第25話 ファーストキス

 土曜日。


 柚葉とはバス停で待ち合わせをしていた。


 時刻は午前9時30分。


 そろそろバスが来る時間だ。そう思っていると、どこからか「おにーさーん!」という声が聞こえてきた。


 俺のことをお兄さんと呼ぶ人物はこの世でたった1人。


 声のする方へ振り向く。


 案の定、柚葉がこちらに向かって走ってきていた。


 ピンク色のフレアスカートがサラリと揺れる。


 俺の前で止まると、膝に手をつき大きく呼吸をした。


 黒のレーストップスが汗で少しだけ肌に貼り付く。


「はぁ…はぁ…ごめん、洋服選んでたら遅れちゃった…」


「大丈夫、俺も今来たところだから気にしないで」


 俺がそういうと、柚葉は小さく微笑む。


「お兄さんの嘘つき、結構待ってたでしょ?」


「いや、そんなには…」


「ほら、待ってたじゃん」


 すると、ふふっと鼻を鳴らし、小さな鞄からペットボトルを取り出す。


「暑かったでしょ? これ飲んで」


 そんな柚葉の額に、じんわりと汗が浮かんでいるのが目に入って、ズボンのポケットからハンカチを取り出すと、柚葉の額に当てた。


 ぴくりと肩が動く。


「暑いのはお互い様だろ、良かったら使って」


「…うん、ありがと」


 そう言って、頬をほんのりと赤く染めながらハンカチを受け取る柚葉。


 夏だし、汗をかくことをそんなに恥ずかしがらなくてもいいんじゃないかな…。

  

 そんなタイミングで、ちょうどバスが来た。


 改札の機械にSuica押し当てる。


 まぁ、何にせよ。


 バスに間に合って良かった。


 そしてバスの中。


 手を繋いで、一つのイヤホンを共有して、お互いに小さく微笑みあった。




「ね、お兄さん」


「ん?」


 左隣に目を向ける。


 すると柚葉は、とある場所を指さしていて、俺もそちらに目を向ける。


 その指先にあったのはクレープ屋さんだ。


 柚葉の方へ目を戻す。


 目がキラキラと輝いていた。


「あれ、食べたい」


「あぁ、せっかくだし食べるか」


「うん!」


 嬉しそうに頷いて、歩き出す。


 繋いだ左手がルンルンと踊っていた。


「いらっしゃいませー♪」


 店員さんの明るい笑顔。


 きっと歳は俺たちと、さほど離れていないだろう。素直に可愛い人だなって思った。


「柚葉どれがいい?」


「んー、じゃあイチゴ食べたい」


「りょーかい…それじゃイチゴ一つと、チョコレート一つお願いします」


「はーいかしこまりましたー!」


 にこりと笑い、生地を焼いていく。


 この人が何歳年上なのかは分からないけど、俺もいつか、こうやって好きなことを仕事にできたらいいなって思った。


「ねぇ、お兄さん」


「どーした?」


「クレープのお姉さん可愛いね」


 そう言って小さく微笑み、またクレープのお姉さんの方へ顔を向ける。


 きっと柚葉も、俺と同じことを思ったのだろう。


 ふふっと、笑って。「そうだな」とだけ返した。

 

 そして5分後。


「お待たせ致しましたー♪ お先に彼女さんのイチゴ、そして素敵な彼氏さんにチョコレートです」


 そんな言葉に一瞬、気恥ずかしさを感じたけど、こんな満面の笑みで言われたら悪い気はしない。


「ありがとうございます♪ 素敵なクレープのお姉さん」


 柚葉が嬉しそうに言葉を返す。


 クレープのお姉さんがにこりと笑った。


「柚葉、少しだけ手いいか?」


「うん」


 左手から温もりが消える。

 

 財布から千円札を取り出し、お姉さんに渡すと、一言お礼を言って歩き出す。


「ありがとうございましたー♪」


 そんな明るい声が背中から聞こえた。


 そして、近くの席に腰をかけると、さっそく柚葉がクレープにかじりつく。


 クレープの歯型からは真っ白なクリームと鮮やかな赤色のイチゴが顔を覗かせた。


「ん〜美味しい♪」


「へー、そんじゃ俺も」


 クレープを一口かじる。


 もちもちとした生地に包まれた、フワッとしたクリームと、パリッとした食感のほろ苦いチョコレートが絶妙にマッチしていて、本当に美味しかった。

 

「お兄さん、それ美味しい?」


「うん。めちゃくちゃ美味しいぞ」


「へぇ〜…一口ちょうだい?」


 そう言って、小さく口を開ける柚葉。


 …。


 これっていわゆる『あーん』ってやつだよな?


 ドキリとしながらも、クレープを柚葉の口に近づける。


 ニヤリとしながら、わざわざ俺が食べた所に口をつけた。


「おいしー!」


「だろ?」


「うん…それじゃ私からも、はいあーん♪」


 一瞬戸惑って、柚葉のクレープをかじる。


 ふわりとしたクリームの中に、程よく混ざる苺の酸味が次の一口を進めるような、そんな味がした。


「どう?美味しいでしょイチゴ」


「あぁ、そっちも美味しいや」


「ふふっ、良かった」


 そう笑ってクレープをかじる。


 そんな柚葉が可愛いなって思いながら、でも俺が食べた所を率先して食べるのは、なんかちょっとだけ恥ずかしいような、…嬉しいような気がした。

 


 そのあとは、2人で映画を見て、洋服を買って事前に予約していたレストランで夕飯を食べた。


 ちょっと背伸びしすぎたと思っていたけど、柚葉が満足そうなので良しとしよう。


 そして、その帰り道。


 完璧に日が暮れて、バス停に着くまでにはすでに夜の8時を回っていた。


 お互いに荷物を持っていたので手を繋げない。


 だけど、柚葉は俺の隣にいて、俺はその小さな歩幅に合わせ歩く。


 なんかそれだけでも、本当に幸せだなって思った。


「楽しかったー! ありがとね、お兄さん」


「あぁ、こっちこそありがとな」


「ううん、お兄さんが誘ってくれたんだもん、お礼を言うのは私」


 そう言ってにこりと笑う。


 俺も小さく微笑み返した。


 …。


 でも、今回もキス、できなかったな…。


 つーか、すっかり忘れてた。


 まぁ、秋葉には適当に話をしよう。別に心が読めるわけじゃないし、どうのこうのとは言われないだろう…。


「お兄さん」


「ん?」


「ちょっとだけ公園で休んで行かない? なんか足疲れちゃった」


「そーだな、まだ時間はあるし」


「ありがとう」


 そして俺たちは、スタバを通り過ぎ、帰り道の途中にある公園に寄った。


 街灯の灯るベンチに腰掛ける。

 

「なにか飲む?」


「ううん、大丈夫だよ」


「そっか」


 そんな短い会話をして、静かになる。


 普段は意識しないヒグラシの音に、心地よさを感じた。


 夏休みも、あと半分か…。


「ねぇ、お兄さん…」


 声に、顔を向ける。


 柚葉は少し先の地面に目を向けたまま、口を開いた。


「私たちさ、付き合って3ヶ月ぐらい経つよね」


「そうだな」


「…」


「…」


 お互いに沈黙。


 たった数秒、2人のたった30センチほどの距離に、何故か分からないけど、妙に心拍数が上がる。


 まるで心臓が軋むようだった。


「だからさ…」


 ボソリと呟いて、柚葉がこちらに顔を向ける。


 街灯に照らされた柚葉の顔が赤く上気していて、いつもよりも妖美に色っぽく目に映った。


「一回ぐらい、キス…してみない?」


 そう言って柚葉が目を閉じる。


 一方、俺の心臓はもう破裂しそうで、顔の熱がすごく上昇している。


 きっと水をかけたら、ジャーって音がして蒸発するのだろう。

 

 …。


 でも…。


 すぅ…と息を吸って、ゆっくりと顔を近づける。


 そして、しっとりとした唇が触れる感覚と、柚子のような、柑橘系の香水の香りが鼻腔を刺激した。


 数秒経って、顔を離す。


 少し見つめ合って、ふふっと笑い合った。


 お互い、どこか嬉しそうで、気恥ずかしそうに。


「お兄さん…大好き」


「俺も好きだ…柚葉」


 そしてもう一度唇が重なる。


 次はもっと長く、より鮮明な感覚が脳内に刻み込まれていった。



 

「それじゃーね! おにーさん!」


「あぁ、またな」


 嬉しそうに手を振り、玄関のドアをガチャリと開く。


 その背中を見送ると、俺は自宅へと歩き出した。


 ポツポツと傘が雨を弾く。


 折り畳み傘を持っていて良かった。


 公園を出たあと、すぐに雨が降り出した。


 でも、折り畳み傘があったことで、難を逃れることをできたのだ。


 まさに備えあれば憂いなしってやつだろう。


 自宅の玄関の軒先で雨粒を振ると、扉を開けて中へ入る。


 一度部屋に上がり、着替えを持って風呂場へ。


 とりあえずシャワーを浴びた。


 本当は、体が冷えているのもあって、もう少し長い時間お湯を浴びていたいけど、なんだかんだ言って遊び疲れの方が勝っている。


 洗濯は明日でいいか…。


 体の水分を拭き取り、寝間着に着替えて、歯を磨く。


 自室にあがると、すぐに布団の中に入った。


 真っ暗な部屋の中、明るいスマホに目を向ける。


 柚葉からLINE来てないかな…。


 そんな考えとは裏腹に、体に力が入らなくなって、ゆっくりと瞼が降りてくる。


 …。


 そして意識が落ちる瞬間、頭に浮かんだのは、柚葉とのキスシーンだった。

 


 


 


 


 


 

 

 

 









 


 

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