惑わされるのだ。

 それでも、今から問われる質問の答えは既に決めている。


「さてと……」


 網香先輩は頬杖を解き、切り替えるようにして背筋を伸ばして真剣なまなざしを向けてくる。


「それで、プロジェクトリーダーの件だけれども、考えてくれた?」

「はい、休日含めてちゃんと考えました」

「それで、結論は?」


 琢磨の答えは一つだ。


「網香先輩の期待に添えず申し訳ないですが、俺はプロジェクトリーダーには向いていません。なので、今回のお話はお断りさせていただきます」


 琢磨は律儀にお辞儀をして、プロジェクトリーダーになることをきっぱりと断る。


「そう……残念だわ」


 網香先輩は残念そうなため息を吐いた。


「どうしてそんな頑なに断るの? リーダー会議でも即一番にあなたの名前が候補に挙がるくらい、期待されているのよ?」

「そ、それは……」


 本心は言えるはずがない。

 琢磨が仕事を頑張れているのは、網香先輩がそばにいるからなんて。

 だから、適当に理由を取り繕う。


「向いてないんですよ、リーダーとかそういうの。他人に仕事振らず一人で仕事溜め込んじゃうタイプなので」


 けれど、網香先輩は琢磨の理由に納得せず、首を横に振った。


「勘違いしているわ杉本君。あなたは谷野やのさんの面倒見もいいし、分からない所があれば適宜サポートしながら仕事も適切に振り分けられる。あなたを今までずっと見てきた上司である私だからそこ、胸を張って言えることよ」

「あ、ありがとうございます……」


 網香先輩から唐突に褒められて、琢磨は思わずお礼を言ってしまう。


 改めて、網香先輩はすごいと思う。

 自分の仕事をしながら適宜部下たちの様子をよく観察している。

 リーダーとしての素質、部下に対するケア・サポートが出来ているからそこ、慕われる存在であり続ける。

 やはり、網香先輩には頭が上がらない。

 だからそこ、琢磨は網香先輩について行きたいと思えるのだ。


「本当は、何か他にプロジェクトリーダーになりたくない理由わけがあるんでしょ?」


 網香先輩は既に琢磨の嘘を見抜いている。

 けれど、網香先輩の傍にいて、支えたいからという個人的な理由を言ったとしても、許してくれるはずがない。

 琢磨は黙秘を決めることにした。


「……」

「黙っていたら分からないわよ?」


 優しく諭されても、琢磨はぐっと唇を引き結ぶ。

 根気強くだんまりを続ける琢磨に、網香先輩はついに折れ、諦め交じりのため息を吐く。


「私も無理にとは言わないわ。でもこれは、私の個人的意見で、参考程度に聞いて欲しい。杉本君はプロジェクトリーダーに向いていると思う。輝いて働くあなたが私の頭の中に想像できる。私と対等な立場でものを言えるようになったあなたを育て上げた私は、とっても誇らしいし鼻が高いわ」

「……そうですか」


 琢磨は一言だけそう呟いた。

 網香先輩は何もわかっていない。

 琢磨は昇進とか、キャリアアップなど最初から求めていないのだ。


 対等な立場で仕事をするなんてどうでもいい。

 ただ琢磨は、網香先輩と一緒に仕事をして、彼女が大変な時にフォローして支えてあげたいだけ。

 だから、他部署のプロジェクトリーダーとして、網香先輩の下から離れ仕事をすることは、琢磨が求めているものではない。


 網香先輩が好きだから傍にいたい。ただそれだけなのだ。

 昇給や昇格に興味はないし、仕事での物的距離が離れれば、自然と気持ちや誠意を伝えるのも難しくなっていき、琢磨の網香先輩と付き合うという最終目標からは遠のいていく。


 網香先輩に本音を伝えるのは、辛くて落ち込んでいる時にそこ言うべき言葉だと琢磨は信じている。

 だから琢磨は、別の言葉を口にした。


「網香先輩の評価が上がることは自分にとってもうれしいです。それでも俺はまだ、谷野を一人前に育てあげていません。谷野を独り立ちさせるまで、プロジェクトリーダーになる資格はないと思っています」

「ふふっ、責任感の強い杉本君らしい意見ね」


 網香先輩は、琢磨を慈愛に満ちたような目で見つめる。

 それが余計に、彼女にまだ異性として見られていないことを表しているような気がして、余計に気持ちが落ち込む。


「まあ、焦って結論を出さなくてもいいわ、もう少しゆっくり考えてみなさい。けれど、私は杉本君がプロジェクトリーダーになってくれることを信じているわ」


 網香先輩は言い終えると、手元に置いてあった資料を手に持ち、椅子から立ち上がる。

 話はこれで終わりだと暗に示していた。


 網香先輩に続くようにして、琢磨も椅子から立ち上がり、面談室を後にした。

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